プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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複製技術と潜在的才能≒人生の可能性

■ときどき更新される社会学者のブログ(晴耕雨読-ある社会学者の日常)の最新記事。



http://koharakazuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-2890.html
2009年2月15日 (日)
あきらめること、について

昭和初期のカラー映像」という記事について、友人からコメントをもらった。

 昔の人たちのたたずまいの美しさに感動したこと、そうした美しさはもしかしたら、「あきらめ」を知っていることによるのだろう、ということ。「あきらめ」ってネガティヴにとらえられがちだけれど、それは一種の人生に対する覚悟みたいなもので、そこから僕らは多くを学べるのではないか、といった内容だった。

「昔の人たちはあきらめることを知っていた」という実感は僕もある。

 たとえば学生さんを見ていると、僕らの年齢とたかだか20くらいちがうだけなんだけど…、…でもそのたった20年くらいの間にも、「あきらめる」っていうことがずいぶんなくなってきている気はする。

 言い方は厳しいかもしれないけれど、覚悟を決めずにずるずる就職浪人したり、勉強を特にしたいわけでもないのになんとなくモラトリアムで大学院進んだり、という人がすごく増えているように感じられる。


 そしてそれは少しも他人事ではなくて、僕自身だってちょっと上の世代からみたら同じように見えるのだろうと思う。同世代から見てもそうなのかもしれない。そういう意味では良くも悪くも時代の先端をいっている気はする。



 今僕は「文学部唯野教授」みたいな、大学の授業を再現するような類の小説を(無謀にも)書きはじめているんだけど、実際に書いてみると、文章の文法みたいなものが意外にわかってないことがわかってしまった。

 セリフと地の文をどうやって使い分けるか、とか、場面転換をどうしたらいいのか、とかそういった、きっと高校や大学の文学同好会みたいなところで同人誌とかを作ってきた人なら必ずなんとなくわかってるようなことがわからない。小説を読むときにはちゃんとそういう文法を理解して読んでいるわけなんだけど、読むのと書くのとじゃ大違いなんだね。

 で、訓練のために試しにマンガ(よしながふみの短編)のノベライズを一本やってみた。それで、ちょっとコツがわかってきたので、今度は英訳された日本語の小説を和訳し直すという作業を今やってみてる。

 何回も何回も読んだはずの作品(村上春樹の「午後の最後の芝生」という短編)なんだけど、なかなかそれらしい表現を見つけるのが難しくて、作家ってすごいんだなあということをあらためてしみじみ感じてる。



 さて、こういうたぐいの「勉強」とか「訓練」って、仕事でやってる「勉強」や「訓練」とはずいぶん違って、すぐに成果が出るようなものではない。それはある意味、人生の可能性を広げるようなタイプのものだ。

 陶磁器の職人さんが研究に研究を重ねて、新しい色を出す、とかそういう種類の努力とはまったく違った種類のものだと思う。


 今ではそういう「勉強」をカルチャースクールみたいなところで、一種の「遊び」としてやることができる。今僕がやっているようなことは、きっとカルチャースクールの「小説を書いてみよう」みたいなコースできっとやっているようなことだ。そういう余裕っていうのはやっぱり過去の日本人の多くにはなかったものだろうと思う。


 でもやればできるという可能性は確実に存在してる。音楽だって、自分でCD作ってみてわかったけど、プロが作ってるものとそう質の違わないものが、ちょっとした投資と時間をつぎ込むことでアマチュアにもできてしまう。それで食べていくことはとてもできないけれど、それでもプロがつくっているものと同じ値段を出して買ってくれるような人がちゃんと存在する。そのくらいのものがアマチュアでも作れてしまう。


 文章だって、地方紙の新聞でプロの記者が書いているお粗末な文章よりもよっぽど気の利いた文章を書ける人がいくらでもいて、ブログが有名になったりもする。


 そういう可能性っていうのはかつてはほとんどなかったはずだ。アマチュアの人が文章を他の人に読ませるような場というのはなかなか見つけられなかっただろう。よっぽどの覚悟を決めて早い段階から人生をそっちの方向に絞っていかない限り、誰かに読ませる文章を書くような機会なんて得られなかった。でも今は違う。


 今でも、それで食べていこうと思ったら、かつて以上に競争が厳しくなってるわけだから、それはすごく大変だけれど、でもセミプロくらいのところなら、才能があって努力すれば、たとえばこのくらいの年齢になってからだって、結構何とかなる。


