プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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映画「グラン・トリノ」の含意

bananaさんが 推奨していた映画の紹介文を『日経BPオンライン』で発見。■主要部分を転載(リンクは、原文ではアマゾンにつながっているのを、かってにGoogle検索に改変)。


アメリカは変われるか?
映画「グラン・トリノ」が日本人に突きつける問い


竹中 正治プロフィール

……
アメリカの驕り、「絶対悪vs.絶対正義」
 1996年のアメリカSF映画「インデペンデンス・デイ(Independence Day)」は、地球に襲来した異星人の侵略に対して、かつて空軍の戦闘機パイロットだったアメリカ大統領自らが戦闘機に乗り、戦闘機部隊を指揮して戦う物語だ。映画の最後に異星人撃退を果たした日を「ニュー・インデペンデンス・デイ」として祝う。

 この構図は、「絶対悪(地球を侵略する異星人)」に対して人類の自由と独立を防衛する「絶対正義」の戦いである。その先頭に立つのがアメリカであり、アメリカ人による祖国の防衛が、絶対悪から世界人類の自由を取り戻すための戦いと何の疑いもなく同一視される。そういう意味で、「アメリカ帝国のイデオロギー」が、無邪気かつ露骨に横溢した映画だった。

 この映画が発信するイメージは「異星人」を「テロリスト」に置き換えれば、ジョージ・W・ブッシュ大統領が9・11以降のいくつもの演説の中で繰り返したビジョンそのものである。この映画が封切られたのは96年であり、2001年の9・11(米同時多発テロ)の5年前である。9・11テロを受けてブッシュ大統領はテロという「絶対悪」に対する宣戦布告を行った。映画のビジョンは「対テロ戦争」として現実のものになった。

秘められた含意:帝国主義への風刺

 ……この映画との対比で見ると興味深い含意を秘めているのが、2005年にスティーブン・スピルバーグ監督によって映画化された新版「宇宙戦争(War of The Worlds)」である。

 スピルバーグ監督は、異星人襲来という恐怖の臨場感を盛り上げるために、9・11テロをアメリカ人に想起させる様々な仕掛けを映画の中に巧みに設定した。ところがそうした分かりやすい仕掛けのもう一つ奥に、9・11とは対極をなす別のイメージを仕込んだ。

 映画の中で、異星人の超ハイテク兵器が轟音を発し、夜の闇に閃光が走り、市民は逃げ惑い、パニックとなる。それを見ているうちに、「米軍のハイテク兵器の攻撃にさらされたバグダット住民の恐怖も、このようなものだったのではなかろうか…」という直感が強烈に浮かんできた
のだ。

 スピルバーグが9・11テロを想起させて恐怖感覚を煽る仕掛けのもう一つ奥に潜ませた含意が、ここにある。

 原作のH・G・ウェルズ宇宙戦争』は、当時のイギリスによる植民地支配の寓話でもあり、非西欧世界にとっては大英帝国とはこの宇宙人のような存在ではないかという、皮肉で知的な問いが隠されていたという(藤原帰一著『デモクラシーの帝国』、岩波新書、2002年)。

 スピルバーグはウェルズが原作に託した含意を見事に今日のアメリカに当てはめて復元したのだ。しかし、この映画を見てそこまでくみ取れたアメリカ人は決して多くはなかった。


人類から地球を守る?

 2008年に封切られた「地球が静止する日(The Day the Earth Stood Still)」は、やはりオールドSFファンには懐かしい同じタイトルの1951年映画のリメイク版である。オリジナルの1951年版は冷戦と原水爆戦争の危険に対する警告のメッセージが強かった。

 2008年版では、ニューヨークのセントラルパークに宇宙から飛来した球状物体(宇宙船)が着陸する。中から出てきたのは銀河の超高度諸文明からの使者クラートゥと巨大ロボットである。

 使者クラートゥとの会話で、米国の国防長官が「our planet」と言うと、クラートゥは不思議そうに首をかしげて言う「your planet?」。またヒロイン役のヘレン・ベンソン博士(ジェニファー・コネリー)が「あなたは人類の友人なのか、それとも敵なのか?」と問うと、「私は地球を救いに来たのだ」と答える。

