プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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「わかりにくさ」を伝えること(内田健)

■日本経済評論社という出版社の『評論』という冊子(本にはさまっているヤツ)のNo.128(2001.12)の1ページめにある社会学者のエッセイの冒頭部分を転載。

 かつて社会学者井上俊は、「解説」と「評論(批評)」という二種類の言語行為を対比させ、つぎのように語った、「解説」がある現象に意味づけを与え、それになじみの薄い人びとにもわかるように説明することであるのに対し、「批評」とは人びとの間に常識として浸透している意味づけを打破する行為なのだと。社会学(および社会科学一般の)教育は、井上のいう「解釈」と「批評(ないし批判)」とを一時に果たそうとする困難な営みだといえるかもしれない。
 社会学は、広く普及している常識に亀裂を生じさせ、人びとにとって「既知」とみなされている現象のもつ「未知」の相貌を浮上させようとする、すぐれて「批評」的な営みである。つまり社会学が伝えようとするのは、「あなた方は○○についてわかったつもりになっているが、事態は意想外に複雑で、きちんと理解することはたやすくはないのですよ。あなた方の手持ちの知識は、よくて事の実相の反面しか捕捉していないし、悪くすると実相を歪め、あるいは覆い隠すように働いているかもしれませんよ」というメッセージなのである。……

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■大先生らしい井上俊先生やら、紹介している内田先生やらの まとめは、ハズしているとおもう。■すくなくとも、社会学は「解説」を主眼にしていない。「ある現象に意味づけを与え、それになじみの薄い人びとにもわかるように説明すること」≒「解説」≒「紹介+注解」は、おもにジャーナリズム・初等中等教育がおこなう作業であり、大学以上でしか 事実上であえない 社会学の「本務」ではない。
■社会学は、本質的に、自明性の解体行為(「、広く普及している常識に亀裂を生じさせ、人びとにとって「既知」とみなされている現象のもつ「未知」の相貌を浮上させようとする」行為)なのであり、「なじみの薄い人びとにもわかるように説明する」ような作業が必要な層にほどこされている教育行為は、絶対に「社会学」ではない(笑)。それは、教養教育というべきだ。

■このようにかんがえるなら、「社会学(および社会科学一般の)教育」の困難さは、「解釈」と「批評(ないし批判)」とを一時に実践することにはない。■もし、社会学教員などの層の一部が、そういった点で困難を感じているとすれば、自明性を解体するための社会学など社会科学の前提となる基礎知識が、学生にかけていること、あるいは、学生相互の基礎知識のバラつきがあまりに おおきいために、「自明性」をゆさぶる うんぬんといった実践に、ついてこられない層をかかえこんでいること、ないしは、教員が、いわゆる「自明性」とおもいこんでいた現象が、学生世代(集団)には、全然「自明」でなどない、といった、世代間・属性間格差に きづくのが おくれたばあいだろう。
■いや、社会学にかかわらず、大衆化した大学における社会科学教育は、総じて、こういった「自明性」を前提にできない、という現実に直面しているのかもしれない。■しかし、かりに大学教育の実態がそういった現実として教員のまえにあるのが一般的であろうと、社会学が「解釈」と「批評」を同時的にすすめるものであるとか、だからこそ、教育実践が困難であるとか、そういった問題ではないとおもう。■また、かりに、「自明性」(≒世間の大衆的な「合意点」)自体を前提にできない、「大衆化」状況(「非常識」だの「無教養」だの「学力低下」だのと、よばれたきた現象)が普遍的だとして、それにもかかわらず、「自明性の解体」を教授しようというのは、はじめから ムリなはなしというべきだろう。■もし、その「ムリ」を おして社会学教育をおこないたいのなら、「世間の常識」という、社会的事実fait sociale遵ッmile Durkheim)についての周知徹底=教養教育を講じたうえで、第二弾として、社会学教育がほどこされるべきなのだ。

■「批評」≒「半可通批判」とは、微視的には対個人的な「はやがてんするな」という いましめ(教師→学生)であり、巨視的には「大衆的常識」への挑戦・変革を宣言する行為(研究者→所属社会)を意味する。■してみると、「大衆的常識」に「洗脳」されること、ないしは、適応することが自明視される層に対しては、それ自体を指摘し自覚させる教養教育が必要とされるが、「大衆的常識」に「洗脳」されることが「自明」ではない世代がうまれているとか、社会学をはじめとする「自明性の解体」行為の実践者として後続世代を位置づけるのなら、「旧来≒旧世代の大衆A」と「将来≒新世代の大衆B」とを 明確に区別し、「旧来の大衆的常識」と、その自明性の解体メカニズムとを提示することになるだろう。■となれば、「わかりにくさ」を わからせる行為とは、世代によって、そして属性ごとの「常識」のありようで、千差万別とまではいかないにしても、多様な対応が必要だろう。もとより、社会学者は、属性ごとの 知覚・認識・信念のバラつきぐあいを類型化することを「本務」のひとつとしてきたのだから、「将来≒新世代の大衆B」内部の 微細でも無視できない差異に柔軟に対応する教育的配慮がもとめられるだろう。■してみると、社会学者は、よき教員かどうかで、社会学感覚の感度(感性)の敏感さがとわれてしまうということにもなりそうだ。■「自明性は集団ごとにことなる」という普遍的原理をもとに立論している社会学者は、当然、教育対象とする学生についても、内部分化を敏感にかぎとって対応する責務がともなうのである。
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