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Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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経済的左右度:-5.19
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新型インフルエンザ騒動の怪30=豚インフルエンザ報道を検証する(第23回) スペインかぜの正体(2)

インフル関連記事
■「新型インフルエンザ騒動の怪29=豚インフルエンザ報道を検証する(第22回) スペインかぜの正体(1)」の続報。



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世界の環境ホットニュース[GEN] 734号 09年10月31日
・・・・・・
      豚インフルエンザ報道を検証する(第23回)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

第23回 スペインかぜの正体(2)              原田 和明

 スペインかぜとはどのような症状で、どのような人たちが罹患したのでしょうか? スペインかぜの最大の特徴は、社会的弱者よりも富裕層や若者の方に多くの死者が出たということです。このことからも、ウイルスだけではパンデミックを説明できず、アスピリンも含めて他の要因があったのではないかとの根拠になりそうです。

 当時のアメリカ側資料には、アルフレッド・W・クロスビー「史上最悪のインフルエンザ・忘れられたパンデミック」(みすず書房2004)があり、同書からスペインかぜの症状を示している部分を引用します。

 (P25より引用)
 1918年のインフルエンザは、少なくともある意味で非常にユニークな
 インフルエンザであった。後にも先にも、あれほど肺の合併症を引き
 起こしやすいインフルエンザはなかった。しかもその合併症というの
 は、きわめて致死性の高いものであった。

 (P27より引用)
 病棟ではずらりと並ぶ簡易ベッドと衰弱した兵士たちを見た。ベッドを
 覆う麻のシーツは多くが血にまみれていた。血痰や突然起こる大量の
 鼻血は、スペインかぜに特有の症状である。顔色がまるで青インクの
 ようになってしまった兵士たちにとって、死はほぼ時間の問題だった。

 (P28より引用)
 ウェルチ(解剖医)は遺体の胸部を開けてみた。そこには初めて見る
 スペインかぜの犠牲者の、青みがかり、腫れ上がった肺があった。
 死因は? 少なくともはっきりしたことがある。肺は健常人ならば体中
 で最も軽い臓器だが、目の前の死体では、水っぽく血液混じりの泡
 だった液体で満たされた2個の袋でしかなかった。

 (P29より引用)
 発症後ほどなく死亡した症例(ときに咳や痛みの訴えが始まって48
 時間以内で死に至っていた症例もあった)での肺の様子はウェルチに
 とっても初めて見るものだった。そうした肺組織にはまったくといいほど
 硬化は見られなかった。が、異常は明らかだった。ウェルチが切り出し
 た肺の小片は、普通なら水に浮くはずのものが、水に沈んでしまった。
 所見として特に際立っているのは、水っぽい血液混じりの液体が
 大量に肺に詰まっていたことだった。
 死後硬直が始まると、液体はしばしば鼻から滴り落ち、死体を包む
 布地を血の色に染めるのだった。(引用終わり)



 以上の記述から、「肺が水っぽく血液混じりの液体で満たされた」状態の死者が多数いたことが読み取れます。この症状は「肺水腫」とよばれるもので、goo ヘルスケアによれば、症状はつぎのように現れます。

 「肺水腫では、呼吸困難、とくに、横になると息苦しいため起き上がっ
 て座位を取ったり(起座(きざ)呼吸)、夜中に突然息苦しくて目が覚め
 たり(発作性夜間呼吸困難)します。また、胸がゼーゼーしたり(喘鳴
 (ぜんめい))、ピンク色(薄い血液の色)の泡状の痰(泡沫痰(ほうまつ
 たん))が出ます。進行すると皮膚や口唇は紫色になり(チアノーゼ)、
 冷や汗をかいてショック状態に陥ることもあります。」

