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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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【位置 リベラル左派】

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想像の連続体としての日本語5

■旧ブログ“想像の連続体”関連記事のうち、「過剰な日本語の本質化の実例2=想像の連続体としての日本語4」などの系譜の記事。■ただし、直接的には、先日コメント欄にはりこんだ、『みんななかよく』の記事、「日本文学は二番目に老舗だとさ #*$」の指摘をうけての記事。


2009-02-24 00:03:57
日本文学は二番目に老舗だとさ #*$
テーマ:学問未満

 以前、「日本 」(学生社)という本がありました。新日鉄が編集した本で、日本のことを日英対訳で説明している本です。

 いつものように記憶が大雑把ですが、その中に、「日本の文学」について、「日本文学は中国文学に次いで、世界で二番目に古い文学」と書いてあったように思います。

 面白いでしょ。


 言われてみると、確かに「万葉集」って8世紀にはできている。「ベオウルフ」よりは前に文字に定着しているのでしょう。

 フランス語も10世紀とかそれぐらいに形成されてきたとすると、ヨーロッパ諸国と比べて、「日本文学」は古くから形が見えてきたといえそうです。

 
 でも、こういう話を聞くと、誇らしいというより「何か変?」って感じがしますよね。お国自慢が国粋的だからだめとかいうのではなくて、「何々文学」というときに、現存の国民国家をもとに、その「一国文学」の古さを比べているのがへんてこりんな感じ。


 ラテン語で書かれた作品も、ギリシャ悲劇も、インドの古代叙事詩も、アラビア語の詩歌も、現代のある国の国民文学の淵源として、連続的かつ一意に対応しているのでなければ、「国民文学」の伝統とは考えないみたい。ギリシャ文学は、現代のギリシャ文学と言語的にかけ離れているから、その一体性がないという判断なのかな。

 ペルシャ語などもそうなのかしら。


一国文学という考え方を全て無効だとは言わないけど、近代国民国家に一個一個対応させてそれぞれの国民文学を考えるものなのか。本屋の都合で「北欧文学」とか「東欧文学」なんてまとめ方もするのか。あんまり精密な概念規定とは思えません。

 スペイン語文学とスペイン文学は違うでしょう。イギリス文学とアメリカ文学は別に考えたほうがいいと思うけど、イギリス植民地の作家はどこに分類するのか。

 スイス文学ってあるのかな。スイス国籍の作家の文学ということでしょうか。

 でも、そうすると、これから日本国籍を持たない日本語使用者も増えるだろうから、日本語文学と日本文学が分裂すると期待してよいものやら。


 と、とりとめのないことを書き付けて、ここで議論になったことの続き。

 http://ameblo.jp/kandanoumare/entry-10211057232.html#c10285162599



 もともとは、このエントリーの話。

 http://blogblues.exblog.jp/7870713/

 言語の話になったけど、ここでは「国民文学」なんてものの実体ってあるのかなあ、というそこはかとない疑問から、ぼんやり考えています。

 「日本近代文学」って確かにある。それが世界史の中で重要だと、わたしも思うのだけど、それは「英語」が世界を席巻するのに抗するって話なのかなあ。

 「近代的自我」って、ヨーロッパには普通にあって、日本では知識人が苦闘の末たどり着いたなんて思われているけど、実は「日本近代文学」の発明品で、ヨーロッパにはそんなものなかったぜ、なんてことはないかなあ。

 最初に「日本人論」スタンスがあって、それからものを考えているとかさ。

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■kuronekoさんは、わざと つりネタを展開しているんだとおもうが、コメント欄は、そちらには展開していっていないようにみえるのが、残念。■なので、本来、kuronekoさんの議論から、当然みちびきだされていいはずの論点をかきだしておく。

