プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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「文明」の走狗論=「家畜人ヤプー」「ジョージア・マックスコーヒー」

■某ブログの半年ほどまえ(2009.02.21)の記事。

昨日偶然、GEORGIA(ジョージア)「MAXコーヒー」のTVCMを見ました。
なんと、人がタイヤを持った(人間シャシー)フォーミュラーカーのレースシーン。
あまり美しくないが、笑えるし、インパクトは大。
題して『HUMAN CAR RACE』篇らしい。
http://www.georgia.jp/max/world/ad/cm_15.html
クラッシュシーンやピットイン・アウトの瞬間など、なかなかにモータースポーツ→F1ファンの心を(微妙に?)くすぐる演出に、反応してしまいました。
何でも、鈴鹿と富士をベースにしたらしいというから本格的?

HPには変なゲームも用意されているが、こちらは個人的には二度としないかも。
http://www.georgia.jp/max/world/game/
ま、お暇なときにどうぞ。

肝心の商品は、自他共に認められている、激甘コーヒーとか。○CCのミルクコーヒーの比じゃないというから、半端じゃないかも。興味はありますが・・・。

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■youtubeで動画が保存されていたので、とりこんでみた。


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■以下は、ウィキペディア「マックスコーヒー」の「CM」という箇所の全文。


 全国発売の開始と共に「マックスコーヒー」単独のCMも製作された。内容は「F1の車のタイヤ以外の部分を人間に見立てて(腕と脚が骨組みという設定で、両手で前タイヤ、両足で後ろタイヤを担当する)レース中にピットに戻り、ガソリン補給の代わりにストローでマックスコーヒーをピットクルーに飲まされている場面を実況付きで映し飲んだから順位が上がった的な走行中のアップを映しながら画面右側にマックスコーヒーが映って左上に"ちょー元気つづきMAX"と言う文字とこれを勢いよい声で1回言って終了」というもの。F1バージョンは富士スピードウェイで撮影が行われた。また、「マックスコーヒー」公式サイトでは他のバージョンのものも視聴できる。
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■要するに、カネがかかった 「バカCM」の典型例なのである(「バカバカしい~」という意味で、無意味といっているのではない)。■しかし、もうひとつの某ブログは、まがおで いきりたっている。 2009年3月 6日 (金曜日)

家畜人ヤプーとジョージア コーヒー

 『家畜人ヤプー』という怪奇小説をご存知だろうか?

 1960年代はじめだったか、三島由紀夫の紹介と推薦で、ひとわたり文学好きの世界を震撼させた小説である。
 ぼくもその一部を人に聞いたり、いくらか自分で読んだりもしてみたが、読み進めるに堪えなかった。もう驚きの、嫌悪の筋立てであった。

 ヤプーは Japuu または Japou である。
 それが日本人の蔑称「Jap」から来ていることは、だれに聞くまでもなく、ただちにわかることである。そして、その「Jap]のなれの果てが、「家畜人ヤプー」だという設定なのである。蔑まれ、家畜扱いされて、そのことに喜びをさえ感じている、未来の日本人という被虐的願望のかたまりのような民族が描かれている。
 日本人の白人コンプレックスを極大化させ、それを白人崇拝において微分し、なおかつすべての知識人の被虐的正義感を積分すれば、このような忌まわしい、醜い世界が生まれる。三島由紀夫の推薦するわけである。もちろん、三島由紀夫はその根底のところで、被虐⇔加虐が逆転するのであるが。

 それを思い出させるのが、コカコーラ、ジョージア コーヒー MAXのTVコマーシャルである。
 それは、Human Car Race とタイトルされたわずか15秒ばかりのものであるが、激しい嫌悪を催させた。
 それは、人間の手足にそれぞれタイヤを付けて、フォーミュラ・レースをさせている図である。それが明らかに日本人。コース・サイドのテクニカルや、監督たちはもちろん、白人である。

