プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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被害者意識によってフェミニズム思潮を「誤読」し、差別を合理化しようとする精神の貧困【追記あり】

■しょっちゅう おせわになる、本川 裕 (ほんかわゆたか)氏の、『社会実情データ図録』の だいぶ以前の記事(図表の キレた みぎ半分は、クリックして復元)。

世界各国の男女別自殺率

 男女計の自殺率の国際比較、あるいは自殺率の高低の要因については、図録2770でふれたが、ここでは男女別の状況について概観する。

 図には、x軸方向に男性、Y軸方向に女性の値をプロットした。男女同一線より左では女性が男性を上回り、右では男性が女性を上回っていることを示している。

 ほとんどの国で男性が女性を上回っており、特に、自殺率の高い旧ソ連諸国では大幅に男性の自殺率が女性を上回っていることが目立っている。

 世界の中で女性の自殺率が男性より高い唯一ともいえる国は中国である。この他、女性が男性と比べてそう低くない国としては、インド、あるいはシンガポールといった国が挙げられる。

 平均寿命の男女格差を掲げた図録1670では、男女を比べて、男性の自殺率が高い旧ソ連諸国では男性の平均寿命が短く、逆に女性の自殺率が相対的に高い中国、インドでは、平均寿命も相対的に女性が短いという事実があることが示されている。

 自殺率水準の高い方からスリランカ、日本、ベルギー、フランス、ドイツといった国は、図中でほぼ同一直線上に並んでおり、自殺率の男女比ではほぼ共通であり、男女比そのものは平均的な姿を示していると言える。

 日本は男女計のランキングでは世界第10位(下表参照)であるが、男性は第11位、女性は第3位である。この順位だけ見ると女性の自殺率が日本の場合特に高いとも見えるが、これは男性の自殺率が特段に高い旧ソ連諸国は女性については男性ほどほど水準が高くないためである。日本は男性も、女性も同様に自殺率が高いのであり、女性だけが特に高いわけではない。

 以下に、男女計の自殺率の高い順に国別の男女計、男、女の自殺率と男女別の世界順位を示した。【表は割愛】

-----------------------------------------
■これを「根拠」にしたと称するブログ記事がある。■数量統計を「根拠」とすることで、客観的で冷静な分析ができていると カンちがいしている「こまったさん」の典型例といえそうだ。


男女の自殺率格差とジェンダー:女性が周縁・他者になる理由”(『思想館』)

男女共同参画社会基本法

(男女の人権の尊重)
第三条 男女共同参画社会の形成は、男女の個人としての尊厳が重んぜられること、男女が性別による差別的取扱いを受けないこと、男女が個人として能力を発揮する機会が確保されることその他の男女の人権が尊重されることを旨として、行われなければならない。


------------------------------------

図録▽世界各国の男女別自殺率を見ると、2004年の日本男性の自殺率は日本女性よりも約3倍くらいも多い。男女の自殺率格差は人命問題だ。人権で最重要の項目である人命問題であるにも関わらずに、ジェンダー論で真剣に論じられることがない。

加藤秀一『ジェンダー入門―知らないと恥ずかしい』(朝日新聞社)131-132頁

中高年男性の自殺という悲劇は、「男も差別されている」からではなく、男たちが男性役割に呪縛され、苦しみながらも、悲鳴を上げることさえできないというところから―それが原因のすべてではないにせよ―生じてくるのです(他人に悩みを打ち明けることが苦手であるというのも、よく知られた「男性役割」の一側面です)。



このように、ジェンダー論では男性の自殺率と男らしさを結びつけることがよく行われている。だが、男らしさの規範が弱まった現在のほうが男性の自殺率は高くなっているし、男女の自殺率格差が拡大している。

WHOのCountry reports and charts availableのWestern Pacific RegionにJapanのpdfがある。そのpdfには、Suicide rates (per 100,000), by gender, Japan, 1950-2004.とSuicide rates (per 100,000), by gender and age, Japan, 2004とNumber of suicides by age group and gender. JAPAN, 2004がある。

つまり、次の3つがpdfにある。

1950年から2004年までの日本の10万人当たりの男女別自殺率
2004年の日本の性別と年齢の10万人当たりの自殺率
2004年の日本の年齢層と性別の自殺数
1950年から2004年までの日本の10万人当たりの男女別自殺率(自殺対策白書のPDFにもっと詳しく載っています)。

男女の自殺率格差推移
年代  男性 女性  男女格差
1950年 24.0 15.3  約1.57倍
1955年 31.5 19.0  約1.66倍
1960年 25.1 18.1  約1.39倍
1965年 17.3 12.2  約1.42倍
1970年 17.2 13.2  約1.3倍
1975年 21.4 14.6  約1.46倍
1980年 22.2 13.1  約1.69倍
1985年 26.0 13.1  約1.98倍
1990年 20.4 12.4  約1.64倍
1995年 23.4 11.3  約2.07倍
2000年 35.2 13.4  約2.63倍
2004年 35.6 12.8  約2.78倍

現在になるほど男性の自殺率は高くなっている。男らしさの規範が弱まったのに高くなっている。このことから、男性が男らしさの鎧を取れば自殺率が低くなるとは言えない。

男女自殺率の格差も現在になるほど拡大していることが分かる。このことから、男性が男らしさの鎧を取ると男女の自殺率格差が縮小するとも言えない。

ジェンダー論や女性学や男性学で、男性の自殺率や男女の自殺率格差問題を、男らしさと結びつけるのはなぜだろうか。統計を見れば、男らしさよりも他に主原因があると読み取れるのに男らしさと言い続けている。ここに、ジェンダー論、女性学、男性学の胡散臭さがはっきりと見て取れる。

女性の政治家が増えたほうが男性の人命問題が考えられるようになるとか、女性が責任ある立場になった社会のほうが男女ともに幸せな社会になるなどという言説はなんだろうか。

男女共同参画予算には「生涯を通じた女性の健康支援」が設けられている。だが、男性の人命問題のための予算は全くない。平均寿命も男性のほうが7年くらい短く、男女の自殺率格差は男性のほうが3倍くらい多い現状であるのに、女性の健康支援の予算があるだけだ。

男女共同参画がこのようなことをするのは、男女共同参画を推進すれば男女の自殺率格差は縮小するという思想があるからではないのか。男女共同参画を推進し「男は仕事/女は家庭」ではなく、女性も社会に出て責任ある立場に立つ人が増えれば、男性の負担が減るから、男性の人命問題は解決されると思っているのではないのか。

男女共同参画を推進し、男らしさの負担を減らせば解決すると思っているのではないのか。男性の人命問題の予算を付けないのは「男女共同参画を推進すれば解決する問題だから」という妄想があるのだろう。

だが、統計上は女性の社会進出が進み、社会で責任ある立場に就く女性が増えた現代のほうが、自殺率の男女差は拡大している。男らしさはおかしいと散々言われている現代のほうが、自殺率の男女差が開いているのだ。

責任ある立場に就く女性が増えても、男性の人命問題は一向に無視されたままだ。男社会の傾向が強かった時代のほうが格差は縮小し、男性の自殺率も低かった。男女共同参画を推進すれば、男女の自殺率格差は縮小するという根拠はない。その根拠がない以上、現在の男女共同参画予算が女性の健康支援だけであることを正当化できない。

人権で最重要項目である人命問題でさえも予算を全く付けないのは、男女共同参画局が「男がいくら死のうが知ったことではない」と言っているのと同じだ。予算額の制限があるのならば、人命問題であることを考えて、女性用の予算を減らしてそれを使えばいいことだ。

男女の自殺率格差が3倍くらいあることを無視し続けるのは何を意味するのか。「男は命をかけてでも、か弱い女を守る」ことを肯定するものだ。「男は仕事/女は家庭」「女は家事・育児をする特性がある」「女には母性があるのが当然」などのことと男女の自殺率格差を肯定することはつながる。

男女の自殺率格差が3倍くらいあっても男性の命のことを考えないのは、男が社会に出て荒波と戦う性だからであり、女は家にいて命を守られる性であり、そんな女は母性があるのは当然となる。

3倍くらいあるのに放っておけというのは、男は戦う性で女は守られる性だからだ。戦う性は主体的に行動し歴史をつくる。守られる性は周縁化され、他者になる。

若桑みどり『戦争とジェンダー』(大月書店)78頁にあるように「ジェンダー分業の究極のありかたは、『女は生命、男は戦争』」である。男女の自殺率格差を放置し続けることは、その「女は生命、男は戦争」を肯定し続けることだ。生命の存在である女は人命が重視され、戦う性である男は人命が軽視される。

男は戦う性だから命が擦り切れるのであって、女は戦わないで守られる性だから命を重視される。男女の自殺率格差が3倍くらいあっても男性の人命問題を無視し続けている現状では、女を周縁に追いやって、女が他者になるのは当たり前だ。

女の他者性を問題視しているフェミニストたちが、その他者性を本当につくりあげている男女の自殺率格差を問題にしないといけない。フェミニストたちは男らしさが問題と言うだけで、男女共同参画予算に男性の人命問題の予算がないのを問題視しない。

男女の自殺率格差が3倍くらいあるのを肯定し続ける限り、女は周縁の存在であり、女は他者であり続ける。

2007年12月掲載

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“フィンランドの男女の自殺率格差問題”といった記事を意識的にかいているように、他地域との「比較対照」をここみているのは、自分たちの立論が客観的であり、普遍的な射程をもちえていると主張したいからだろう。■しかし、かれら(かれ)は、“ジェンダーフリーは多様性を尊重しない”という信念(ハラナには、信仰にしかみえないが)を「立証」するために、そして主観的には、“「男社会」に回収して無痛化を図る対抗言説のために”がんばっているらしいのだが、いろいろデータを つまみぐいしているだけにおもわれる。
■以下、ハラナがきづいた(≒かれ(ら)が おそらく無自覚な)論理展開上の致命的欠落を指摘していく。


