プロフィール

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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「日本文学という奇跡?」 とでもいいたいらしい…

■トラックバックをいただいた「ふーむ。よそ様のコメント欄」にリンクされていたブログ記事。

日本語が亡びるとき憂国のバイリンガル文士は宣ふ
日本語を、つまりは日本文化を、ひいては日本を、愛する者にとって
必読の書であろう。水村美苗日本語が亡びるとき~英語の世紀の中で」。


 
 本書は、
 『私は十二歳で父親の仕事で家族とともにニューヨークに渡り、それ以来ずっとアメリカにも英語にもなじめず、親が娘のためにともってきた日本語の古い小説ばかり読み日本に恋いこがれ続け、それでいながらなんと二十年もアメリカに居続けてしまったという経歴の持主』が、日本語の惨状と存亡の危機に居ても立ってもいられず、自らのアイデンティティを賭して世に問うた、憂国の檄である。

『人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い〈書き言葉〉の伝統をもった日本語なのである。〈国語〉こそ可能な限り格差をなくすべきなのである。』

25万語を費やし展開される、スリリングで明晰な〈普遍語〉〈国語〉〈現地語〉に関する考察と、それに基づく熱誠の直言は、劇しく心を打ち、存分に知的興奮を味わせてくれる。



著者は〈叡智を求める人〉であり、天は人の上に人をつくるという悲しい真実を呼び起こさせる。新かなづかいで育った今日びの作家など、裸足で逃げ出すほかないだろう。米国在住の戦友ともいうべき同性の友人との酒場での会話が挿入されるが、まさに一刀両断である。こんな具合。

『あたしたちが小さいころ、小説家っていったら、モンのすごく頭がよくって、いろんなことを考えていてーなにしろ、世の中で一番尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いてるんだから、あんなもん読む気がしない』

いやー、度胸もすごい。「とかくめだかは群れたがる」と言い放った平林たい子みたいだ。絶滅したはずの「文士」でやんす。千万人といえども我往かんの気概。トーゼン、熱い魂の持主。日本近代文学の奇跡を称揚しつつ、こんな感想も記す。

『さらには、私の世代が子供のころに読んだ安本末子の「にあんちゃん」などもある。戦後、母を失い、父を失い、兄妹四人だけで残されて大鶴炭鉱で働く韓国人家族の生活を十歳の少女が綴った日記である。見たままを書く、感じたままを書く、だからものを読んだことのない人間でも書けるーというのが〈国語イデオロギー〉の根底にある言語観である。そのような言語観はつまらぬ文章を巷に洪水のように氾濫させる代わりに、美しい心をした子供に宝石のような文章を書かせることがある。〈国語イデオロギー〉のもつ強みは、当時韓国籍であった十歳の少女によって、日本語で花ひらいたのであった。小学生のころ「にあんちゃん」をくり返し読んだ私は、長じてから、果たして自分が書くものがあの感動を与えられるかどうか問い続けることとなった。』

思えば僕自身、漱石も鴎外も一葉も、ほんの一齧りしただけである。ほとんどまったく読んでない。それで文芸ブログを自称するのであるから、厚釜しいにもほどがある。物を知らない、恥を知らないってことは、かくも強いものなのね。う~ん、マンダム。…

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■「見たままを書く、感じたままを書く、だからものを読んだことのない人間でも書けるーというのが〈国語イデオロギー〉」なんて、定義は、はじめてきいた。”国語イデオロギー”って、Google検索をかけたら、こういった定義していうのは、この水村美苗って、作家先生ぐらいなんじゃないか? っておもえてくる。普通は、上田万年らがヨーロッパから「輸入」した、国民国家イデオロギーの下位体系の文化・教育領域のはしらをさすだろう。それを対象化・批判したのが、田中克彦蓮見重彦イ・ヨンスク安田敏朗ましこ・ひでのり長志珠絵(おさ・しずえ)鈴木義里(すずき・ぎり)小森陽一…といった面々。■こういった理論的蓄積をふまえていたなら、「人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い〈書き言葉〉の伝統をもった日本語なのである」なんて、上田万年のうけうりっぽいし、コピーとしては、「数学者」藤原正彦先生の『祖国とは国語』と そっくりだ。


