プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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上半期の自殺者1万7076人=過去最悪に迫る勢い-29都府県で増加(警察庁)

「自殺」関連記事、続報。

上半期の自殺者1万7076人=過去最悪に迫る勢い-29都府県で増加・警察庁

 1~6月の自殺者数は、前年同期比768人(4.7%)増の1万7076人だったことが27日、警察庁のまとめ(速報値)で分かった。1日平均94人以上が自殺している計算で、過去最悪だった2003年の年間3万4427人に迫る勢いだ。
月別自殺者数

 すべての月で前年を上回った。増加率は、1日平均が100人を超えた4月に6.8%、5月は6.6%だったが、6月は1.9%で上半期の中では最小となった。
 都道府県別では、29都府県で前年同期より増えた。大幅に増えたのは、埼玉(139人増の971人)、東京(126人増の1569人)、千葉(94人増の757人)、沖縄(77人増の227人)、山口(55人増の237人)など。(2009/07/27-18:40)



自殺者、半期で1万7千人超…最悪ペース迫る

 警察庁は27日、今年1~6月に全国で自殺した人は1万7076人(暫定値)に上り、昨年同期より768人増えたと発表した。

 今年に入って6か月連続で昨年同期を上回っており、年間の自殺者が過去最悪だった2003年(3万4427人)に迫るペースとなっている。景気の落ち込みが影響しているとみられ、対策が急務となっている。

 今年半年間の自殺者のうち、71%にあたる1万2222人が男性。月別では、1月が2660人(昨年比118人増)、2月2482人(74人増)、3月3084人(145人増)、4月3048人(194人増)、5月2980人(184人増)、6月2822人(同53人増)。企業の決算期や派遣労働者の契約が切れる年度末に増加する傾向も見受けられる。

 都道府県別で多いのは、東京都1569人、大阪府1057人、埼玉県971人、神奈川県938人、愛知県844人など。29都府県で昨年同期を上回った。増加率が高いのは沖縄県の51・3%のほか、山口県30・2%、高知県21・6%、岡山県17・5%、埼玉県16・7%など。鳥取県は19・8%減で減少率が高かった。

 全国の自殺者数は昨年まで11年連続で3万人を超えた。このままのペースだと、同庁が統計を取り始めた1978年以降で2番目に多かった07年(3万3093人)を上回り、最悪だった03年並みになることになる。

(2009年7月27日19時31分 読売新聞)

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■しかし、「日本の自殺者数の実態は?(カマヤンの虚業日記)」で紹介したとおり、変死者が まともに解剖されない(=死因が特定されない)この列島のばあい、「自殺者」数の統計値なんて、全然あてにならない。というか、カマヤンたちの疑念のとおり、操作されている可能性大だ。
■もちろん、自殺にみせかけた殺人もあるだろうが、世界有数の自殺列島が放置されていることには、ちがいはない。交通事故三大疾病なんぞよりも、ずっと深刻な死因であることは、論をまたないことも事実。
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タグ : 真理省 1984年 安全 ハイパー独裁 警察

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コメント

日本は個人がいろんなことを自主的にやるのに、
有形無形の規制が多すぎます。
そこにグローバル経済による効率最大化圧力も加わり、
規制はやたら多いのに、相互扶助のルールや慣習はまともに機能していない。
これでは日本で生きているかぎり、自殺者は増える一方だと思います。

新保守主義も新自由主義も、自分たちの利害擁護の方便

■「むかしは、ちゃんとしていたのに、最近は…」論も、「むかしから規制ばかりで、なかなかあらたまらない」論も、自分たちの利害に即した論理で、つごうよく基準点や理想を美化してきました。■自民党・民主党などは、新保守主義と新自由主義が野合して、なんらうたがわれないという、異様な集合体です。しかし、これも民度の問題でしょう。
■いずれにせよ、過労死・自殺・変死者が多数でるこの列島は、世界でも超一流の安全空間であるがゆえに、そのコントラストが実に不気味です。■他殺よりも自殺にむかう国民性自体は、美風だとおもいますが。