(1)■「統計上は女性の社会進出が進み、社会で責任ある立場に就く女性が増えた現代のほうが、自殺率の男女差は拡大している。男らしさはおかしいと散々言われている現代のほうが、自殺率の男女差が開いている」などと、断言しているが、実にあやしい。たとえば、1955年には、31.5と、2000年以降と大差ない。これを例外だというのだろうか? そう解釈することは可能だが、2000年以降の高率は、よくいわれる、深刻な構造不況(1990年代後半以降つづく)による「例外」ということができる。例の、年間3万人レベルの「高位安定」が定着してしまった日本列島は、満遍なく自殺者をふやしたのではなく、30~50代男性からおおくの自殺者をうみだすようになったからだった。■あたかも、女性の社会進出やフェミニズム系の思潮(たとえば「男女共同参画」等々)のせいで、男性がおいつめられているかのような印象をもっているなら、それは幻想であり、それを自覚しているなら、悪質なデマゴーグ・イデオローグというしかない。

(2)■「男女の自殺率格差が3倍くらいあることを無視し続ける」などと、戦闘的かつ扇情的な非難をとなえるが、攻撃目標らしい「フェミニスト」たちが「実体」とは到底おもえないし、「数的根拠」がなりたっていないとおもう。
■たとえば、「男女の自殺率格差が3倍くらいあることを無視し続ける」「フェミニスト」たちとは、いったいどこで活躍する、どういった人士だというのだろう? 「無視し続ける」とは、いつ どういった期間のことだろう? ■また、「3倍くらいある」というが、前項とのからみでいえば、2000年前後からの 構造不況による職場環境などの激変こそ 男性たちの自殺の急増現象という、総数を異様な状態にはりつかせる構造だったわけで、近年の動向を必然のような かきぶりは、奇妙だろう。
■「男女の自殺率格差が3倍くらいあることを無視し続ける」「フェミニスト」たちの具体的実体とやらと、「男女の自殺率格差が3倍くらいあること」とやらの構造および原因特定の、双方のあやしさは、実は せなかあわせだろう。■ハラナがにらむには、具体的実体=人物と、構造および原因特定とは、かれ(ら)が信じこむ幻影の産物であって、特に前者のばあい、実は、いてもごく少数の人物にすぎないのだとおもわれる。■ハラナのような「昭和」という時代から実体験している世代(「かれ(ら)も、そのはずだが)は、現在に直結するようなフェミニズムの思潮が1980年代前半には発生しているとみえる。つまり四半世紀ぐらいの「歴史」(具体的には、「男女機会均等法」成立以前から)があるわけだ。具体的実体=人物が、一枚いわの一群としているのなら、それらを列挙できなければいけないし(だって、攻撃されているらしい、加藤秀一氏だって、40代なかばなんだから、四半世紀以上のキャリアをもつ40~60代の人士こそ特定されねばならない)。が、かれ(ら)が攻撃する「男女の自殺率格差が3倍くらいあることを無視し続ける」「フェミニスト」たちとやらの言動は、2000年以降ぐらいからしか具体化しないわけだ。だって、1995年ごろだって、格差は2倍ぐらいしかないのだから。「格差が3倍くらいあることを無視し続ける」「フェミニスト」たちなどと、攻撃目標をいいたてるなら、10年以上とかの言動の蓄積がなければおかしいが、格差3倍水準が、男女機会均等法以降にも、「実現」していないんだから、「無視し続ける」といった行動がありえないわけだ。
■しかも、「2004年 35.6 12.8  約2.78倍」という数値を唯一の例外として、「男女の自殺率格差が3倍くらいある」という、「実態」が実在しない(笑)。「男女機会均等法」以降にもね。■立論が致命的に破綻しているわけだ。さわいでいるのに、格差3倍水準に達したことがないし、かりに かれ(ら)の主張どおり、フェミニズムやら女性の「社会進出 」やらが、男性をおいつめて自殺に余計おいやるというなら、ウーマンリブ前後の1970年とか、機会均等法定着後の1990年とかに、1.42→.3,1.98→1.64なんて格差縮小傾向が発生しているのが説明つかない。

(3)■それと、フェミニズムがはびこっている現代日本と、フェミニストが崇拝している北欧(「かれ(ら)」の論理では、「男らしさの規範が弱まった」時空)が、「男女の自殺率格差」の大問題を呈しているような論理だが、いわゆる“草食系男子”の増加(この議論は、かなり「まゆつば」だが)との対比で、「男社会の傾向が強かった時代のほうが格差は縮小し、男性の自殺率も低かった」なんて立論が、前項までで幻想だとわかった以上、「かれ(ら)」の 攻撃目標自体が幻想の産物でしかないので、大問題自体が存在しない公算がおおきい。■いや、「かれ(ら)」が、「男女の自殺率格差を放置し続けることは、その「女は生命、男は戦争」を肯定し続けることだ」などと、フェミニストの論理を、ネジまげて援用する点にこそ、、「男らしさの規範が弱まった」時空とやらへの事実認識のカンちがいがある。「かれ(ら)」は、フェミニストが 男性軽視ゆえに、「男女の自殺率格差を放置し続け」、女性の待遇改善のためだけに予算を浪費しているといいたげだが、フェミニストたちの主流部は、「女は生命、男は戦争」を解体しようと提起してきたのであり、職場と家庭の双方で「生命」重視の空気・体制が確保される必要があるとの主張をくりかえしてきたはずだ。■したがって、フェミニストの主流部の主張は、男性の自殺者がふえてもしかたがない、といった議論になりようがない。むしろ「男たちよ。戦場からかえって、家庭で育児・家事を分担しあおう」「男たちよ。過労死しないように、たがいのカラダをいたわろう」といった主張こそ基調なはずである。■ましてや、「人権で最重要項目である人命問題でさえも予算を全く付けないのは、男女共同参画局が「男がいくら死のうが知ったことではない」と言っているのと同じ」などと、行政機関への予算配分が、フェミニストたちの悪意・策動で、男性の自殺が放置されているかのような、悪質な印象操作は、事実誤認と先入観などによって正当化されるものではない。

(4)■前項とのからみでいえば、本川氏の図表がなにを意味しているかといえば、中国大陸などの平均値だけが、異様なぐらい、男女の自殺率がちかいという例外的存在であること、そして、日本の平均値は、世界動向のなかで、「図中でほぼ同一直線上に並んでおり、自殺率の男女比ではほぼ共通であり、男女比そのものは平均的な姿を示している」一群の一部にすぎない。■「男女を比べて、男性の自殺率が高い旧ソ連諸国では男性の平均寿命が短く、逆に女性の自殺率が相対的に高い中国、インドでは、平均寿命も相対的に女性が短いという事実がある」という本川氏の指摘は、逆説的な皮肉をいうなら、女性が栄養面や労働面で 劣悪な状況にあるがゆえに、自殺率の格差がちいさいということさえ推定できるのである。■また、「日本は男女計のランキングでは世界第10位…であるが、男性は第11位、女性は第3位である。この順位だけ見ると女性の自殺率が日本の場合特に高いとも見えるが、これは男性の自殺率が特段に高い旧ソ連諸国は女性については男性ほどほど水準が高くないためである。日本は男性も、女性も同様に自殺率が高いのであり、女性だけが特に高いわけではない」とあるとおり、日本の行政施策において、「女性の健康支援の予算があるだけ」だ、などと かみつくのは、被害者意識で こりかたまっているからの妄想にすぎない。■男女の自殺率格差がフェミニズムなどにより近年急拡大しているという事実認識こそ、ユガんでいるのであり、日本の女性たちが、ことさらに優遇された状況になどないことはあきらかだ。そして、男性たちの自殺率急増対策は、「男女共同参画予算」の主目的にはならない。それは、男女にかかわらない、過労死対策など、労働政策・福祉政策全般の課題だからだ。■むしろ、「男たちよ。戦場からかえって、家庭で育児・家事を分担しあおう」「男たちよ。過労死しないように、たがいのカラダをいたわろう」といった、フェミニスト主流部の主張が、まともに機能しない、企業・官庁の男性原理こそ、自殺格差の拡大傾向をささえているはずだ。

(5)■してみるに、昨今、大活躍の生物学者福岡伸一氏の『できそこないの男たち』(光文社新書,2008年)で展開されているような被害者意識(「オトコは、どうせオンナの つかいっぱしりにすぎず、こきつかわれる一生なんだ…」)=被搾取イメージが先入観としてあり、そういった幻想の産物として、「男女の自殺率格差がフェミニストの暗躍によって進行中である」といった被害妄想がもたらされたのだと、推定できる。
■「かれ(ら)」の被害妄想による先入観は、「かれ(ら)」の女性差別意識を、巧妙に合理化する。「戦う性は主体的に行動し歴史をつくる。守られる性は周縁化され、他者になる」などと、正直に そのホンネをさらけだしているが、現在のフェミニスト主流部は、「母性を(男性の心身を消耗させてでも)まもれ」などといった立論をするはずがないし、「周縁化され、他者」化される女性性という課題をずっとおっている主体こそ、フェミニストたちのはず。■もし、「かれ(ら)」が、そういった フェミニストたちの 主張・主観にもかかわらず、それは自己矛盾をきたしている。などと、批判しているつもりなら、「守られる性」といった幻影にしがみついているのは、「かれ(ら)」の方だとおもうし、「周縁化され、他者」化される女性性をのりこえようとしてきたフェミニストたちの主張が挫折しつづけてきたのは、「周縁化され、他者」化される女性性を「必要」としてきた、男性性の論理構造のせいである。■「オトコは、どうせオンナの つかいっぱしりにすぎず、こきつかわれる一生」という被害妄想こそ、「だから、そういった犠牲の反対給付として、オンナを性的に搾取して当然」といった、セクハラ文化を正当化してきたはずだ。■「3高」とか専業主婦願望をもつ女性たちが、依然すくなくなっていない、といった現実(“女のセクハラ加害:女の高身長欲望 連続するセクハラ女の性”)は、男性性に呼応したかたちで、女性性がかたちづくられてきたという経緯の産物なのであり、。「戦う性は主体的に行動し歴史をつくる。守られる性は周縁化され、他者になる」といった信念(=信仰)を正当化するために、援用されるべきではない。