日本語が滅びる時1

日本語が滅びる時2
--------------------------------------
■わるいんだが、海外帰国生みたいに、在外邦人による過大に美化された日本文学幻想としか、おもえないね。

■ちなみに、これら、名文をよめば日本語力がつくみたいな幻想については、
「日本語教育」論議(?)
←「日本人が日本語など学ぶ必要はない
←「まず日本語を
など、一見もっともらしいが(つまり、みんな読者は、ひとひねりされて なっとくしてしまうが、これらは、共存しえず対立する=弁証法的におりあいをつけた高次の見解にあるものは、残念ながらない)、細部では、みんな???がつく議論にとどまっている(一番マシなのは、『極東ブログ』の「日本人が日本語など学ぶ必要はない」)。■ひどいのになると、漢文学者が、なくなった加藤周一御大が くちばしったという「一日に一度は漢文の古典に関する本か、古典そのものを、少しでもいいから何ページか読むことを日課にしています」「これは漢文の勉強というよりも、日本語の水準を落とさないために必要だと思いますよ。日本語のある緊張したリズムを維持するために」「何カ月も読まずにいると、日本語の力が落ちるのです」などという、ふざけたエリート主義を まにうけた議論がある(一海知義「追悼 加藤周一⑤ 鋭い感受性・深い洞察力」『朝日新聞2009/02/19』)。
■漢文をよんでいないと、ダメな日本語しかかけない、などといった たわごとに、だまされてはならない。そんなことがホントなら、現代の日本語は、漢文学者とマニア以外全部ダメということになる。いや、かれらエリート趣味人たちからすれば、われわれ 大衆の日本語はダメダメなのかもしれないが、別に、そんな御仁たちにみとめてもらいたいなどとは、つゆほどもおもわない。■でもって、一海先生とやらの文章には、ハラナは全然感動しなかった。「日本語のある緊張したリズム」があっても、ハラナのような無教養な大衆にはわからないということなのだろうが、別にかまわない。こまらないからね。
内田樹先生やら、齋藤孝先生やらが、名文の音読だなどと、身体論的にさんざんあおっているが、かれらの論旨の展開がおもしろいとは感じることがあっても、名文の暗誦やらがリズムとなってここちよいだの、うつくしいだのといった次元で関心したことはない。いや、リズムおんち、よばわりされても、一向にかまわない。

■ちなみに、水村美苗先生とやらが、もちあげられる風潮は、どこからきているのだろう。■世界中のコトバの大半は、かかれることがない。過去にかかれていても、かかれなくなって、文章語としては途絶してしまったものもすくなくない。たとえば、ラテン語は古典語としてかかれているが、日常会話ではつかわれない。あのバチカンでさえも。■だから、非西欧圏にあり、古代文明をひきついでもいない日本列島上の諸言語が、一様に「かかれないことば」になってしまう状況は、容易に想像がつく。しかし、地球上のコトバの大半は、かきとられないのだから、「普通」にもどったということ。水村美苗先生とやらが、なにゆえ国士然として、いきりたっているのか? なにゆえ 妙に もちあげられるのか、さっぱりわからない。■50年後日本列島でかかれるモジが、英語であろうと中国語であろうと、現在1億人をラクラクこえる ゆるい意味での「日本語」連続体が 日常的な はなしことばとして絶滅していることは、かんがえられない。ラテン語とは、ちがってね。


●旧ブログ「漢字・漢語・漢詩
●旧ブログ「日本語 時空 連続性」関連記事

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コメント

文語イデオロギー

 漢詩作者のわたしがきましたよー。(ってネット軽薄調で日本の伝統を自慢しようというギャグ)

 水村さんの「国語イデオロギー」の使い方の出自は、丸谷才一さんの国語教育批判でしょ。「ちょっと気取って書け」というフレーズが有名になった「文章読本」だっけ。だからここでの「国語」は、小学生の教科書に印刷されている「国語」であって、帝国大学に「国語科」や「国史科」を作ったってお話とは違うのだろうと思います。

