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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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漢籍イデオロギー=想像の連続体としての日本語6

■「「日本文学という奇跡?」 とでもいいたいらしい…」だの、「想像の連続体としての日本語5」の続編。

February 10, 2009

『漱石の漢詩を読む』


『漱石の漢詩を読む』古井由吉、岩波書店

 ぼくたちは、どれだけ漢詩の素養から遠ざかってしまっているんだろう、と絶望的な気持になることがあります。

 日本語という、普段、ぼくたちが考える基礎となっている言語体系が、どれだけ漢詩に依存しているのか、少し考えれば誰でもわかります。でも、そこから離れつつある。これは、とてつもなく大きな問題だと思うのです。


 さらいえば、日本語をあつかう上で、以下の前口上に書かれているようなこともことも日常的にというか不断にやられているわけです。

 古来、一方に和文がある。そして他方に漢文があり、そして漢字熟語にたよる文章があります。漢字とは海外の文字です。これをいちいち和文、和語に変換しながら、われわれは生活を営んでいるわけです(中略)。
 しかも、漢字には一字の内にいろいろな意味が総合されている。われわれは読み取るために、そこから一つの意味を分析して引き出してくる。そうやって日本語という言語が成り立ってきた。これを忘れると日本語は失われるかもしれない。日本語とは、そういう二重言語です(中略)。
 変換したり翻訳する、これには相当な精神のエネルギーがいる。だからまさかの場合、危急の場面に出会って、人の活力が散乱なり低下したりする時、日本語は、言葉を把握する力を失ってしまうおそれがある。変換や翻訳を重ねてはじめて意味をつかむものだからです。


 ぼくは、この言葉のなかに、日本人に多くなった鬱の要因のひとつがかくされているような気がします。

 いろいろ考えたり、場の雰囲気や、TPOを考えて自分なりに翻訳しないと、正しいコミュニケーションがとれない。そうした能力があったとしても、大きなエネルギーが必要で、そうしたバックアップがなくなったり、生体エネルギーが弱ってくるとついていけなくなる、みたいな。

 そんなことを古井さんに教わりつつ、この読んでみたのは、夏目漱石の漢詩には少しだけ興味があったのと、古井由吉さんは昔からのファンだから。

 解説されている漢詩は、主に漱石のふたつの時代。

 ひとつは漱石が胃潰瘍で大量吐血して倒れた後。でも漱石は人となって初めて安静の時を得たという気持ちになり、その心境を漢詩で表現するんですね。

 もうひとつは『明暗』の執筆最中の最晩年。死の直前になって、そうした気持を漢詩に託さざるを得なかった時代の詩。

 例えば、前半。大量吐血して、ひとり病の床から空を眺めている時の詩。


仰臥 人 唖(おし)の如く
黙然として大空を見る
大空に雲動かず
終日 杳(はる)かにして相い同じ
仰臥人如唖
黙然見大空
大空雲不動
終日杳相同

 いいなぁ

 漢詩は日本語の一部です。

 ひとりでも、漢詩を読む人が増えれば、いいと思います。

 「日本語の再生のために」と題したむすびで古井さんは、珍しく政治家の言葉に対して「論理も不明快だし、どこに力点があるかもわからない」と非難します。これには驚きました。「政治家」なんていう言葉を古井さんが使ったのは初めて読んだかもしれませんし。

 まあ、それはおいといて、漢籍に明るかった最後の首相は宮澤さんでしょうか。細川さんも殿様の家柄だから四書の素読ぐらいやらされていたかもしれない。でも、90年代以降、そうした素養をうかがわせてくれるような首相は残念ながらいません。尋常小学校しか出ていなかった田中角栄さんは、それでも日中国交回復で訪中した際に、つたないながらも漢詩を詠みました。しかし、これから当分、漢詩を詠むような首相はあらわれそうにありません。これはリーダーとしての資質の劣化だと思います。日本のリーダー層は少なくとも一千年間ぐらいは、四書の素読からたたき込まれていたのに。
……