(6)■男女が、たがいを 「ねぶみ」しあう論理の主流(疑似科学としての、俗流動物行動学エセ生物学主義社会ダーウィニズム的ゲーム論)が、依然として いかに保守的であろうと、それによってフェミニズムの思潮が無効化されたわけではない。■結婚相談所結婚情報サービスなどをふくめた「見合い」文化の「釣書」「身上書」のプロフィール紹介みたいな世界(いわゆる“婚活”≒“負け犬の遠吠え”論に対する保守的・現実的反応)のなかで、オトコたちの社会的地位や身長が重視されきたこと、女性たちには、それ要求されず、むしろ「ねぶみ」するがわにまわっているような印象は、保守的な男女関係が、基本的に男性原理主導だからである。逆説的にいえば、オトコたちが「ねぶみ」されているような被害者意識にしがみつくのは、自分たちが男性原理のもと、コンピューターや兵器・移動手段のような、「スペック」「仕様」のような水準で量化された存在だと、自覚=自負しているからである。■男性たちは、身長や収入・資産で計量化されるような「オトコの性能」を自負することによって、同性間の序列意識をもち、そのなかでの地位を確保してこそ、自尊心を維持できる。障碍者や失業者などが、「男性」として自尊心を維持しづらいのは、こういった構図のなかで、量化されてしまうからだ。■女性たちは、対照的に、出自をふくめて「性的」に量化される。「容姿」はもちろん「性格」などもふくめて。逆にいえば、それ以外は「釣書」「身上書」のなかで、大した意味をもたない。「性的」に量化される属性をかざるアクセサリーとしてしか。■こういった、「ねぶみ」合戦の世界にかぎるなら、男女は、たがいに「セクハラ」をしあっていて、おたがいさま、ということになるだろうが、すくなくとも、「恋愛」のばあいは、こういった「計算」は、皆無でないにしろ、かなりの程度停止し、「直感」「相性」が ものをいうはずだ。「生活」「人生」「家族」といった しがらみを、時間軸で「計算」した結果ではなく、「世間的な相場感覚」とも、かなりズレた「魅力」を感じとっているはずなのだ。
俗流動物行動学的な解釈は、以上のような「計算」を、あたかも生物学的・経済学的に合理的で、それ以外の選択は非合理で危険なものだと、いわんばかりだ。しかし、社会学的な観察の結果、「結婚戦略」の動態に かなり保守的な現実が確認され、特定の属性間でのカップリングが かなりの相関関係で 誕生するとしても、「だから、それが自然なのだ」という動物行動学的合理化となれば、それは、疑似科学的な宿命論であり、「願望」がまじりこんだイデオロギーにすぎないのだ。
■「かれ(ら)」が、しばしば、「現実」といって もたれかかり、ときに それをなじる「現実」とは、こういった疑似科学を みずからの信念・信仰(先入観)に つごうのいいように ツマミぐいした イデオロギーの産物(世界像)であることが、大半だ。■もちろん 「かれ(ら)」には、そういった自覚はもちろん、不安さえない。いや、保守イデオローグたちに関していえば、「かれ(ら)」は 既得権をかかえているか、それを剥奪されたという被害者意識をかかえており、その意味では、「うばわれるかもしれない」という不安感か、「うばわれた」という喪失感で いっぱいであり、それこそ懸命に みずからの信念・信仰(先入観)の正当性を再確認するための作業に余念がないのだろう。■冷静にかんがえれば、ごく穏当なリベラリズムの変種にすぎないフェミニズム主流部分に対して、なにゆえ、あれほどの感情的な攻撃をくりかえすのかといえば、以上のような防衛機制がはたらいているとしか、おもえない。



●旧ブログ内「ジェンダー論」関連記事


【追記:07:00】
■「無断転載」だと、いいはる筆者から、トラックバックがあった。■こちらの趣旨を理解するとはおもえないが、最低限補足しておく。

■(1) 「ブログ記事」とかいたのは、不正確だったので、訂正しておいた。
■(2) 「自エンドや自民党TBPの人たちのブログも複数ある。自民党TBPの人たちは、こんな藁人形叩きをする人と同じ論調をしていただろうか」と、トラックバック記事(これはブログ)でかいているが、無意味だろう。①「自エンドや自民党TBPの人たち」と思想傾向がちかいし、安倍もと首相批判として同調した時期もあるが、当方は、民主党も「エンド」しないかぎり、この列島が本質的にかわらないとかんがえているし、②おそらく フェミニズム周辺の思想位置では、ズレがある。③第一、批判スタイルが、かれらと にている、にていないが、批判の本質と、関係があるとは、この際おもえない。■一連の「ジェンダー・フリー」バッシング批判の動向といっしょくたにできないから、混乱しているのか?
■(3) “既存左翼のジェンダー観の限界”という記事で、有効な反論をしたつもりらしいが、できているようには、みえない。■時間がないので、後日詳細に、批判する予定。
■(4) ちなみに、“既存左翼のジェンダー観の限界”といった、グーグルの検索結果をリンクしたことと、全文転載を、「著作権に全くの無知」などと、なじっているが、あちらこそ、著作権への誤解があるだろう。■①まず、グーグルの検索結果をリンクしたのは、原文が削除されてしまうリスクを回避するためだ。つごうがわるくなると、きえてしまう筆者は、これまでも たくさんいた。■②また、うえの引用は、批判するための原文を全文証拠とするための、作業の一環だ。実際、キャッシュ情報さえのこらないことがある。■③原文より ながい批判の分量、また、原文の論拠となる資料の質・量、双方とも、それを ウラがきしているとおもう。あちらの「全文」は、本論全体の 一部、「素材」にすぎない。
■(5) 当方の批判を、「藁人形叩き」とか、「1955年だけの31.5を取り上げて論理を捻じ曲げている」などと、きめつけているが、かれのいう「フェミニスト」が活躍する以前から、なぜ男性の自殺率が基本的に1.5倍超水準にあるのか、「フェミニスト」が活躍しはじめたはずの1960年代~70年代に、男女格差がいくぶんせばまったのは、なぜか? といった事実を説明できずに自壊していることの自覚がないようだ。■「論理を捻じ曲げている」のは、あちらの方。
■「題名から分かるように自殺率の男女格差問題を取り上げているのであって、現代のほうが拡大しているのは統計を見ればすぐに分かる」というが、そういった近年の動向を全否定していないことだって、議論をおえば、すぐわかるはず。■たとえば、「2000年前後からの 構造不況による職場環境などの激変こそ 男性たちの自殺の急増現象という、総数を異様な状態にはりつかせる構造だったわけで、近年の動向を必然のような かきぶりは、奇妙だ」との批判に対して、正面からこたえる責務をおっているのは、あちら。■また、いまだかつて格差「3倍」になど達したことがないのに誇張した責任、均等法以降の1990年に格差が縮小している事実を、持論で説明する責任等々の、「おとしまえ」をつけるのが さきだろう。
■「藁人形叩き」よばわりするためには、批判が完全に無効であり、非科学的なことが論証されねばならない。しかし、以上の補足=簡略版反批判に ちゃんと 反証できるのかな? ■詳細な批判の必要はないかもしれないが、俗流の反フェミニズムが「疑似科学」めいた影響力を行使しつづけるなら、批判はくりかえさねばなるまい。


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タグ : フェミニズム 防衛機制 女性差別 ジェンダー 被害者意識

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コメント

非モテ系の言説もにているように感じます

草食男子という言説(異性との関係にがっつかない、ということ?)と、いわゆる非モテ系言説は、にているように感じます(http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20081211/1228968748)。
『非モテ!』(文春新書)なんかも。
男性中心社会によって、男女間の根本的な不平等があるという現状を無視したまま「あーでもない、こーでもない」と、重箱のすみをつつくような瑣末な議論をしていても本質にたどりつけるわけがなかろう。

『ジェンダーと人権』(辻村みよ子・日本評論社)

という本もありますな。

女性と貧困ネットワーク


そもそも事実の認識の段階で

『肉食系女子の恋愛学』(ISBN13 978-4198627133)という、問題の本質をはずしているとしかおもえない(というか、そもそも事実の認識の段階でまちがっていると懸念される)本がでました。

「ボーガスニュース」の最近の記事の方がリアリティを感じます。

http://bogusne.ws/article/116490970.html

「草食系/肉食系」といった命名の政治性

■あの、森岡正博先生までも、『草食系男子の恋愛学』(メディアファクトリー 2008年) といった本をだされたとかで(時間ができたら、よんでみようとはおもいますが)、なかば あきれています。■もともと、動物の肉食/草食と、「ガツガツ」ぶりの程度(発情期における性的な積極性)とは、全然無関係です。■しかも、オトコ=男性ホルモンによって性的に積極的、オンナ=女性ホルモンによって性的に消極的(≒受動的)といった、エセ動物行動学的なセクシュアリティ観を前提に、「意外性」を議論しているようすが あきらかで、その知性のひくさにビックリです。■「こういった論調に、森岡先生までくわわるとは、世も末」という印象がぬぐえません。

■『ボーガスニュース』の、痛烈な皮肉は、ワサビというか、ホットペッパーというか、さすがです。

某列島の諸子百家がたばになっても武市好浩センセーに勝てない件について

しばしばわたしがとりあげてきた、「ファイナルロリータ」を完結編とする「ロリータ三部作」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~kitakaz/damedame/floli.htm)こそ肉食系女子のもとネタでありましょう。そうするとやはり、さながら「釈迦の掌上の悟空」のように、諸子百家が総出でも武市好浩センセーの妄想のわくをでられない、というのが某辺境列島の民度なんだろうなぁ、やっぱ。

ちなみに、「クイーンズブレイド」(http://queensblade.net/index2.php)も、もとネタは武市好浩センセーの作品にちがいありますまい。

この駄文をよんでいる、そこのキミ!キミも、武市センセーに応援のメールを書こう!
http://www.kabe.to/~kensan/etc/psk/psk.htm
(「スカポン探検隊」の下にある書き込みの「武市好浩」の名前をクリックするとメールアドレスが出ます)

