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文芸評論家・
音楽評論家・
美術評論家・
野球評論家といった「
評論家」のなかで、比較的わかりやすい例をあげておいたが、実は「
評論家」とよばれる先生方には、ほかにも、
経済評論家・
株式評論家・政治評論家・軍事評論家といったさまざまなものがある。「
評論家が対象とする事物には特に制限があるわけではなく、文学、政治、経済などあらゆる事物が評論の対象になる。そのため、毎年のように新しい肩書きの評論家が登場してくる。」といった見解さえあるほどだ。■では、なぜ前回まで、そういった「先生方」をあげなかったかといえば、経済動向・株価動向・政治動向・軍事動向などは、社会現象ではあっても、表現行為としてくくるのには、ムリがあるからだ。「21世紀初頭の日本経済がしめすパフォーマンス」とか、「日米両軍が合同演習でみせたパフォーマンス」といったことへの論及を「メタ言語」ということは可能だが、このシリーズでとらえようとしている、表現行為への言及(論評)という次元では、あまりに擬人的すぎる。
■いささかこまかくなるが、文学・音楽・美術などは、制作者が着想した あるテーマの表現形(
シニフィエのためのシニフィアン)であり、それ自体が「言語」(
ウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」の実践形式の一種といった次元で)である。だから、これら芸術作品の批評行為は、典型的な「メタ言語」といえるだろう。■みせる
スポーツについての「
スポーツ解説者」等も、「
言語ゲーム(われわれの言葉を機能させ意味を成さしめる規則)」をモジっていうなら、あるスポーツのルールとは「競技者がゲームを機能させプレイを成さしめる規則」であり、それにそったプレイ(実践)への論及は、やはり「メタ言語」にふさわしい。
■このようにみてくると、
文芸評論家・
音楽評論家・
美術評論家といった芸術系の表現物に対する論評と、
野球評論家といった競技についての評論・解説活動に大別してするなどしつつ、その「権威」の基盤を分析する意味があるだろう。 ●ウィキペディア「
評論家の出自」
評論家はフリーランスジャーナリストなどのライターが自称する場合が多い。評論家の多くは、その分野の真の意味での専門家(実行者、プロ)ではない。本当のプロであれば相応の肩書きがあり、「評論家」と名乗る必要がない。以下のようなケースが多い。
・ある分野での真の専門家となることを目指したが、なんらかの事情でなれず、転じてその分野の評論家となって、その分野との関係を保っている者。
・ある分野の真の専門家であったが、現在はその世界の実活動から退いた者。
『評論家になろう』で紹介されている14人の評論家の出自は、出版編集関係6人、テレビ・ラジオ関係5人であり、元々なんらかの形でマスメディアに関わっていた・関わろうとした人間が多い。●ウィキペディア「
スポーツ解説者」
スポーツ解説者(かいせつしゃ)とは、スポーツ中継等でアナウンサーと共に出演して技術・戦術・選手心理等の解説をする人を指す。主にその競技の元一流選手または著名な監督・コーチが解説者になる場合が多く、実績のない人物が登場することはほとんどない。例外的にプロレスの場合は、力道山時代(元選手が皆無であった)以来の慣習で現在でもプロレスマスコミ出身の解説者が存在する。-------------------------------------
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吉田秀和氏など、「音楽評論家」という呼称以外をつかいづらい著名人がいるかぎり、「
本当のプロであれば相応の肩書きがあり、「評論家」と名乗る必要がない」とか「
ある分野での真の専門家となることを目指したが、なんらかの事情でなれず、転じてその分野の評論家となって、その分野との関係を保っている」といった規定が乱暴なことはあきらかだ。■パフォーマンス系だとて、実際のパフォーマンス経験や、指導経験で「実績」をあげていないと、批評がゆるされないというわけでない。プロレスのようなショーにかぎらずね(笑)。
●ウィキペディア「
文学評論家と作家」
文芸評論家が作家に準ずる存在として扱われる場合がある。評論文それ自体が後に " 文学作品 " として扱われることもある。
ほとんどの分野では、(ある段階では言語を活用するものの)、最終的には、なんらかの物質の次元での現実化、実証、あるいは身体を使っての実行というものが重んじられている。 ところが、文学の分野では、生み出されるものが、文字や言葉、あるいは観念ばかりである。つまり、他の分野のようには対象となる作品と評論の境界がはっきりしているわけではないからである。
だが、他の分野で真の専門家と評論家が同等には扱われないように、やはり文芸評論家は作家等とは同等には扱われない場合のほうが多い。-------------------------------------
■「対象言語/記述(メタ)言語」が一見、同一論理階梯にあるのとおなじように、文学的実作と文芸評論とは、それを完全にしきれないようにみえる。いや、区別されている。といった、意味ありげな記述である(笑)。■しかし、かいている本人が議論の水準で混乱をきたしているだけだろう。
■虚構の小説や、虚構でないにしろ詩歌・戯曲など事実に即した散文・論文でない作品と、それを論じた評論活動が、異次元に属し「別種の作品」であることは、あきらかだろう。■それに対して、ノンフィクションのルポルタージュに対する、本格的な質・量をそなえた論評のばあいは、一見「文学作品」同士として論理階梯が同一にみえ、言及行為の水準に連続性があるように感じられるが、これも「対象言語/記述(メタ)言語」という、歴然とした論理階梯のちがいがある。■結論は単純、いずれの両極とも、論理階梯はあきらかに別次元。しかし、広義の文学作品という分類におさまると。
■唯一くむべき論点としては、「
なんらかの物質の次元での現実化、実証、あるいは身体を使っての実行」という次元での「実作者」「実行者」と、それに対する「メタ言語」の関係性の問題か。■しかし、これとて、「実作者」「実行者」が「公表」というかたちで世にとうかぎり、「『あたまごし』での評価行為(しろうとである大衆からさえ)をあまんじてうけるほかない」という、冷厳たる構造からは、のがれられない。■その意味では、大衆的な「市場」に「作品」をはなったかぎりは、「
お客様は神様です」という歌手の名言が、本質をついている〔ちまたで信じられているような意味ではないが〕。
■ちなみに、球史になをのこす もと大投手が、「あの場面での配球は、やっぱり●●よね?」と、女性に私的に論評された経験を、「オンナには、いわれたくない(なにがわかるか)」式のいかりをおぼえたと述懐していたが、「
傍目八目(おかめはちもく)」という可能性も0ではないだろうし、めのこえた男性ファンなら、そういった論評を、好意でもってうけながしたのかは、微妙なところだろう。■実践者が、その瞬間にすべての可能性を予見できたとはおもえないし、傍観者の経験不足がいつも致命的な欠落をなるかどうかも、さだかではなかろう。■問題は、批評がまとをいているかどうか? 批評を表現者が理解し、まえむきにいかせるか? 【つづく】
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