---------------------------------------
■「いいなあ」などと、温泉気分でよっぱらうのはかってだが、イデオロギー(願望の合理化=正当化)であるという自覚をもって、ひとに おしつけないでほしい。それだけの自制があれば、モンクはない。
■漢籍の素養があると、どんなにすばらしい知的水準に到達できるか? どんなに現代日本語の駆使能力に有益か? そんなことは、しらない。■問題は、こういった、漢籍コンプレックスの吐露が、「そんな すばらしさを 認識している自分たちはエラい」というメッセージとしか、きこえてこない点。そんなに、漢籍の素養がすばらしく、それが かけている日本語に欠陥があるなら、それを実証してほしいわけだ。「漱石みたいに素養がないから…」なんて、いいわけせずにね。

■でもって、うえの文章で、最低だなとおもうくだりは、つぎの部分。

 ぼくは、この言葉のなかに、日本人に多くなった鬱の要因のひとつがかくされているような気がします。

 いろいろ考えたり、場の雰囲気や、TPOを考えて自分なりに翻訳しないと、正しいコミュニケーションがとれない。そうした能力があったとしても、大きなエネルギーが必要で、そうしたバックアップがなくなったり、生体エネルギーが弱ってくるとついていけなくなる、みたいな。

■これって、結局のところ、漢文ばなれをきたした戦後日本の住民が、ウツにおちいったのは、漢字文化の継承が不充分になったからだ、って、いいたいわけだよね。■んなわけ、ないだろ。現在の ウツの基盤は、巨視的には「際限ない進歩」っていう、共同幻想がくずれさったこと。微視的には、不況などにともなう労働強化など、労働者の「素材」視という、資本主義的搾取による、職場の荒廃でしょ?■はっきりいえることは、漢文の素養と、日本語漢字の恣意的システムに適応することとは、別次元だということ。うえの文章の筆者はもちろん、古井由吉氏とかいう作家先生も、両者の異質性は テキトーにとらえているらしいことが、引用文から わかる。石川九楊先生とかの「二重言語」論と同質なら、まじめに検討するにも あたいしないような予感がする。
■はっきりさせておこう。欧米社会で、ラテン語・ギリシャ語の素養がない人物は無教養、といった、「反動的」な教養主義は、一応ありえるとはおもう。しかし、そういった大衆蔑視にもとづいた、人文主義にたったばあい、「きさまら無教養ものは、くちをつつしめ」的な暴言にしかならないこと。そんな暴言は、英語至上主義より上質かもしれないという皮肉はおくとして、民主主義的空間になじまないことは事実だ。■おなじことは、漢文教育の復活をのぞむかのような、懐古趣味についてもあてはまる。漱石・鴎外レベルの文化人をどのぐらいの確率で育成するつもりなのか、まったく不明だが、「漢文教育を公教育=大衆教育にもちこんで当然」と主張する御仁たちは、その教育効果の具体性・現実性をシミュレーションして、説明責任をおう必要がある。■いっておくが、漢文教育が復活できるぐらい、異言語教育が大衆レベルで機能するなら、「英会話学校」の隆盛など、ありえないとおもうぞ。イングランド語と漢文が、現代日本人の大衆にとって、どのぐらい距離感がちがうかは、別に慎重な再検討も必要なかろう。

■どこぞの宗教団体の「勤行あげていると、気分が高揚し、生命力がたかまる」といった教義と大差ない次元で、漢文の修行が有益だって、いいはるんなら、「漢文幸福教」だとか「漢和教」だのでもとなえて、運動してくださいな。漢字検定でも、あれだけのブームになったくらいだから、意外に 支持者がでるかも。
■ま、そうなったら、公教育にもちこまれないように、徹底抗戦するつもりだけどね(笑)。


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コメント

無教養主義者

漢文教育をしようというのは、エリート主義じゃなくて素人主義ですよ。「教育」の学的研究もジェネラル・アーツはどうあるべきかって「知識論」も考えようとしてないんだもん。
中国古典、漢籍の素養なんてことよりも、「券売機」という単語より、日本語の漢字造語法からいうと「発券機」のほうがいいな、と日常的に思うほうが、ずっと日本語が漢文脈から益を受けてきた伝統の正統な伝承者なんじゃないかな。

漢詩って今の中学生でも作れます。なんでみんな、「明治の教養」に恐れ入るんだろうなあ。馬鹿みたい。

ものすごく誤解をあたえていそうなので、補足

kuronekoさま

> 漢文教育をしようというのは、エリート主義じゃなくて素人主義ですよ。「教育」の学的研究もジェネラル・アーツはどうあるべきかって「知識論」も考えようとしてないんだもん。