日本のサブカルチャーにおける《ルイス・キャロル=ロリータ・コンプレックス》像の定着史

http://www.hp-alice.com/lcj/subculture.html
 ↓
5.「ロリコン」と「アリコン」

男性差別と言いたがる男たち

今自分がかかわっているプレカリアート運動つながりでは、今の社会は男性差別、女性優遇だと言って抗議してくる男性はいますね。

彼らは女性の仕事には何も問題がないと錯覚しているんです。
上の世代の家父長的温情主義がなくなったら、女性の貧困のほうがより悲惨にむき出しにされるでしょうに、それからひたすら目をそらしつづけているわけです。
また、仕事というイメージから遠く離れた作業を強いられる女性のむなしさやあせり、あるいは絶望についても何も考えていない。
アルバイトでもまず男性が呼び出され、それで足りなければ女性もという慣習もあるのを分かっていない。
派遣でもたくさん稼げるところに男性をあてはめ、あまりの派遣としても低賃金の部署に女性を入れるという事実も彼らは見逃して男性差別を訴えます。

しかも、そういうタイプの男性は、途中まではまあまあ出世できそうなコースにいたんですね。とりあえず大学院出たとか、中高一貫校にトップ合格したとか。
その分、正社員ではないことやブルーカラーの仕事への軽蔑意識が大きい。
だからひたすら派遣を侮蔑しているし、今すぐ派遣労働を全廃しろ等無茶な欲求も平気でやります。
また気に入らない派遣会社の社長が在日だとか女性だとかいう都市伝説を熱心に「啓蒙」してくれます。
ぼくのほうが女性としてのあなたよりももっとひどい会社の環境を知っている、労働法の知識もあるとえんえんと説教してくる失業者男性もいます。
有名な女性政治家や女性の作家の誰が男性差別主義者だとか、男性活動家の誰の息がかかって動いているだけだとか、酒を飲めば言っています。
「オレは男であるから大企業性社員で当然。ずーっと理系大学院や中高一貫の学校みたいな、厳しい選抜の後に保護育成される中流男子の楽園(?)からお次は大企業。30代で年収一千万は稼いで、そろそろ管理職になってもいいころだ。
なのに派遣? 冗談じゃない。こんな女だか在日みたいな仕事、やっていられるもんか!! 派遣会社は自分たちをものすごくぞんざいに扱っている。失礼だ!!」
とするのが彼らの共通した本音のようです。
またそれを悲劇のヒーローのように盛り上げる・男のプライドを守り立てるマスコミや世論があります。
女性なんて元祖・低処遇正社員だったりします。
しかしなかなか、男性中心の運動はそのへんについて盲目・後回しになりがちです。
初対面の男性から「あの女性の政治家は男性差別」「あの派遣会社の社長は在日の女性」とかなんとか言われるのはあまり気持ちのいいものではありません。
昔の左派みたいに「それは性差別じゃなくて階級・身分の差別じゃない?」といって口封じすることにしていますが。
結局、男性優遇こそ彼らにとってはジェンダー平等とし、平等に一歩近づけば即男性差別とするのが彼らの認識だと思います。

こうした人たちとわたしはなるべく話さないようにしています。胃によくないので。
とはいえ、取材のためには話したり、飲み会にも出たりしなければならないのがつらいところです(苦笑)。


「相対的剥奪感」(マートン)と女性嫌悪

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%C5%AA%C7%ED%C3%A5(はてな「相対的剥奪感」)

http://ja.wikipedia.org/wiki/ミソジニー

■構想(野望)どおりの地位をしめることができなかった男性たちは、成功者たちに嫉妬しますが、同時に、自分たち以下に とどまらなかった女性たちへも強烈な否定的感情をかかえるでしょう。■「成功者」ではない自分たちよりも みじめな層として、しかるべき男女が実在しないと 自尊心上、たえがたいのでしょう。■実に、あわれな存在ですが、同情するわけにはいきません。しばしば実害がありますからね。■むかし、大学の女子学生は、何重にも差別され感情労働・ケア労働を無償でしいられているのだから、学費どころか対価をはらわれるべきだ、といった痛快な議論が、たしか『現代思想』誌に掲載されていたと記憶しますが、ワタリさんのような ひとびとのばあい、取材でも そういっためにあうのですね。■連中の同性として、おわびもうしあげるとともに、せめてもの つぐないに エールをおくります。■でも、くれぐれも ご自愛ください。

さすがは根本的差別社会

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090406-00000037-spn-spo

というか、俗称「体育会系社会(http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/bf298558f5035e9a1487d979fb17176d)」(真の名称は「反人権社会」)でなければ絶対に社会的に認知されないような人間の発言をとりあげるなよ。いや、それをとりあげる点がユーラシア大陸の最辺境に位置し、反人権原理主義者以外が政権をとったことがない愚昧な列島のナショナル=アイデンティティのよりどころ(真の名称は「悪人の最後のかくれが」)なので、それを払拭することなど想像するだけでアイデンティティ=クライシスをひきおこす行為なんだろうけれど、そのアイデンティティ自体が問題なんだってば。いや、そんな正論(某反人権雑誌の自称ではなく、本物の正論)は、発言しても無駄でしょうが、某列島の外部では絶対究極の真実なので、一応かいておく。

天界から魔界まで、善悪の相関図

「善と悪の5段階別相関図」

フェミニズム界(「天界」という別称をもつ絶対善世界)>サブカル界(相対善世界)>人間界(善悪の対立軸でいうと中間の世界)>辺境列島界(相対悪世界)>体育界(「魔界」という別称をもつ絶対悪世界。ほかにも別称として「ファロセントリズム界」という)

ちなみに、辺境列島界がどんどん魔界にちかづいている、という事実を指摘した貝枝五郎の至言(下記記事の2009/01/22 09:27におけるコメント参照)は天界の大天使ミカエルにもたかく評価されている、というのは天界では常識であるが、辺境列島界でその常識をしるのは、残念ながら現時点では貝枝五郎ひとりである。

http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-614.html

こまったことに

こちらを少年犯罪激増論者あたりと誤解しているようだ。■そうでないことは(http://harana.blog21.fc2.com/?q=%BE%AF%C7%AF%C8%C8%BA%E1)あたりや、旧ブログ(http://tactac.blog.drecom.jp/)で、さんざんかいたので、ちょっとしらべれば すぐわかることなのだが(blog内検索 by Googleで「少年犯罪 激増」と検索をかければ、数十件でてくるはず)。
■自分の統計処理のあやまち、それと、こちらの立脚点への誤解については、一向に反省しない(検討する意識が欠如している)ようなので、トラックバック記事も、おそらく すぐさま入念にチェックするのは、徒労だとおもう。■時間がないので、後日まとめて検討することにする。

コピペ盗作ブログ並だね

書いた本人が全文を貼り付けるなと何度も言っているのに、なぜ何も対応をしないのか?元記事の「男女の自殺率格差とジェンダー:女性が周縁・他者になる理由」:http://www.shisokan.jp/hansei-joseigaku/jisatsu-kakusa/にリンクをしろと何度も言っているのに、なぜしないのか?これはウェブで議論する以前の問題なのだが。

「「2004年 35.6 12.8  約2.78倍」という数値を唯一の例外として」とあるのは、厚生労働省の人口動態統計を見ればすぐに間違いだと分かる。そういう簡単な間違いを積み重ねて藁人形叩きのコピペ記事を一方的に書いてきたのは、そちらのほうだ。

批判しているつもりの文章も滅茶苦茶だが、それ以前にウェブでは引用した言及先のリンクをするのは当たり前だ。こんなことは、ネットの授業を受けている中学生でも分かること。何で何度も当たり前のことを言っても、分からないのか?グーグルの検索結果へのリンクが、言及先のリンクになるわけがない。

本川裕氏のも画像付きで全文を無断転載しているのだが、このブログは全文のコピペだらけでコピペ盗作ブログ並になっている。おまけに言及先のリンクもしない。リベラル左派と言われるブログで、元記事のリンクもせずに平然と全文を無断転載し続けて、しかもそれを正当化するのはここくらいじゃないのか?

こんな当たり前のことが何度言っても分からないでウェブに書き続けるのは迷惑なのだけど、ウェブの知識(ウェブ標準とは何か分かるか?)は、小学生並以下だろ。

「タカマサのきまぐれ時評2」?「コピペ盗作ブログ2」じゃないのか?批判はシャドーボクシングだし、ウェブでのリンクの最低限の知識さえもない者が、他人にかける迷惑のことをほんの少しでも考えたことがあるのか?

ここまで何度も言われたら普通は何らかの対策をするのだが、平然と迷惑をかけ続けて自己を屁理屈で正当化する原名高正と名乗る者は、頭が大丈夫なのか?と心配になるほどだが?