■(1) 「ラテン語で書かれた作品も、ギリシャ悲劇も、インドの古代叙事詩も、アラビア語の詩歌も、現代のある国の国民文学の淵源として、連続的かつ一意に対応しているのでなければ、「国民文学」の伝統とは考えないみたい。ギリシャ文学は、現代のギリシャ文学と言語的にかけ離れているから、その一体性がないという判断なのかな」→■表音モジで かきしるしているかぎり、連続性をいいはるのには、おのずと限界が生ずる。比較言語学やら対照言語学の基礎知識がないと 感じとれないぐらい ミゾが ふかければ、当然別言語として認識される。■こういった、ごく まっとうな感覚からすれば、古事記日本書紀万葉集と、現代日本語が直結していると、いいはる心理・姿勢は、イデオロギーの産物だといえるし、ましてや、完全な文語文でしかない漢文と、現代中国語(北京語)を直結させて、世界最古の中国文学、とかいった論理は、狂気の沙汰ということになる。
ラテン語と現代イタリア語古代ギリシャ語現代ギリシャ語を直結させる方がヘンだし、実際のところ、近代日本の文化人や右翼たちは、漢文の世界を尊崇する一方、列強に半植民地化されている近代中国を象徴する、現代中国語をさげすんだ。中国人と筆談しかできない中国文学者が当然視された帝国大学文学部という世界が、ほんの60年ぐらいまえまで実在していたし、東京外語や大阪外語の卒業生は、帝大卒に、通訳としてしか、あつかわれなかった。■つまり、中国差別を展開する層自体が、古典としての漢文の世界と、現実の中国世界の連続性を否定したがってきた(笑)。


■(2) 第一、ふるいほど えらい、という固定観念自体があやしいわけで、古典との連続性を誇大妄想的に強調する姿勢は、とりもなおさず、欧米的な「先進地域」イデオロギーに うけみに終始する劣等感が、くるしまぎれに くりだした、復古主義にすぎない。■たとえば、源氏物語が、無数の言語に翻訳しても 現代人のよむにたる世界的古典だとして、それと、漱石鴎外などの誕生とを直結させるのは、かなりくるしいし、ましてや、安倍公房やら大江健三郎村上春樹などの、世界性を整合的に説明できるとは、おもえないんだが…。■三島由紀夫谷崎潤一郎川端康成あたりが、ノーベル文学賞候補にあがったり、実際に受賞したりしたのは、はっきりいって、オリエンタリズム=西欧男性主体による欲望の視線の対象として「エキゾチック」だったからにほかならない。要は、普遍性をもっていたとは、あやしいと。まあ、谷崎のマゾヒズム文学とかは、充分世界的だとおもうが(笑)。


■(3) 「本屋の都合で「北欧文学」とか「東欧文学」なんてまとめ方もするのか。あんまり精密な概念規定とは思えません」←そうかな? ヨーロッパ言語学は、しろうとなので、憶測にすぎないが、北ヨーロッパは、フィン語サーミ語など少数言語を除外すれば、ゲルマン語圏であり、おなじように、東ヨーロッパは、ハンガリー語などを除外すると、西はずれが ゲルマン語圏で、それ以外はスラブ語圏のはず。■しかも、大言語である、ドイツ語やフランス語は、方言連続体として 国境をやすやすと、こえていたんだよね。その集約地が、スイスという、不可思議な共和国だったはず。■だから、「スイス文学ってあるのかな。スイス国籍の作家の文学ということでしょうか」って、完全に、おわらいの次元の おちょくりになる。


■(4) ましてや、イングランド語カスティーリャ語のばあい、国境どころか、大西洋をこえて、新大陸に大展開してしまったのだから、植民地さきで、「本国」「故地」と、おおきく かわってしまうのは、ごくあたりまえのはなしだ。むしろ、コロニアルな クレオールたちが、「本国」「故地」と ほとんどかわらないという事態こそ、不気味。たとえば、“日系ブラジル人”社会が、日本社会と ずいぶん ちがってしまったようにね。

■(5) 逆に、ちいさなところをみれば、アイヌ民族の口承文化とか、琉歌を、日本文学にいれていいのか? 日本そだちの在日朝鮮人文学と、渡日組の朝鮮人文学者との異同はどうなるのかとか、文学・思想の学者さんたち、作家たちは、いろいろかんがえてきたはずだ(“在日朝鮮人文学”)。在日台湾人の日本語表現だって、そうだ(陳舜臣さんとかね)。まともな感性をもっていればね。

