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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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横浜港開港150周年キャンペーン考

■旧ブログ記事「赤穂浪士(取捨選択版Wikipedia)」、および日記内過去記事「日本列島の中世史・近代史と現代史をクシざしにする司馬史観」の関連記事。

“横濱開港150周年”というキャンペーンのサイトがある。■本日6月2日が、横浜港開港150周年にあたるとして、横浜市および神奈川県(自治体)など、さまざまな組織(“横浜開港150周年推進協議会”“横浜開港150周年協会”,)が、さわいでいるのだが…。

■ウィキペディア「横浜港」から。

 横浜港(よこはまこう)は、神奈川県横浜市の東京湾岸にある港湾である。港湾管理者は横浜市。港測法上は京浜港横浜区と称する(京浜港は、他に川崎区(川崎港)と東京区(東京港)がある)。1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)開港。金港の別称を持つ。
関税法施行令上の開港で日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつ。スーパー中枢港湾の指定を東京港と共に受けている。また、日本三大貿易港の一つに数えられる。

 横浜港は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に締結された日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)に基づき、安政6年6月2日(1859年7月1日)、武蔵国久良岐郡横浜村(横浜市中区の関内付近)に開港され、生糸貿易の中心港として、また、京浜工業地帯の工業港、東京の外港として大きく発展した。
 当初は、現在の神奈川県庁本庁舎付近(中区日本大通)にあった運上所(税関)の沿岸に、東西二つの波止場が設けられて貿易が始まったが、大正期間にかけ新港埠頭などの港湾施設が整備されたことにより、神戸港とともに東西の国際貿易港として日本の近代化を牽引した。
 第二次世界大戦の際の空襲とその後の連合国軍駐留により大きな打撃を受けたものの、1950年(昭和25年)制定の港湾法に基き、翌1951年には横浜市が港湾管理者となり、戦前の国営港湾から終戦直後の連合国軍接収時代を経て市営港湾化された。1950年に制定された横浜国際港都建設法の下、国際港都・横浜の中心的施設として整備。現在では横浜市の東京湾沿岸ほぼ全域に広がり、10ヶ所の埠頭と249のバース(岸壁)を有する。しかし、周辺の東京港・千葉港などの発展に伴い、その相対地位は徐々に低下している。外貿コンテナ取扱個数は東京港に次ぐ国内第2位であり、東日本を代表するコンテナポート。また、クルーズ客船の発着港としても寄港数で2003年に初めて国内港湾第1位となって以来、その地位を保っている。
 入港船舶数は全国1位(43,400隻、平成17年)、海上出入貨物量は全国2位(1億3328万トン、同)、外国貿易額は全国3位(104億円、同)。



神奈川湊

 横浜港域における歴史は、鎌倉幕府の国際玄関港として繁栄していた六浦湊(現在の横浜市金沢区)の存在にまで遡ることが出来るが、原型は、神奈川湊(かながわみなと)の方にあると考えられている。神奈川湊は、武蔵国橘樹郡神奈川(現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町、青木町付近)にあった。
 神奈川湊は、中世から東京湾内海交通の拠点の一つとされ、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展して行く。記録によれば、室町時代、1392年(明徳3年/元中9年)の段階で東京湾の主要積出港の一つとして機能していたことが明らかになっている。神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領・上杉氏の領地となった。その後、戦国時代には後北条氏の家臣である多米氏が支配し、1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府するとその支配下に入った。1601年(慶長6年)、神奈川湊の湊町は神奈川宿として東海道の宿場となり、以後、江戸幕府の直轄地とされた。
 江戸の発展に伴い、全国各地からの物資輸送と江戸湾(東京湾)内海交通が活発となり、神奈川湊など湾内の各湊でも廻船業(廻船問屋)を営む者が現れた。