 まさに『家畜人ヤプー』の世界。
 
 このコマーシャルを放映しているのが、あのアメリカ合衆国の白人企業、コカコーラ社である。しかも race は race である。
 つまり スピード競走の race であると同時に、
 racial discrimination(人種差別)の race=人種である。

 このことが含意するものは激しく鋭い人種差別である。白人企業の白人中華思想の決定的表明であり、完全な黄色人種差別の宣言である。

 かつて日本人、沼正三は嗜虐妄想にとりつかれたように、『家畜人ヤプー』を自らの意志と願望とによって小説に描いたが、今度は白人企業に飼われている新しいヤプーたちが、白人に媚び、へつらい、白人のためのTVコマーシャルを、なんのためらいもなく流している。

 コカコーラ 缶コーヒー ジョージアの不買を!!
 いや、コカコーラ製品すべての不買を!

 ぼくはどうしても許せない。
 たとえ、虚構であっても、人間をこのような醜い姿に改造して、平気な感覚が、である。

 もう、現代のTVも、TVコマーシャルも、あるいは日本の社会もまた、人間が人間としての尊厳を投げ棄てることに、これほどまでに鈍感になってしまったというのだろうか?

「アメリカにぎょうさん買うてもらわな、日本人生きて行かれへん」

とでも主張したいのだろうか(関西弁で失礼)!?

 そしてそのためなら、人間としての尊厳や品性などどうでもいい、とでもいうのだろか?……

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■はっきりいって、年輩男性による被害妄想というしかない、「さむい」論評である。若輩ものが非礼だとはおもうが、以下の理由から、そう結論づけるほかない。

■①前出のウィキペディア「マックスコーヒー」の記述からすれば、経緯からいって、製造者・販売者等を「白人企業に飼われている新しいヤプーたち」よばわりすることには ムリがある。■もちろん バカバカしい テレビ広告も、アメリカ法人の首脳部などの司令だの、意向だのをうけたものでは、ありえない。■かりに 多国籍企業に世界的な統括中枢があるとしても、ローカルブランドだった缶コーヒーを全国展開したあと、うけねらいをはかった バカCMシリーズをうったという経緯は、製品・広報活動とも、アメリカ資本の想定外の展開にすぎない。■徹頭徹尾、現代日本文化のローカル性+おバカぶりの典型例としか、理解しようがない。


 マックスコーヒー(MAX COFFEE)とはコカ・コーライーストジャパンプロダクツが製造、利根コカ・コーラボトリング等が販売している缶コーヒーの商品名である。正式名称は「ジョージア・マックスコーヒー」。
 1975年発売。当初の製品名は「マックスコーヒー」。利根コカ・コーラボトリングのプライベートブランドであり、黄色の背景に、茶色のギザギザ模様という個性の強いパッケージが特徴。
 原料のうち乳成分に多量の練乳(コンデンスドミルク)を使用しており、コーラとほぼ同量の糖分を含み、甘いことで知られる。……「UCCオリジナル(ミルク&コーヒー)」や「ポッカMコーヒー」といった同じく甘いこと知られる他の製品と比べても高い。……原材料名の表記順も「加糖練乳、砂糖、コーヒー」である(原材料は通常使用量が多い順に表記される)。
 カフェ・オ・レや既存のコーヒー牛乳にも近い味がすると言われ、ファンも多いがその一方であまりにも強烈すぎる甘味に敬遠する人も多く評価が分かれる。しかし1990年の売上実数では、(利根コカ・コーラボトリングにおいて)同社ブランドのジョージア460万ケース対し、430万ケースとほぼ拮抗しており、売れ筋商品である。購買層は、20-30歳代の若年層が最も多く、主に無糖系のブラックコーヒーを中心に消費する40-50歳代の中高年層には敬遠される傾向にある。
 かつては千葉県・茨城県・栃木県を中心とした地域で限定して販売されていた商品で、これらの地域を代表する缶コーヒーであった
……。近年では関東近郊を中心として販売地域が広がっており、2009年2月10日に販売エリアを全国へ展開することを発表。2月16日から正式に販売を開始した。
 販売地域が広まってから、味が薄まったという意見も決して少なくなく、そのため公式サイトでは発売当初から味を変えていないことを強調している。……
 日本での飲料市場での缶コーヒーの伸張と製品開発を求めるボトラーに対して、米国コカ・コーラ本社はコーヒーを缶容器で飲む事自体が理解出来なかった事や自社の炭酸飲料との競合を恐れたため消極的であった。そのため当時有力ボトラーであった利根コカ・コーラが独自ブランドを立ち上げて発売した……