実はその意見を書いたのは、最近ペルー出身者とペルーから影響を受けた日本人と話したからです。
彼ら・彼女らの家族や親族、友人を大事にする姿勢は、日本とはかなりの隔たりがあります。
もちろんそれだけではなんともならないことも、家族思いゆえの自殺(生命保険がらみなど)もあります。
ただし、日本の自殺者を増やすという点での不況への抵抗力の薄さを見るに、
勝ち負けぬきに生きることを肯定させない政策があるんじゃないかと思えるのです。
ボルネオのイノシシ等を狩猟しているマイノリティ民族には、手配師のような存在はない、とある方に聞いたことがあります。
かたや日本は、派遣法改正は政策提案できても廃止は検討できない社会です。
それは情けない、どこか壊れた社会だと感じます。
そんな環境で、自殺者が減るほうがおかしいです。

自殺は美しいとする美意識はけっこうありますね。同時に気持ち悪く感じるし、危ないのも事実です。
以前、アームカットの人に傷跡が縞模様になった腕を見せてもらったときにはショックだったのを覚えています。
三島由紀夫の割腹自殺については、美しいのか醜いのか分類しかねます。
死体を隠すことが自殺の美化にもつながっているのか、逆なのかは分かりません。
ただ鉄道自殺は遺族に賠償責任がいくこともあって、やめたほうがいいみたいですね。
実はわたしもストーカーのストレスその他で自殺したいくらいなのですが、
もし決行するときには、遺族に迷惑のかからない方法を模索しないといけないです。

自殺をみとめることの危険性

として、他人も自殺においこむということがあるであろう、という点を申しあげます。

本日記事

で、自殺・他殺の関係性のデータにふれています。うえのコメントは、そういった文脈でのものです。
■また、おちつきましたら、ワタリさんの議論なども、再検討させていただきます。とりいそぎ。

>貝枝さん
わたしは日本では自殺への美意識があると指摘しました。
ただし、自殺を推奨はしていません、念のため。
あとわたしの杞憂でなければハラナさんは某ストーカーによるわたしへの中傷にあたる度重なる人物評に影響されてそんな話をされているのかもしれません。
それについて詳しくは、わたしや家族を人質にとられているも同然のため、またショックでわたしが日常生活も困難な状態のため公開ブログ等では公表したくてもできないのです。

お返事ありがとうございます。

ワタリさん
上記の件、了解いたしました。

ところで、『世界』(9月号)214~222ページには「『自殺者』とは誰なのか」という記事があります。
参考までにどうぞ。

information

「佐藤優外伝」鹿砦社、単行本化、九月三日発売

ふしめごとに広報することで、年間自殺者数へらせるとおもっているのかな?

1~8月の自殺者2万2362人=最悪ペース続く-警察庁
9月28日16時8分配信 時事通信
 今年1~8月の全国の自殺者数が、昨年同期比971人(4.5%)増の2万2362人となったことが28日、警察庁のまとめ(暫定値)で分かった。すべての月で昨年を上回っており、12年連続で年間3万人を超えるだけでなく、過去最悪だった2003年の3万4427人に迫るペースが続いている。

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■もっとも、変死者数を操作している疑惑もあるので、こういった統計数値自体が意味があるか微妙でもある。

亀レス失礼します。あんど関連情報。

>「佐藤優外伝」鹿砦社、単行本化、九月三日発売

亀レス失礼します。あまりキチンとは読んでいませんが、ご紹介の外伝はしっかりとした批判ですね。いや、『紙の爆弾』での連載と重複していますし、『インパクション』(160号)の「<佐藤優現象>批判」(http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-1.html)の様に、佐藤優氏自身がおおやけにむけてかいている著述に対する批判に限定して論じている方が、言論としては正当な手法なのでしょうが、佐藤優の全体像をしっかり把握する意義は、彼の論壇にしめるおおきさからして有意義でありましょう。
ちなみに、『毎日新聞』(11月1日号11ページ)には、佐藤優による自著『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』(小学館)の推薦文がのっている。おまけに佐藤の写真つき。国家を勃てる、もとい立てる国家主義者として、自身がそんなに出張ってていいのか?いや、そもそもが「表の世界に出てくるわけがない」ような、「国家の、政治権力者のために無名の捨石になるほど奉仕精神に富む愚直な、謙虚な、思いやりのある人間ではない(『紙の爆弾』2007年4月号90ページ)のであれば、むべなるかな、という印象だが。

追伸

以下の記事をさきほどしりました。

「佐藤優現象について(1):「この現象は変だ」という感覚の重要性」
http://watashinim.exblog.jp/5545256/

佐藤優自身よりも、彼をとりまく社会的なながれの方にこそ危険性がひそんでいる、という意図の指摘だとおもいます。よんでいて背筋が寒くなったわ。(そして寒くなった理由は、わがやの暖房が不備なせいではない、たぶん)