> 漢詩って今の中学生でも作れます。なんでみんな、「明治の教養」に恐れ入るんだろうなあ。馬鹿みたい。

■「エリート主義」というのは、田中角栄みたいに漢詩のマネごとをするという意味ではありません。日本語の干渉を感じさせない、東アジア共通語として機能できる漢文の水準は、大衆教育になじまないだろう、という、あたりまえの事実を確認しただけです。■そんなことができるぐらいなら、「本家」中国で、漢文づかいが大量発生して、それはそれは、すごいことになっているはず。
■押韻とか平仄とか、ルールをつかめば、漢詩は そこそこつくれるんでしょうが、高校時代の受験勉強では、つくれるような気分には、なれませんでしたね。魚返義雄(おがえり・よしお http://www.k3.dion.ne.jp/~scarabee/sukajin-a.htm#o)さんの本なども、よみましたけど、すくなくとも、参考書のたぐいで、速習できるとは、おもえませんでした。

> 中国古典、漢籍の素養なんてことよりも、「券売機」という単語より、日本語の漢字造語法からいうと「発券機」のほうがいいな、と日常的に思うほうが、ずっと日本語が漢文脈から益を受けてきた伝統の正統な伝承者なんじゃないかな。

■前項とからみますが、「犬追物」みたいな擬似漢語が日本列島の平均的水準であったことをかんがえあわせると、前近代にあっても、漢籍の素養というのは、やはりエリートの占有物だっただとおもいます。人口の2わりは、こえないだろう水準のですね。



教育法も進歩する

そりゃ、前近代の学習法が未開発で、教育技術的にレベルが低いってこともあるんじゃないですかね。
江戸時代の教養でも素読なんかやらせて、それでこと足れりとしたら、非効率なことです。素読的な方法も一部は大事なんだけど、文法も教えずに会話も習わずに、リーダーだけ「読書百遍、居自ずと通ず」って教え込まれても、適合する生徒はかなり少ないでしょう。
それで、不思議なのは、「いまの方が効率よい漢文教育ができる」とはいわないんですよね。かならず「復活」なの。
漢文を国語教育に取り入れるというのは、日本語を自己対象化するときに、漢文脈の理解が必要だからで、漢籍の知識を無前提に「基礎教養」とすることではないんだろうと思うんだけど。世の中のインテリは教育をなめているみたい。

不可視性と精神論的身体論

■以前、旧ブログで何度かとりあげた 内田樹さんなどが強調する、<学習者は その目標を把握できないから、一度アホになって、師匠のいうとおりに鍛錬してみる>…式の教育法が全然トンチンカンとはおもいません。■また、これも何度か旧ブログでとりあげた 中岡哲郎『人間と労働の未来』(中公新書)が指摘した、労働過程の徹底的分解=機械化(ノウハウを完全に微分化し、複製技術としてソフト化)のように、完全なマニュアル化した知識として外在化することは、いつも可能なわけではありません。「暗黙知」(マイケル・ポランニー)とか、身体化した知識などは、マニュアル化が不可能・無意味だったりするし。職人さんのジャーゴンのニュアンスがつかめたときには、半人前になれている、なんていう構造は、中岡さんが指摘した知見ですけど、内田さんたちが合気道とかの技法を、口頭だけの解説では不充分で、まさに、みようみまね、やってみて体得するって方針しかとれないとする教育論は、それなりに合理的と。

■問題は、語学教育・文献学トレーニングが、こういった精神主義的身体論で、一般的にすすめていいのか? 合理的なのか? って点ですね。■名文を音読しろ系の齋藤孝御大やら、100マス計算とか脳力トレーニングなどのすすめは、非知性的なスポ根系教育論だとおもいます。■で、こういった志向性が、復活(復権)しつつあるのは、かなりヤバいと。

