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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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商売としての漢字検定

■「あやしい「漢字検定」」および「あやしい「日本漢字能力検定協会」=「ムダ」とはなにか46」の続報。■『読売』(関西発)の記事から。

漢検協会の多額利益問題、検定料下げ4回指導…文科省

 財団法人「日本漢字能力検定協会」(京都市下京区)が公益事業では認められない多額の利益を上げていた問題で、同協会は1999~2007年度、指導監督基準に違反しているとして、文部科学省から延べ13件の指導を受けていたことがわかった。検定料引き下げや、大久保昇理事長が代表取締役の会社との取引の見直しなどで、繰り返し改善を求められていた。公認会計士による監査が行われていないなど基本的な運営体制の不備も指摘された。同基準に違反したままの点もあり、同省は9日の立ち入り検査で改善状況を詳しく調べる。

 同協会が6日の理事・評議員会で提出した報告書や、同省の検査結果などによると、検定料の値下げについての指導は99~07年度で4回あった。

 漢検の受検者は、年々増え続けており、02年度には36万円だった同協会の黒字額は03年度約1億7181万円に増加。同省は04~06年度に3回、「毎年多額の余剰が出ている」などとして検定料の引き下げを文書指導した。同協会は07年度から1級を6000円から5000円に値下げするなどしたが、07年度は7億8418万円の利益があった

 同協会は利益を抑えるため、新たな公益事業で支出を増やすとして、各地の教育委員会への寄付を検討。漢字能力向上の学力への影響を大阪府で調査する3万人規模の研究事業を今年3月までに行うとしている。

 また、同省は04、05年度、大久保理事長が代表取締役の出版会社「オーク」(京都市西京区)との取引についても「適正でない」と2回にわたって指導。05年度には、同協会が本部ビルを同社から年間1億8000万円で借り受けていることは、指導基準に反する恐れがあるとして改善を求めたが、同協会は「周辺の賃料と比較しても適正価格」などと説明している。

 一方、公益法人は、基本財産や固定資産などの台帳を作成し、公認会計士による監査を受ける必要があるが、07年度の検査で、同協会は行っていなかったことが判明。同省の指導に対し、同協会は台帳類を作成、公認会計士による監査報告を今後提出するとしている。

 同協会を巡っては、これらの検査後、「オーク」など大久保理事長や息子の浩副理事長がそれぞれ代表を務める計4社に対し、06年4月~08年12月で計66億円の業務委託費を支払っていたことなども判明している。

(2009年2月8日 読売新聞)

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■前回話題にのぼった、資料館とやらのための不動産取得とか、協会に貢献のあった人士の供養塔をたてるといった、奇妙な支出も問題だが、これは 2003年度以降、理事長らの企業にカネをまわすだけでは たりない(あふれる)ぐらい、想定外の「利益」がでてしまったんで、窮余の策として、でっちあげられた「目的」だったんじゃないか?■最初から、こういった ぬれてに アワの商法をみこんでいたのではないんだろうが、「軌道」にのってしまった ここ5年ぐらいは、完全な「商法」として機能しつづけ、「ドルばこ」として あてにされていたのではないか?■そうでないなら、管轄の文部科学省からの再三の指導を無視して利益をあげつづけたはずがない。
■もちろん、これまで話題にのぼった ローマ字検定みたいに、おなじような検定料のものもあるから、漢字検定の額が不当にたかいわけではなかろう。しかし、ローマ字検定は、受験者がほとんどおらず、漢字検定は膨大な受験者がつめかける。つまり、ほんのすこし実質経費よりもおおめの検定料にするだけで莫大な「利益」がうまれてしまうのだ。つまりは、組織の性格上、「商法」になりかねない「盛況」ぶりが確認された時点で、おおはばに検定料をさげる「努力義務」が発生したのに、それを かなり意図的に放置したと。■「悪質」な不作為ではなかったと、明確に証拠がだせないかぎり、「くいもの」にした、「たかった」といわれても、しかたがない。
■そして、「利益を抑えるため、新たな公益事業で支出を増やすとして、各地の教育委員会への寄付を検討。漢字能力向上の学力への影響を大阪府で調査する3万人規模の研究事業を今年3月までに行う」とかいうが、あやしいものだ。いや、ちゃんと公認会計士が立証できるような、「寄付」「研究事業」がなされるんなら、よろこばしいことだが、なぜ、これまで それが計画・実行されなかったのかについても、説明責任がいるだろう。

