プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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教科内容の選択権2

■前便つづき。
■旧ブログの「高校教諭の専門性6=理念型としての「プロ」 15」など(「高校教諭の専門性」「」「」「」「」ほか)でのべたことだが、大学など以外の初等・中等教育機関で、教員の専門性が教科教育として徹底的に追及/追求されることは、あまりない。■それは、形式的にクラス(ホームルーム)があることはあっても、通常イメージされるクラスメイトがいない、単位制高校静岡県立静岡中央高等学校の公民科の先生、木村正司(きむらまさじ)氏が、「学校の呪術」というシリーズ記事群で指摘するとおり、すくなくとも、県立高校などではそうとおもわれる。■あえて乱暴ないいかたをすれば、県立高校の教員として採用されたければ、激烈ともいえる競争倍率をおして「イスとりゲーム」の勝者にならねばならないが、いったん常勤ポストをえてしまえば、民間企業などがくりかえしている市場原理的なゲームとは ほどとおい時空が維持される。 ■もちろん、専門性としての教科教育の自律を追求する木村先生が皮肉にも描写しつづけてきたとおり、無報酬同然で昇進などにも勘案されない、課外活動ほか膨大な教科教育外の諸業務と、教科教育の教材研究等は、時間がほとんどない。逆説的ないいかたをするなら、木村先生のような例外的な人材以外は、管理職という政治労働でアリバイ的に「ぬるまゆ」につかりつづけるか、教科教育もそれ以外も中途半端におわるか、教科教育以外の諸活動で自己実現することになるか、といった「教科教育のプロ」という理念型から正反対の本質へと遁走していくことになる。
■そして、こういった公立校の教員層の実態を保護者のみならず、学習塾私立学校関係者は、木村先生のような指摘に、いい気になって、「ぬるまゆ状態で、緊張感・意欲がかけている」といった、きめつけをおこなうだろう。■しかし、大学はともかくとして、小中高校の本質的機能は託児施設というべきなのであり、一部の私立校とは、受験予備校的な機能がはたせるよう特化して、それについていけそうな受験生だけえらびだし、ついていけなくなればほうりだすということで維持されているにすぎない。■生徒指導やら、警察で保護された生徒のひきとり業務といった「雑務」などは、学習塾や受験校は になわない。それで、受験予備校的な特化がすすまないのは、たしかに努力不足だろうが、受験予備校的な特化などとは正反対な託児所があってこと、大衆社会の労働力が再生産されていることはいうまでもなかろう。

■しかし、木村先生のように、受験科目にほとんど選択されず、単におもしろそうだからとか、先生との相性がよさそうだからといった、「生徒同士のくちコミ情報による選抜」をくぐりぬけておこなわれる教養教育など、公教育で例外中の例外だろう。■乱暴にいうなら、公教育の教科教育がタテマエ上成立しているようにみえるのは、つぎのような欺瞞・偽装が横行しているからではないのか?
■まず、各校の平均水準などは事実上無視した「到達度を評価した絶対評価である」というテタマエにもとづいた、偽装・欺瞞によるトコロ天式進級・卒業認定が、準義務教育した高校の全国的な「標準」として確立している。■そのうえで①大学受験や専門学校入試でとわれる、いわゆる「受験科目」として、進学希望者にとってさけられない科目群と、■②選択必修もふくめて、卒業単位数や推薦書などの構成要素として成績表に数値として記されるために、単位修得しないと致命的ないしひどく不利になる科目群とが、カリキュラムの大半をしめている。■③したがって、一部の高校をのぞいて、大学のような選択科目の本質が機能していない。
■④中学のばあいは、義務教育としてほとんどすべて「必修科目」なので、高校どころではない、「定食」化と、トコロ天進級・卒業が自明視されている。
■このような状況のなかでは、生徒による主体的選択など、ありえない。■それは、「市場原理」的な競争空間が維持されているようにみえる、受験界・私立学校空間にしても、大差ない。なぜなら、大学受験や公務員試験などを頂点にした「受験科目」「必修科目」などを軸に、「公共事業」的な、準社会主義的なカタにハメられているからだ。■談合をふくめたヤラセ構造や、公共事業を前提にした土建業などが、古典経済学的な意味での競争空間といいはるひとはなかろう。おなじように、日本の受験界を前提にした公教育に、経済学でいうような競争原理は機能しえない。■教科書会社が寡占状態であって、競争原理など一部でしかはたらかないとか、大学人のかく学術書・人文書のたぐいが、印税を必要としない大学人の経済的基盤と大学生協を舞台としたテキスト・参考書類として大半がはける構造に、いわゆる市場原理がはたらいているとはいいがたいのと、おなじように。
■要は、学校空間周辺には、市場原理が徹底することはない。国家資格を前提とした受験体制が、進学にしろ公務員試験にしろ、司法試験などしろ、所詮は準社会主義的な体質しかもたないのだから、そこに内部化された、あるいは外部調達される周辺業界は、非市場原理的空間なのだ。■いいかえれば、生徒のがわには、選択権など ないも同然だ。

