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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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参照文献はなぜ必要か : その目的と機能(林 哲也)

■ウェブ上では、キャッシュ情報でしかよめなくなっている、おやくだち情報。筑波大学図書館におつとめだった林 哲也さんというかたの文章らしい。■(注)などは、全部まともによめないし、リンクぎれも大量にあるが、よめるものは リンクした。本文最終部分を地でいっているような文章(笑)。



“参照文献はなぜ必要か : その目的と機能”

本はお好きですか? 図書館を使っていますか?  自分は本とか読まないし興味もないから図書館に行く必要もない、と考えているかたはいらっしゃいませんか? 

日頃から習慣的に本を読むか読まないかは各人の自由、人それぞれの趣味嗜好に属することで、 本をまるきり読まなくても多くの人はなんら支障なく日常生活を送っているようです(注)。 本は、読書が嫌いならば無理して「読む」必要はありませんけれども、「使う」必要は絶対にあります。 図書館は本を読んだり借りたりするだけの場所ではありません。 大学でのレポート・論文では、 「内容が思いつきや独り善がりでないことを示すこと」(注)が求められます。 「証拠立てられない私見だけでは論文にならない」(注)ので、 客観的なデータや文献による論拠があることを明示しなければなりません。 そしてその文献を入手するには図書館の利用が必要不可欠なはずです。

教員の研究室を訪れて、本のあふれかえった書棚を見たとき、 「先生、これを全部お読みになったのですか?」と、つい素朴な問いを発したくなってしまうことがあるかもしれません。 しかし、研究に使う本というものは、たとえわずか一箇所でも役に立つ部分があればそれで立派に役割を果たしているのであって、 端から端まで通読するのは、むしろ特別な例外だけといえます。 どんなテーマを選択するにしても、およそ何事かをある程度以上の水準でまともに調べて論じるには、 目を通しておくべき文献はかなりの量にのぼることになるものです。 読むべき文献はあまりにも多く、それに対してわれわれの使える時間は限られています。 本というものは、読むからには最初から最後まで通読しなければいけない、という思い込みを捨てて、 拾い読み、飛ばし読みをむしろ基本にするくらいでないと、なかなか消化しきれません。 調査・研究の際は、本は「読む」ものではなくて「使う」もの、必要な箇所だけを参照するものです(注)。

テーマが課題として与えられた場合でも、自分でテーマを選択設定する場合でも、いずれにしても最初に必要な作業は、 文献を調査することです。 そのテーマについて現在までにどんなことが書かれてきたかを知らなければ始まりません。 「先人の業績を知らなければ自分の研究の価値がわからない」(注)、 「研究の結果がどれほど興味あるものであっても,同じことをすでに他の学者が発見していたとすれば,多大の努力によって完成した業績も意味の少ないものになってしまう」(注)。 先行研究によって解決済の問題は何か、どんな部分がまだ誰も書いていないこととして残っているか、 網羅的、徹底的に調べることによって、ようやく研究の出発点に立つことができます。



 図書館セミナーの配布資料 「レポート・論文の形式を整える―レポート・論文を書く前に」 (pdf) には、以下のような説明があります:

先行研究の調査
・先行研究を参照することなしに、学問はありえない~巨人の肩の上に…
・自分が論じた内容を、実はすでに他人が論じていたら…
・丸写しだと思われかねない
・自分の論じたい問題は、これまでどのように取り上げられてきたのか
・研究状況の整理
・自分の論文が果たすべき役割の把握

 ほかに、参照文献には、自分で書く必要のないことを書かずに済ませる機能もあります。 「参照した文献を明示することにより,著者側から読者に関連資料の存在を伝えると同時に, 読者側からはその研究分野の動向を確認・評価することが可能になる」のです(注)。 その件については既にこの本/雑誌のこのページに書かれているから自分が同じことを繰り返しても屋上屋を架す無駄な仕事になるだけなので、 あなたもこれを読んでください、というわけです。 他の文献を紹介し、詳しくはそちらを読むようにと委ねることは、文面を節減し、 簡にして要を得た密度の高いレポートや論文(注)を書くことにもつながります。 解説記事や入門書では、著者である自分はこのような文献を参考にして書きました、というよりもむしろ、 読者であるあなたにはこれを読んで参考にするようお勧めします、という読書案内の意図を込めて列挙する場合もあります。

 「昔読んだ文章が頭の中に残って、あたかも自分のもののようになっていることもある」(注)、 「人間の脳の性質上、そうして読まれた文章が無意識のうちに逆流してきて、思いがけないところでひょっこり顔を出すことがある」(注)。 また、記憶の錯誤もありえます(注)。 たとえ本当にそれを読む前に自分で独自に考えて同じ結論に達したのだとしても、 先に印刷公表した人にプライオリティ(優先権)があります。 その文献の存在を、知っていながら言及しなければ剽窃になってしまいますし、 知らなかったとしたら不勉強、調査不足のそしりを受けます。