 昔の人の伝記とか読むと、特に立身出世した人たちの多くは、すごく無鉄砲にがむしゃらにやって成功した、という人たちが結構いる。たぶん今の子どもたちは情報がたくさんあるから、きっとそういう無鉄砲さはだいぶ失われているのだろうと思う。でもその無鉄砲さというのはあくまで若い頃のものだ。そして同じように無鉄砲なことをやって失敗した人たちのほうがずっとずっとたくさんいたはずで、ぼくらはたまたま成功した人の事例だけを歴史の中で見ているにすぎない。


 その一方で、年をとってから、何か新しいことを勉強して、そこそこのレベルまで行くということは、間違いなくずっと簡単になっている。僕らはそういう可能性の中に生きている。プロとアマチュアの差はとても小さくなっている。


 友人が言うように、こういう今の時代のありようというのは、必ずしもいいことばかりとは言い切れないようには思う。可能性がそこにあっても、目をつぶって前だけ見て進むこともできるはずだ。いわゆる研究者という職業についた多くの僕の同僚はそういう生き方をしている。そうしないと専門家として大成できないということもあるのかもしれない。


 正直迷いはずっとあるし、これからもそうだろうと思うけれど、ただ数年前からよく思うのは、どういうふうに生きたところで、それも一つの人生だということ。

 いろいろ可能性が広がったとはいえ、生きられた人生の現実はいつも一つ。その人にとっては悲惨に思われるような選択になるかもしれないけれど、それも一つの人生なのだなと。

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■この社会学者は、だいぶまえに、こんなこともかいている。


努力と才能 ?「二十歳のころ」 神谷郁代 (2)

 さてこの神谷さんのインタビュー(二十歳のころ)、こんな短い中に心を打つ言葉がぎゅっとつまっているので、下手するとすべてを引用したくなってしまうくらいだ。

 僕がその中でも一番おーっと思ったのは次の箇所。

――いつから自分にある程度の自信がつきましたか?
神谷 自信、自信ねえ。はっきりしないわね。やっぱりコンクールもそのひとつでしょうけど、それは人からの評価ですよね。それよりもやはり、自信は自分の練習量に裏づけられるものでしょうから。自分がいかに努力したかでしょう。


 ここでインタビュアーの大学生は、この前僕が書いたような『自分は、そうした世界で生き残っていけるだけの才能にめぐまれていた』という自負を神谷さんが「いつ」持つようになったのか、ということを問題にしている。神谷さんがそうした自負を持つようになったのは間違いないと考え、それがいつだったかをたずねているわけだ。
 しかし神谷さんはそういう大学生の意図をおそらく理解したうえで、その前提自体を無効化してみせる。それは才能とかではなくて、努力の問題なんだと。
 こういう感覚は何となく分かる気もする。演奏会でひとり舞台に立つとき本当に信じられるものは、自分がどこまで準備できているか、という文字通りの「自信」、自己信頼なんだろう。そして、自分はこれまでこうした場を成功させてきたという経験と実績への信頼でもあるだろう。
 演奏会などとは比較にならないかもしれないが、たとえば僕自身の経験を振り返っても、毎回の授業での自信がどこからくるかといえば、やはり準備がどれだけできているかということ、そして以前にはうまくいったという実績にある。その準備は「努力」と言い換えても問題ないだろう。
 こうした神谷さんの答えに対し、インタビュアーは「努力対才能」という図式を持ち出し、「ピアノの世界は努力だけでなんとかなるはずはない」という信念のもとに、自分の問いの意図を再確認する。

――でも、音楽を含めて芸術の世界では才能ということが重くのしかかってきますよね。その自らの才能に対する自信というのは・・・。

 これに対する神谷さんの答えがすごい。

神谷 努力には才能ということが大きく関わってくるのよ。才能がないと自分自身が成長しているかも自分で判断できないし、たとえそれが判断できる位の才能があっても、逆に自分自身のレベルが伸びていないことがわかるから、やっぱり途中で嫌になってしまう。だって、いくら練習してもあまりうまくならなかったら、一年くらいは続くかもしれないけれど、十年も続きます?。結局、才能があるからこそ、人一倍努力できるのよね。そうすると、たとえ自信なんて別に意識しないでもピアノを続けていけるのよ。だから、逆に言えば、ずっと努力し続けられる人こそ才能があるのではないかしら。