女性差別こそ人類史上最大の差別だとはおもうが

うっかりするとみおとされそうな、世代間の格差をあつかった『孫は祖父より1億円損をする 世代会計が示す格差・日本』(978-4022732712)という本が出ました、格差つながりでどうぞ。

<国連委>女性差別撤廃で日本の対応非難


上記リンクを複写のうえ 補足

<国連委>女性差別撤廃で日本の対応非難
7月24日11時51分配信 毎日新聞
 【ニューヨーク小倉孝保】国連の女性差別撤廃委員会で23日、日本の女性差別撤廃の現状に関する08年4月の政府報告書に対する審査が行われ、厳しい意見が相次いだ。委員(11人)が、政府代表団(代表・南野知恵子元法相)に質問した。

 日本は85年に女性差別撤廃条約を批准しているが、条約の効力を高めるため、被害を受けた個人や団体が国連の委員会に通報できる制度などを盛り込んだ「選択議定書」(99年に国連総会で採択、97カ国が批准済み)は批准しておらず、国際社会から批判が集まっている。

 日本側は05年に男女共同参画社会基本法に基づく基本計画を作成し、20年末までにあらゆる分野で指導的地位をしめる女性の割合を30%にするなどの数値目標を設定していることなどを説明。議定書批准については「検討中」と繰り返した。

 委員側からは、条約に合わせた国内法の整備状況が遅いなどの厳しい意見があった。8月後半に、日本への勧告を含む委員会の最終見解が出る。

 日本から女性差別に取り組むNGOのメンバー84人が審査を傍聴。代表世話人の山下泰子さんは「政府側は何度も同じ答えを繰り返し、はがゆい思いがした」と不満を語った。


 ↑ 自民党をはじめとする保守政治家たちは、自分たちの背後の利害団体の利潤追求をやらせてもらう みかえりに、官僚の あやつり人形として、議会でもっともらしい答弁をくりかしますが、大半は、切迫した状況にある当事者のなっとくを到底えられないような、にげごしモードです。そして、「にげきり」だけしかねらっていないので、実に厚顔無恥。■そういった意味では、国内での議会にかぎらず、国際的な会合でも、責任を追及されたり、疑義をだされたりすると、ひたすら、はじしらずな「大本営発表」を、こわれた再生機よろしく 反復すると。北東アジアの大小2国を、はじしらずだとなじるナショナリストはおおいのですが(一部、ただしいとは、おもいますが)、こと、こういった はじしらずの答弁をくりえせる わがくにの小役人・政治家たちの品性に、ナショナリストは、かなしくならないのでしょうか? 右派的に カッコをつけたりしますが、およそ議会のたぐいで、カッコいい発言はない(そう選挙民を幻惑する、東西の大都市首長とか、もと首相もいましたが、それらは、後年デタラメが バレるような しろものだらけでしょう)。■たとえば、ブッシュ某のような、はじしらず政治家がまぎれこむとはいえ、オバマ大統領のような人物もちゃんとだせるアメリカは、「美しい国」とは ほどとおい本邦よりは、ずっとカッコいいでしょう。すくなくとも、世界はそうみている。この列島のよさは、安全と長寿ぐらいしかないわけで、右派のみなさんが、主張する「カッコよさ(軍事的優位)」はもちろん、いわゆる「ソフト・パワー」で完敗しているわけです。ボッタくられる、おひとよし旅行者とか、江戸文化の末裔であるオタク・アニメの洗練度をホメてくれるのは親日派であって、おおくは、巨大なGDP以外に かおがない不気味な存在にしかみえないでしょう。
■ちなみに、この列島が、女性差別で なうての空間であることは、まえまえから常識になっており、「またか…」という、再確認をされただけであることを、「ジェンダーフリー反対」などと、わめている御仁たちは直視できないでしょうね。■つくづく、自称ナショナリストたちは、他国にほこれるというより、ムラ社会で「オレたち、うつくしいよな」と、たがいのナルシシズムをもちあげあうという、ホモ・ソーシャル(ゲイ文化とは、ちがうんだが、かれらは「教養」がないので、理解不能でしょうが)で不気味なサブカルチャーの住人たちと、おもわされます。■世界への発信・GDPへの貢献など、かんがえていない、オタクのみなさんは、タイヘンすばらしい存在だとおもいますが。

転載します。

☆女性と貧困、はじめの一歩☆

なんで一生懸命生きているのに、こんなに生活が苦しいの?貧乏や不安がジワリジワリとわたしたちの生活を飲み込もうとしている・・・。

「いまだに見えない、声を上げられない、居場所を持てない、つながれない」

 現在、女性の約55%が非正規雇用で働き、女性の給与所得者の44%が年収200万円以下で生活しています。母子家庭では、平均年収は237万円と全世帯平均の半分もありません。しかし、語れない、語られない、つながりをもてない・・・今現在だけではなく、昔々から。声を出そうとする瞬間があったとしても、たちまちその声はかき消されてしまいます。なぜ語れる場を持てないのか?なぜつながりをもてないのか?聞かなかったことにされないように・・・はじめの一歩。互いの気持ちや疑問、不安を語るところから始めてみませんか?

日時 8月23日(日)午後1時30分から午後3時30分頃まで

場所 早稲田奉仕園6階4号室

お話 栗田隆子さん(フリーターズフリー、女性と貧困ネットワーク)

前半は栗田さんに「女性と貧困、女性労働問題」についてお話してもらい、後半は参加者の皆さんとおしゃべりできればと思います。

*女性の貧困、女性労働問題、シングルマザー、ジェンダー、セクシャリティ、クィア、メンズリブなどに興味がある方であればどなたでも。

*お子さん連れもどうぞ。ただし、お子さんを預かれるほどの体制、スペースは整っておりません。ごめんなさい。

ジェンダーと、それ以外の性に関する差別は別物だとはおもうが

参考までにどうぞ。
http://www.rainbowmarch.org/

女性差別も、そのほかの差別も並行した大問題

■女性への性暴力やセクハラ、賃金差別・就職差別・昇進差別等は、以前大問題です。ネットカフェ難民やホームレス問題も大問題ですが、生活保護をうけられないでいる母子家庭など女性差別の帰結としての母子家庭問題も、深刻です。■貝枝さんというかたがご紹介くださった、集会が「女性と貧困、はじめの一歩」というタイトルのに、「お子さん連れもどうぞ。ただし、お子さんを預かれるほどの体制、スペースは整っておりません」と、もうしわけなさそうに ことわっている現実自体がすごい。
■と同時に、こちらもやってきたストーカー氏にくみする気など毛頭ありませんが、過労死・過労自殺の大半が男性であるなど、労働最前線で酷使・消費されつづける男性労働力も大問題。■ホームレスも大半は男性ですしね。
■で、もちろん、マイナーな問題として、ほとんど紙面にはおどらず、ときどきアリバイ的にとりあげられるだけの、ゲイ・レズビアンなど、「非へテロセクシャル」系のひとびと、性同一性「障碍」でくるしむひとびと、等々、「この世には(異性愛)男女しかない」といった、野蛮な本質主義的二分法が放置されているのも大問題(私見は、http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-700.html)。
■お釈迦さまは、「生老病死」と、いきていくこと自体が煩悩などで苦悩そのものと、おっしゃってのですが、「憂き世」は、構造的差別と問題だらけですね。男・女周辺だけでも。■からんできた、ストーカー氏らには、到底理解不能なのようですが・・・。

男女共同参画の予算

はじめまして。気になる記述がありますのでコメントいたします。

>男女共同参画予算には「生涯を通じた女性の健康支援」が設けられている。だが、男性の人命問題のための予算は全くない。<

>男女共同参画を推進し、男らしさの負担を減らせば解決すると思っているのではないのか。男性の人命問題の予算を付けないのは「男女共同参画を推進すれば解決する問題だから」という妄想があるのだろう。<
(「男女の自殺率格差とジェンダー:女性が周縁・他者になる理由」)

「生涯を通じた女性の健康支援」の大半は厚生労働省の予算で、最も多いのは妊娠・出産に関する健康支援です。
「男性の人命問題のための予算」もほとんど厚生労働省です。医療・健康に関わることですから(雇用も、かな)。
自殺対策予算は厚生労働省、総務省、文部科学省、等で、やはり厚生労働省予算が多いです。

自殺対策は内閣府共生社会政策担当がおこなっています。男女共同参画局とは別の部署です。「男女共同参画推進で解決できる問題だ」と『思っていない』から別の部署が担当しているのではないですか?

もしかして、「男女の自殺率格差とジェンダー:女性が周縁・他者になる理由」の筆者は男女共同参画予算を誤解しているのでは…。
男女共同参画局が「生涯を通じた女性の健康支援」の予算を確保しているのではありません。予算を取るのは厚生労働省などの省庁が圧倒的に多いのです。
男女共同参画局は、それらの予算を「男女共同参画に関係する予算」として並べているだけです。(男女共同参画局(内閣府)独自の予算もありますが、金額がケタ違いに少ない)
男女共同参画局サイトの「男女共同参画に関する予算」には、各政策・事業の上に「(○○省)」と書いてあります。予算を確保しているのはこの省庁です。
※この予算全部が男女共同参画の予算だと勘違いして、「男女共同参画に10兆円!」と騒いだ人たちがいましたけど。10兆円の大半が年金の国庫負担金だったんですよ。
騒がれたせいかどうか知りませんが、最近は年金国庫負担金をこの「予算」に入れないようになりました。

引用箇所の色調を修正いたしました

kirikoさま

■コメントありがとうございました。■こちらが批判したかった反フェミ放言の引用部分が 、当方のふてぎわで、彼我の 主張部分の区別がつきづらくなっておりました。色調をかえましたので、あちらの論難部分は、ちょっとわかりやすくなったかとおもいます。

■引用しました反フェミ派は、おそらく 少子化対策・自殺対策・人権対策などが、省庁の なわばりあらそい(予算競争とタテわり分業)の対象として、複雑な利害がからまりあっているはず、などといった想像力もはたらかなければ、それをたしかめる知性もないのだとおもわれます。■かれらにとっては、政府とは、社会民主主義系勢力の策動・圧迫などによって 反国家的な 政策に堕する組織、といった、「一枚岩」にうつるのでしょう。そういった、過剰な あまえと 被害者意識でしか、政府組織をとらえられない。■当方は、そういった 批判するだけ 時間のムダという直感がはたらきましたので、本文では、いっさい ふれないことにしました。かれらの被害妄想にねざした政府批判、フェミニズム批判は、そういった省庁の利害とか政府の体質などとは無縁な、ネジまがりかたを本質としているとおもったからです。

※以下、4回にわたり、わたしが以前雑誌上でおこなった「やりとり」(「議論」ではない)を転載する。
管理人さん、不適切だとおもったら削除してくだされ、ただ、反フェミニストの正体をよくしめしてくれている事例だとはおもうので、わたし自身としてはオススメの「やりとり」だが。