さらに追伸

「<佐藤優現象>批判」スルー現象を構想中…だ、そうです。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20081210/p1

構想が実現すればよいですが、具体的に結実しなくても、上記ブログの指摘だけでも有意義かと推測します。

さらにさらに追伸

以下の記事もおもしろかった。

「佐藤優と<左派の崩壊>」
http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_7290.html

で、おもしろいとおもう一方、左派の崩壊がヤバい段階に達しているという懸念がますますつよくなった。

自民党の崩壊で、左派も自滅か?

■ま、当方のような、一匹オオカミのばあいは、つるまないし、自民党が自壊していこうと、「標的」がなくなったりはしないんですが、「佐藤幻想」とかに もたれかかっている層は、深刻なのかも。まあ、自滅してもらいましょう。ジャマですから。■一緒にいってほしい。
■当方としては、そこにまきこまれる層をできるだけ へらそうという努力だけが、目標です。


■話題は、本題の本文に関連する記事。■本日、旧ブログ(http://tactac.blog.drecom.jp/archive/1732)にきたトラックバック記事
 http://ameblo.jp/osaka-arubaito/entry-10375942358.html

佐藤優が

『はじめてのおるすばん』(http://zero.product.co.jp/products/rusuban/)もとい『はじめての宗教論 右巻』(ISBN-13: 978-4140883082)という本を出版しやがりましたね。まだよんでいませんが。つーかよみたくない。
宗教といえば、むかし講義をうけた山形孝夫氏も登場している『リレー講座現代社会と宗教Ⅰ いま、<宗教>を問う!』(法蔵館)のうち、山形氏の箇所だけはザッと通読したんですが、それ以外、わたしは宗教に関しては浅見定雄氏の著作や講演録くらいしかよんでいません。池田清彦氏の文章のなかには宗教に関する記述もすこしあったとおもうが、彼の著作の主題は宗教というよりも科学史やオカルト批判でしょう。
ただ、いずれにしても佐藤優の論壇席巻を宗教学者までもが座視しているとしたら、「日本」の現状はかなりヤバげでしょう(『はじめての~』が近著なので、まだしられていないだけ、あるいは、彼を批判している宗教学者はゴマンといるが、わたしがしらないだけ、だとおもいたい)。

そんなわけで浅見先生の文章を以下に引用して、わたしの心境の代弁といたします。

もともとキリスト教徒でない日本人右翼が、アモスやパウロと同じ反省をもたないからといって、彼らを聖書の神の名で責めるわけにもいきません。彼らとは現実の政治や歴史把握の次元で対決するほかないでしょう。
聖書の言葉によって端的に問われているのは、私たち日本のキリスト者です。教会です。もし私たちが、いまふたたびあの一五年戦争をアジア(アメリカではありません!)に対する侵略戦争であったと認めることをやめ、あの八月一五日を「大日本帝国」の滅亡の日と認めることをやめ、そして天皇はいまなお「万世一系」の「有難い」「敬愛すべき」存在であるなどと説き出すとしたら、私たちは――偶像礼拝の観点からも国際的観点からも――聖書の神を本気に信じていないのです。日本キリスト教団が一九六七年に総会議長名でおこなった「第二次大戦下における日本キリスト教団の責任についての告白」を、聖書をまじめに受けとめようとする教会またはキリスト者の最低の告白とみなすべき理由もここにあります。八月一五日をどう受けとめるかは、日本のキリスト者にとってまさに信仰の問題なのです。
(『聖書と日本人』ばんすい社・201~2ページ)

宗教学者と宗教者

■基本的に、宗教学者ってのは、宗教現象のメタ言語をかくひとなはずで、自身が宗教者というのは、再帰的で 不自由だとおもうんですね。なんか、キリスト者や仏教徒が宗教学者もかねて、カルト批判などをしている印象がつよいんですね。だから、カルトからの救出活動なども、信用されないんじゃないでしょうか? 結局「異端」に対する、主流派からのバッシングという印象がついてまわるんですよ。■したがって、宗教者は、宗教学者になることはさけて、徹底的に神学者として一貫し、そのうえで、社会的にまずい宗教現象を批判するというスタンスが冷静だし、周囲への印象もいいとおもいます。
■まあ、仏教は、いわゆる「神」への信仰ではなくて、「覚醒」による「さとり」への哲学的運動という本質がありますんで、宗教じゃないかもしれませんけどね。

