プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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メタ言語論(素描力・批評力・反撃力3)

■初回で「素描/批評」のちがいは、記述の粗密ではなく評価行為(位置づけ)の有無であること、「記述対象を記述が完璧にうつしとることは原理的にありえないのだから」「メタ言語は、それがどんなに精密な作業であろうと、「素描」にあたる」ことを指摘しておいたが、実態としての記述の粗密は、評価を目的とする「批評」よりも、記述だけを主眼とする「素描」の方が精密になりがちだろう。■前回のべたような、「品評会」「選抜試験」等の序列化のように、公開される「批評」の記述水準は、順位や合否など、実にそっけないものにとどまることがすくなくない。
■皮肉ないいかたをするなら、質・量いずれの面でも、平均値・中央値・最頻値のいずれの点でも、「素描」群>>「批評」群かもしれない(笑)。禁欲的な「素描」群は、しばしば「放言」にすぎない「批評」群に、社会的影響力においておとることが、ままある。いや、それが大半かもしれない。■しばしば、詳細かつ精確な記述にもかかわらず、みずからの不充分さをきびしくせめる「記述」群が、かなり安易で無責任な放言にすぎない「批評」群よりも、かるくあつかわれる(すくなくとも、大衆的な影響度としては、あきらかにちいさい)というのは、なんとも あとあじがわるいといえる。■この皮肉な構図を理解するためには、「素描」「記述」双方の表現者・消費者を解析する必要がある。              
■乱暴にまとめるなら、大衆はおのれの選択眼に自信がもてないがゆえに、他者による評価(判定結果)を権威主義的にありがたがるのである。■前回あげた、文芸評論家音楽評論家美術評論家野球評論家といった「評論家」等として総括される生業・肩書きが、制度化(権威化)しえたのは、大衆的な読者・視聴者層が、生業・権威たる市場をかたちづくってきたことの証拠だろう。■どの小説・楽曲・美術作品等が鑑賞にあたいするのか? いまさっき確認したはずのプレイの含意はどこにあるのか? そういった 「はやわかり」を大衆はのぞむのだ。自分たちにはそなわっていない鑑識眼(見識)があるはずだと、特定の論者に権威主義的な期待をかける。自分のこのみにあう表現物の鑑賞・消費をすればよいのに、自信のなさ、時間・労力など精力の消費をおこたる意欲のなさなどが、「批評」行為の市場を形成するのだ。■ときには、俗うけを意識的にねらった、俗論こそ「ベストセラー」として、ある時代、ないし後世の支配的な見解をつくりかねない。たとえば、「戦後、『風俗小説論』(1950)で日本の私小説を厳しく批判し、島崎藤村の『破戒』のような本格小説が出たのに、田山花袋の『蒲団』のようなものが出て日本の小説がダメになったという中村テーゼは、今なお影響力がある。作家に対する全否定的評論をよくし、志賀や谷崎をこれだけ批判して文壇から葬り去られないのは、現代では考えられないことである」と評される中村光夫御大のケースみたいにね〔同様の論点は、石原千秋百年前の私たち』講談社現代新書,2007年,pp.112-3〕。

■一方、「素描」のがわは、古典文献の校注とか、辞典・事典類の禁欲的な記述群などとして、かなり少数のマニアックな利用者にとっての便益しかもたらさない。■アカデミックな記述的研究書のたぐいなど、数百部、おおくて数千部なのだから、量的には全然勝負にならない。
■詳細な「素描」系が、アカデミズムに長期的に甚大な影響をおよぼすことは、マックス・ウェーバー御大の例でもあきらかだが、お調子もので、政治主義的なカール・マルクスの方が世界史的に甚大な影響をあたえたことをみれば、これらの対比は無意味でないだろう。■「資本主義」とか「近代社会」って テキストを 地味、かつ重厚にかこうとしたウェーバーと、社会科学者としての のりをこえて、政治的な含意をもりこんでしまったマルクスとでは、社会全体への影響力がケタはずれのちがいがあった。ましてや、ウェーバー以上に評価を禁欲したアカデミックな記述と、マルクス以上に無責任に評価をタレながした商品と、その影響力の大小は、はじめから わかりきっていた。■そして、こういった みもふたもない無慈悲な構造があるなか、高名な評論家に激賞されたならまだしも、無視されたり、ケチョンケチョンにけなされたら、表現者の市場的な運命はきまったようなものだった。
■そして、岩波書店などの、アカデミックなしにせ出版社と目されるところでさえも、こういった市場原理とは無縁ではいられないからこそ、漱石の権威化とか、『広辞苑』の あられもない宣伝(有名人を多用した)をおこなったりしたわけだ。【つづく】


●ウィキペディア「石原千秋
●「国語教科書の思想
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