 文章はリズムだとわたしも思うんですが、思考内容そのものにリズムがあるので、言葉の調子のよさ、なんて話じゃないんだけどなあ。
 たとえばね。ナンシー関の文体は日本語のリズムが感じられて心地よい、と言えると思うんだけど、明治の新体詩とか文語文の調子のよさとかしか言われないみたいです。文語好き「ブリッコ」というか。
 明治生まれの祖母は新聞を音読していましたから、古い日本語の「調子の良さ」ってあるんだけど、そんなに称揚することもないと思います。「開戦の詔勅」や「終戦の詔勅」もリズムがある文章と言えるだろうけど、そんなものを一般人が書けてもしょうがないし…。
 それより企画書でもラブレターでも、内在的な思考のリズムを文章に写す工夫をするほうが本来で、その時に漢文脈の文章がどうたらこうたらは迂遠な話だと思うんですけどね。
 
 

漢文にかぎりませんが、文章修行がコヤシになるひと、ならないひと

が、いそうです。■モジ表現のリズム(韻律等)はもちろん、内在的な論理的リズムとでもいうべきものだって、写経のような作業が、いい意味での修行になるひとと、無意味なひとが双方いそうです。■前者にあたるだろう漱石・鴎外とかや、その現代版だったのだろう加藤周一御大などを象徴化して、修行のマネごとを義務教育にもちこもうといった策動やエリート主義は、実にあやしげと。

以前にも紹介した資料であるとおもいますが

『だまされない<議論力>』(吉岡友治・講談社現代新書)をおすすめします。文体というわけではなく論理的な文章がかけるようになる、そしてそれ以前に非論理的な文章にだまされないようになる、という目的のために。
それにしても、そもそも「文章力」というのは具体的に何なんでしょうね?いや、意図をつたえるための技術的な側面なら『日本語の作文技術』(本多勝一・朝日文庫)で指摘しているような方法論を身につけているか否かで評価できそうですが、ご指摘のような「モジ表現のリズム(韻律等)はもちろん、内在的な論理的リズム」なども考慮するとなると、はぎれのよいキャッチフレーズであること、なるべくすくない字数で核心がつたわるように配慮する能力、あるいは私がときどき体現したと自分では感じているような(「幻想としての~」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-304.html)からリンクしている「非国民通信」(http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/7e186f3b0c0ca98c1b32eaa4e556cb49)のように)、いままでの人生経験をとおして様々な理由により(といってもわたしの場合は理由はさまざまではなく唯一性癖のみですが)身につけた文化資本(別名「負債」)を、どのように執筆の意図と融合させて、読者におもしろがってよんでもらえるかを工夫できる能力、というのも広義の「文章力」にふくまれる場合がありそうです。
そうすると、「文章力」という単語の定義自体が異常にあいまいになりそうな気がしますが、どうですかね?

読書感染説

■実体としての「文章力」があるかどうか、それが具体的にどんな「成分」として分解可能かはわかりませんが、なんらかの魅力を感じた文章にハマっていると、それが「うつる」ということはありそうです。
■ある先学が、「ウェーバーやマルクスは、写経するぐらいの気持ちでよまないと…」などと、おっしゃっていましたが、魅力のとりこになったついでに、論文などを依拠してかくハメになれば、当然引用などで「写経」するわけで、それで 先人のたましいが 憑依する(のりうつる)んなら、それは、苦痛ではない修行といえそうです。

■リンク集におさめてある『非国民通信』の管理人さんも、魅力的なネタ・リクツ・クダリを定型化しているらしくて、芸道の域にありますね。

『みんななかよく』から

http://ameblo.jp/kandanoumare/entry-10213672620.html
2009-02-24 00:03:57
日本文学は二番目に老舗だとさ #*$
テーマ:学問未満(http://ameblo.jp/kandanoumare/theme-10005606017.html

 以前、「日本 」(学生社 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4311700377.html)という本がありました。新日鉄が編集した本で、日本のことを日英対訳で説明している本です。

 いつものように記憶が大雑把ですが、その中に、「日本の文学」について、「日本文学は中国文学に次いで、世界で二番目に古い文学」と書いてあったように思います。

 面白いでしょ。



 言われてみると、確かに「万葉集」って8世紀にはできている。「ベオウルフ」よりは前に文字に定着しているのでしょう。

 フランス語も10世紀とかそれぐらいに形成されてきたとすると、ヨーロッパ諸国と比べて、「日本文学」は古くから形が見えてきたといえそうです。

 