■ただですね。前近代が、こういった野蛮だけなのかといえば、そういった総括も野蛮な気がします。■たとえば、「庭訓往来」とか寺子屋でつかわれたテキストは、属性に応じた「手習」教材=リテラシー保障の装置であって、武家の家庭教育や藩校などの素読主義とは、ちがっていたとおもいます。■また、藩校や蘭学塾(適々斎塾など)だって、輪講はゼミナールだし、ヤミくもに、おおごえあげて 読書百遍をしいていたとはおもえません。黙読の習慣は近代の産物のようですから、音読はしていたのでしょうけど、学問所などは、予習してきたテキストについての注釈の適否をたしかめあう批判的空間だったでしょう。
■であれば、<わけがわからなくても、とりあえず音読>式の反復練習だけが強調されたという、イメージこそ、先入観にとらわれた俗論ではないかと…。

■それにしても、たとえば漢詩=文語作詞が、マニュアル化できるとして、それが現代日本語の読解力や作文力にとって劇的な効果をあげる理由、その不可欠性とやらが、理解できかねますし、たとえば漢語の構造がわかれば、語源的に分解可能だ、といった議論には、かなり異論があります。■「日本語を自己対象化する」ために漢文的素養が必要だという具体的根拠も不明です。語源的に意義があるというなら、語源的に説明がつかない日本語の要素をどうするのか? 死語化した「伝統」を継承する意義がどこにあるのか? 自言語を「自己対象化する」ための対照言語学的な作業として、イングランド語やら朝鮮語やらでは、なぜいけないのか?……などなどですね。

和漢の境

漢詩に教育的効果があるとすれば、起承転結でしょうね。少なくとも文章の「構成感」に敏感になります。

漢語の語源的要素で説明のつかないものは、漢語の範疇じゃない日本語の要素と認識できるでしょう。
日本語学習では「訓読み」というのと「音読み」を習うわけで、もともと二重性を意識して学ぶのですが、漢詩を作るというのは、クロスワードパズルを自分で作って解くのと同じに遊ぶということですから、遊びながら、日本語の性格というか成り立ちが分かってくるのです。

英語でも、ある単語がラテン語出自の言葉であると知っているか知らないかというような知識は、そんなに大したことないと思うけど、知っていれば自国語の理解が深まるのではないかなあ。
日本語でも、日本でしか使わない漢語とかあるのですよ。昔の文人なら「和臭」といって漢詩文には使わなかったし、今でも「漢詩」を作る人では避けるのが建前。
でも、世の中に通用している言葉が、大和言葉、和文脈の言葉か、漢文出自の言葉か知っていると、いろいろな文体を書き分けるのが楽になります。まあ、一般の人に必要かどうかはわかりませんが。

語源主義と教養

■欧米社会で、かっこよさげな言語表現をしようとすれば、おそらくラテン語・ギリシャ語の素養をおりまぜるしかないでしょう。それは、フランス語経由でまぎれこんだ異文化(和語と漢語と にているかも)が、知識人と大衆を区別する「高級語彙」となっているからです。■ヨーロッパの知識人はもちろん、アメリカ大統領の演説なども、歴代の大統領の名演説を意識するだけでなく、シェークスピアなど古典にながれこんでいる外来文語の伝統を、それとなく ちりばめると。■ですが、黒人大衆文化などのばあい、聖書などからの引用はあっても、ラテン語・ギリシャ語の素養をおりまぜることはふにあいだし、また現実的に聴衆に理解されないでしょう。■要するに、現代米語を よりよく理解するためには、ラテン語・ギリシャ語の素養は当然、といった教育方針は、所詮エリート主義にしかならないと。そういった、古典的素養とは無縁な大衆レベルでの言語表現が実際にあるはずで、あたかも 全住民がそれら古典的言語表現の恩恵をこうむっていて、それをしらないと十全な表現が困難だとか、自分の言語表現を内在的に自覚化できないといった発想自体が、古典主義からの侮蔑だとおもいます。■すくなくとも、高校で、半分以上の生徒がラテン語・ギリシャ語を選択するなんて時代は、やってこないでしょう。基本的には、一流のリベラルアーツ・カレッジ進学志望の生徒さんたちの文化なのだとおもいます。
■おなじように、漢籍の素養がないと、日本語の全体像が理解できないというのは、漢籍の素養を前提にした文豪たちの文章表現があじわえないとか、くずし字をまなんでも政治家の日記が解読不能とかいった次元でのことだとおもいます。