『週刊金曜日』(1999.6.11号64ページ)
『諸君!』(文芸春秋)など、読めば嫌な気分になるだけなので普段はよまないのだが、苦行をする思い出六月号の一部を読んでしまった。反フェミニストを繰り返し訴えているらしい林道義氏という人の「こんなバカやっているフェミニズム」という記事である。
内容はフェミニストの田中喜美子氏の講演に対する批判から始まり、最終的にはフェミニズム全般を否定するものだが、ここでは彼によるフェミニズム全般への批判に限って検討する。
たとえば林氏は、家事がタダ働きであることに触れずにおいて、主婦が「夫に従属している」「食べさせてもらっている」「自立していない」と感じるのはフェミニズムのせいだ、などと見当違いな暴言を吐く。それは家事に賃金が払われていないという現実によるもので、フェミニズムのせいではない。さらに林氏は「専業主婦であることに誇りも意義も持てない心理状態」をも問題視しているのだが、「専業主婦であることに誇りも意義も」持って欲しいなら、主婦の労働に賃金を払うことで、彼女らが「夫に従属している」状態を打破すればよい。それはフェミニストの年来の主張でもある。
ほかにもフェミニストが夫を敵視していることを取り上げ、「そこには愛情によって助け合うとか、尽くし合うという視点はみじんも見られない」と糾弾するが、弱い立場にいる人間から強い立場にいる人間に向かって「尽くし合う」という主張をしても受け入れられるわけがない。奴隷が主人に向かって「これからは対等に助け合おう」などと言って、そんな意見が採用されるとでも本気で思っているのだろうか。主婦はタダ働きによってもう十分「尽くし」ている(厳密には尽くさせられている)。その上で、「尽くし合う」という互助関係を築こうというなら、強い立場にいる夫の側が歩み寄るべきである。
よってフェミニストがしばしば夫を「敵」呼ばわりするからといって、そのことが林氏の言うように「支配をくつがえして、今度は自分が支配者になろうとする」姿勢だとは断言できない。さらに林氏は、夫に家事を分担させるためのフェミニズムの戦略を揶揄した上で「正面から、きちんと話をすべき」と言うのだが、そうした話し合いに応じる夫がどれだけいるか疑わしい。もちろん中にはそういう理解のある夫もいるだろう。しかしその後話し合いは、結局どういうところに行き着くだろうか。
林氏の予想は「話し合っているうちに、日本のような過酷な労働慣行の中で夫婦ともに働くことの無理が浮き彫りになってくる。その無理の中で、無理をどちらがどれだけ背負うか、という争いになっているという問題点も明らかになってくるのではなかろうか」というもので、この指摘自体は間違っていないと思う。しかし林氏はこの点をこれ以上掘り下げない。つまり、共働きが困難なほど「過酷な労働慣行」であることを認めながら、その中で生きろというのである。そんな主張を認めたら、職場で働く夫のほうも大変だ。雇用者のせいで作られた劣悪な労働条件はまったく改善せず、個々の労働者の職場での疲れは家で妻にねぎらわせろ、というのである。社会人男性の中にフェミニズムに嫌悪を抱く人がいても、こうした林氏の主張には絶対に賛成しないで欲しい。こんな主張に取り込まれてしまったら過労死するまで働かされかねない。
林氏の言うところとまとめると以下のようになる。弱い立場にいる人間は強い立場にいる人間に対して戦略を使わず話し合え、だがその話し合いの結果どこで折り合いをつけるにしろ、さらに強い立場にいる人間の既得権益を侵害してはならない、と。そんな話し合いにいったいなんの意味があるのだろう。
(東京都狛江市・大学院生26歳)

上記の拙文に対して、林道義氏という人物が、かいた文章が以下のとおり。ちなみに題は(たぶん編集部がつけたのでしょうが)「小林真彦氏の批判に答える」です。また、上記の拙稿の題は「現実を無視した林道義氏のフェミニズム批判」です。

『週刊金曜日』(1999.7.16号64ページ)
本誌270号(六月一一日)の本欄に掲載された小林真彦君の「現実を無視した林道義氏のフェミニズム批判」という文章を読んで、「またか」とうんざりさせられた。
このごろ私はフェミニストとよく論争しているが、その中で気になっているのは、フェミニストたちのアンフェアな論争の仕方である。彼女(彼)らは頻繁に屁理屈、すりかえ、ごまかしを使う。フェミニストの屁理屈を私はフェ理屈と呼んで批判した(『諸君!』七月号参照)。
小林君もまた悪質な「すりかえ」を使っている。つまり相手の主張を(故意にか理解力がないせいか知らないが)逆に取って、それに向かって批判しているにすぎないのである。
彼は私の文章「(夫婦で)話し合っているうちに、日本のような過酷な労働慣行の中で夫婦共に働くことの無理が浮き彫りになってくる。……」を次のように言い換えている。
「つまり、共働きが困難なほど『過酷な労働慣行』であることを認めながら、その中で生きろというのである」
私の文章は「日本の過酷な労働慣行をなくすべきだ」という考えを前提にしている。過酷な労働慣行を「認め、その中で生きろ」という意味とは正反対の考え方である。
論争の相手を「馬鹿みたい」に描きたいという気持ちはわかる。しかしいやしくも公表する文章の中で、相手の文章を反対の意味にねじまげて描き、それに向かって批判するというのは、論争のマナーの「イロハのイ」もわきまえていない人間のすることである。
次に内容について、一つだけ述べておきたい。
小林君は「家事がタダ働き」なのがいけないので、「家事に対して賃金が支払われるべきだ」という考えらしい。主婦の労働に賃金が支払われれば、「夫に従属している」状態が「打破」されるのだそうだ。
誰が主婦に賃金を払うのだろうか。夫か企業か国家か。誰が払うにせよ、賃金を払う方が力関係においては強い立場に立つ。たとえば労働者には団結権が認められている。それは賃金をもらっても対等ではないからである。とすれば、いくら賃金をもらっても、団結して「主婦組合」でも作らないかぎり、主婦は夫と対等に離れないことになる。
こういう馬鹿馬鹿しい結論に導かれてしまうのは、夫婦の関係を力関係で見るからであり、しかもその力関係を拝金主義よろしく金銭で測るからである。
賃金を払うという発想は、専業主婦が誰かに雇われているという発想を前提にしている。そんな発想は、日本的な夫が「俺が稼いで食わせてやっている」と威張る域からあまり出ていない。
妻を夫と対等にするための物質的保障をしたいのなら、夫が受け取る賃金の半分は妻の所有という原理で、税金も年金も離婚時の財産分けについても制度的な保障をすることを考えるべきである。
私のフェミニズム批判は、「働けイデオロギー」から「近代家族否定」「性別役割分担否定」「母性本能否定」「保育所神話の美化」「個人単位論」など多くの論点にわたっている。
私のフェミニズム批判に対して反論したいのであれば、一つの論文だけ読んで部分的に批判するのではなく、主要な内容に対して正々堂々と反論したまえ。
反論したい人たちの便利のために言っておくと、それらの論点をまとめた拙著『フェミニズムの害毒』(草思社)がもうすぐ出版される。また、『間違えるな日本人!』(徳間書店)には、「フェミニズムのどこがだめなのか」という章もある。私はいつでも論争に応ずる。ただし論争はぜひともフェアにやってもらいたいものである。
(東京都青梅市・大学教授62歳)

で、以下の文章は、林道義氏という人物の上記の文章に対して私が書いた文章です。

「林氏の反論に再反論する」
『週刊金曜日』(1999.7.30号63ページ)

本誌270号(六月一一日)の「論争」欄に私が書いた記事「現実を無視した林道義氏のフェミニズム批判」に対して林氏による反論「小林真彦氏の批判に答える」が275号(七月一六日)同欄に載った。しかしその反論において林氏は、私が「悪質な『すりかえ』を使っている」と批判しながら自らが悪質なすりかえをしている。
私の批判は「(夫婦で)話し合っているうちに、日本のような過酷な労働慣行の中で夫婦ともに働くことの無理が浮き彫りになってくる」という林氏の事実認識には問題ないが、林氏がそうした「過酷な労働慣行」を糾弾しなかったことに問題があるというものである。それを林氏は、私が引用した箇所自体をさも曲解しているかのように書いている。林氏はさらに「私の文章は『日本の過酷な労働慣行をなくすべきだ』という考えを前提にしてる」と、それ自体としてはまともな主張をする。
それでは改めて林氏に問う。あなたはなぜ最初の論文においてそうした主張をしなかったのか?そして過酷な労働慣行のない社会を自らも望むなら、おそらく共働きも家事の分担も可能であろうその社会においてあなたは、なおも「夫は外で働き、妻は家で家事をする」という役割分担にこだわるのか?
また、次の点も問いたい。愛情や友情を維持したいなら、一方が他方に経済的に従属しきるのは良くないと私は考えるが、あなたはそう考えないのか?もし私がいつも友人からごちそうになってばかりなら、私は心苦しくなる。その逆の場合は友人が心苦しくなるだろう。おごったりおごられたりが半々くらい(厳密でなくて良いが)だと、お互いに気分が良いと思う。
この法則は夫婦(恋人)間にもおおむね通用する心理だと思うので、お互いに経済的にはいつでも独立できるけど、愛し合っているから一緒に暮らし助け合うという夫婦こそ、本当に愛情のみによって結びついていると思うのだが、どうだろう?

