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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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社会疫学と臨床医学

■きのう旧ブログ記事にコメントした件は、やはり重要な気がしたので、主要部分を転載してみる【リンクは、かってに追加】。

「本の感想など」2005 2005年01月28日

I・カワチ B・P・ケネディ「不平等が健康を損なう」 [日本評論社 2004年10月20日初版]
R・ウィルキンソン「寿命を決める社会のオキテ」 [新潮社 2004年12月15日初版]

 どちらも似たような主張をしている本である。いわく、不平等な社会は健康に悪い。ウイルキンソンの本は「進化論の現在」というシリーズの一冊なのであるが、どこが進化論と関係するのかいまひとつ判然としない。カワチらの本の謝辞にR・ウィルキンソン氏の斬新なアイディアに負うところが多いと書いているから、ウイルキンソンはこの分野のパイオニアの一人なのかもしれない。
 カワチらの本は、不平等が健康に悪いということを疫学的に示しただけの本で、それがなぜなのかということについてはほとんど論じていない。というか、そのそも本の半分以上が、いかにアメリカが不平等な社会であるかという論述で占められている。それにたいしてウイルキンソンの本は、その理由につき進化論を借りた仮説を提示しているわけであるけれども、本人は別に進化の研究者でもないわけで(公衆衛生学者)、そんな安易なことでいいのだろうかという気もする。

 それでまず、カワチらの本による事実の提示から。
 世界の最貧国と最富裕国との格差はこの100年というもの開く一方である。
 アメリカ国内でも、1973年以降、格差は開く一方である。(階級社会を残しているといわれるヨーロッパのほうが現在ではむしろ平等である)
 すべてのひとの収入が平等に上昇するならば、誰ひとり幸福にはならない。新しい環境にはすぐ慣れてしまうのである。幸福に関係するのは、絶対的な所得ではなく、所得の分布なのである。
 最貧国においては所得の上昇は健康の増進に比例する。一人当たりGDP5000ドルまでは比例する。しかし、それ以上所得が伸びても寿命は延びない。所得の分配が不平等であればあるほど、寿命は短くなる。OECD加盟国の寿命の分散の四分の三は所得の不平等による。
 ひとはまわりすべてが年収三千万で、自分は二千万よりも、まわりが五百万で自分が千万の方を貨幣価値が同じであっても選ぶ傾向がある(鶏頭となるも牛後となるなかれ!)。なぜなら、ある程度裕福になった国においては、何がほしいかを決めるのは他人が何をもっているかであるからである(隣に負けるな!)。絶対値より相対値が重要である。人間には生きるためにどうしても必要なニーズと、他人に優越するために必要とされるものの両者がある。
 近年、貧困層は無理に富裕層の持ち物を手に入れようとして、労働時間を長くし、パートナーも働きにでるようになった。しかし、これは家族の親密性を失わさせる。
 家族の親密性の消失は健康や寿命に非常に大きな影響があることがわかっている。心臓発作で入院したもので、家族の親密な支持を得られるものとそうでないものとでは、死亡率が3倍以上違う。乳がんでも似たようか結果が得られている。風邪の罹患率は社会的活動性が高い人ほど低い。これはそういう人が多数の人と接触することを考えると意外な結果である。
 結論として、アメリカのような不平等社会は社会の連帯を破壊し、そのことによって健康を害している。アメリカよ! もっと平等な社会たれ!
 
 さて今度はウイルキンソンの本。

 人びとの健康水準は、その人が暮す地域の医療水準よりも、はるかに社会経済環境に依存する。社会階層の低い人の死亡率は高い人の2~3倍高い。これは死因に関しない。また健康が地位を決めるのでもない。地位が健康を決める。たとえば下級官吏は高級官吏よりも心臓発作の率が4倍高い。これは他人にくらべて自分が貧しいという心理社会的要因による。心理的満足度が決定的に重要である。仕事が自分の裁量でできる人と他人に命令されて仕事をするひとでは、寿命が違うことがわかってきた。また社会的地位も重要である。
 どうやらストレスや慢性的な不安は健康に決定的な影響をあたえるらしい。まとまりのある社会ではひとびとの寿命は長く、ばらならな社会の健康状態は悪い。日本を見よ! アメリカを見よ!
 社会的地位が低く、かつ社会的な結びつきが弱いものは、健康に対するリスクがもっとも高い。しかし、現在ではまだそういうものよりも物質的なものが健康にはもっとつよく影響すると考えているひとがまだまだ多い。
 われわれ人類を進化的にみると狩猟採集生活の時代が圧倒的に長い。そしてその時代は階層のない協調の社会であったのである。
 われわれは単に生きるだけではなく、プライドをもって生きることが必要である。そのため、《馬鹿にされる》ことは決定的に忌み嫌われる。その故に社会的地位にひとは敏感になる。
 人間はふたつの進化的要因をもつ。サルから引き継いだ階層への過敏と、狩猟採集時代の平等である。
 ストレスへの生体の反応は短時間であれば適応的である。しかしそれが長期に続くならば有害になってくる。
 