■②SFの形式をとったマゾヒズム文学の金字塔 「家畜人ヤプー」については、旧ブログで再三言及したので、ここでは くりかえさない。しかし、「バカCM作品」と 文学者やマニアを うならせてきた古典的作品とを 同質かどうかなどと、異同をウンヌンすること自体、失礼というか、どうかしている。■大衆文化を こバカにし、マニアックな文学作品を権威主義的に もちあげているようにみえるかもしれないが、うえに はりこんだ 「バカCM」は、「バカバカしい日本文化の金字塔」などとして記憶されることはあっても、「家畜人ヤプー」のように 今後も何十年か よみつがれ・かたりつがれるようなことは、ないだろう。数年たてば、「ああ、そういった バカバカしいのがあったね。ハハハ…」と、一笑にふされるような価値にとどまるだろう。
■市場原理のなかでの、視聴率競争の手段としてのCMやドラマなどが、資本主義イデオロギーや人種イデオロギー、異性愛イデオロギー、…等々から自由なはずがない。しかし、それら作品群の大半は、単品でウンヌンするより、属性ごとに分類して その思潮基盤を推定するような水準の ふかさしか、かかえこんでいないのではないか?■予算や商業性から自由でないにしろ、芸術性や思想性がどうしても前面にでるだろう、映画作品や舞台作品とは、当然区別しなければなるまい。15秒・30秒といった短時間はもちろん、25分・50分といった 「アリーナ(闘技場)」の時間わくが決定的な CM・テレビドラマを、古典文学のかかえる思想性や射程とくらべる着想が、方法論的に破綻しているのである。


■③資本の「意思」やら、作品としての「価値」やらは とりあえず おいて、批判者がのべるような、「白人企業に飼われている新しいヤプーたちが、白人に媚び、へつらい、白人のためのTVコマーシャルを、なんのためらいもなく流している」といった批判が、ひとかけらでも、あてはまるのか? を、ちゃんと検討してみよう(うえで「再三言及したので、ここでは くりかえさない」とのべながら、前言撤回か?)。
■批判者は「人間の手足にそれぞれタイヤを付けて、フォーミュラ・レースをさせている図である。それが明らかに日本人。コース・サイドのテクニカルや、監督たちはもちろん、白人である」と断言するのだが、背後に、ひとりだけ、日本人と おぼしきスタッフがみえる。■しかし、たしかに、マシンそのもの、ピットで交換・補給作業をするスタッフ等(つまり、現場=現業部門)がことごとく日本人であり、司令塔が ヨーロッパ系でほとんどしめられていることはわかる。■ただ、同様の構図は、たとえば 先進国とくらべて技術水準があきらかにおくれているサッカーなどでは、ごくあたりまえではないか? 批判者は、同様な構図が確認できる空間すべてで、支配・指揮・差別等を指摘するのだろうか?
■一方、「家畜人ヤプー」のばあいは、交配による「品種改良」もふくめて、徹底的な支配が貫徹しており、しかも、それは、馬主→調教師→競走馬といった歴然とした「身分(生物種)差」が 投影されていた。■「家畜人ヤプー」の隠喩する グロテスクなばかりの 生物種間差別を問題視するのなら、平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』のように、資本家(ヒト)→管理者(イヌ)→労働者(ネズミ)といった階級支配を問題にすべきだし、かりに「人種差」を問題視するのなら、アメリカ人→日本人→沖縄人という、歴然たる人種間差別をえぐった ポストコロニアル文学たる「沖縄文学」をとりあげるとか、もっと まともな 「比較文学」が可能なはずだ。■あるいは、カタカナだらけの、意味不明な表題で公開される「洋画≒ハリウッド映画」の消費のされかたとか、ダグラス・ラミスイデオロギーとしての英会話』など、現代日本の、文化的植民地性を アメリカ人自身が指摘した古典的文献も、わすれてはなるまい。
■もちろん、日本産「缶コーヒー」が、スシなど日本食やアニメ作品などと連動して流行し、通・オタクや少年たちむけに 大量に輸出されて、第二の「ドルばこ」になりつつある…といったネタなのなら、はなしは別だが。■かりに 万一、そういった 革命的な事態が発生しようとも、うえのような「バカCM」を、全米で展開する気迫のある広告代理店があるだろうかね? ■まあ、「崖の上のポニョ」ぐらいまで わかりやすくしないと、興行的に成功できない宮崎駿作品をみればわかるとおり、「全米市場」という空間が、およそ思想性と縁どおい知的水準である以上、意外にうけるかもしれないがね(笑)。