■まなぶがわに相当程度選択権があたえられている少数の空間とは、①木村先生がおつとめの単位制高校、②人文社会系の大学の一部ぐらいであり、③主体性が保証されている例外的空間とは、卒業を目的としていない放送大学の科目履修生ぐらいなのではないか?(大学・新聞社などのカルチャーセンターは、「趣味」の世界なので、「お勉強」とは、区別しておく。)
■こういった空間でも、もちろん、教科内容の具体的選択権は、享受者ではなく教授者のがわにある。そして、高等学校や大学という、国家に統制された公教育体系の一部である以上、市場原理がつらぬかれているとはいいがたい。■しかし、それでも、学習者=享受者の意向を無視した編成・目標設定は困難になる。資格試験や進学などといった「出口」対応の不安産業ではなく、市民的素養であるとか、純粋にしりたいという知的好奇心にこたえようといった次元で、「つっかえ棒」の存在のない知的探求にあっては、学習者の意向を意識するほかない。
■ちなみに、皮肉なことだが、内田樹氏らが さかんにもちあげる、教授者がわが、「オレについてこい」式(=「初学者には理解(俯瞰)不能だから、…わけがわからないままはじめるほかない」)の指導原理も、通用しないことも、つけくわえておこう。■以前、この原則は「公教育空間にかぎらず、ほとんどあらゆる教育関係において、援用可能な原理」として紹介しておいたが、それは学習者がわにとって、結果的に合理的な行動原理でしかない。教授者がわが、学習者をひきつけるカリスマ的魅力をそなえないまま、「オレについてこい」式の姿勢をとったとき、うえに指摘したような「つっかえ棒」なしに、学習者のなっとくをえられるはずがない。【つづく】
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コメント

東京幻想

■ハラナ氏がこの「2」「3」で記述されている選択制に関する記述はきわめて重要だ。さらに私なりに整理すれば、きわめて月並みだが、学校は、「受験以外ない」(ハラナ氏が指摘する「不安産業としての受験産業」)ということだ。それは地方へいけばいくほど深刻だ。そして、それゆえに、学校がそのため以外の努力をしていないことも事実だ(そこには、「努力をしない」という側面と「できない」という両方が存在する)。■受験以外の選択などないということは、実質教育の中味に対する選択の自由などない、と現場は考えている。うすうす学校も、自分たちが追いつめられていることを実感している。すると、ますます、受験への評価なきスパイラルが高まって行くことになる。学校の内部では、個々の教員の評価はない。ただ邁進する「やる気」だけを評価する。それは、高度成長時代を支えた「東京幻想」という構造とマインドで学校は動いている、ということだ。とにかく、東京大学、とにかく讀賣巨人軍、・・・。東京の大学、それも一流の「家」へと帰属することが成功である、という物語は少なくとも学校では終わっていない。■したがって、学校には、消費社会は、個別のニーズと差異のたわむれというポストモダン的な発想は微塵もない。この事態をどう解釈するかが私がいま頭を痛めている中心である。(誤解の内容にお願いしたいが、学校の内部ではお互いの競争を極端に忌避している!だから、公務員であることからはずれたら彼らは窒息死である)■日本経済は地方の急激な落ち込みと東京の一人勝ちという現実を示している。産業資本主義からポスト産業資本主義への移行に失敗している、という分析もある。■さて、としたら、この受験以外の選択制がないという現状をどうみたらよいのだろうか。「衰退産業」としての教育が、一度として構造転換せず、さらに、指揮命令権を持つ人間がリストラされずに残存していると考えるのか。そうだとしたら、シナリオは、日本経済の現状通り、新たな差異を生み出せず、中国やインドに凌駕されていく、というシナリオのお先棒を、先頭に立って教育セクションは遂行中ということになる。■それともこの事態を他の解釈でなおやっていけるのか????