黒船来航と横浜開港
 1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航(黒船来航)。翌1854年(嘉永7年)には再度来航し、幕府の態度が表明されるまでの間、六浦湊外周の小柴舳沖(武蔵金沢藩(六浦藩)=横浜市金沢区)に2ヶ月間投錨。厳重な態度の幕府や、乙舳海岸に陣を張り物々しい六浦藩とは裏腹に、民間レベルでは、漁師の獲った魚や艦隊側のビスケットを差し入れし合うなど、いち早くフランクな異文化交流が行われていたと記録されている。その後、幕府は神奈川湊の対岸にある武蔵国久良岐郡横浜村に応接所を設置してペリー一行を上陸させ、協議に臨んだ結果、日米和親条約(神奈川条約)を締結した。その後、1858年(安政5年)には神奈川沖のポーハタン号上で結ばれた日米修好通商条約(安政五カ国条約)により神奈川の開港が定められた。
 幕府は、松代藩士佐久間象山、外国奉行岩瀬忠震らの意見により、東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け、対岸の横浜村に開港場を新設することを決定。対して諸外国の公使は神奈川の開港を求め、神奈川宿周辺に領事館を開いた。しかし、開港後は居留地で取引が活発化して神奈川湊は衰退し、居留地が外国人向けに整備されるなど既成事実が積み重なり、諸外国も横浜開港を受け入れた。
 横浜沖はすぐに水深を増し、南に本牧台地があるため風を防ぐ天然の良港であった。とはいえ当時の横浜村は砂州の上に形成された半農半漁の寒村で、居留地、波止場、神奈川運上所(税関)、神奈川奉行所などを整備し、東海道から横浜村に至る脇往還(よこはま道)が短期間で造成された。これらの事業や初期の町作りを担ったのは、神奈川宿・保土ヶ谷宿や周辺の村々の人たちだった。横浜開港の成功の背景には、神奈川湊及び同宿によって培われた経済的基盤が存在した。下田出身の写真家・下岡蓮杖の浄瑠璃「横浜開港奇談 お楠子別れの段」では、開港の功労者として吉田新田の吉田勘兵衛、保土ヶ谷宿本陣家の軽部清兵衛、石川村名主の石川徳右衛門を挙げている。
 1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)、横浜港は開港し、貿易を開始した。横浜市は6月2日を開港記念日としている。開港に先立ち、幕府は横浜への出店を奨励する御触を出し、江戸の大商人や神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋のほか、全国から一旗揚げようと意気込む商人が集まり、横浜は急速に発展した。

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■ついでに、ウィキペディア「日米修好通商条約」からも。


実際に開港したのは神奈川ではなく横浜(7月1日開港)、兵庫ではなく神戸であった。このことは条約を結んだ各国から批判もされたが、明治新政府になると横浜を神奈川県、神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化した。
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■旧ブログ記事「赤穂浪士(取捨選択版Wikipedia)」でのべたのと おなじように、旧暦での月日を強引にグレゴリオ暦にいれこむという、デタラメをやらかしていると。
■それと、興味ぶかく、しかも おそらく 郷土史などとして 小中学生などに徹底されていないだろうことは、これら開港記念日のマジックだけではなく、神奈川県および兵庫県という、現行の県名の成立経緯だ。


江戸幕府は安政5年(1858年)の日米、日英通商条約(安政五ヶ国条約)で「神奈川」を開港場とすることを約したが、繁華な場所への外国人の雑居により攘夷騒動などのトラブルが起こることを懸念し、出入りの管理が容易で街道筋から離れた対岸の横浜村(現在の神奈川県庁付近)に開港場を開設した。これは条約違反であったが、幕府は横浜は神奈川に含まれると強弁した*(ウィキペディア「神奈川県(幕末~明治時代)」)
 * 佐野真由子「オールコックの江戸」中公新書


兵庫県の名は、現在の神戸市兵庫区に役所が置かれたことに因る。ここにある兵庫港(旧称は大輪田泊、現在の神戸港の一部)が古くから国際貿易港として開港していたためである。また、一説には安政の五か国条約によって兵庫港開港を約束しながら実際の開港地が神戸に変更されたために、諸外国から条約違反とする非難を避けるために「神戸」ではなく「兵庫」を県名に用いて神戸をその管轄区域に含めてお茶を濁したとする説がある。
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■どうみても、兵庫県の方は、「一説」というかたちで過小評価したい編集者がいるとしかおもえない。要するに、幕府の方便(いいのがれ)を、明治政府がひきついで、つじつまをあわせたということだろう。

■いずれにせよ、横浜港なしには現在のような巨大な工業地帯とベッドタウンを形成できなかったことは事実の神奈川県。しかも、県名まで、横浜港成立におっているとは、人口900万人弱のうち、3分の1以上を横浜市がしめてしまうという 重心の かたよりぶり(となりの川崎市とあわせると9分の5)は、


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