■「和臭」とか「訓読み」だとか、「本来」の「漢文」になかった要素を排除できる素養はそれとして、なぜそれが日本列島に長年はびこったか? というか、けっして なくらなかったか? いわゆる「国字」のような 「発明」が なぜ たえることがなかったか? それ自体が、「本家」の古典的規範が 周辺文化圏を支配しきれなかった現実、ないしは、マネようとしても、完璧なコピーが困難だったという、あかしでしょう。
■あと、個人的には、「訓読み」「音読み」の区別は、そう単純じゃないとおもいますよ。まして、和漢がまぜられることが常態化していた「古典」の現実もあって、それらの出自に くわしいということ自体がエリート的です。■漢語が、やってくる以前の「やまとことば」ってイメージ自体が、国学者の発明だとおもいますし。「てんぷら」が「外来」だとか、「仏教はもちろん、菊や馬も外来だ」とか、そういった「渡来」性をうんぬんすること自体がイデオロギーの産物だとおもいますし。■土着化・累積化した文化が日常にとけこんでいるばあい、その出自なんぞ、いちいち意識なんかしないし、そのばあい、お勉強が駆使能力に劇的にきく保証もない。

■ちなみに、村上春樹作品が世界文学としての価値があるとして、古典文語の素養などの痕跡をつたえられないから、英訳は無意味だなんて批判をしても、それこそ無意味でしょう。■そしてなにより、世界のどこよりも古典研究の層があついだろう中国・台湾から、膨大な天才がうまれないとヘンです。数百年しか歴史がない現代イングランド語より、数千年の蓄積と巨大な人口をかかえる漢語文化集団が、創作的な現代文学において、劣勢というのは、不自然です。決して、経済力の格差だけでは、説明がつかない。■漢文の世界に、ゆたかな精神世界が実在するとして、それを漢字表現のまま あじわわないと、味読できない、なんて幻想でしょう? 普遍的な精神世界があるなら、きっと翻訳可能なはず。であれば、言語ゲームとしての漢詩作成とはおくとして、漢籍の素養が時代を超越した価値を蓄積しているって信念の根拠もあやしいと。むしろ、真のエリートの責務は、漢字表現にとじこめられた精神世界を、漢字表記以外の世界に開放=解放することなのでは?

■あと、「起承転結」ってのもイデオロギーだという批判をみみにしたことがあります。はっきりいって、「転」なんて、名人芸など、通常人にはできかねると(笑)。「序破急」はともかくとして、ウィキペディア「起承転結」が、「4コマ漫画」との同質性をかたっているなど、たしかに、論理的破綻を呈していて、イデオロギーだとよくわかります。
■たとえば、いしいひさいち氏の作品で、
http://www.chan-zero.co.jp/blog03/2008/07/d044.html は、「起承転結」かもしれませんが、
http://www.chan-zero.co.jp/blog03/2008/06/d040.html は、「起承転結」でなどなく、4コマでの、オチだけでしょう。
■頼山陽 作とかいう
起 : 京の五条の糸屋の娘
承 : 姉は十六妹十四
転 : 諸国大名は弓矢で殺す
結 : 糸屋の娘は目で殺す
という例示は、五言絶句や七言絶句の形式にひきずられた形式論だとにらんでいます。「4コマまんが」でさえ、最後のオチの直前のコマをどう位置づけるかは一義的なく、まして散文のばあい、3部構成にするか、4部構成にするかなどは、状況次第だとおもいますし。


かなもじとかんじ

起承転結というのは、別に固定的なものではありません。序破急はよく知りませんが、これは演劇的なテンポの論理でしょうね。最後にだららしていたらパフォーマンスとして生理的にたいくつだということなんじゃないかな。
ヨーロッパの演劇論には「始めがあって真ん中があって終わりがある」ってギャグみたいなものがあるんでしたっけ?
起承転結というのは一つの作品の構成というより、段取りの別称みたいなものでしょう。「起承転結」は名人芸じゃなくて凡人でもできるんですよ。実際の漢詩には起承転結がそんなにくっきりしないものもありえるわけです。三句目で転換ぽいことをすると、下手でもそれなりのものができちゃうんです。実に便法で、組み立てキットを指示通りに作るとできちゃうみたいなものなのです。