 「他人を模倣するのではなく、自分ひとりで他人とは違う考えを編み出せたと思ったとき、それがほんとうに独創的であるケースはめったにない」(注)。 「研究というものは、他人がすでに明らかにしてくれたことがらの莫大な蓄積の上に、ちょこっと、自分がはじめて明らかにしたことを付け加えることによって進んでいく」(注)。 先人の業績の恩恵を受けることの比喩として、 「巨人の肩の上に」 on the shoulders of giants という言葉がしばしば引用されます。 Google Scholar のトップページの標語にも使われています。 ニュートンは、フック宛ての1675年2月5日(ユリウス暦。グレゴリオ暦換算1676年2月15日)の書簡に、 If I have seen a little further it is by standing on the shoulders of giants (もし私がわずかでもより遠くまで見通したとしたらそれは巨人たちの肩の上に立つことによってだ) と書きました(注)。 これは、シャルトルのベルナルドゥス(1126年没)が語った言葉として弟子のソールズベリーのヨハネスが伝える 「われわれはまるで巨人たちの肩に座った小人たちのようなものだ」 (注)をもじったものでした。

 「自分がどのような素材(調査、統計、テキスト、先行論文)を使ったのかを明示し、それがどこで手に入るのか、そのどこを使ったのか、第三者が必要とあればいつでもチェックできるように、こうしたことを論文の中にきちんと示しておかなくてはならない」 (注)、 「引用するということは裁判において証拠を持ち出すようなものだ。いつでも証拠を見つけることができ,それらが根拠のあることを立証できるようでなければならない」 (注)。 入手困難なものを参照文献として記述してしまうことは、 著者の論拠を読者が必要に応じて確認できるようにするという、本来の目的を損なうことになります。 自分がたまたま入手した版をそのまま記述するのではなく、より適切な版が公表されていないか、あらためて確認しておく必要があります。 そうして検索してみた結果、改訂版が出版されていたことに気付き、 しかもその改訂版には、いままでのあなたの論議を覆すような修正が加わっている場合もあるかもしれません。

 公開されない資料は、「他者が情報の内容を確かめ,あるいは利用することができないから,特に必要な場合を除いて参照文献に含めることは避ける」 (注)。 私信、学会における口頭発表等が、 「参照の事実の主張あるいは報知」として参照文献に含まれることがあります。 しかし、必然性のあるやむをえない場合以外は、一般に入手可能な印刷公表された文献を極力みつけて代替すべきです。 「文献は,公式に発表されたものしか引用してはいけない」 「学位論文を引用してすますのは,読者には迷惑なことである」(注)。 卒業論文や修士論文は、非公開資料です。 博士論文の場合は印刷公表することが学位規則により義務付けられており、公開資料ではありますが、 それをもとに再編集して書籍のかたちで出版(注)されていないかどうか、要チェックです。

 「新聞は版を重ね、版面が刻々と変化していきます」(注)。 参照文献として利用する際は、縮刷版に基づいて引用すれば、同一紙面への確実なアクセスを読者に保証できますが、 あなたが原紙で読み、手元に切り抜きを保管している記事でも、版面の差し替えの結果、縮刷版には掲載されていない場合があり得ます。

 「引用とは、簡単にいえば、権威に頼ることである。これも説得力を高めるための技術だ。「私はこう考える」と言うより、「ゲーテがこう言った」のほうがありがたみがある」(注)。 けれども通俗的な引用句辞典には不正確なものが多いので留意が必要です。 たとえば、「ローマは一日にして成らず」の出典を『ドン・キホーテ』としている辞典が複数ありますが、 原典でローマという地名が出てくる箇所のいずれもこの諺に関係がなく(注)、 続編の第71章で主人公が従者のサンチョに「サモーラも一時間では落城せなんだぞ」と言うせりふを英訳者が、 16世紀ごろからイギリスに普及しだした俚諺「ローマは一日にして成らず」を活用・意訳したところにこの誤解は由来すると推定されます(注)。

 ビジネス書でしばしば言及される「茹でガエル」の喩え話について、 「水を入れた鍋の中にカエルをそっと坐らせておき、今こそ跳び出す時だと悟られぬように、極めてゆっくりかつスムーズに温度を上げていくと、カエルは結局跳び出さずにゆで上がってしまうという疑似科学的な作り話」 (quasi-scientific fable) とベイトソンは書きました(注)。 寓話の一種であり自然科学とは無関係とも言われますが、英語版 Wikipedia の Boiling frog の項には、 温度変化をはじめ各種の刺激に対する神経系の反応を調べるために多数の実験がカエルを使って1870年代・1880年代におこなわれたことを示す、 スタンレー・ホールと元良勇次郎の1887年の共著論文をはじめ、いくつかの文献が紹介されています(注)。