 ところがその意味するところは、地球という惑星にとって破壊的な存在と化した人類から惑星地球と人類以外の生物種を救済することが彼のミッションであることがやがて明らかになる。そして人類滅亡プログラムが作動を始める。

 物語はもはや秘められた含意としてではなく、アメリカを舞台に、より直接に人類の存在のあり方の是非を問うわけである。「地球を侵略する異星人=絶対悪」という構図は180度逆転し、人類は裁かれる立場に置かれる。映画の中でクラートゥに対して、ヘレンがまだ人類には望みがあると弁護して口にする「We can change」というセリフが、バラク・オバマ大統領の選挙期間中のフレーズそのままだ。……


昔「荒野の用心棒」、今「グラン・トリノ」

 そして今年(アメリカでの封切りは昨年暮れ)登場したのがクリント・イーストウッド監督・主演の「グラン・トリノ」だ。今のアメリカが抱える諸問題、戦争の傷、民族間の偏見と対立、父と子・世代間の断絶、宗教のあり方、自動車産業の凋落まで、様々な諸相がこの映画では「イーストウッドの映画人生」という大鍋で煮込まれてシチューになったような味わいがある。少し粗筋を紹介する…

 主人公のウォルトはポーランド系の白人アメリカ人だ。1950年代初頭の朝鮮戦争に出兵し、部隊のほとんどが戦死するような激戦を戦い抜き、勲章をもらった。戦後は自動車メーカー、フォードの工場で組立工として定年まで働いた。フォードの1972年製グラン・トリノを愛し、今でもピカピカに磨き上げ、愛車にしている。引退し、デトロイトの郊外の住宅地ハイランドパークに住んでいるが、長年連れ添った妻が亡くなった。
 ウォルトは、日本でも絶滅危惧種になっているような超頑固じじいだ。祖母の葬儀で教会にへそ出しルックでやってきた(しかもへそにピアスまでしている!)孫娘にブチ切れそうになり、2人の息子とその家族との関係もうまくいかない。長男がトヨタのカーディーラーをやっていることも我慢ならない。

 このじいさん、人にはうるさいくせに、自分は“ファッキング・イングリッシュ”で民族差別用語をスプリンクラーのように撒き散らす。癇癪を起こすと口をへの字に曲げてまず「ウ~」と犬のように唸り出す。むかつくと人前でもペッと唾を吐く。映画好きならご存じだろうが、マカロニ・ウエスタンの主演時代から、唾吐きはイーストウッドのトレードマークだった。

 妻に先立たれ、独りになったウォルトの家の隣にはインドシナの山岳民族モン族の兄弟、姉のスーと弟のタオ、母、祖母が住んでいる。モン族はベトナム戦争時代に米国の工作で共産主義勢力を敵に回して戦うことになり、米国の撤収後、祖国を追われ、難民化して米国に移住した。ウォルトは自分の街から白人が減り、アジア人やらラティーノ(中南米からの移民とその子孫)などばかり増えるのが気に入らない。

 これはまさに米国の人口動態を象徴している。米国勢調査局(Census Bureau)の人口データのトレンドを未来に延長すると、米国は2050年前後までには白人が総人口の50%を割り、マイノリティー(黒人、ラティーノ、アジア人など)が50%を超えるという逆転が起こる。

 このままでは米国は文化的アイデンティティーの危機に直面すると訴えたのが、例えば保守派の学者
サミュエル・P・ハンチントンである(『分断されるアメリカ(Who are we?)』、集英社2004年)。ちなみに、イーストウッドの政治的な立場はアメリカで左派を代表するリベラルではない。彼は1951年以来、共和党員として登録し、共和党の大統領候補の応援をしたこともあり、リバタリアン(徹底的に個人主義、自由主義的を標榜する保守)を自認してきた。

 頑固じじいウォルトはタオとスーに関わり始めることで、次第に心を開き、変わり始める。味わい深い物語というのは、多義的な含意を放つもので、この映画についても見る者の立場次第で様々に異なった受け止め方があり得るだろう。私がこの映画から受けたハイライト的なメッセージについて語らせていただこう。