 以上どちらの本でも、社会における相対的地位が健康に決定的に影響するということが事実として示されていると主張している。これはわたくしのような人間にとってはかなり衝撃的なデータである。血圧をコントロールするとか、糖尿病を治療するという医者の医療行為以上に、本人が社会のなかでどのような地位を占めているかが健康に決定的な影響をあたえていることが主張されているからである。
 もしも、血圧をコントロールすることで死亡率が30%下がり、一方、社会的地位が低いものは高いものより3倍死亡率が高いとするならば、医者のするべきことは、血圧のコントロールではなくて平等社会の実現へむけての運動であるはずである。
 今までは、途上国においては社会改革のほうが個別の医療行為よりも健康に有益ではあっても、あるレベルの経済状態になったら、有効なのは医療的手段であると考えられていたのではないかと思う。本書によれば、医療のできることをはるかにこえて、平等化社会ができることは大きいのである。
 そして、ストレスが健康にかんする決定的な要因であるとするならば、医者はひたすら患者さんに、大丈夫です、心配ありませんといい続けるのが一番いいのかもしれない。インフォームド・コンセントで本当のことをいうのが一番いいとはいえないかもしれない。 栄養状態が不良の時代は感染症の時代である。少しよくなると脳卒中、栄養がよくなると心臓病が問題となる。現在日本が肥満の時代になっているにもかかわらず心臓病が少ないのは魚をたくさん食べるせいかと思っていたら、案外日本が均質な社会、総中流意識の国であったためであるのかもしれない。これからの日本は不平等化し、不均一な社会となっていくことは必定のようであるから、日本人の寿命も短縮して、年金問題などは相当部分解決してしまうのかもしれない。
 これらの本を読んでいて、F・ハヤカワの「歴史の終り」の対等願望と優越願望という議論を思い出した。人間は対等願望が充たされるだけではだめで、優越願望も充たされなければ幸福になれないとかいう議論であった。ウイルキンソンの本のあとがきで訳者の竹内久美子は、ウイルキンソンが理想とする平等社会なんか、退屈で居心地が悪くて住めない。短命でもいいから夢のもてるところで生きたいといっている。人はパンのみにて生きるにはあらず。人は健康のためのみに生きるにはあらず。
【以下略】
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■臨床医である、宮崎純 先生、「カワチらの本は、不平等が健康に悪いということを疫学的に示しただけの本で、それがなぜなのかということについてはほとんど論じていない。というか、そのそも本の半分以上が、いかにアメリカが不平等な社会であるかという論述で占められている」と不満げだが、疫学の最初の段階は、統計的有意の確認作業までが責務だ。■因果関係が特定されるまでは「科学」ではない、などという見解もあるようだが、そんなことをいえば、基礎医学だって かなりあやしいし、臨床的な治療行為のかなりの部分は「科学」ではなく、応用にすぎない。リスクを承知で バクチをうっているわけだから(米山公啓『医学は科学ではない』)。
■それはともかく、カワチ先生あたりのとりくむ社会疫学は、もともと対象が巨視的・長期的な数値データなので、いつまでたっても、因果関係の特定=法則化には、たどりつけない宿命をもつ。■(1) からまる諸要因がおおすぎて、たとえば「落体運動における空気抵抗の要因を除外する」なんて実験的な操作が不可能だし、多元的・重層的な規定を簡明に分解することが困難。■(2) 動植物や自然界のように、一回性の偶然などは誤差の範囲にすぎず、突然変異などによる種の分化などの例外をのぞけば「永劫回帰」といってよい「反復」とちがって、個人と集団の行為は基本的に一回性であって、同質の現象が反復することを自明視する「法則」が 原理的になりたたないこと。■以上2点は、自然科学・生命科学と断絶があると、充分自覚する必要がある。
■である以上、個人や小集団が選択する消費生活や健康管理・リスク選択などは、本質的に一回性の宿命をおび(流行現象の一部ではあるので、時空を特定すれば、統計的な属性分類はできる)、また からまる諸要因がおびただしいので、もともと「法則化」になじまないのだ。■因果関係を特定できないと、モンクをつけるのは、おかどちがいというべきだ。

■それと、カワチ先生は、ほぼ 同質の遺伝子プールをもつと推定できる日本人・日系人が、日本→ホノルル→サンフランシスコと東進するにつれて寿命がみじかくなるという疫学的データを「日本語版への序文」で紹介している(iii-iv)。■メジャーリーグの球団で年俸格差がおおきいところほど成績がわるいとか、ある地方の町が経済発展によって変貌したあとで急激に成人病の発生率がたかまった、といった統計なども、経済格差が社会の構成員の自尊心をきずつけ、モラールはもちろん、健康状態にまでも深刻な影響をおよぼすことが、わかるだろう。
■微視的・短期的な対症療法に専念するしかない臨床家としては、巨視的・長期的な文脈のなかで、みずからの臨床的営為の意味がどんなものか、気になるではあろうが、すくなくとも、以上みたとおり、因果関係を特定することが困難・無意味である以上、統計科学・経験科学としての基礎医学のデータを信じて、有力な臨床戦術を患者・家族に提示し、相談のうえ、リスク選択するほかない。

■ところで、「竹内久美子は、ウイルキンソンが理想とする平等社会なんか、退屈で居心地が悪くて住めない。短命でもいいから夢のもてるところで生きたいといっている。人はパンのみにて生きるにはあらず。人は健康のためのみに生きるにはあらず」と、個人的な人生観を提示することは、臨床家としての実践とは、無関係なはず。タバコにしろ、アルコールにしろ、過激なスポーツにしろ、リスク選択は個人の自由の範囲内だが、それと、そういった自由を 周囲に喧伝する自由とは、別ものだ。■「ふとく みじかく」主義は、アスリート・軍人など、基本的に「強者の論理」であり、これの延長線上には、重度の障碍者・家族に自死や延命拒否などをえらばせるような人生観にむすびつく、実に危険な発想である。ご自身には、自覚がないかもしれないが。■ファシズム的な嫌煙権運動とか、ヘルシズムhealthism≒健康至上主義)については、批判をくりかえしてはきたが、この点については、警戒すべしと、あえて かきとめておく。



●旧ブログ「ALS 不動の身体と息する機械
●旧ブログ「healthism」関連記事
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●旧ブログ「健康至上主義」関連記事
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