一極集中と多極化

木村さま

■おこしくださいまして、ありがとうございます。
■木村さんは「東京一極集中」のメカニズムを分析されていますよね(http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/c96d81d56ff23251c07028a931432d36)。■東京圏による人材の収奪構造は、マルクスらの分析をかりるなら、社会的上昇移動=ブルジョア化というふうにスケッチできるとおもいます。■みずから汗水血をながして財をうみだすことなく財の配分権をにぎり、よりおおくの配分を私的消費にまわす権利をかちとる、イスとりゲームの勝者になるべく、組織・居住地の争奪戦をおこなっていると(http://tactac.blog.drecom.jp/archive/209 http://tactac.blog.drecom.jp/archive/210  http://tactac.blog.drecom.jp/archive/1652)。■すくなくとも、日本列島の戦後史は、巨視的にそう総括できるとおもいます。そういった うねりにのれなかったのは、所詮「負け組」と(笑)。

■しかし、同時に日本列島全体が、世界中から資源・財を収奪しています。■アメリカなど超大国とくらべれば、みおとりしますし、その「おこぼれ」にあずかれない膨大な住民が放置されてはいますが。

■さて、こういった収奪ゲームの動態は、中国大陸沿岸部などの覇権の確立などとともに、どう変動していくでしょう? ■田中宇さんなどは、世界経済・国際政治の多極化を予想していますが…。


■すくなくともいえることは、受験勉強の現状だけをおうかぎり、それは、ほとんどなんの財もうまないデータ集にすぎないという事実。■せいぜい 実生活上やくだつ情報がまぎれこんでいても、みずからの手で財をうみだす 素材にならないという現実。■受験競争ゲームの勝者は、収奪ゲームの勝者にはつながっていても、生産現場からどんどんはなれていく逃避者ということです。
■皮肉ないいかたをすれば、教育や出版業界の住人は、生産現場からどんどんはなれていく逃避者であるという実存をもって、それが偽善であることを次世代につたえる反面教師になりえるということ。■収奪者からの「おこぼれ」にあずかりながら、収奪者を批判するという偽善は自己矛盾の極致でありながら、それでも不可欠の機能をはたしているという現実があること。■受験業界にかかわった実体験をこめて(笑)。

再度

■正確な年月日は失念しましたが、ちょうどバブルへと向かう時期でしたが(1986年くらいでしょうか)、伊東市にある商業高校で勤務していたときに、企業訪問を致しました。日立製作所小田原工場です。それは、当時の勤務校の生徒にとって、まさにエリート中のエリートの就職先だったと思いますね。商業教育ははたして就職現場のニーズに沿っているか、といった職員研修だったと思います。はとバスのようにバスに乗っていきました。で、だれも質問しないので私が、小田原工場の人事部長に質問したわけです。本日はそうした趣旨でまかり越しましたが、実際いかがでしょうか?って。■その工場の人事部長の言は、こうでしたね。教育内容に期待はない、と。はっきりいいましたね。どんなことにも、誠心誠意である生徒を送ってくれ、と。■つまり、現在の教育の危機だの、受験の詰め込みはどうなのか?とか、ま、一応学校の外部では、いわれるわけですが、身にしみた危機感を私たちは社会からも突きつけられていないように思えてならないのです。それをどう考えるか?「選択制?」を促進すべきだ、などという要請は実は社会の中からも存在しないのではないか?大体、受験体制がいけないとか、現在の受験システムが人材の枯渇につながっているなどという認識は経済界やその他の外部から実際あるのだろうか?■内部にいますと、私は、現実の学校はもはや教育をしていない、とみえてならないんですね。考える力だの、自主的にどうたら・・だの、そういう段階では学校はない。私個人は絶望的ですね。こんなことをやっていて、創造性なんてできるわけがない。教師が自分以下になれとルサンチマンで教育しているようにしか見えないわけです。しかし、それが受験という単一的な価値観からなるシステムであったとして、それが行き詰まっていて、選択制を促進し多様を、などという実際的な圧力が外部からホントに学校にあるのか?というと、ま、ないとしか私にはみえないわけです。では、それは、高度成長システムのアンシャンレジームが牢固として存在しているからであり、どんどん沈んでいくというシナリオなのか。しかし、そうだとして、諸外国がそんなにご大層な教育システムのもと教育に邁進しているとも聞かない。そのあたりの相対的な位置づけと、やら、発展段階説的なものでいうと、この選択なき受験システムというものをどう位置づけたらよいのか、私にはわからないのです。私は単純に選択の多様性がない教育に明日はないように見えてしかたがない。忠犬ハチ公は製造できます。比類ないんじゃないか。