 肺水腫の原因について、日本呼吸器学会は、「心臓に原因がある場合と、それ以外(主に肺そのものに問題あり=非心原性肺水腫と呼ばれる)」の2つに分類していますが、非心原性肺水腫はなぜ起きるのかについては言及していません。厚生労働省が今年2009年5月に出した「重篤副作用疾患別 対応マニュアル(肺水腫)」には、非心原性の中には「薬剤に強く関係するものとして、毛細血管漏出症候群に伴う肺水腫(薬剤性肺水腫)があります」との記載があります。そして、アスピリンによる肺水腫は血中濃度がある一定の値(30 mg/dL)を超えると発生しやすくなるとのことです。

 厚労省のマニュアルには発症のメカニズムが次のように説明されています。

 (アスピリンを)誤飲や意図的に大量内服した場合に、肺水腫発生の
 報告がある。血清濃度が 30mg/dL 以上で、数時間以内に 発症する
 とされている。
 アスピリンによるシクロオキシゲナーゼの抑制からプロスタグランジン
 産生が減少し、血管透過性が亢進すると考えられている。
 (引用終わり)

 浜医師の説明は次の通りです。ウイルスが体に侵入してくるのを防衛するための炎症反応を、クスリ(抗炎症・解熱剤)で抑制してしまうと、ウイルスが体中に容易に侵入・増殖してしまいます。すると、ウイルスを攻撃するインターフェロンなどサイトカイン類がたくさん放出されて、自分自身の健康な細胞まで攻撃するようになるため、急性呼吸窮迫症候群(ARDS)という肺水腫、一種の「急性肺炎」やさらには「多臓器不全」を起こすというわけです。

 スペインかぜが流行していた当時、日本でもアメリカでも一般にはアスピリンが特効薬として推奨されていたこと、そして一部にはアスピリンの投与に問題があると考えていた医師がいたことをうかがわせる記述が双方にありました。

 内務省衛生局編「流行性感冒『スペイン風邪』大流行の記録」(東洋文庫 778平凡社2008)より以下引用。

 初期において解熱剤を用ふれば筋痛軽快するとともに、気管支加答児
 に好影響あるが如し。汗腺の分泌増すが如く、呼吸器粘膜よりも分泌
 を増すためか喀痰の喀出容易となるがごとき観あり。(稲田)
 
 普通に「アスピリン」、「アンチピリン」、「ピラミドン」、撒曹「フエナ
 セチン」等用いられたり。解熱剤は心臓を害するものとしてこれを用ふる
 ことを厭う人あり(佐藤「医学中央雑誌」17巻4号)またこのために「コフェ
 イン」と併用することをすすむる人あり。(引用終わり)?

 アルフレッド・W・クロスビー「史上最悪のインフルエンザ・忘れられたパンデミック」(みすず書房2004)より以下引用。

 (1918年)9月13日、連邦公衆衛生局長官ルバート・ブルーは記者団を
 集め、インフルエンザとはどういったものかといったことや、ベッドでの
 安静、栄養価の高い食事、キニン塩、アスピリンといった薬の服用な
 ど、インフルエンザにかかった場合の対処について、勧告を発表した。
 (P64 引用終わり)

 残念ながら当時どのくらいの量のアスピリンを服用するように推奨していたのかはわかりませんでした。当時の日本でのアスピリン輸入量が 年間約40トン(国産はナシ)(中外商業新報 1916.8.20)で、人口が約5500万人でしたから、一人あたりの年間消費量は 0.7gです。アスピリン肺水腫が起きる血清濃度が30mg/dL 以上とされていますから、体重 50kg の人が 1.2g 程度 服用すると危険ということになります。多くの国民がアスピリン肺水腫を起こしうる量は消費されていたとみられます。

 ただし、感染症発症のときでなければ、アスピリン肺水腫は発症しないと考えられます。当時のアスピリンの用途は解熱剤ではありませんでした。「発売時(1899年6月)からアスピリンは消炎 解熱鎮痛剤だったが、関節炎やリウマチ治療のための消炎剤として用いるときは大量に使用し、解熱鎮痛の場合は少量を用いた」「医者は頭痛や発熱よりも関節炎やリウマチ患者に用いた」(平澤正夫「超薬アスピリン スーパードラッグへの道」平凡社新書2001)とのことですから、スペインかぜの大流行以前は解熱剤としての使用はごくわずかだったのかもしれません。ところで、興味深いのは次のくだりです。(「史上最悪のインフルエンザ」P259より以下引用)