■(6) 巨大な「越境」の次元でも、微細な「越境」「混交」の次元でも、「「何々文学」というときに、現存の国民国家をもとに、その「一国文学」の古さを比べているのがへんてこりんな感じ」という直感は ただしいとして、以上のようにかんがえたとき、「●●文学」という表現とか認識自体が、大半、破綻した概念(共同幻想やイデオロギー)にもとづいていると、いうほかなくなる。■「新刊『幻想としての人種/民族/国民』(ましこ・ひでのり,三元社) 2【追記あり】」の「追記」で「すくなくとも、日本民族だの、大和民族といった文化概念も、完全に破綻しているとする。外部から「日本的文化」といわれるような カタマリは観察できるにしても、「日本文化」「非・日本文化」の境界線は 発見できないし、前者の本質的な共通点など さがしようがない」という論点を紹介したが、「近代日本文学」という、ざっくりとした実体を総称することは可能でも、その境界線は絶対にひけないし、ましてや、前近代との連続性をかたりはじめた時点で、「日本」という実体がなかった時空との連続性問題が、実にやっかいな混乱をまねきいれてしまうことは、容易に想像つくというもの。■漢文の素養だの、「源氏」周辺の教養だの、そういった要素を完全に継承しているものだけが、日本の伝統などのと、くちばしった時点で、それら論者の連続性イデオロギーは迷走・自壊作用をはじめてしまうだろう。

■(7) そして、そういった伝統主義が直面している一番の問題は、理工系・経済系のエリートたちはもちろんこのと、「夜露死苦」系の漢字文化にせよ、漢文やら文語文やらとは断絶しているということ、近代初期までつづいていた「音読」文化は崩壊し、「黙読」文化やイヤホン文化が全世界をおおっているということだ。もはや、ゲーム攻略本など以外、ぶあつい書籍は、超マイナー文化でしかなく、そんななかで、復古主義や伝統回帰は、かなしい悲鳴にしかきこえない。

■(8) ちなみに、“幻想としての人種/民族/国民”がスケッチしているとおり、血統主義にもとづいた日本人の境界線は、たてようがない(「人種主義」的分類の破綻)。「日本人の境界線」は、単純に、法的身分としての、国籍以外にたてられない。自動的に、「日本文化」なる 一枚岩の実体が時空をこえて連続体だなどといった くくりかたは、狂気の沙汰ということになる。■もちろん、「外国人」がみたときに、周辺の東アジア諸地域とは異質な文化空間があること、そこに、「広義の日本語連続体」が観察され、そのおおくのあいだで、相互理解可能だということは確認されるだろうけど、それと、「日本語」「日本文化」の実体の有無とは別のはなしだ。

【蛇足】それと、「誰かが、「ヨーロッパの文学史って思想書も入るんだよね」とどこかで書いていたような・・・。
加藤周一さんかなあ。加藤さんぽい着眼ではあるけど。
実際、岩波文庫別冊格の「ドイツ文学案内」とか「フランス文学案内」というような本がありまして、パスカルとか、有名なカトリックの説教家の誰とかが載っていたと思う。
日本でいうと詩歌、小説、戯曲は文学だけど、西田幾多郎内村鑑三を近代文学史に入れるとは思えない。というわけで、学問(思想書)は文学ともいえる。
文学を学問としてとらえないというより、思想書と文学書を別の書棚に分ける精神が、日本近代固有なのじゃないかしら。
」という、コメント欄でのkuroneko氏のくだりも、全然 うけとめられていない。■学問的には「文学」ってのは、「文献学」+「人類学」みたいなもの。フィクションを前提にした創作活動=実作は、本業ではない。というか、芸術学部が、音楽演奏や絵画・彫刻の技法が主流なのに対して、文学研究とは、のこされた文献を資料批判すること、批評することが「本業」なのだ。■その意味では、表現活動である実作は、学問ではない。演奏や創作が学問ではないようにね。ノンフィクションであろうと、実作自体は学問ではない。批評や、創作理論、作品史などは、学問だけどね。
■しかし、これは、医療行為が応用医学ではあっても、学問・科学ではないこと、スポーツ理論が科学ではあっても、スポーツ自体が学問・科学ではないことと、おなじではないか?実践が学問そのものではないこと、学問とは、なんらかの現象・事実のメタ言語であることは、自明の理ではないか?■なんで、こういった単純なことが、区別されないで、議論がすすんでしまうのか、それも実に不可解。



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