“京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター”だの、“立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所”といった、アカデミックな組織と連携しないのか? それらの組織に寄付行為はせず、あくまで大衆むけ公教育における漢字指導のテコいれに 目的を限定するのか?■いやいや、そればかりでなく東アジアにおける漢字文化圏の連携など事実上ムリだという現実を直視したばあい、「一国史遡及主義(=本質主義の典型)」にとじこもって 古典指向(古文・漢文教育の復古?)をあおることが、健全な伝統主義といえるのか? 外国人や障碍者にとって、「障害」となっている現状についての実態調査にはかかわらないのか?(あべ・やすし「漢字という障害」)とか、漢字教育の周辺には、教育学的に整理しつつ、教育政策のなかでブレない方針をたてねばならない課題が山積している。そのヘンの調査事業には、莫大な利益を拠出なさらないんですか? はっきりいって「漢字能力向上の学力への影響」の調査なんて、やるまえから、かなり くだらなそうな予感がするんですけどね。強烈に…。

■それにしても、これまで十数回の指導、しかも4度も検定料ねさげの指導をうけながら、うけながしてきた組織が、ここにきて 急浮上してきたのは、なぜ? ここまで浮上しなかったこともふくめて、その不透明さと唐突さが、とても気になる。




●「理事長プロフィール」←「ジャパンウェイ」という、正体不明のNPOの理事長紹介
●スパイシー「大久保昇
●広告会社「メディアボックス」関連検索結果

“認定 特定非営利活動法人 文字文化研究所”

●ウィキペディア「実用英語技能検定

●日記内「漢字」関連記事
●「教科内容の選択権3
●旧ブログ内「漢字」関連記事
●旧ブログ「好きな子も嫌いな子も こうすれば身につく漢字!!(?)
●旧ブログ「苦手な漢字の第1位「一」、小学2年で「ひとつ」書けず(読売)
“漢字テストのふしぎ”(「漢字テストの謎に学ぶ、「教科書的にはこう」ということを知っておくことの大切さ」)

●旧ブログ内「公益法人」関連記事
●旧ブログ「「ムダ」とはなにか」シリーズ
●ブログ内「「ムダ」とはなにか」関連記事
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タグ : 公益事業 財団法人 日本語 漢字検定

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コメント

わけがわからないこと

この種の漢字とか漢文・古文主義者って、
たとえば学術的に再現した縄文語とか弥生語とか古代中国語とかしゃべれるのですか?

なんで漢字にそんなにこだわっているのか、神聖視するようなルーツと言えるものか、疑問です。
なお資格の商売性とその規制の必要性については、
90年代くらいから佐々木賢さんも発言しておられますね。

最先端の層は、ある程度「復元」できるみたいです

日葡辞書からは、室町時代~安土桃山時代における日本語の音韻体系、個々の語の発音・意味内容・用法、当時の動植物名、当時よく使用された語句、当時の生活風俗などを知ることができ、第一級の歴史的・文化的・言語学的資料である。
例えば、
・「は」「ひ」「へ」「ほ」は「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」のような両唇音で、「せ」「ぜ」は「シェ」「ジェ」のような後部歯茎音で発音されていたこと。
・オ段の長音が ǒ と ô で書き分けられており、開音[ɔː]と合音[oː]が区別されていたこと。
・「日本」の読みには、「にほん」(「ニフォン」と発音した)・「にっぽん」・「じっぽん」の三通りあったこと。
・京都は「かみ」(上)、九州は「しも」(下)と呼ばれていたこと。
・「侍」は貴人を、「武士」は軍人をそれぞれ意味しており区別されていたこと。
・進退は「しんだい」、人数は「にんじゅ」、因縁は「いんえん」、抜群は「ばっくん」と読んでいたこと。
・「ろりろり」とは、恐ろしくて落ち着かない様を表す語だったこと。
・当時すでに湯豆腐という食品が食べられていたこと(ただし、薄い豆腐でかけ汁を添えると説明されており、朧豆腐のようなものか)。

など、製作者らが日常接していた当時の日本人の用語、発音等が日葡辞書により判る。
 また、当時使われていた中世ポルトガル語の貴重な資料ともされている。(ウィキペディア「日葡辞書」)