 合衆国公衆衛生局は、秋のパンデミック第二波の真っ只中、ほかに
 やるべき大事なことが山ほどあったにもかかわらず、バイエル社の
 アスピリン錠の検査をさせられていた。これは1918年当時の反ドイツ
 感情の狂信的なまでの高まりがいかに危険だったかを如実に示す
 ものだろう。アスピリンはもともとドイツが特許権を有しており、バイエル
 社が製造していたアスピリンにインフルエンザの病原体が混ぜられ
 売られているといった噂が広まり、これに対応させられていたのだった。
 検査からは何も出てくるはずはなかった。(引用終わり)

 「秋のパンデミック第二波の真っ只中」とは、ウィキペディア「スペインかぜ」によると、「第2波は 1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重症な合併症を起こし死者が急増した」とあります。この年の11月に戦争が終結し、それまで高騰していた色々な戦略物資が軒並み暴落、アスピリンも半値になったとのことです。(報知新聞 1918.12.6)これは世界的傾向だったと考えられます。安価になった アスピリンが インフルエンザ患者に安易に投与された結果、「重症な合併症」が多発したということはなかったでしょうか?

 そして、「アスピリン錠の検査」をやっていたということはアスピリンを投与した後に患者の容態が急変するという事例が少なからずあったからではないかと推測されます。アスピリンそのものの副作用などまったく想像もしていなかった合衆国公衆衛生局は不純物の分析に集中してしまったのでしょう。筆者のクロスビーも、アスピリンへの疑いを「反ドイツ感情」によるばかげた行動だと一笑に付して片付けていますが、そこに真相の一部が顔を出しているようにも思われます。

 さて、今回の新型インフルエンザワクチンは日本では2700万人分しか確保できていませんが、当時は、アスピリンを容易に入手できたのでしょうか?

 1903年に バイエルは ニューヨーク州 レンセラーに アスピリン工場を建設し、1909年にはアメリカにおけるバイエルの売り上げの31%がアスピリンという超ヒット商品になっています。ところが1914年に第一次世界大戦勃発。アスピリンの原料であるフェノールはTNT火薬の原料でもあり、戦争当事国イギリスはフェノールの輸出を禁止しました。原料の確保に追われたバイエルアメリカは1915年にエジソンの会社からフェノールの買い付けに成功しています。1917年にアメリカが対独宣戦すると、敵国企業となったバイエルは資産の没収を恐れて、ダミー会社を設立したり、偽装契約を連発したりと資産隠しに奔走しました。(平澤正夫「超薬 アスピリン スーパードラッグへの道」平凡社 新書2001)従って、アメリカ現地法人のバイエル社のアスピリン生産量はよくわかりませんでした。

 一方、日本でのアスピリンの調達はどうなっていたのでしょうか? アスピリンは1899年の発売開始の翌年に日本でも輸入が始まり、1906年には日本薬局方に掲載されています。当初は外国の商社を通じて輸入されていましたが、1907年から大阪の武田商店(後の武田薬品)が独占販売権を獲得。明治44から大正2年(1911-1913)までのアスピリン年間平均輸入量は8.9万ポンド(約40トン)にも達していました。(中外商業新報 1916.8.20)ところが、日本も第一次世界大戦に参戦、ドイツとは敵対関係になったため、ドイツからの医薬品の輸入は途絶えました。そこで、武田商店がアスピリン工場を建設し、1915年から生産を開始(平澤正夫「超薬アスピリン スーパードラッグへの道」平凡社新書2001)となっています。