死から生へ

 映画の中でウォルトが心の奥に抱える重い罪の意識が次第に明らかになる。彼は朝鮮戦争で多くの敵兵を殺した。その1人はまだ少年でほとんど降伏しかけていた状態だったが、彼は撃ち殺してしまった。その罪の意識が彼を生涯苦しめる。
……
 タオは従兄弟とその仲間のギャングどもから執拗に絡まれ、彼らを拒んだことから虐待される。既にタオの父親気分になっていたウォルトはギャングの1人をぶちのめして銃を突きつけて脅す。「今度タオに手を出したら、ただじゃ済まないぞ」。
 ところがギャングどもは逆恨みして、タオの家に銃弾を撃ち込み、外出していたスーを暴行、レイプしてしまう。

 暴行され、ボロボロになって家に戻ったスーの姿を見て、ウォルトは自分の暴力的な脅しがとんでもない報復を招いたことに衝撃を受ける。警察は調査するが、住民は報復を恐れてか口を閉ざし、犯人を特定することもできない。

 「ギャング」を「テロリスト」に置き換えれば、イーストウッドのメーセージは明白だ。相手がいかに非道であっても暴力による脅しは報復の連鎖を生むだけだ。ウォルトは痛恨とともにそう悟った。ではどうしたらいいのか──。

 この後、ウォルトの選択は意外な結末へと展開する。……

 映画の結びのメッセージは「死から生」である。捨ててこそ救って残せるものがある。福音書に描かれたイエスの受難物語はイエスの死でクライマックスに達するが、そのメッセージは救済と再生だった。ウォルトとギャングとの対決シーンは、マカロニ・ウエスタン映画の対決シーンを想起させる。しかし、それは意外な展開を経て福音書のイメージで終わる。


>過去の何を捨て、未来に何を託すか

 結末を言えないのがもどかしいが、ウォルトが自分の心の深い傷、罪の意識を償い、誇りを回復したことは確かだ。同時に彼は過去の何かを捨て、未来に向けて何かを救い、何かを託したのだ。

 何を?

 ウォルトが投げ捨てたものは「力による恫喝」と「民族的な偏見」だと言えるだろう。振り返ってみれば自分の父母、あるいは祖父母も移民としてこの国に渡って来たのだ。街の床屋の「イタ公」も、建設現場監督の「アイリッシュ野郎」もそうだ。

 彼は自分の人生を歩き始めたばかりのスーとタオにこの国アメリカで生きる勇気と希望を与えた。

 「この国(アメリカ)は世界中からやって来た移民とその子孫に、ハードワークと独立心を代償に、自由と繁栄を与える土地だ。これまでもそうだった。そしてこれからも」

 そういうセリフは映画の中では一切出てこないが、これは多くの現代アメリカ人の琴線に触れる信条
だ。

 それを言わずに感じさせるところが、この映画の出来栄えの素晴らしさだろう。ウォルトは自分とその祖先が継承してきたこのスピリッツをタオとスーの世代に託したのだ。タオもスーも決して人生に挫けることのないタフなアメリカ人に育つだろう。

 ひるがえって、私たち日本人は未来に向けて、何を捨て、何を救うべきなのだろうか。

 戦後の日本は旧い国であると同時に若い国だった。戦争で多くを失い、都市は焼け野原になったので、すべてを一から建設するしかなかった若い国だった。そこに戦後日本の成長のダイナミズムもあったのだ。人口も経済も成熟、老熟した今、成長するためには私たちもこれまでこだわってきた何かを投げ捨て、不確実な未来を信じて何かを託す必要がある。……

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■いや、この民間エコノミストの評するように、アメリカ人の主流部=多数派が、イーストウッド延ずる がんこじじいのように改心してくれたのなら、とても よろこばしい。そして、それは、この日本列島上の住民も「他山の石」として、まなぶところが おおきいだろう。この列島に ながれきた時代のことを、とうのむかしにわすれさってしまい、後続の「移民」を、ながれものとして、散々排除してきた この列島のムラびとたちにとって、それが どの程度 理解できるものなのか? 北海道民とか、ごく一部しか ぴんとこないのではないか?(ぴんときた層でも、たとえばアイヌ民族との関係性を深刻に再検討できるのか?)…等々、疑念はどんどんわいてくるけれども。
■なかでも 疑問におもわれるのは、ガンとして 戦争責任・植民地支配の問題を みとめようとしない。あるいは、まなぶ必要性を感じていない わかものたち世代の問題。■被爆の問題や、東京大空襲など、無差別都市爆撃に対するナショナリスティックな感情でもって、日米関係史に関心をもつのはいいとして、先行世代が 東北アジア・東南アジア・南洋群島などに くりかえした蛮行や傲慢のかずかずには、視線がむかない バランスの欠落。