日本語で、たえず表音文字ができたのはなぜかというのは、なんで漢字をやめちゃわなかったのか、という問いと同じなところがあるのではないかなあ。
漢字が使用されたのは支配の道具だったり、知識占有階級のイデオロギーで、他方、かな文字の発明・工夫は、日本語という言語の生理による自然なもの、という論理立ては変だしね。仮名文字絶えず生まれたのと、漢字が捨てられずに使われたのとセットで考えられる。
漢字が日本語を単独ではカバーできないのと同様に、日本列島住民は表音文字だけでは言語生活できなかった歴史があって、それをどう考えるか、はなかなか難しい。


服装(なり)

音読み、訓読みの別はたしかに簡単ではないのですが、訓読みを「発明」した人は、漢字と日本語との異質性とにコンシャスだったと思います。
「訓」というか、もともとの日本語であろう「なり」という言葉は、漢字の詮索と語源論は別でしょうね。「果物が成る」の「なり」と同じ意味からきたのか、と考えることはできるけど。
他方で、いまは「なり」という言葉は死語に近いかもしれないし、口語の文章表現でも殆ど使わないのではないかな。「服装」という漢語を使うわけです。外国人に日本語を教えるとき、多分「なり」という言葉は、かなり高度なレベルの日本語の単語だし、「服装」は初級のうちから教えないと不便なベーシックな日本語の単語でしょう。

スポーツ新聞の製作者は、漢語・漢文的な表現に自覚的で、たえず「激白」とか新しい単語を漢字の造語法を生かして作っています。
こうした造語法こそ、漢語文化の末裔で村上春樹はどうでもいいんじゃないかな。読んだことないけど。

趣味的なカリキュラムなら なにも問題ありませんが

■起承転結などのフォーマットをまなばせることが 素養だというなら、それはそれで、しぼりこんだカリキュラムをたてればいいわけで、大衆レベルで必要だということが困難なはずの漢詩トレーニングは、義務教育だの、高校の国語など教科教育にくみこむ正当性があやしいということです。
■おなじことは、文語文とよばれる「国文法」もそうです。文献学の方で近代以前の文書をよむ必要性がある層だけが、手段としてみにつけるべき専門知識ですね。

■あと、これは何度かあつかったはずですけど、盲人などは、漢字表記と無縁な日常生活をおくっているわけです。漢字語をみみできいて情報処理はしているけど。■だから、「日本列島住民は表音文字だけでは言語生活できなかった歴史」って把握は、イデオロギー、ないし幻想だと断言できます。漢字不可欠論にしがみつく保守イデオローグ3人衆(井上ひさし・福田恒存・山崎正和)が、そろいもそろって戯曲家というのは、皮肉だと、ましこ・ひでのり氏は、痛烈にいいはなちました。漢字語は、きいて識別できないなら、機能しないし、外国モノじゃあるまいし、テロップつきの演劇なんて、ありえないわけです。■漢字語がないと、高級語彙をカバーできないという可能性は否定できないけど、語源を無視しても、文脈で識別できないかぎり、はなしことばは機能しえない。実際、朝鮮半島は、ハングル等でかきわける範囲で、ききわけている。同音衝突など、文脈で区別つくわけです。日本語よりも音素数がおおいなんてのは、いいがかりでしょう。

■音訓の区別を、エリートはもちろん、スポーツ紙の記者たちが意識しているなんてことは、ことばあそびのレベルでは意味があるとおもいますけど、重要とはおもえません。■たとえば、「激白」なんて流行語は、いずれすたれるとおもいます。漢字の造語力とか、鈴木孝夫氏などが、エラく強調していますけど、あやしいとおもいます。細部の議論はともかく、野村雅昭氏の『漢字の未来』での議論が全面的に破産しているかどうかを、漢字不可欠論の支持者は、再検討すべきでしょう。
■高島俊男氏みたいな、必要悪論だって、微妙だとおもいます。よみあげソフトによってコンピューター画面を音声化して情報処理する盲人のモジ生活( http://tactac.blog.drecom.jp/archive/253)には、図像としての漢字表記は存在しないも同然です。これは、「かながき」の次元で、日本語が処理されているって証拠ですね。

イデオロギーの根は深い

 漢字の図像的機能は漢詩に慣れ親しむと逆に強調しなくなるのです。音が同じで通用させている助辞がやたらにあるから、漢字がいかに表音的に文字使用されているのか、実例を毎回見ていますからね。

