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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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【転載】2009年 秋の合宿学習会案内(社会臨床学会)

旧ブログで、話題にでた、社会臨床学会の もよおし。学会大会といわずに、「合宿学集会」とよぶところが、この組織らしいところか…。■リンクを、適当におぎなってある。



2009年 秋の合宿学習会案内
〈2009年 秋の合宿学習会〉

当事者概念を考える
~する側、される側の関係を振り返りながら~

 今日、福祉・医療・教育における、障害児・者、病者・患者、子ども・親などと、専門家、支援者、介護者などとの関係は、ニードを持った人・ニードに応える人、サービスを受ける人・提供する人、支援される人・支援する人などと言われているが、「される」側は、権利主体である「当事者」として位置づけられる傾向が目立っている。
 ところで、『社会臨床雑誌』16巻3号で、川英友さんが、「『当事者』概念の落とし穴について」を書いているが、お読みになられたであろうか。川さんは、このような文脈における「当事者」概念は、「する‐される」関係の相互性、対等性を疎外して、このような関係を要請する社会の仕組みや関係の諸問題を隠蔽、温存することに寄与していないかなどの問題提起をしている。
 このことに関して、09学習会までには『社会臨床雑誌』17巻2号で公刊する予定だが、松浦武夫さんが、福祉労働者の立場から、「当事者」の現実を直視することの必要性を訴えながら、福祉労働の権力性・抑圧性を相対化するためにも、「当事者との距離」を自覚しつつ、「する‐される」関係の連携を探るべきなのだと警告している。
 崎原秀樹さんは、今日、例えば、特別支援教育を求めていくときの発達障害児の親たちは、「当事者」の立場を強調しながら、「発達障害児・者」概念や特別支援教育やの知識・技術の枠の中で、子どもたちのニードを要求していることがないかと問い、「する‐される」関係は相互補完的になっていないかと危惧を表している。
 話は戻るが、臨床心理学会は、70年代当初、障害者たち、障害児の親たちなど、「される」側の叫びと告発に糾されながら、「『される』側に学び、『される』側とともに」の姿勢と方法を宣言して、学会改革運動を開始したが、やがて、80年代に入ると、その結果も含んで、「する」側の資格・専門性の強化としての臨床心理士国家資格化の要求へと舵を切り出していく。社会臨床学会は、この方向性を批判して、新しく出発したが、今日的状況の中で、「『される』側に学び、『される』側とともに」の姿勢と方法を再検証してきている。今回のテーマは、その一環である。

 以上のような経過から、今回の学習会では、川さん、松浦さん、崎原さんに、発題していただきながら、「『当事者』概念を考える~『する‐される』関係を振り返りながら」と題して、じっくり語り合いたいと願っている。なお、篠原睦治さんは、臨床心理学会から社会臨床学会への流れのなかで体験してきた「『当事者』の概念と『当事者』との体験」を振り返りつつ、司会を担当する。

(第IX期運営委員会)
【問題提起者】
川 英友(静岡英和学院)
松浦武夫(枚方市社会福祉協議会)
崎原秀樹(鹿児島国際大学)
【日時及び場所】
2009年11月28日(土)・29日(日)
マホロバ・マインズ三浦別館(神奈川県三浦市・詳細は下記参照)
【プログラム】
11月28日
午後2時~6時 発題と討論
午後8時~10時 討論(つづき)
11月29日
午前9時~12時 拡大運営委員会
【参加費】
A - 全日程参加の場合(一泊二食付き)11,310円
B - 11月28日の学習会に参加し夕食をとる場合(宿泊なし)3,810円
C - 11月28日の日中の「発題と討論」のみに参加の場合 1,000円
【申し込み】
11月20日(金)までに、下記あて、ハガキまたは電話で申し込んでください。
申し込みに際しては、(1)氏名、(2)住所、(3)電話、そして(4)希望される参加形態を、上記のA、B、Cのうちから選んでお知らせください。
申し込み先:原田牧雄(学会運営委員)
      238-0101神奈川県三浦市南下浦町上宮田2451-2 電話 046-888-0287
なお、キャンセルの場合、速やかにご連絡ください。11月26日(木)以後のキャンセルには、キャンセル料が必要ですので、あらかじめご了承ください。
【会場について】
マホロバ・マインズ三浦別館(〒238-0101 神奈川県三浦市南下浦町上宮田3231
℡ 046-889-8900)昨年の合宿学習会と同じ会場です。海の側のホテルで、天然温泉を楽しめます。京浜急行線三浦海岸駅下車、徒歩7分。電話をすれば、お一人でもマイクロバスが同駅まで迎えにきます。
交通:
・京浜急行線・品川(快速特急)-三浦海岸(所要時間・約1時間)
・車の場合、横浜横須賀道路の終点、佐原インターで下りて、国道134号線でお出でください。(電車でも車でも、三浦海岸まで来るとあとは看板などで、容易に会場まで辿り着けます。)