■たとえば、こんな風に、異言語間の「翻訳」文献があると、双方の当時の実態がかなりの程度推計できると。漢字文献も、固有名詞なんぞをどう表記しているかなどをたどると、双方の言語実態が ある程度は推計できるんだろおもいます。■ただ、「製作者らが日常接していた当時の日本人の用語、発音等が日葡辞書により判る」といった表現自体がくせもので、当時の西日本が、現代日本語と直結した存在として、一枚岩みたいな発想で、資料分析しているわけですよね。日本列島の言語分布は、いまとは比較にならないぐらい多様だったはずで、イエズス会の宣教師たちが接した住民・武将・商人なんて、ごく一部のはず。■いい資料ではあっても、時空上連続性を自明視するような研究者に利用されたんでは、イデオロギーにしかなりません。■ましてや、古代帝国がつかっていた漢字表記なんぞは、ほとんど異文化の言語現象をうつしとらないでしょうから、たとえば万葉集なんぞを、どんなに徹底的に分析したって、当時の日本列島上の言語的多様性を復元できるはずない。「千代に八千代に国語はつながる」といった信念は、妄想のたぐいでしょう。
■でもって、漢字の総本家を歴代中華帝国におくせよ、日本的漢字の伝統を軸にすえるにせよ、ともかく 文字上の伝統をひきついでいるんだという、妄想的な想像力が漢字幻想をささえています。すくなくとも、日本列島で展開した漢字文化は恣意性の極致で、変動がはげしく、数百年の安定をみせる要素自体が少数派です。■結局は、たとえばアカ→オレンジ→キ→ミドリ→キミドリ→アオ→ムラサキぐらい、両端が異質なグラデーションとして変質した現象をまえにしても、「継承された伝統だ」の信念だけは、不動なのです。了解不能・意味不明になっても、「つながっている」の一点ばりなのですから、冷静な議論など成立しようがない。
■しかし、京都あたりの坊さまとは、別に、漢字検定なるビジネスを展開するオジサマがたには、そういった連続性幻想自体が「高級」すぎるんじゃないでしょうか? 「つながっている」という権威主義によわい大衆が、カネさえ賽銭箱に大量になげこんでくれるんなら、どんな迷信っぽい「伝統」アイテムでもいんだとおもいますよ。■インド哲学やら チベット仏教の奥義とやらをきわめようとする高僧がいらっしゃる「伝統」は否定しませんが、ビジネスにはしって「水子供養」など、詐欺ビジネスにてをそめる悪徳業者が仏教界にも実在することは、旧ブログで批判したとおりです(http://tactac.blog.drecom.jp/archive/935)。「今年の漢字」とかも、それと大差ないような気がしますね。■大衆がかしこくなったら、京都の仏教寺院の大半は、あがったりなんではないでしょうか?

雑感

>両端が異質なグラデーションとして変質した現象をまえにしても、「継承された伝統だ」の信念だけは、不動なのです。

とのことで、おっしゃる内容には完全に賛成しますが、だとすると、もし可能であれば望ましいのは相手の主張を受け入れたとしても成り立つ反論の仕方、つまり、かりに「日本人」などという明確な集団が存在すると仮定しても、その集団はべつに特殊ではなく、ほかの国家に属する国民の特殊性程度にしか特殊ではない、という主張を用意して二段がまえの論法(「日本人」などというのは実在しないが、かりに実在すると仮定しても、それは決して他の国家の国民にくらべて特殊ではない、という論法)が有効である様に感じます。
具体的には「一般論として、ごく大まかに、比較的多数の日本人に当てはまるような特徴がないかと言えば、それはあるに決まっている。ただしそれなら、インド人にもスペイン人にも……要するに一つの文化的まとまりを持った集団には必ずあるものである」(『にせユダヤ人と日本人』浅見定雄・朝日文庫・89~90ページ)という論法です。

あと、漢字に強く固執する人が何故おおいのかはわかりません。田中克彦氏がいうような、どんなに革新的なひとも言語に関しては保守的になる、とか、言語に関する議論は感情的になる、という立論はただしいとおもいますが、それにしても言語ならぬ表記法、しかも不合理で人権侵害でもある漢字につよく固執する理由は皆目見当がつきません。ただ、わたしの経験からいえることは、わりと革新的でインテリとおぼしきひとも、何故か漢字には固執するひとはおおいように感じます。
『武(TAKERU)』(寺沢武一著)の様な言霊信仰にとりつかれていないことをいのるのみです。(いや、「いのる」といってもわたしは無心論者なので、だれに「いのる」べきなのか、よくわかりませんが…)