これで最後です。

小林氏への再反論
『週刊金曜日』(1999.9.3号79ページ)
小林真彦君の私への再反論(本誌277号[七月三〇日])は、「ああ言えばこう言う」の典型である。
小林君は最初、私が“過酷な労働慣行の中で生きよ”と言っている(『諸君!』六月号)と非難したが(270号[六月一一日])、私がそんなこと言っていないと反論すると(275号[七月一六日])、今度は“林が過酷な労働慣行を糾弾しなかった”と批判していたのだと言い換えた。
自分が間違って指摘していたことを素直に認めないから、こんなごまかしを使わなければならなくなるのだ。
さらに小林君は私の質問(主婦の賃金は誰が張る)には答えず、新たな質問をするのみである。
私は質問にきちんと答える。小林君は役割分担の夫婦の関係を「おごり、おごられる」関係にたとえているが、それは主婦労働がタダ働きだという認識を前提にしている。
しかし主婦は決してタダ働きなどしていない。主婦は最低でも自分の生活費をもらっている理屈だし、たいていはもっと多くを自分のものとして使っている。
小林君がこんな簡単な間違いをしてしまうのは、収入イコール賃金と考えているからである。だから賃金を貰わないというたけで、「タダ働き」だと断定してしまうのであろう。
なお、私は性別役割分担にこだわってなどいない。私は性別役割分担をしても平等になりうる、と言っているのだ。性別役割分担は悪である、という形でこだわっているのは小林君の方である。

で、上記のやりとりに対して

どなたか感想をかいてくださればさいわいです。

感想ではないが

>どなたか感想をかいてくださればさいわいです。

感想ではないが、関連したネタがあったので、参考までにどうぞ。
「母子加算」復活、年内も微妙…
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091012-00000248-yom-bus_all

これも関連したネタとして

どうぞ。

「女性と貧困ネットワーク」
http://d.hatena.ne.jp/binbowwomen/

林道義氏はフェミニストではないですか?

という気がしなくもない。
いや、同氏の発言によれば「一つの論文だけ読んで部分的に批判するのではなく、主要な内容に対して正々堂々と反論したまえ」という主張からして、「一つの論文」を読んでの批判でも「部分的に」すぎないのであれば、そのさらに一部である上記の様なみじかい文章(2009/10/12 12:32)を根拠に推測するのは「正々堂々と」していないことになるのかもしれないが、「いくら賃金をもらっても、団結して「主婦組合」でも作らないかぎり、主婦は夫と対等に離[ママ]れない」という、さながら「女性と貧困ネットワーク」の様な、弱者同士の連帯を示唆しており、「妻を夫と対等にするための物質的保障をしたいのなら、夫が受け取る賃金の半分は妻の所有という原理で、税金も年金も離婚時の財産分けについても制度的な保障をすることを考えるべきである」というすばらしい主張もしているのですから。

いや、その一事をもって断定はしませんが、「感想をかいてくださればさいわい」とのことですので、とりあえずざっと読んでうけた印象をかいてみました。ざっと読んでの印象なので、まちがっているかもしれませんが。

ふとおもったんですが…

「一つの論文だけ読んで部分的に批判するのではなく、主要な内容に対して正々堂々と反論したまえ」という発言はスゴイ内容ではないですか?この発言が本気であるなら、林道義氏という人物は、読者に金をはらって買ってもらうことを前提とした雑誌である『諸君!』誌上で、「主要な内容」をふくまない原稿をおくってよこしたことになるではなかろうか?さらに、その意図をみぬけず、「主要な内容」をふくまない原稿をのせた(ボツにしなかった)、当時の『諸君!』編集部の見識も問題である様な気もしてくるんですが……
もちろんどの雑誌も、その雑誌なりの字数の制限があるため、「この点については参考資料の●●を参照されたし」という記述は必要になるかもしれない。しかし、それでも上記の記述は、雑誌掲載論文がまるごと「主要な内容」をふくんでいない、と仮定しなければ成立しない記述の様におもわれます。

まったくの別件ですが、「象徴天皇制を意識的に受け入れる社会づくり」という、雑誌掲載論文(『季刊ピープルズ・プラン』47号)における以下の記述

たとえば、「謝罪外交」の結果、政府は「慰安婦」とされた女性たちを、戦争被害者を救うための措置、謝罪と補償を行ったか。天皇の被災地訪問で、国政・地方行政は被災者救済に全力を上げたか。「園遊会」で東京都教育委員・米長邦雄に「日の丸君が代」が「強制になるということでないことが望ましい」と発言して、都の強制がなくなったか。アキヒト・ミチコの沖縄訪問で、沖縄の基地問題が解消し、教科書問題は被害者の意に沿った方向に転換したか。天皇が格差社会に苦しむ人びとが増えたことに心を痛めたとして、国がこの格差社会を是呈するために本気で取り組んだか。「全国戦没者追悼式」で「日本国の安寧と国民の幸せと世界の平和」を天皇が祈り、それにむけて国政は動いているのか。否である。すべてが否であるのだ。(78~9ページ)

などは、みじかい文章でありながら、政治に関する「主要な内容」が盛りだくさんだとおもう。『ピープルズ~』と『諸君!』とでは季刊誌か月刊誌かのちがいによって盛り込める内容に差があるとしても、雑誌掲載論文をまるごと読んでの批判に対して、その批判は「主要な内容」をふくまな論文に対しての批判であるがゆえに「部分的に批判」しているにすぎず、「正々堂々と反論し」ていることにならない、という意味の文章を、この林道義氏という人物は書いているわけですよね(ほかの解釈ができるかた、いらっしゃいますか?)。いやはや、なんともスゴイ。そのスゴイ意図をもった論文をボツにせず掲載した『諸君!』編集部(当時)もスゴイ。

関連したページ

「林道義氏の進化論」(『たんぽぽのなみだ』より)
http://taraxacum.hp.infoseek.co.jp/teardrops/pseudo/evolution/evolution.html

ところで、「レイシストを自認する人はいない」(http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/004e939de411f89c16e369e12da118b6)という指摘もありますが、「私は性別役割分担をしても平等になりうる、と言っているのだ」から「私は性別役割分担にこだわってなどいない」という主張をする人は、「わたしはレイシストを自認していないのだから、わたしはレイシストではない」という主張にも賛成するんですかね?
ちなみに、貝枝はレイシストではありません。

「専業主婦」幻想

■漱石の小説などにでてくる専業主婦とは、女中さんをやとえるような身分の奥方なわけです。そのマネごと≒劣化コピーとしての核家族(「クレヨンしんちゃん」とか、女中さんのいない大衆的家族)が一般化したのは、1960年代からだと、上野千鶴子氏らは、のべていました。■で、そういった大衆的な核家族の一般的な時代は、すでにおわりをつげ、ともばたらきでないとたべられないか、結婚なんてとてもできない、という、ご時世がまたやってきたわけですね。■前近代だって、一生所帯をもたない男女はいたわけですし、所帯をもったって、家事以外のしごとをこなすのが当然の女性たちがあたりまえだったってことをかんがえると、「クレヨンしんちゃん」系の家族神話は、あまりに短期間だったわけです。
■それをかんがえると、「母性本能」など、ありもしない実体をもちだす中島先生とやらの トンデモぶりはもちろん、ユング派だかなんだかしりませんけど、なにを根拠にフェミニズムを論破しきったつもりになれるのか、全然わかりません。
■イリイチらによる、ふばらい労働論(シャドウワーク論)をどう位置づけているのか全然不明だし、「主婦は最低でも自分の生活費をもらっている理屈だし、たいていはもっと多くを自分のものとして使っている」なんて論理は、中世期の農奴にだって、あてはまってしまうでしょう。「たべさせてもらっている」というのなら、奴隷だって、従軍慰安婦(性的奴隷)だって正当化されてしまう。そこには、実質的にうみだしている労働価値が搾取されるという、古典的なマルクス的批判が欠落している。近代経済学のひとびとはマルクス経済学を無価値とおもいこんでいる層がだいぶいるようですけど、森嶋通夫(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%B6%8B%E9%80%9A%E5%A4%AB#.E4.BA.BA.E7.89.A9)らによって、搾取は実在していると論証されたわけで、市場や労働過程にとどまらず、シャドウワーク領域は搾取だらけなんだろうとおもいます。市場の外部にあるっていうリクツによって、経済学者が分析をサボっているだけ。
■などなど、ほかにも ツッコミどころは満載のはずですが、やるだけ不毛な気もしてくる。理論的にはすくなくとも。ただ、保守派の専業主婦擁護論者たちが、どういったズルを論理的におこなおうとするのか、そのケーススタディ(事例研究)の素材にはなるだろうけど、それこそ、マルクス派(marxsistではなく、marxian)フェミニストあたりの論客に緻密かつ体系的にやっていただきたいと。われわれ しろうとが、おもいつきでやるんじゃなくてですね。

■ともかく、山田昌弘氏がのべるとおり、専業主婦をかかえられる男性労働者は、基本的に「かちぐみ」なわけで、そんなムリして家事労働を特化させるような性別役割分業を、ノーマル視するのは、どうかしている。現代の社会状況をみても、歴史動態をみても。■というわけで、中島先生とやらは、なにをむきになって専業主婦という社会的地位を擁護しようとするのか、そのために、フェミニストを悪魔よばわりする動機はなんなのか、それこそ、防衛機制とやらのモデルをつかって分析したくなるわけですね。むしろ。

中島義道氏と間違えていませんか?

名前(苗字じゃない方)が似ていますが、中島義道氏ではなく、林道義氏です。議論の論理構造や事実関係とは無関係ですが、一応おつたえします。

@車内

■すみません。あさチェックできずに出発したので、いま移動中に確認しました。ごく最小限だけ、おかえし。

■ご指摘にとおり、中島氏ではなくて、話題にしたのは、林氏の方ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%81%93%E7%BE%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E9%81%93

■中島センセー。旧ブログでもとりあげたとおり(http://tactac.blog.drecom.jp/archive/11)問題を感じる立論をされる哲学者ではありますが、トンデモ学者ではありませんね。議論したら、かなり 意気投合するかも。■林センセーとは、アルコールがはいっていたら、まず なぐりあいですか…(笑)。
■全然別人物を混同して記事化してしまってはずかしいだけでなく、なんで こんなことになったのか、単なる老化のせいかのか、ちょっと検討してみます。

それは単純に、

>■全然別人物を混同して記事化してしまってはずかしいだけでなく、なんで こんなことになったのか、単なる老化のせいかのか、ちょっと検討してみます。

それは単純に、名前が「道義」と「義道」という風に、似ていたからではないですか?