■④「人間の手足にそれぞれタイヤを付けて、フォーミュラ・レースをさせている図」だの、「人間をこのような醜い姿に改造して、平気な感覚」・「人間が人間としての尊厳を投げ棄てること」を、現代日本人の精神の鈍磨とみなすのは いいとして、「スピード競走の race であると同時に、 racial discrimination(人種差別)の race=人種である」などと、ナゾときして ナショナリスティックな反発をあらわにするなら、栄養ドリンクのブランド「アリナミンV」のテレビCMで、プロゴルファー丸山茂樹がサラリーマンに扮してロケットで(続編では、つまも)出勤していく設定などには、資本による身体管理や労働収奪をみてとらないのか? チャップリンの『モダンタイムス』あたりに古典的出発点をみるような作品群が、たくさんありそうだが。
■SF作品で再三とりあげれらてきた「サイボーグ」や「アンドロイド」といったネタは、もちろん、ロボットという、コッペリアとかカラクリ人形の時代には想像もできなかった、現代的なコンピューター・マシンをイメージした、「メトロポリス」や「鉄腕アトム」…「ブレードランナー」から、「イノセンス」など、おびただしい作品群。ないしは、「家畜人ヤプー」の とおいとおい「起源」といえるかもしれない フランケンシュタイン博士による人造人間のようなバイオテクノロジーの悪夢のような世界が、蓄積されてきている。
■その意味では、15~30秒わくで 大衆の わらいをとろうとはかるテレビCMなどの着想は、物理的に はじめら そこが しれているのであって、前項の「人種・生物種間差別」や「機械」化とからんで、深刻な 批評分析をほどこす意味があるものなど、それほどないとおもわれる。


■⑤いささか、激越な批判にみえるかもしれないが、批判者の過剰で感情的なよみこみが ひきだされてしまう点で、日米関係というのは、つくづく神経症的かつ、サド・マゾ的な本質を依然としてぬけだしていないのだとおもう。
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タグ : ナショナリズム

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コメント

取捨選択版ウィキペディア「9月1日」

1891年 - 日本鉄道により現在の東北本線上野駅~青森駅間が全通。
1905年 - 日本の新聞各紙がポーツマス条約の内容を不服とした記事や社説を掲載する。
1910年 - ブラジル・サンパウロでサッカークラブチーム『コリンチャンス』が創設される。
1911年 - 平塚らいてうらが文芸雑誌『青鞜』を創刊。創刊号には「元始、女性は太陽であつた」という平塚の宣言が載せられた。
1914年 - シンシナティ動物園で最後のリョコウバトのマーサが死亡。
1923年 - 関東地震(関東大震災)発生。
1939年 - ドイツがポーランドに侵攻。これに対してイギリスとフランスが3日に宣戦、第二次世界大戦のきっかけに。
1956年 - 神奈川県横浜市・愛知県名古屋市・京都府京都市・大阪府大阪市・兵庫県神戸市の5市が同時に、初の政令指定都市に移行された。
1963年 - 国鉄が自動列車停止装置(ATS)の使用開始。
1983年 - 大韓航空機撃墜事件
1985年 - 1912年に沈没したタイタニック号が北大西洋沖で発見される。
2001年 - 歌舞伎町ビル火災発生で44人死亡(戦後5番目の大惨事に)。
2004年 - ロシア北オセチア共和国でベスラン学校占拠事件起こる(~3日)。人質の生徒ら死傷者1千名以上。
2004年 - 浅間山噴火。
2006年 - イランエアツアーズ航空機着陸失敗事故
2008年 - 福田康夫首相が突然の辞任を表明。