 この答えは本当に目からうろこだった。「努力するためにも才能がいる」というような答えはよくあるものだと思う。「自由意志 対 決定論」の枠組みで考えると、決定論側は必然的にそのような解釈をすることになる。しかし神谷さんの答えは、デューイに代表されるプラグマティズム(注1)の哲学そのもので、またそれは合理的選択理論(注2)にも則っている
 彼女の考えによると、努力というのは、いわば才能の鏡だ、ということになる。努力できる人、というのは、単に我慢強いのではなく、努力すれば努力しただけ成長できる人なのだと。それだけの才能があるから、人は努力するのであって、そういう才能がなければ、努力に価値を認めることはできない。
 たとえば「天才とは1%の直感と99%の発汗である」 (Genius is one per cent inspiration and 99 per cent perspiration)という言葉がある。多分これはほとんどの天才と言われる人の実感だろう。しかし、その99%の努力をひらめきに結びつけられるだけの才能と自信こそがその努力を産んでいるのだと考えるべきなのだと思う。そして神谷さんの言うように、自信はその努力から生まれてくるのだとすれば、才能のあるなしを初期条件として、自信と努力のポジティヴフィードバック(注3)が動き出すか、そうでないかで人生が大きく変わってくる、ということにもなる。


注1 プラグマティズム ここでは、行為の結果が次の行為にフィードバックしていく、という図式がプラグマティズムの中心的な考え方であるため、この語を用いている。フィードバックで考えるという思考方法はシステム論的ともいえ、デューイの同僚だったGHミードを通して特に自己論において社会学にも大きな影響を与えている。
注2 合理的選択理論は、社会現象を、単位となる個人(やグループ)の合理的な決定を前提として説明していこうとする立場。ミクロ経済学などがその代表で、現在は多くの場合ゲーム理論を用いている。
この場合、神谷さんの考えが合理的選択理論的であるのは、努力をする人もしない人も両方合理的な戦略によっているという前提を満たしているからである。努力しない人は努力によって得られるものよりも失うものが多いから努力しないのだし、努力する人はその逆なのだと。
ここから、カルヴァンの預定説のように、努力することによって才能が証明される、という側面もあることになる。努力は才能のシグナルになる。こういうシグナル理論については僕のHPにある「受験のハンディキャップ理論」を参照。
注3 ポジティヴ・フィードバックについては僕のHPにある論文を参照。原因が結果となり結果が原因となるという循環で、ちょっとしたことが大きく広がっていくそうしたシステムを呼ぶ。たとえば火事など。熱が火を起こし、火が熱を起こしてさらに大きな火になっていく。「ブレイクする」といった現象もそれ。

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■どの程度 この社会学者が自覚しているかわからないが、最新記事では、複製技術の進展によって、プロ・セミプロ・アマチュアの格差がちぢまり、潜在的才能≒人生の可能性が極大化する現代社会をのべているとおもう。それが、かならずしも しあわせをもたらすとは、いえないと。■しかし、以前の文章では、芸術家の才能観に感動して感情的になっていることをわりびいても、<才能があるから努力できる><努力できるのは才能だ>という、みもふたもない循環論法におちいっている。「才能のあるなしを初期条件として、自信と努力のポジティヴフィードバックが動き出すか、そうでないかで人生が大きく変わってくる」という知見は、少々めあたらしいものの、所詮は結果論にすぎないし、「自信と努力のポジティヴフィードバックが動き出す」条件を整理する気などはなさそうだ。そして、その整理がなされないなら、才能×ポジティヴフィードバックを可能にする環境、という、ある意味あたりまえ、そして、以前から大衆が直感してきた「天与の才」という、みもふたもない宿命論に、あらたな ころもをきせたにすぎない。
■いや、古典芸能(とりあげられているのは、ピアニスト)のばあいは、プロ⇔アマチュアという、格差が質的断絶であって、ちぢめようがない本質があるとか、いろいろ 背景に直感などが あるんだろうが、「音楽だって、自分でCD作ってみてわかったけど、プロが作ってるものとそう質の違わないものが、ちょっとした投資と時間をつぎ込むことでアマチュアにもできてしまう」とのべている以上は、そのヘンの整理も必要。■「カルチャースクールみたいなところで」「一種の「遊び」としてやることができる」「勉強」「訓練」を、「陶磁器の職人さんが研究に研究を重ねて、新しい色を出す、とかそういう種類の努力とはまったく違った種類のもの」と、かんがえているところをみると、その対照は、アマチュアリズムかプロフェッショナリズムの質的差異なのだろう。しかし、こういった「職人」わざについても、「ちょっとした投資と時間をつぎ込むことでアマチュアにもできてしまう」のだとしたら、趣味か職業かといった真剣味によって結果が異質とはかぎらないということを意味してしまうだろう。■だったら、職人わざと、天才だけに可能な「古典芸能」とは異質で、後者は、アマチュアが追随できないということか? ひょっとしたらそうかもしれないが、一代の天才がちょくちょくできてしまうバレエのような空間や、家業の集合体とおぼしき歌舞伎界とか、技能習得過程が公開されることで劇的に変貌してしまいそうな気がする。
【かきかけ】



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