であれば簡単なのですが…

■いや、問題の御仁が、「中林道義」氏とかではないし、差別意識に対する姿勢も、およそ方向性がちがうので…(中島氏は、ハラナ同様、かなりヘンクツで、ある種保守的ですが、ラディカルな面もかなりもちあわせ、単なる保守系トンデモ大学人とは、全然異質ですし)。
■いずれにせよ、疲労か老化か、精神状態の低下が きのうみられたのは確実です。そろそろ対策をかんがえないと。

ネタとしてどうぞ


林道義は、どうせ見てるんだろうから、質問かいておくよ。

、「私は性別役割分担をしても平等になりうる、と言っているのだ」から「私は性別役割分担にこだわってなどいない」という主張をする人は、「わたしはレイシストを自認していないのだから、わたしはレイシストではない」という主張にも賛成するんですかね?
ちなみに、貝枝はレイシストではありません。

という、以前みずからがかいた文章を転載しておく。
もちろん、この件に関しても、いままでどおり「私はいつでも論争に応ずる。ただし論争はぜひともフェアにやってもらいたいものである。」
いや、しかし、フェアであろうはずがない相手にフェアであることを期待するのは、ないものねだりだったかな?(…と、こころのなかでおもっているだけで、口には出さない)

ついでにいうと

この場合の「フェア」な「論争」とはつまり、

「わたしはレイシストを自認していないのだから、わたしはレイシストではない」という主張にも賛成するんですかね?

という問いにこたえることであって、その問いと無関係な事柄をいくらならべたてても「フェア」な「論争」をしたことになどまったくならない・・・などということは多少なりとも論理性がある人間には明白であるが、一応かいておく。それと、長期間公開されている場で質問と無関係な事柄をいくらのべても、それが「フェア」な「論争」でないことは読者にとって明白にばれることも注意しておく。

さらについでにいうと

問いと無関係なことがらをかいておいて、さもそれが問いと関係がある様に読者に印象づけるという手口も、読者にはばれる。
そしてその手口の際たるものは「わたしは関係のあることをかいている」と自分で(!)注意書きをしておく、という手法だが、そんなことをしたら……どうなるでしょう?(正解は、実際にそれをやってからのおたのしみ)

分化論と差別

> 「私は性別役割分担をしても平等になりうる、と言っているのだ」から「私は性別役割分担にこだわってなどいない」という主張をする
 ↑
●この論理を、いわゆる「人種」(幻想上の集団分類)に機械的にスライドすると、
「(国家間にせよ、区域間にせよ)人種による すみわけそれ自体 自然状態/自生的秩序かもしれないのだから 不当とは かぎらない」と、私は主張しているのだから、「私は生活圏分離には、こだわっていないことになる
ということでしょうかね。●論理的に破綻しているとか矛盾しているとか、そういった次元ではなく、あるいは事実誤認とかいった次元でもなく、論理的に無関係で つなぎようがない 「主張」同士ですね。
●ちなみに、分離・分業が不当ではない自生的秩序なのかどうかは、「性別」にかぎらず、「階級」「社会的身分」など、ありとあらゆる属性分化に 適用可能ですね。●しかし、分化していても不当でないという仮説を主張することと、分化にこだわっていないという自己主張(認識)とは、まったく別個の事項であり、両者をつなげると信じている御仁の、アタマの構造は、どうなっているんでしょう?…
●「自分は差別主義者ではない(と信じている)」という主張がしたいらしいこと、しかし、周囲はそう位置づけていないという、自他の評価の対立だけが、うかびあがります。おそらく防衛機制のたぐいでしょう。なぜなら、差別(主義)者でないという具体的論証は、いっさい用意されていないで、結論というかテーゼだけが、不用意につきだされているだけですから。●こういった先生におそわる大学生というのは、悲惨ですね。

差は、もっとシンプルに苦難に対するトレーニングの差ではないか?
なぜなら人が自分の人生においては、必ず『個人的な心の沈み』が原因になるものだから。
自分の生を終わらせる時に、『社会』などは関係ない。

例えば女は『男に対しては負けてあげる』トレーニングを例外なく積まされる。
『たとえ勝ってても負けてやれ』『男のプライドは傷付けるな』と、苦渋を舐める訓練を成人までに済ませる。

翻って、男はまず最初に家庭において特別扱いをされる。
・男だからと大学に進学。(長女は高校まで)
・夕飯のおかずは常に一品多い。
・風呂の順番は、父⇒長男⇒次男⇒母⇒長女。
・長女が家の手伝いをサボれば叱責されるが、長男には要求すらしない。
・小遣いの額
etc.etc.

差別される女を見て、男に生まれた事に内心で安堵した経験が一度も無い男など存在しない。。
それが社会に出れば、同じように優遇されて育った男と競争するハメになる。
そして競争に敗れた男は『打たれ弱いが故』に自滅する。
逆に女は、幼少時からの抑圧による『敗北を強制するトレーニング』の経験がある為に強い。
戦前の男なら、それでも成人までに、様々な危機に曝されて心を鍛えたのかも知れないが。

成人までに精神を100度叩かれ鍛えられた女は死なず、
成人までは金の盆で飯を差し出されていた男は挫折をすれば簡単に死ぬ。

男女差の私見

女性の方が、成育歴上、うたれづよくそだつ、という仮説には成立するかもしれません。が、それは、実証困難かとおもいます。
個人的には、オトコのよわさは、福岡さんらがいう、できそこないだからではなく、不妊の性という宿命かとおもいます。女性は、まずは、妊娠の可能性を前提に人生を出発させます。そのうえで、不妊なら第二の人生を構築します。
結婚もそうですね。第一は、扶養される人生を模索することがおおい。そのうえで、自立した人生を模索する。
おとこは、自立を余儀なくされます。自立できない男性も当然いるわけで、経済的自立に失敗した時点で。自動的にツブれると。
安冨歩さんらがいう、ハラスメントは、質のちがうかたちで、男女ともうけているので、それの質的ちがいが人生をどう規定するのかは、簡単には整理できないとおもいます。

アホか

ブログ拝見させていただきましたけど、あんたらフェミニストは怖いな・・・
俺は女は小さい頃から差別されてるどころか、むしろ小さい頃から優遇されてると思う。
例えば、小・中学校等で男子が女子をいじめたら教師から「馬鹿野郎!」と怒鳴られるのに、女子が男子をいじめても教師からは全くお咎めなし。
いい加減にしろ!
お前ら女は優遇され過ぎじゃ!
お前ら女は優遇されてるくせに「差別されてる。」と言うなんてたいがいにしろ!
足るを知れ。

アホか

下から2番目の名無しさんの「女は男に対しては負けてあげるトレーニングを例外なく積まされる。」とか「女は差別されて男のほうが優遇されてる。」等の意見を読み、被害妄想もたいがいにしろと思いましたよ。
何が女は差別されて男は優遇されてるだ!逆だろ!むしろ男が差別されて女のほうが優遇されてるわ!
例えば、名無しさんが挙げた5つの女性差別の例ですが、1番目の「男だからと大学に進学。(長女は高校まで。)」というのはまあ確かにそういう家庭はたまに有るかもしれませんが、それ以外の「夕飯のおかずは常に一品多い。」、「風呂の順番は、父⇒長男⇒次男⇒母⇒長女。」、「長女が家の手伝いをサボれば叱責されるが、長男には要求すらしない。」等の例は全く聞いたことがありません。完全な被害妄想です。
少なくとも僕(僕は妹が1人います)や、僕の周りの友人にはそういう男尊女卑の家庭はありません。夕飯のおかずの量は男と女の差はありませんし、風呂の順番は父の次は長男ではなくて母ですし、家の手伝いをさぼれば妹だけじゃなくて僕も親から「馬鹿野郎!」と怒鳴られていました。(妹のいる友人も、手伝いをさぼれば親から「馬鹿野郎!」と怒鳴られてたそうです。)
名無しさんが上で挙げたような例なんて生まれて初めて聞きましたよ。そんな家庭は本当に存在してたんですか?昭和の頃ですら、そういう異常な男尊女卑の家庭は珍しかったんじゃないですか?
一見世間では昭和は「男尊女卑の時代」みたいに言われてますが、昭和の頃は夫が威張ってる男尊女卑の家は意外に少なく、むしろサザエさんの家のように女房が威張って夫がいじめられてる女尊男卑の家のほうが多かったそうですよ。
女性の権利ばかり声高に叫んでる暇があったら、男性差別の撤廃を努力しましょうよフェミオバサン達。

被害妄想による逆差別論

おとこらしさ幻想にくるしめられているのは、あわれではあるのだが、オンナたちから差別されていると信じて、オヤジが女性差別を全然していないとおもいこまされている、わかものは、また最低なオヤジになりさがるのだろう。
こういった自分たちの差別を自覚せず、被害妄想だけにこりかたまるオトコたちの様子は、「理不尽な反日包囲網に攻撃されている日本民族」といった右翼らと、そっくりだ。

「昭和の頃は夫が威張ってる男尊女卑の家は意外に少なく、むしろサザエさんの家のように女房が威張って夫がいじめられてる女尊男卑の家のほうが多かったそうですよ」って、どこからきかされたんだろうね。
日本が、欧米社会とちがって、以外と「かかあ天下」だという逆説はあるのだけど、「かかあ天下」が上州の特徴といわれるぐらいだから、例外的ったんだとは、かんがえられないのかね。

チューリングマシン

> ブログ拝見させていただきましたけど、あんたらフェミニストは怖いな・・・

1) 「あんたら」←ケンカごし
2) 「いただきました」←戦略的慇懃無礼のつもり? いずれにせよ、前項の文体と矛盾していることに、無自覚みたいだ。
3) 「あんたらフェミニスト」←本文やコメント欄のかきてを「フェミニスト」と独断。しかし、性別や性的指向・政治的指向などが、明確にわかっているとはおもえない。たとえば、女性性を強調した保守系フェミニストなどの存在などは、おそらくしらないだろう。
4) たとえば「フェミスト検定ロボット」をつくり、あたえられた文書データを機械的に処理した文章の方がずっと、かしこげにみえるかもしれない。

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