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■めぼしいものだけ えらんでも、重大な「事件」が ふしぎとおおい印象。

第二次世界大戦といえば

当時において「和食の栄養バランスは世界一イイイイ!!」という名言をのこした人物がいましたが(http://d.hatena.ne.jp/daledge/20060817/1155827664)、『漢方と暮らす。』(幻冬舎)がしめす様に、科学的な指標で波紋もとい漢方の効能を分析すれば、「日本」の食文化が世界の健康に貢献する可能性もある様な気がします。つーか、左翼のオイラがこんなことを指摘すること自体が変だな。そもそも、ウヨクはいつまでたったら、客観的な基準で世界にほこれる「日本」の特徴に気づくんだ?

いや、わたしは別になにも漢方だけが「日本」のすぐれた点だと限定する気はありません。肉食系女子(苦笑)の先駆的存在ともいうべき疑惑のもとい魅惑のキャラ・八重垣静さまをうみだした『ファイナル・ロリータ』は、やはり臭作もとい秀作だとおもいます(http://anzu.sakura.ne.jp/~phantom/c_tex/fl.htm)。

いずれにせよ、右翼が無駄に消費している労力を、和食やエロゲーという、真にほこるべき文化に投入すれば、ふたたび世界に覇をとなえ…もとい「国際社会において、名誉ある地位を占め」ることにつながる様に感じるんですが…なんで右翼は「日本」の特徴のうち無価値なものばかりをあがめるんだ?不思議でしょうがない……何故なんでしょうか?タカマサさん。

ついでにいうと

「ロストワールド」をパクったもといアレンジした「クイーンズブレイド」(http://queensblade.net/index.php/lostworlds/)も「日本」がほこるべき秀作だ。でもって、おとぎ話をもとネタにした「おとぎ話はHでいっぱい」((http://www23.atwiki.jp/gamebooklist/pages/121.html)の1988/1号)も「日本」の偉業だ。
それにしてもペペでのんだヤクルトがなつかしうわなにをするやめ

普遍的な すぐれものは、時空をこえる

■別に漢民族をもちあげるわけではありませんが、「漢方」周辺の薬物・ツボなどの知識体系は、疑似科学的ではあれ、単なる民間療法ではないことも事実。すくなくとも、西洋医学やら栄養学やらに対抗的かつ補足的に利用する価値のある体系のはず。■漢方が、中国大陸にとどまらず、朝鮮半島・日本列島・東南アジアなどに、土着化してきた経緯もたしかな歴史。タイ式マッサージとかの奥義(オーギ)も。
■日本流アニメ(マンガ)も、朝鮮半島・台湾・中国大陸沿岸部に、あきらかに土着化した模様。みたことがありませんが、台湾のドラマも、よいできとか…。カワイイは、オヤジとして ひいてしまいますが、おとめごころを普遍的につかむものがあるんでしょう。「世界」へ展開する可能性あり…。
■「普遍的な すぐれものは、時空をこえる」ので、「真にほこるべき文化」に政策的にテコいれしようとか、「国際社会において、名誉ある地位を占め」ることをもとめようとか、そんな「努力」は不要では?■そういったナショナリスティックな感情を不要化するだけの伝播力をもっているとおもいますよ。