 盲人はアルファベットともある意味無縁な生活でしょ。文字表記をしなくても文明・文化が生み出されたかもしれず、表音にしろ表意にしろ「文字表記がなければ文明が生み出されなかった」というところから既にイデオロギーかもしれない。

 表音文字って、目で見ているんですよ。多くの人は。盲人は漢字表記とは無縁な生活というのは、アルファベットのまぜ書きとも無縁ということでしょ。ひらがな、カタカナの区別とも無縁なわけです。そもそも文字一般と無縁な生活なんじゃないですか?(音は聞き取るけど、表音文字とは無縁)
 その外の世界に「音の符号」が存在するという利便からは離れられないと思うけど、それは文字一般の存在が高度な社会の形成に不可欠だということで、図像的な表意文字のみが、盲人には不要だといういうことではない。 
 とかく漢字をもてはやす人は、視覚イメージを強調するんですけどねえ。そして見た目の美しさってあるんだけど、音が通っているからって文字使用しているケースが漢字表記された中国古典には山のようにある。
 表音文字として使用されているのです。その延長で日本の「かな」も発明されたのだろうけど。

 

はい。中途失明者でないかぎり、表音モジとも きれているはずですね

■ただ、最近は、パソコンに依存する層が激増しているとおもうので、その意味では、点字などと同様、言語学でいう分節概念を体得しているわりあいがおおきいとおもいます。いわゆる非識字者が、連続音として無意識に処理しているだろう大脳のはたらきとは ちがった次元での情報処理が一般化しているとおもいます。

■押韻などにうるさい漢詩が、視覚イメージよりも、同音・類似音に敏感になるようにいざなうことは、よくわかります。

■無モジ文明もあったとおもいますが、無モジだと高度な情報処理ができないうんぬんではなく、メモリー機能という意味で一定以上の規模の都市文明が維持できないかもしれません。■インディオやアボリジニー、アイヌ民族などが、基本的に狩猟採集民として、小規模人口でエコライフをおくっていたのは、保存可能な穀類を蓄積することで、狩猟以外の武器=軍事力を維持する文明として、日常生活圏をおおきくこえる侵略国家たりえなかったからだとおもいます。■つまり、日常的につきあう小集団の必要最小限の資源の自然循環と小交易にとどまることなく、「伝染病としての文明」(岸田秀『続ものぐさ精神分析』)でのべられているような巨大文明が支配する時空は、口頭による伝達ではカバーしえないと。伝令をはしらせるにしても、その走力とメモリー能力という二物は確保できない。帝国を維持する官僚組織は時空上のひろがりを支配するために、時空をこえて継承できる外部化メモリーを必要とした。…モジ化の必然性は、ここにあったとおもいます(ルワンダ内戦のばあいは、てまわし発電ラジオで、大量虐殺をあおる放送が機能してしまいましたが)。
■おそらく、ユーカラなど口頭伝承などは、民族意識の継承にはやくだつけど、周辺に攻撃的に膨張する国家、数十年をこえる官僚制支配体制には、たりないと。

■いや、大規模な官僚制ではなくても、従業員十人をこえるような商家の百件規模のとりひきなども、口頭と記憶だけでは、ちょっとムリかもしれません。複式簿記はともかくとして、帳簿と顧客リストがないかぎり、イタリア都市国家や上方の大商人たちはもちろん、富山のクスリうり商法も、ムリだったでしょう。■要するに、日常的に かおつきあわせる人間関係をおおきくこえた とりひきは、それが政治的であれ経済的であれ、口頭・記憶だけでは、まにあわないということです。■障碍者用ソフトのプログラマーにして、社会学者でもある、石川准さんも、メモリーを軸に巨大な記憶装置を駆使して活躍していますし。視覚情報として処理する必要はありませんけど、「外部化メモリー」としての 記録装置として、モジっぽい存在がないと、文明は成立しえないと。■日常生活空間と、文明は、一応別次元として、わけてかんがえないと。

■しかし、そういった文明論はともかくとして、非識字者への差別や、図像としてのモジにアクセスできない視覚障碍者への無配慮などは、無自覚なイデオロギーとして、自分たちのかかえる非合理性に鈍感になるので、こまったものです。■「漢字まじりだと、はやくよめる」といった、イングランド語より有利だみたいな議論もふくめて(笑)。

http://tactac.blog.drecom.jp/archive/187
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