■一方、宗教者=神学者ではない宗教学者が、カルトとか右派の ヤバい動向を座視しているとすれば、まあ「しんじまえ」の世界ですね。護教(自分の信じる宗教体系の合理化)のためにも、必死にうごくだろう宗教者とは別に、知識人としての責務ですね。■宗教現象は、ある意味冷静さをうしなうような、ハイリスク行動なわけで、当然もてあそんでいい対象ではないわけです。マイノリティの信仰だったら、なおさらです。創価学会とかイスラム教とか、しばしば問題が指摘される組織・信念であっても、信者が不当なバッシングをうけているときは、被差別者ですからね。オウム真理教だってそうだったし、マジョリティの信じている自明性を否定するような「異端派」が、バッシングされて当然といった野蛮な風土は、はやく解体しないと。

メタ次元で分析できることは社会学の専売特許ですかね?

おっしゃることに同意いたします。
そのうえでつけくわえると、

> 自身が宗教者というのは、再帰的で 不自由だとおもうんですね。

という箇所については、たしかに困難な営為だとおもいます。つまり、たとえばキリスト教徒であるとすれば「キリスト教を信仰することと、そうしてキリスト教を信仰している自分およびほかのキリスト教徒を分析すること」の両方をおこなわなければならないわけですから。

ところで、メタ次元に関連してしばしばおもうことは、個人や集団の努力や周囲からの支援によるメタ次元での分析はともかく、学問体系としてメタ次元の分析が可能であることは社会学の専売特許なのではないか、ということです。
たしかに複数の学問分野が交錯する研究領域はあるでしょう。たとえば、医療をめぐる法律を研究する法学の分野とか、社会的要因による病気の傾向を研究する医学(疫学?公衆衛生学?)とか。ただ、あらゆる分野に対してメタ次元で分析できるのは「医療社会学」とか「人文諸科学の社会学」という分析が可能である社会学の専売特許ではないか、という気がするのですが、どうでしょう?
もっとも、上記で社会学の専売特許と解釈した点も、政治性の研究という広義の政治学(立法府である国会の政治過程の研究ではなく)の範疇でもあるという意味でなら、政治学こそあらゆる分野についてメタ次元で分析できる学問だ、ともいえるかもしれませんが、ただ、社会学は狭義の定義においても諸学問をメタ次元で論じることができる点で特殊である様に感じるのですが、わたしの感じかたは妥当でしょうか?

あと、宗教をふくめ、プロパガンダになりうる諸事物の問題については「日本脱カルト協会」(http://www.jscpr.org/)の姿勢がそれなりに参考になる様な気がします。

さらに予断ですが、「マイノリティの信仰だったら、なおさら」「もてあそんでいい対象ではない」とのご指摘と関連したネタとして、某先住民族がキリスト教徒に改宗したが、先住民族の宗教儀式の道具をどうしてもすてるのがイヤですてられなかった、という事例をききました。これなど、偶像崇拝を禁止する(十字架は「偶像」の例外としても)キリスト教のおしえに反するといえなくもないですが、しかし弱者である先住民族の道具を偶像とみなしてすてさせるのはキリスト教の影響力の方が先住民族の影響力よりうえである場合は明確に残酷な行為ですよね。その後、その先住民族キリスト教徒がおなじキリスト教徒からどうあつかわれたかはしりませんが、儀式の道具をすてずにおいたことで批判はされなかったとおもいたいです。