擬似科学としての、人文・社会系イデオロギー

貝枝さま

■内部の異同と、外部との異同とが、存外断絶があるとは おもわれないような事例は たくさんあって、具体的につきつけることは可能だとおもいます。■しかし「信念」として しがみついている層にとっては、防衛機制の対象として、現実認識から はじかれてしまうんだとおもいます。■エコノミスト自身が業界人を批判する、「奇妙な経済学を語る人びと」とか、心理学者などが再三指摘してきた、血液型性格分類の非科学性とか、エセ宗教にハマっている層とか、きくみみもちませんよね。■イエスが、「めざめよ」と いったのは、覚醒=脱催眠状態への いざないだったわけですが、原始キリスト教時代には、覚醒者はごく少数だったし、急に流行してローマ帝国の国教として制度化されたころには、(古代)帝国主義イデオロギーに変質してしまっていて、それ以降、世襲される在来宗教となったキリスト教の信者たちは、ほぼ完全に「めざめない」ひとびとの集団と化したでしょう(アメリカ帝国がその末裔ですね)。
■疑似科学バスターをかってでた、大槻教授(「血液型」も批判)が、さかんに自然科学周辺の妄信について痛烈な批判をくりかえしてきましたが、「日本語ナショナリズムの典型としての漢字論」(ましこ・ひでのり http://www.geocities.jp/syakaigengogaku/syakaigengogaku2008.html)という論文の最終章は「おわりに:疑似科学としての日本語論をこえて」と題されています。要するに、言語研究者がだいぶまえから合意点としている知見は、ほかの自然科学・数理科学や社会科学同様、その俗流版しか大衆のなかに流通しないと。要するに、科学者でない(なりきれない。たとえば、動物行動学をまなんだことになっている、竹内久美子氏みたいな)存在がかいた本だけが、基本的にベストセラーとか大衆的水準を形成するのであって、世の中はトンデモだらけが現実だという巨視的素描ですね。

■ひるがえって、日本語の連続性の実体視とか、「伝統としての漢字」イデオロギーなんぞについて、「アカアオムラサキが連続体=おなじ可視光線なんだから、同質とみなす」って論理に しがみつく層は、はっきりいって つけるクスリがないでしょう。■だって「みえない赤外線や紫外線とちがって、アカアオムラサキはみえる」と、いいはる層は、可視光線内部の異同を重視する必要なしという論理水準だけで、自己正当化するわけです。自分が理解・紹介できない「古事記や万葉集の原文」とか、辞書・変換ソフトなしには到底駆使できない漢字表記とか、そんな現実は、眼中からはずれているんですよ。■その意味では、ましこ氏は、大衆的な次元での啓発活動をほぼ断念しているかもしれません。言語研究者や教育関係者に、「疑似科学をまかりとおらせているのは、あんたたちの責任」って、批判し、改心をせまってはいるけど。デビュー作の『イデオロギーとして「日本」』から最新刊の『幻想としての人種/民族/国民』まで、ほぼ一貫して、想定読者層は、言語研究者や教育関係者なんだとおもいます。大学の学生さんが、どのぐらい「布教活動」の「洗礼」をうけているかは、ともかくとして…。

■でもって、後半の疑問点については、ましこ氏の『イデオロギーとして「日本」』(http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/122.htm)は、初版のときから、小学校段階での注入が心理的・知的負担がマゾヒズムをうみだすこと、それが自分より劣位(階層上・年齢上)に対して、差別的なサディズムとして表出される、ドラキュラ的悪循環を指摘していましたね。■ワープロの出現と、その後のパソコン・ケータイの急速な技術革新によって 漢字表記の負担はへったような印象がもたれましたが、漢字検定の人気ぶりは、日本語漢字の駆使能力が、おびただしく階層分化してしまう宿命をうらがきしています。平均的な日本人以上の能力で文脈に最適な漢字変換を機械がおこなえるようにならないかぎり、最終的な変換作業の決断は利用者にゆだねられるわけで、そこでは、かく能力というより、よむ能力とか、注意力とかが、露呈してしまうからですね。コンピュータ技術の進展は、かえって文化資本と文人的モラールを差別化する皮肉な事態をもたらしたと。
■ですから、英語にのりかえてしまう(そして拠点を日本からうつしてしまう)エリート層以外にとって、国境を日常的にラクラクこえるわけではない大衆との差別化のためには、日本語漢字は、まだまだ すてたものではない装置なんだとおもいます。

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