 でも、こういう話を聞くと、誇らしいというより「何か変?」って感じがしますよね。お国自慢が国粋的だからだめとかいうのではなくて、「何々文学」というときに、現存の国民国家をもとに、その「一国文学」の古さを比べているのがへんてこりんな感じ。

 ラテン語で書かれた作品も、ギリシャ悲劇も、インドの古代叙事詩も、アラビア語の詩歌も、現代のある国の国民文学の淵源として、連続的かつ一意に対応しているのでなければ、「国民文学」の伝統とは考えないみたい。ギリシャ文学は、現代のギリシャ文学と言語的にかけ離れているから、その一体性がないという判断なのかな。

 ペルシャ語などもそうなのかしら。



一国文学という考え方を全て無効だとは言わないけど、近代国民国家に一個一個対応させてそれぞれの国民文学を考えるものなのか。本屋の都合で「北欧文学」とか「東欧文学」なんてまとめ方もするのか。あんまり精密な概念規定とは思えません。

 スペイン語文学とスペイン文学は違うでしょう。イギリス文学とアメリカ文学は別に考えたほうがいいと思うけど、イギリス植民地の作家はどこに分類するのか。

 スイス文学ってあるのかな。スイス国籍の作家の文学ということでしょうか。

 でも、そうすると、これから日本国籍を持たない日本語使用者も増えるだろうから、日本語文学と日本文学が分裂すると期待してよいものやら。



 と、とりとめのないことを書き付けて、ここで議論になったことの続き。

 http://ameblo.jp/kandanoumare/entry-10211057232.html#c10285162599



 もともとは、このエントリーの話。

 http://blogblues.exblog.jp/7870713/

 言語の話になったけど、ここでは「国民文学」なんてものの実体ってあるのかなあ、というそこはかとない疑問から、ぼんやり考えています。



 「日本近代文学」って確かにある。それが世界史の中で重要だと、わたしも思うのだけど、それは「英語」が世界を席巻するのに抗するって話なのかなあ。

 「近代的自我」って、ヨーロッパには普通にあって、日本では知識人が苦闘の末たどり着いたなんて思われているけど、実は「日本近代文学」の発明品で、ヨーロッパにはそんなものなかったぜ、なんてことはないかなあ。


 最初に「日本人論」スタンスがあって、それからものを考えているとかさ。

日本人を日本人たらしめるのは国家でも血でもなく、日本語なんです。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/e34b4a21df806bde75256500155adeec
  ↑ ひさしぶりに、気色わるい記事をよんだ(あまりに、気色わるいので、ななめよみだが)。日本列島住民の代表例とはおもわないが、これは、まぎれもない、住民の知的レベルを象徴する記事。やっぱり、擬似科学バスターを大量に養成しないと。

みんな多様性が嫌い

ご紹介ありがとうございます。
日本語を話す国がもう一つあると、また違ったでしょうねえ。明治維新のときにフランスの影響力のある旧幕勢力中心の「東日本国」と、薩長とイギリス画作る「西日本王国」というふうに。
それで何百年かすると日本語も二種類になるの。

太平洋戦争での敗戦

という、「好機」もありましたね。■自民党を一貫してかたせてきた日本列島の共同幻想は、「アメリカが日本の分断を回避してくれた」というものですが(一部、ただしいけど)、それと せなかあわせで、単一民族国家幻想を確固たるものにしてしまう、一言語空間神話が定着しました。「想像(創造)の共同体」は、明治期だけの産物ではなく、総力戦体制+占領体制という1940年代の共通体験ぬきには、説明できないとおもいます。

■そういえば、榎本武揚(えのもと・たけあき)たちが、蝦夷地を独立国化する構想をもって、たてこもりましたね(「蝦夷共和国」)。


■植民地の有無にかかわらず、1億をこえる大言語が、国境線内部にすっぽりおさまるなんてこと自体が、ひどく不自然なのですよね。ドイツ語であれ、フランス語であれ、イタリア語であれ、そしてイングランド語でさえも、ヨーロッパ内部で越境しています。■日本語だけが、その例外だなんて、奇妙な幻想です(朝鮮語だって、中日両国内に、集住地があるぐらいだし)。

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