社会学の独自性、土着化など

貝枝さま

■諸学のメタ言語として、社会学は特権的なのではないかという質問だと理解しましたが、厳密にいえば、ちがうとおもいます。■宗教学の一分野として、宗教政治学や宗教経済学・宗教経営学・宗教心理学など、さまざまな宗教の社会哲学・人文哲学が想起できるからです。■そういった問題をかんがえるなら、宗教社会学など、いわゆるハイフン(連字符)社会学のたぐいが、ほかの融合領域(たとえば宗教政治学)とくらべて特権的であるという認識は、誤解をまねくとおもいます。
■社会学の独自性は、世襲身分社会とはちがった、自己責任原則による自己実現を理念とした(つまりリベラリズムにたつ)近現代社会が、なぜ予想不能な無秩序にならないか、という、秩序モデルだとおもいます(経済学なら、財をめぐる市場周辺しか対象化しない一方、経済史など、近現代以前も対象化する)。■自殺現象なら、個々の自殺を、「アトランダムで個人的な動機による現象」ではないことを官庁統計から推定する。近現代空間において、「各社会の秩序からモレだした微視的現象」の集積として、官庁統計を巨視的構造の産物と推定する。個々の自殺は巨視的構造にしたがっている微視的行動と仮説をたてる。…デュルケーム(『自殺論』)らの視座ですね(近代以前については、官庁統計の不備というデータの欠落という客観性の問題にとどまらず、前近代が世襲身分社会であるという本質ゆえに、比較の対象としてしかみなさい)。■政治学や経済学は、秩序問題を対象にしていますが、近現代に特化した問題設定をする責務をおわないし、政治現象や経済現象以外には、てだししないという点もありますが、社会学は、近現代に特化する反面、理論的には、近現代空間にいきる人間の言動全般にてだしする可能性がある。すくなくとも、類似の現象が複数回くりかえされそうな予感があれば。
■あと、社会学の特質をつけくわえるなら、自己責任原則による自己実現という理念をうたっている近現代社会が、その理念をうらぎりつづけるとい普遍性の確認と、その理由の解明ですね。どうも、リベラリズムが不完全な理念だからではなく、社会自体が、リベラリズムを虚構として利用し、かつそのタテマエに依存しているふしがある。■いいかえれば、社会学は、リベラリズム空間であるはずの近現代社会が、理念を構造的にウラぎるカラクリを解明することだと。


■キリスト教の土着化の問題ですが、欧米社会がひきずっている、クリスマスがらみの風習なんぞは、本来的なイエスのおしえにそむくものばかりですし(潔癖主義のエホバの証人などは、拒絶する)、タロットをはじめとする うらないのたぐいとか、死の商人に依存するクリスチャンというのは、自己矛盾そのものですし、おしえにしたがっているふりをしながら、かってに変形して適当につまみぐいするのは、キリスト教徒の得意技です。■日本列島の神仏習合現象を、ふしぎがる東南アジアの仏教徒たちだって、現世利益ばっかりおうような、およそお釈迦さまのおしえから逸脱した、なまぐさたちのようにみえますし、「土着化」とは、およそ宗教学が確認をくりかえしているだろう、普遍的現象だとおもいます。

ご教示ありがとうございます。

さきに

> 、「土着化」とは、およそ宗教学が確認をくりかえしているだろう、普遍的現象だとおもいます。

という点について。
まったくおっしゃるとおりだとおもいます。ただ、わたしのコメントの意図は、キリスト教であれ何であれ迫害されている場合は人権の観点から支援する意義がある、ということです。たしかに偶像崇拝の禁止というキリスト教の教義は、おそらく世俗の権力や迷信に譲歩しないための、つまり政治的にブレないための指針だったのだろうとおもいますが、その様な意義をもった指針であっても弱者のこころのよりどころ(実をいえば先日のコメントで例示したのは、アイヌ民族の儀式道具であるイナウのことです)をすてさせる様な方向に援用されるのなら、それは弱者の人権侵害になって、むしろナザレのイエスさんの意図に反するだろう、と判断するだけの見識をおおくのキリスト教徒にもってもらいたいものだ、ということです。

> ■諸学のメタ言語として、社会学は特権的なのではないかという質問だと理解しましたが、

わたしの質問の意図はそのとおりです。
そして、それに対するタカマサさんのおこたえのうち、社会学が近代特有の現象をあつかう点で時間的には限定されている反面、「類似の現象が複数回くりかえされそうな予感があれば」「近現代空間にいきる人間の言動全般にてだしする可能性がある」点で多様な分野を研究対象とする、という点が特徴であるというご指摘は理解できたとおもいます。ただ、「■あと、社会学の特質をつけくわえるなら、自己責任原則による自己実現という理念をうたっている近現代社会が、」から「カラクリを解明することだと。」の箇所がいまひとつわかりません。政治的経済的に問題がないはずなのに人間が生物としての効率(捕食・性交渉など)の観点から非効率としかおもえない言動を集団でおこなっている、ということを研究対象としているという意味でしょうか?いや、単純な解釈にすぎるかもしれませんが。

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