『論座』(2001年2月号)に

「ナショナリズム再定義」という特集があります。ナショナリズムつながりで、よかったら参考までにどうぞ。

ところで、おくればせながらお返事します。

>そういったナショナリスティックな感情を不要化するだけの伝播力をもっているとおもいますよ。

そういっていただけて、大変ありがたいです、(すし・すきやき・てんぷら以外もふくむ)和食が好きで、マンガも好きな人間としては。「普遍的な すぐれものは、時空をこえる」という命題はおっしゃるとおり真実でしょうし、ゴボウ・マイタケ・海藻類などの効能を力説する労力は不要なのかもしれません。

ただ、それらと別の疑問を呈するとすれば、2009/09/01 20:55で提起した

>なんで右翼は「日本」の特徴のうち無価値なものばかりをあがめるんだ?不思議でしょうがない……何故なんでしょうか?タカマサさん。

という疑問に対する、タカマサさんなりのこたえがあればおしえてほしいです。もちろん、逆にわたしが礼賛した食文化等にしても、南アジアのカレーやヨーロッパの乳製品および果実酒(ワイン)など、「日本」(あるいは北東アジア)以外にすぐれたものがないわけではなく、「『日本』にはすぐれた文化が存在する」という主張自体はただしくても、「南アジアやヨーロッパにだってすぐれた文化は存在する」といいかえされるとはおもうんですが、ウヨクの言動が政治的立場というより経済的損得勘定さえ無視しているかのようで不思議なんですよ。わたしのそんな疑問にこたえねばならない義務はタカマサさんにはありませんが、もしおもいつく理由をあげてくださればさいわいです。
「平和を仕事にする」(http://www.mod.go.jp/gsdf/jieikanbosyu/streaming/special/)という宣伝文句も欺瞞的な自衛隊のサイトにも、さくらの花びらとおぼしき紋章があり、これなんかも『国家主義を超える』(講談社)で分析されていた、さくらの散りぎわを死にぎわに見たてる心性のあらわれでしょう。さくらの花をめでる文化が倭国にある程度ながく(500年~1500年くらい?)存在していたとしても、それを死にぎわになぞらえるのはあきらかに国粋主義の高揚の結果にすぎないわけで、なんでせっかく外国にもほこれる文化を台無しにして、政治的にのみならず経済的にも損な選択をするんだ?

あえて差別的な暴言を

>なんで右翼は「日本」の特徴のうち無価値なものばかりをあがめるんだ?

■右派も、ただ洗脳されて おどらされている層と、操作するために、平然とウソをつく層とが「共存」していると推定されますが、新宗教の教祖や インチキ商法のリーダーたちのように、本人たち自身の脳内に麻薬が発散されまくりで、トチくるっている可能性もあります。■そのばあい 「犯意」の有無は無意味になり、操作主題であるか客体であるかをとう意味も消失します。
■が、ここでは、そんなことは無視して、とりあえず、かれらのアホさ加減(モニタリング能力の欠如と厚顔無恥さ)の原因を推定してみましょう。