〈問題提起者より〉
〈発題Ⅰ〉「当事者主権」「される側のために」を考える。
川英友(静岡英和学院大学)
かつて私は知的障害と判定された人が通う授産施設で、約3年間の間、職員をしていました。施設へ勤務した後半の2年間、周囲が期待するような、利用者のためにと思って働くいい職員になればなるほど、利用者の安全性をより万全に守ることができるようになり、仕事上のケアレスミスは少なくなり、職場の中での評価も上がりました。しかし、施設の利用者の気持ちや存在が、私から離れていくように感じました。施設の中で援助者が「される側」のために一所懸命になることが、本当にいつも「される側」のためになるのだろうかと感じました。また、「される側」のために一生懸命になることが、「する側」の中の関係性において病気や属性、能力主義に基づく差別、排除、いじめにつながってしまう状況を目の当たりにしました。
また、当事者主権や「自分のニーズは自分で決める。」という考えが、重度の知的障がい者の存在をあってはならないものとしたりしてしまうのではないかと思いました。
施設に勤務する以前に関わった軽度発達障がい児・者の支援や、大学において学生と関わる中では、「配慮」「逸脱した言動への社会的制裁から免れること」「寛容に接すること」というニーズと引き換えに、障がい「当事者」や外国人という枠に入るということに違和感を持ちました。「当事者」という枠に入り得なかったり、入ることを拒否したりする人間の苦しみや存在が無視されてしまうのではないかということを感じました。
私は、「当事者主権」や「される側のために」という言葉に対して共感、納得できる部分も多いのですが、これまでの様々に経験してきたことから、「何かがおかしい」と感じるところも多くあります。そのようなことについて皆さんとお話をさせていただければと思います。

〈発題Ⅱ〉障害当事者の決定と主体は未だに達成されていない大きな課題
松浦武夫(大阪府枚方市社会福祉協議会在宅福祉課)
 身体障害者の入所施設の職員から在宅福祉の職員へと、介護という事柄を約30年してきたが、この間に大きく変わったこと、変わらないことさまざまな課題があつた。措置の時代に入所施設は収容であった。介護職は寮母が正式名称であった。地域での自立は全く制度がなく、家庭奉仕員という細々とした制度があるだけだった。その後は施設徴収制度が導入され、在宅ではホームヘルプ制度が展開されていく。一方で障害者入所施設は増え続け、介護の問題として高齢者を中心としたシステム化が前面に出てきた。しかし、一人ひとりの障害当事者の「私のことは私が選んだり決めてよい」という事柄は、未だに多くの生活の場では「ちょっと外出してくる」にも制約がある。また、同じ時期に障害当事者の意思表示と異議申し立てが在宅・施設を問わず出てきた。自立と自己決定・自己選択が大きな方向として提示された。
 確かに障害当事者の主張での当事者性に困惑するときはある。だがあくまで個々としてとらえるべきで、全体には当事者性を諦観したり、意識できない状況が圧倒的であろう。自己中心と当事者性をどう現場で峻別するのか、現実には多くの逡巡する事柄がある。権利や決定という時に、大きな命や人生の選択肢から、日常の嗜好や他者との関係まで、非常に幅が大きく広い課題ではある。自己主張と自己顕示や自己決定と自己中心の違いは、あるようで微妙なものと現場では感じる。一方で介護という事柄であれば、「やりがい」や「意味」を一般には過度に位置づけている面を感じるが、かといって全く抜きというのも機械的・無機質な印象になり、積極的な方向性がただでも維持しにくい要素が多い事柄に、惰性と沈滞を生じさせてしまう。さらに対象とする人の比較という事も介護者の無意識には常によぎるものであり、「ふつう」や「社会的には」という視点をどう振り払うかも意識的でなければ、社会の認識を現場に持ち込んでいる。このように障害当事者による自己決定と当事者主体の位置づけは、介護者としての自分にとっては、他者の決定と他者を主体とするということであり、そこにおける「当惑」や「抵抗感」とは何か、考え続けることに大きな意味があると思っている。

〈発題Ⅲ〉「障害」をどのように語り、「共に生きるかたち」を描く手立てにするのか
崎原秀樹(鹿児島国際大学)
 障害児教育から特別支援教育と名称が変わっても、「知的障害」を学校教育や暮らしの中でどのように捉え、かかわることができるかについて、学校教員や保護者そして本人らと共に自分なりの立ち位置を模索しながら考えてきた。
 今回は、『妻はエイリアン』『私たち、発達障害と生きてます』等の「当事者」本の著者らが、「障害」に対するソーシャルスキルや日常の営みの再編を模索する際の基本認識に対する違和感を中心に考えてみたい。「広汎性発達障害」や「高機能自閉症」周辺の「当事者」や保護者らの「障害」を語る語り口や書き方が、主流とされる研究者たちの視点―「障害」をその名前のつく者の「問題」に還元する―を取り込み、生きている現実を再構成しているのではないかという違和感である。つまり、ある状態を「症状」や「問題行動」として抽出し、専門家やマニュアルを基に考えていこうとする現実認識や、さらにはそのような「当事者」や保護者の語り口や書き方を、そういう人たちの書いたものだから、率直な体験談や工夫として真に受ける人たちが増えていく現状をどのように理解したらよいか。これらには、生きるための条件の異なる者同士が、朝起きてから夜寝るまでの暮らしの中で誰とどのような文脈でどのような現実にぶつかり、どのようにせめぎ合い、折合う術を探るのかという視点が見えにくいのが共通すると推測している。
 このような違和感が膨らむ中で、前述の「知的障害」に対する自分の立ち位置を整理する必要を感じているので、その試行錯誤に付き合って頂けると有難い。

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