プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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「ひとかたまりの思考(イメージ)」を、言語化=線状化すること【追記あり】

■アルコールがはいっているので、いつも以上に すべるかもしれない(笑)。

中野明『書くためのパソコン』PHP新書,2000年,p.222)から、再引。


書くというのは、空間的並存状態にあるものを時間的継起状態へ移し入れることである。そこに雑然と並んでいるものを一つ一つ時の流れへ投ずることである。」(清水幾太郎 『論文の書き方』岩波新書,1959年


■近代日本列島における、清水幾太郎という、社会学者・ジャーナリストが、どういった存在なのか、しょうじき、よくわからない。■でも、中野さんは、えらく感動して、「う~ん、私も同様のことを本書アウトラインの章で書いたつもりだが、重みが違う。…」などと、絶賛。■えーかげんに よみとばしているので、どこが該当箇所かわからないのだが、そんな たいした なかみだろうか? ■「空間的並存状態にあるもの」という以上、複数の項目なのだろう。「複数」であるかぎりは、一挙に(いいかえれば、時空上同一に)提示することは不可能であり、であるがゆえに、時間をとって、順々に しめすほかないと。■それ自体は、しごく もっともな気がする。

■しかし、それにつづく「そこに雑然と並んでいるもの」という ものいいからすると、それは 単なる複数性の共存・対立ではなくて、「未整理」「無秩序」という 価値判断が はたらいていることに きづく。■そうとなれば、そう簡単に同意するわけにはいかない。
■なぜかといえば、「雑然と並んでいる」複数の物理的実体が、それ自体で、「時間的継起状態へ移し入れる」べき存在か、それは 具体的文脈次第だとおもうからだ。■たとえば、玉砂利(たまじゃり)が しきつめられている状態を、「秩序」とみるか、「無秩序」とみるかは、価値観次第だろう。だって、まるいし自体は、盤上の碁石みたいに、整然と配列されているわけではなくて、単に量的な存在として、しきつめられているだけなんだから、そこに「整然とした体系」をみてとるのは、そういった美学ゆえの産物にすぎない。「ただ、ほぼ たいらに、しきつめられているだけ」という見解に反論できない。

■要するに、清水幾太郎御大、もっともらしげに、おもおもしい表現をえらんでいるが、ほとんど 無内容=無意味な ことばあそびをしている可能性がたかい(てもとに、岩波新書がないんで、たしかめられないが)。■整理するなら、(1) 無秩序な並存状態を秩序ある配列に整理整頓する。という作業と、(2) 二次元的(平面上)に存在している複数の要素を、一次元的(線状)に配列しなおす。という作業とは、全然次元のちがう、別個の過程であり、それらを混同するのは、ゆるしがたいということ。■いっちゃわるいが、中野さん、清水御大の、ナルシスティックな よっぱらいぶりに けむにまかれて、とんでもない もちあげかたをしているんじゃないか?

■たとえば、棋士(きし=囲碁プレイヤー)にとっては、碁盤の白黒の 碁石の配列・競合には、整然とした戦略的・戦術的意義がみてとてれるはずである。一見、雑然と共存しているようにみえるのは、碁力が不足しているのであり、碁力次第で、大局観もふくめた、さまざまな「含意」が碁盤からみてとれるのだとおもう。■これひとつみても、「共時的に共存している複数の要素が、単に雑然と無秩序に乱立している」というのは、単なる偏見であり、無能を白状しているようなものだということがわかる。■と同時に、囲碁対極の解説者は、瞬時に盤面の局面の意味を、プロ棋士の一手でよみとれても、それを、最低でも数秒かけて、時間軸にそった分析をのべるほかない。■つまり、清水=中野ラインの根源的な混乱とは、三次元ないし二次元の現象(複数要素の共存状態)は、解説(メタ言語)をそえるばあい、一次元的に、線状化する以外にない。おおかえれば、音声化して 発声するか、手話化、ないし モジ化するというかたちで、解読に時間を要する、一次元化がさけられないと。■いいかえれば、そんな無粋なことをしなくてった、三次元ないし二次元の現象(複数要素の共存状態)=三次元ないし二次元の視覚情報の含意を瞬時に了解する消費者がいるわけだ。

■文学的主題を、小説や戯曲とすること、あるいは、オペラや交響曲などとして作曲・編曲することは、線状的に表現すべき「ものがたり」であるというよりは、一瞬にして直感できる一部の層以外に、ひとしく提示し理解をもとめるために、「時間的経過」をもちいているということだろう。
■もちろん、文学や音楽には、パフォーマンスの時間的推移が快感であるという、可能性がある。いや、文学・音楽の鑑賞者たちのおおくは、実は、モチーフの再確認という陳腐な反復ではなくて、パフォーマンスの時間的推移自体が快感であるという普遍性をたのしんでいるのだろう。■しかし、そういった時間経過自体を過程的快楽として消費するファン層と、それを前提とした制作者・パフォーマーはともかく、二次元・三次元空間での視覚情報による表現の大半は、瞬時の了解を理想としてるんじゃないか?
■たとえば、これは以前紹介した図解(「肥満が伝染?」)だけど、これは、直感的に了解できる層にとっては、「百聞は一見にしかず」で、大量の言語情報(線状的な時間経過)よりも、ずっと効率がいいし、「雑然と並んでいる」のではない、「秩序」だった複数の物理的実体の関係性を一挙に(つまり、時間経過を必要としない一瞬の視覚情報として)表現しえている。

肥満は伝染する?1

■つまり、こうやって ながながと、かきつらねている文章群自体が、ものすごく非能率的っていうか、1枚の図像とか、1個の立体模型とかで、それこそ一挙に了解できるものとくらべたときに、あまりに かったるい作業というほかないわけだ。■その意味では、音楽や舞台芸術みたいなもの=パフォーマンスの時間的推移自体が快感である表現と、なんらかのメッセージ・テーマを表現するために、わざわざ時間的推移を「説明」についやしている表現とは、全然異質な存在として、区別すべきだろう。
■むかし、だれだったかが、前衛的な小説家である安部公房の作品を評して、〈安部さんは、ご自身にとっては自明の普遍的本質を、われわれ「愚者」にわかるように、小説という形式をとっているだけ〉といった解説をしていたが、実際、絵画やオブジェとして 主張が表現できる性格だったら、それをえらんでいたんじゃないか? もちろん、人間存在の本質をうがつばあいに、安部さんが表現したいような次元は、絵画やオブジェとしてでは 主張しえない性格のものであって、最低でも短編小説って形式をとるほかなかったかもしれないんだけど、すくなくとも、「パフォーマンスの時間的推移自体が快感である表現」ではないんだとおもう。

”「賢者の表現」と「相対的愚者の理解力」問題”

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