 ところが、中外 商業新報(1916.2.7)によれば、1916年に 三共という会社がようやくサリチル酸を製造し始めたばかりで、サリチル酸の誘導体であるアスピリン(アセチルサリチル酸)は、まだ試作品を作ってみたという段階でした。ミツワ化学研究所、大阪武田商店付属工場でも試作に成功したとの記載があります。なお、サリチル酸は、日本酒の防腐剤として唯一認められた薬剤だったため、国内の消費量は年間160トンに及び、当時の日本は 世界最大のサリチル酸消費国でしたが、第一次大戦参戦まで全量を輸入していました。そしてサリチル酸の 9割はドイツで生産されていましたから、サリチル酸の国産化は急務の国策となり、工場は突貫工事で増設につぐ増設が繰り返されました。従って、サリチル酸も順調に生産できていたかどうか怪しいところがあります。

 それからわずか半年、中外商業新報(1916.8.19)によれば、この時点での アスピリンの生産能力は8.6万ポンド(約40トン)とあり、さらに2.7万ポンドの増強を計画中とのことです。原料のサリチル酸の生産さえおぼつかない段階で、そんなに早くアスピリンの生産体制が整うのか疑問です。案の定、中外商業新報(1916.8.21)には、「本邦に於て生産の甚だ困難なるもの乃至 多少は製造せらるるも外国品の補充に待たざるべからざるもの亦決して少しとせず」「多少の製造あるも其過般は海外品の供給に仰ぐにあらざれば不足たるを免れず」という薬品リストにアスピリンが入っていますので、当時の現有生産能力 8.6万ポンドも「希望」に過ぎず、実際はドイツに代わってアメリカあたりからバイエル社のダミー会社を通じて需要量(40トン)に見合うほぼ全量を輸入していたのではないかと推測されます。

 1930~40年代にはようやく国産アスピリンも登場していたようで、第一次大戦終了後の1919年に日本での販売を再開したバイエル社製アスピリンと日本市場で競合することになりました。当時の医者の話しによると、国産品よりもバイエル社のアスピリンの方が効いたとのこと(平澤正夫「超薬アスピリン スーパードラッグへの道」平凡社新書2001)ですから、国産品の純度はかなり低かったのでしょう。スペインかぜの原因のひとつにアスピリンの副作用があったとの前提での話しですが、もし、スペインかぜ大流行の当時に、まがりなりにも国産品のアスピリンを日本市場に出せていたら、純度の低いおかげで、日本人はパンデミックを免れたかもしれないという皮肉なオチがついていたかもしれません。

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■ところで、あいかわらず、「死亡」記事は、たえないのだが…。



新型インフル:盛岡などで女児2人、京都で30代女性死亡

 盛岡市は1日、市内の女児(2)が新型インフルエンザに感染し、死亡したと発表した。基礎疾患はなく、厚生労働省によると、新型インフルの死者で最年少。また同日夕までに、兵庫県伊丹市の女児(8)と、京都市右京区の30代女性も死亡し、国内の新型患者の死者は疑い例も含めて43人となった。

 盛岡市保健所によると、女児は10月29日夜に39度台の発熱があり、呼吸が停止して意識不明となった。病院でリレンザの投与などを受けたが、1日朝に多臓器不全で死亡した。

 兵庫県によると、8歳女児も基礎疾患はなく、10月31日に39度台の発熱があり、診療所でタミフルを処方されて帰宅。その後、けいれんを起こして病院に運ばれたが死亡した。

 京都市によると、女性は30日に発熱し診療所で受診。31日に40度を超す発熱があり、タミフルの投与を受けたが、1日朝死亡した。【狩野智彦】

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毎日新聞 2009年11月1日 20時42分

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■この記事は、原田さんたちが危惧するような、タミフル・リレンザなどによる犠牲者の可能性があるのだが、おそらく「毎日」記者たちをはじめとして、そのことに自覚的なメディア層は、皆無にちかそうだ。■あるいは、「毒ギョーザ事件」と同様、一部きづいているが、うえから徹底的に規制をうけて、なにも うごきを みせられないと。
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