■皮肉ないいかたをすれば、スピルバーグ監督がこめた寓意にアメリカ人の大半がきづかなかったような構図とおなじことは、この映画をみても、「過去の移民と現代の移民の集合体としての現代社会」という、普遍的構図を、日本人の大半は、よみとれない。■この エコノミストに、こんなふうに「タネあかし」してもらって はじめて 構図に きづくような知的構造こそ、日米両国の多数派市民の平均的な実態が端的に象徴されているといえそうだ。

■それと、 「この国(アメリカ)は世界中からやって来た移民とその子孫に、ハードワークと独立心を代償に、自由と繁栄を与える土地だ。これまでもそうだった。そしてこれからも」という、評者のまとめは、おそらく 「アメリカン・ドリーム」の最新版というか、もっとも洗練されたもので、オバマ大統領などが象徴するイデオロギーだろう。■そういった希望は、実に魅力的だ。これからも、あの大陸は、亡命者たち、出郷者たちの 「メッカ」でありつづけるだろう。■しかし、あの めもくらむような 巨大な経済格差、理想をかたる合理主義・自由主義が もたらすはずの結論とは正反対の巨大な不正が くりかえされるのは、どうだ? それらすべて、「理想と現実には多少のズレがある」といった 合理化が可能か? ■巨万のとみをえたあと、莫大な寄付をおこなう、ビル・ゲイツ氏のような 存在が すばらしいとして、かれらの成功の背後で くりかえされた、集金作業は、ほめられたものばかりだっただろうか? 単に、ビジネスが成長し成熟し廃棄されていくという展開・変転の一例にすぎないのだろうか?
■「タオもスーも決して人生に挫けることのないタフなアメリカ人に育つだろう」という楽観は、希望をかたる映画のおわりかたとして、さけられない かたちだっただろう。■しかし、そんな「アメリカン・ドリーム」が つねに再生・再現されてきたのなら、ゲットー/スラム/ホームレス/「モグラびと」/プアーホワイトなどの存在、大量殺人/レイプ/強盗など凶悪犯罪や薬物依存症のリスク……等々の現象が、あんなに のこっているだろうか?■いやいや、「9・11テロ」のような「アメリカ帝国への報復」(チャルマーズ ジョンソン, Chalmers Johnson)といった、おぞましい事件がおきていただろうか?

■もちろん、評者は、「9・11テロやイラク戦争などの反省をへて、こういった映画がさししめす知的水準にアメリカ人主流部がようやくたどりついたのだ」「それを はかずも象徴しているのが、リバタリアンを自称してきた クリント・イーストウッド本人にほかならない」と、いいたいのだろう。■いや、そういった楽観は否定したくない。そういった希望は、われわれを まえむきに 元気にしてくれるからね。
■しかし、『日本がアメリカを赦す日』(岸田秀,文春文庫)、および その出発点といえるだろう“アメリカを精神分析する”(岸田 1977)などが提起してきた 先住民族虐殺という トラウマがもたらしつづける反復神経症的暴力という問題は、全然解消されるようにみえないのだ。■みんなが ないて すっきりし、そして元気になっていく 「おはなし」としては、イーストウッドの ねらいは よくわかる(そして、そういった「希望」をいだいたまま かれは、めされていきたいだろう)。しかし、「希望」と「現実」「実態」には、ズレがある。かれが こういった「希望」のストーリーを最晩年につくったということは、「9・11テロ」以降の現実の直視をへて なお、「先住民族虐殺」という 致命的な建国秘史を のりこえられずにいる、ということの証左ではないか?
■その意味では、この映画の誕生と影響に「期待」はしたいが、「希望」はすてない程度といったところか…。


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タグ : ナショナリズム アメリカン・ドリーム 多文化共生 岸田秀

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