 「蟻のように働く」という慣用句や、旧約聖書の箴言6章6節-8節、 イソップの寓話(「蝉と蟻」、 「アリとキリギリス」) 等のイメージに反して、「働きアリの2割はサボっている」 という「働きアリの法則」も、いろいろな場で語られています。 勤勉に働くアリ/並に働くアリ/全然働かないアリの比率は、 6:3:1、 3:5:2、 3:3:4 などとする紹介者もありますが、 科学者による観察(注)とは別次元で パレートの法則 (Pareto principle) を漠然と援用して2:6:2とする言説が多いようです。

 インターネット上の情報(注)は、情報探索の手掛かりとしては、強力なツールとなります。 けれども、「アクセッシブルなものを引用するという原則を考えると, Webサイトの引用は避けなくてはならない」(注)。 URLが変更される、内容が書き換えられる、サイト自体が閉鎖されるなどの可能性が常にあります。 ボルヘスの短編小説「砂の本」 El libro de arena (注)に登場する、二度と同じページが見られない本にも似て、 同一内容のウェブページにアクセスすることを読者に保証できません。 著者が意図した参照先の内容を読者に共有させることに支障をきたします。 類似の内容が書かれた図書/雑誌を探して、紙媒体の文献で代替するよう努めましょう。


(資料集) 文献および抜き書き

【以下略】
------------------------------------------
“(資料集) 文献および抜き書き”が、また上質ですばらしいが、ながいので省略。■リンク情報だけ、はっておく。


・“SIST02 参照文献の書き方”. SIST 科学技術情報流通技術基準. 2007-03. http://sist-jst.jp/handbook/sist02_2007/main.htm, (参照 2009-03-01).

・岡田稔. “4.1 参考文献として引用できるもの”. 科学技術論文の書き方. 2008-05-12.http://www.okada-lab.org/Ronbun/, (参照 2009-03-01).


・葉柳和則「文献探索法(学部学生版)」 http://hayanagi-semi.web.infoseek.co.jp/zemi/bunkentansaku.html, (参照 2009-03-01).




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コメント

いつかわたしは参考文献リストがゼロの文章を書いてみたいという思いがあります。

文章の目的によりけりだとおもいます

■エッセイや小説に通常注記がないように(たとえば、田中康夫のデビュー作『なんとなく、クリスタル』が、おそらく 注記のついた 最初のフィクションだったとか)、なくてすませられる(完結する)なら、それが当然いいわけです。■しかし、厳密な議論を説得力をもって展開するためには、異論をもった読者に「論拠」を提示しなければなりません。ま、た起源や背景を もっとしりたい。といった読者層への司書的な紹介作業も、アカデミズムはせおっていると。つまりは、競争と教育とが、注記には こめられています。先人たちへの恩義と、同業者への威嚇と、後輩たちへのエールなどもからんで。

■心理学者の岸田秀さんは、注記にすると、面倒くさがって よまない読者がでそうだ(自分はすくなくとも、面倒で、いちいち参照しない)という理由で、全部ベタがきするか()で本文直後に追記するかたちをとると、どこかで 発言していました(典拠が、おもいだせませんが、こういった あいまいな状況にのった この表現自体が「無責任」ということです。)。

■いずれにせよ、地の文だけで完結するのが、うつくしいという理想はあれども、もっとしりたい。その文章の根拠を最初からあらいなおしたいという読者を封ずるような名人芸は現実的に困難であり、以前かきましたけど、ウィキペディアみたいなリンク形式が、一番すっきりするかと(http://tactac.blog.drecom.jp/archive/564)。
■あとですね。いっさいの参照行為が不要な完璧な文章というのは、めざしたい感情を否定できない一方、ソボクな疑念ですけど、そういった「名文」というのは、宗教的信念の表明というか、読者の洗脳のような気もするのですね。本文が、外部にまったく依存していないで、読者が瞬時に了解するってのは、現実問題 かなり危険な状況ではないかと…。

著者から、ご指摘あり

■現在は、こちらで よめることを、ご指摘いただいた。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/memb/hayashi/bibref.html

■ただし、ご本人からも、いつまであるか、保証ではないとのご指摘あり。ウェブ上の情報に警戒的な御仁たちの消極的な姿勢には、いつも ヤレヤレという気にさせられるが、リアル図書館という物理的蓄積庫を前提としたアカデミズムにとっては、当然の反応なのだろう。■その意味では、ウェブで情報をながすひとは、おおきな組織ほど、その継続性の責任をおうね。

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