■①「伝統主義にたって国体を擁護(合理化)するために 必要不可欠な歴史事例」を取捨選択する必要性を認識する能力が欠如しており、取捨選択する努力ができない。→日本列島での貴人たちの「花見」をさかのぼれば、それは、ウメや ヤマザクラであり、ソメイヨシノは、非常にあさい「伝統」、むしろ、「創造された伝統」にすぎないという歴史的事実をしらない。
■「江戸時代以降、花見といえばサクラということになっている。しかし奈良時代以前に「花」といえば、むしろ梅を指すことの方が多かった。梅が次第に桜によって駆逐されはじめるのは、平安時代中頃からのことである」(ウィキペディア「ウメ」)とか、「同じ場所に育つ個体でも一週間程度の開花時期のずれがあるため、同じサクラでもソメイヨシノと異なり、短期間の開花時期に集中して花見をする必要はなく、じっくりと観察できる。ソメイヨシノの植栽の普及する前の花見文化はむしろ、このように長期間にわたって散発的に行われるものであった」(ウィキペディア「ヤマザクラ」)といった、ウェブ上のデータさえもしらず(しらべず)に、「江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなした。また明治時代に新渡戸稲造が著した『武士道』では「武士道(シヴァリー)とは日本の象徴たる桜の花のようなもの」と冒頭に記している。警察官および自衛官の階級章も、他国なら星形を使うべき所を桜花で表している。これらの職種は国民の生命と財産を守るために命を投げ打つと宣誓しているためである」(ウィキペディア「サクラ」)といった記述が、「自爆」しているという事実にも当然きづけないという、知的水準のひくさ。
 ↑ ■「蛇足」ながら補足するなら、ソメイヨシノのように、パッとちってしまうことに、「散華」的美学をよみこむことと、国学の象徴、本居宣長でさえ、「山桜花」と「敷島の大和心」と称していることとの矛盾に気づけない、アホさ加減(新渡戸稲造のような知識人であっても、所詮は「時代の子」でしかなく、「創造された伝統」に無自覚で、「日本の象徴たる桜の花」などと、安易な本質主義を提示して、欧米人のオリエンタリズムに呼応してしまっている)。


■②以上のような、実体としての「非歴史主義」を自覚できない「エセ伝統主義」の演出が、自分たちの「無教養」(←あえて差別的にかいておきますが…)の無自覚、列島上の諸文化の興亡・共存・展開についての無知ささ加減の無自覚などが、保守反動層がつねに「標的」としてきた、「B層」(あえて、そうかきます)の知的水準にもっとも効果的にはたらき、操作主体も客体も、相互によっぱらった集団ヒステリーを維持できること。


■③能楽・茶道等、数百年をこえる伝統を継承する文化エリートたちが、以上のような「伝統」の虚構性については いっさい くちをつぐんで、自分たちのエリート性が維持されるよう、暗黙のうちに黙認するという、消極的な策動を共犯的にはりめぐらしてきたこと。


■④近代欧米からのオリエンタリズムへの呼応としての非日常的な「伝統文化」と、近代欧米にも一応反省をせまった工学文明の進展(徹底的に欧米化した日常生活)のコントラストしか、「独自性」としてウリがないために、自己満足的に理解不能な自尊心を構築しようと、おいつめられていること(日本語文化・王族・殉職イデオロギー・…)。【かきかけ】

お返事ありがとうございます。ご指摘の点に追加します。

>ソメイヨシノは、非常にあさい「伝統」、むしろ、「創造された伝統」にすぎないという歴史的事実をしらない。

おりしも幕末に登場した新種の桜が全国に広がりはじめた。ソメイヨシノである。ソメイヨシノは、いままでの山桜などとは異なり、花が先に咲き、そのあとから葉が出る。そのため、大枝が見えなくなるほどびっしりと花がつく。春爛漫という言葉がまことにふさわしい。しかも、育てやすく開花も早い。こうしたことから、ソメイヨシノは急速に日本中にひろまってゆく。全国の学校や公園、河川の堤防に植えられたのは、ソメイヨシノなのであった。加えて、ソメイヨシノは、散りやすくもあったため、文字通り桜吹雪のイメージが日本中に定着するようになった。柳田国男によると、ソメイヨシノの普及は、それまでの日本の風景を一変させる出来事であり、それ以来、それまでの日本人に親しかった、山桜のちらちらと散る風情など、ほとんどかえりみられなくなったという(『豆の葉と太陽』)。
(『国家主義を超える』(講談社)22~3ページ)