補正

上のコメントで、三つ目の■の3行目の「選択制?」の「?」を削除。終わりから4行目の「相対的な位置づけと、やら、・・」の「やら」が削除し忘れです。失礼しました。

企業などの人材意識

木村さま

■訂正等は、パスワードをうちこめばできます。

■企業は、学卒者たちに即戦力をもとめていないと公言してきました。つまりは、学校でさずけられる知識とかトレーニングによる能力など、全然期待してこなかったと。■大学院博士課程修了者がこれほど冷遇されている国家・市場は、ほかになく、事実上 大学と わずかな研究所以外に就職先がないという現実は、必然的な構造でした(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-24)。
■唯一例外として、小生がみみにしたのは、四半世紀ほどまえ、社会貢献として奨学金制度をもうけていた某一流化学メーカーが、奨学生を年に一度面接によんだとき、理科系の大学院生の自己紹介には、重役さんたちが、熱心にメモをとっていたとのこと。文科系の学生・大学院生と、理科系の学生のお勉強など関心がないから、そこへの奨学金は完全な社会貢献。ただし、応用物理・化学系の大学院生の専門となれば、はなしは別と(笑)。■このことは、経済学であろうが経営学であろうが、化学メーカーの おえらいさんたちは、大学の専門などなんら意味をみとめていなかったという証左でしょう。しかし、熱心にメモをとっていた重役さんたちとて、理科系の大学院生の発想からなにかつかもうという意味はあっても、博士課程在籍者を即戦力として採用しようなどとは、かんがえていなかったはず。

■企業のほとんどは、組織への適応性、環境変化への柔軟性などはともかく、学歴競争で相当はかれる「帳尻あわせ能力」「自己コントロール能力」、そして学閥によるコネをかいとりたいのであって、事務能力や企画力自体さえ、新卒者に期待していなかったでしょう。■だから、学校があてがうトレーニングの意味は、せいぜい基礎的常識と問題解決のための姿勢の涵養ぐらいと。その必然的帰結は、「創造性」などはもちろん、「応用力」といった次元での要求さえしないことになると。■以前から指摘されてきたとおり、「従順な心身=組織が自由にインストール可能な素材」がこのまれたのは、ごく当然の構造だったのでしょう。

■ちなみに、アメリカや中国など人口・資源大国がなにをかんがえて教育政策をしているかといえば、人材を育成するのではなく、とびぬけた人材を選抜し資源を集中投下するかたちで、既存の数千人・数万人に匹敵するような人材をプロデュースする。ビル・ゲイツのように、数百万単位の雇用をうみだすような「天才」の出現をまつと。数年あたり、ひとりでもでれば、御の字といった感じで。■国力主義でいけば、これの方が、おそらく効率がいい。新自由主義とは、こういった人材の出現を構造化して、そこにたかろうという発想だとおもいます。格差拡大結構とかいうけど、その本質は、数百万単位の雇用をうみだすような「天才」によって失業対策を講じ、黒子として そこからもたらされる膨大な事業税・所得税をむしりとることで、うまいことやろうというエリートたちのイデオロギーだと。

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