「なんで右翼は「日本」の特徴のうち無価値なものばかりをあがめる」か?②

■⑤「植民地化の恐怖」(アヘン戦争+ペリー・ショック+薩英戦争+…)、大国に包囲されて大敗したことによる占領状態(「55年体制」という半植民地状況)、前項であげたような、もはや非日常化した「伝統文化」と、「徹底的に欧米化した日常生活」という現実という、「屈辱の150余年=トラウマ」こそ、ナショナリズムの根幹。■「欧米に伍した技術文明」(同化主義)の方向にしろ、「独自の東亜文明」(自己満足主義)の方向にしろ、欧米からの視線を意識しないではいられず、不安なままの心理状態はかわらない。■右翼とは、こういった集団ヒステリー症状の、もっとも無残なかたちとして普遍主義を放棄、「どうせ蛮夷には理解不能」といった、承認拒絶方向で内向化し、事実理解不能な自慰的なカルト集団へとおいこまれていく。「特攻隊の美化」「日本語・表記の美化」「天皇制の美化」など、世界からあいてにされないカルト系自己満足ばかりが突出する…。

■こんな感じでしょうか?
■日本民族の奉ずる文化ないし文明がそんなにすばらしいものなら、1億人といった、ごくかぎられた人口、日本列島といった、ごくかぎられた空間に信奉者がとどまるはずもなく、「ペリーショック」はもちろん、「アジア太平洋戦争」における大量病死・大量爆死・大量自決など、おきえなかったはずです。「核の傘」にもたれかかった「憲法9条」だの、安保体制だの、そういった右派にとっての屈辱の歴史など、おきるはずがない事例ばかりです。■「アメリカに散々なぶられたあげく、いずれ逆転」なんてシナリオは、ユダヤ教などから、パクったルサンチマン哲学にきまっています。「改憲論」を対米追従政党がかかげるという、珍妙・滑稽千万の「戦後史」。「世界で突出して優秀とされる官僚組織」が構築した、公団やら、さまざまな愚劣な現象。■右派がもたれかかっている「美」の実体とは、どこに実在するのか? 「過去はうつくしかった(退廃していなかった)」というなら、そんな美的時空が どこに実在したのか?■それを、具体的に例示できないがゆえに、「1984年」的な偽史をさんざんこしらえ、「美的時空」を出現させる実力などないがゆえに、幻想上の「左派」をでっちあげては、さんざん責任転嫁する。
■結論としては、貝枝さんには、失礼なのですが、「なんで右翼は「日本」の特徴のうち無価値なものばかりをあがめる」か? という、とい自体が おそらく まちがっているのです。■日本列島に、中ソのコピーをもちこんで社会主義化が成立したあかつきには、楽園がくるなどと、夢想し吹聴した左派が愚劣だったのと対称的に、「過去にただしくさかのぼって、敵国米英に逆転がちできれば、『美国ニッポン』が出現する(「尊皇攘夷」+「臥薪嘗胆」)」などと夢想し、世界中からあざわらわれていることを自覚できない右派。この双方が、日本列島に出現した「無価値」な現象群の典型例だったのです。

ナショナリズムに関して

比較的最近の資料をあげておきます。
『ナショナリズム論・入門』(有斐閣アルマ・ISBN-13: 978-4641123359)
「『行動する保守』とは何か」および「『従軍慰安婦』問題意見書採択のかげで起きていること」(『インパクション』(インパクト出版会・171号)195~200ページ)
あと、『インパクション』同号202ページには「<天皇即位20年奉祝>に異議あり!11月12日全国集会&デモへ!」という記事もあります。やはり「日本」の国粋主義においては天皇制をぬきにすることはできないんですかね?明治以降につくられた破壊的カルトでもあり、人文・自然・社会諸科学による分析わくぐみと根本的に無縁である(つまり法則性を把握する学問の手法に一切なじまないほど一貫性のない無節操な現象である)点において『「伝統・文化」のタネあかし』(アドバンテージサーバー)において解体されている伝統・文化よりも格段にそこがあさいんですが。

「日本」の実質上唯一の長所が危機

「日本」の実質上唯一の長所である漢方が危機に瀕しています。

「<事業仕分け>漢方薬の保険適用除外、医者や患者が反対運動」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091128-00000011-mai-soci

はやいところ、加藤秀樹(シンクタンク「構想日本」)が問題の根源であることに気づけ。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20091129/1259477007
もっとも、問題の真の根源は、そうした外道に牛耳られる人間ばかりを当選させている「日本」国民の民度なんだが。

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