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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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「日本人」の連続性問題再論

■一年ほどまえの記事「鎌倉時代の列島住民≒現代日本人って情報がそんなに重要か?」「DNA情報による「ルーツさがし」の動機」を ひさしぶりによんだので、おもいだしながら(ムリだけど) 補足記事。

■とりあえず、「鎌倉時代の列島住民≒現代日本人って情報がそんなに重要か?」へは、トラックバック記事=Wallerstein氏が「鎌倉時代人と現代日本人」という文章を再掲【Wallerstein氏の原文のリンクは、念のためキャッシュ情報に】。

タカマサ氏のブログ(「タカマサのきまぐれ時評2 鎌倉時代の列島住民≒現代日本人って情報がそんなに重要か?」)経由。

元記事はこちら(「asahi.com:鎌倉時代人と現代日本人、ミトコンドリアDNA同じ特徴 - 文化一般 - 文化・芸能」)。

元記事を要約すると次のようになるだろう。


今日の日本人は、古くから列島に暮らしていた縄文人に、大陸から渡ってきた弥生人が合わさり誕生したと考えられており、両者の融合はいつごろから進んだのか、という日本人の形成をめぐるなぞに、遺伝子の面から一つの回答が示された。鎌倉時代に関東地方に住んでいた人々のミトコンドリアDNAの特徴は現代人とほぼ同じだというのだ。これまで「顔立ちが独特で不可解な存在」とされてきた中世人。その成り立ちが最新の科学技術によって見えてきた。鎌倉時代の鎌倉に日本人が住んでいた――一見当たり前とも思える結論だが、人類学において中世人は顔立ちの違いから不可解な存在だとされてきた。その違いをめぐり議論が続き、縄文人に似ているとして、縄文人の子孫ではと主張する研究者もいたが、古い時代から現代まで列島の人間は遺伝的に連続している可能性が高いことが今回の研究から裏付けられた。DNAは、私たち日本人とは何なのかということを考える切り口になるはずである。
……結論から言えば、この研究そのものの学術的価値は、鎌倉時代の鎌倉在住の人のDNA構成が縄文人でも弥生人でもなく、現代日本人に類似していることを示したことにある。しかしこの結論からだけでは「私たち日本人とは何なのかということを考える切り口」にはならないし、「日本人の成立がもう少し具体的に語れるようになる」ようにもならない。東北と北陸のDNA構成が分かってもそれは同じである。鎌倉時代の人々のDNAをいくら集めても「私たち日本人とは何なのか」ということは考えられないし、「日本人の成立」も語れない。「日本人とは何なのか」という問題は鎌倉時代の人々のDNAをいくら詳細に集め、分析し、1000年間「科学的な実験」を積み重ね、丁寧に調べても結論は出ない。なぜか、といえばそもそも「日本人」というのは一つの定義であって、実体ではないからだ。

分かりやすい比喩を挙げれば、鎌倉幕府の成立はいつか、という問題がある。史料をいくら詳細に収集し、それを検討しても鎌倉幕府の成立は何年なのか、という問題には結論が出ない。なぜなら論者によって「鎌倉幕府とは何か」という定義が異なるからだ。「鎌倉幕府」と言う実体があったわけではない。後世の人々が源頼朝の樹立した支配機構を「鎌倉幕府」と定義しているに過ぎない。従って何を以て「鎌倉幕府」と定義するかによって「鎌倉幕府の成立が何年なのか」という問いに対する答えは変わってくるのだ。詳しくは「2005-04-22 - 北条時輔ファンサイト」を参照。

「日本人」というのもある意味「定義」である。従って「日本人」について調べる前に「日本人とは何なのか」を定義しなければだめなのだ。従って「DNAは、私たち日本人とは何なのかということを考える切り口になるはずだ」」という篠田謙一氏の議論は逆立ちしているのである。「日本人とは何なのか」を定義してからDNAを分析しなければならない。……

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■Wallerstein氏は、日本列島の中世を専門とする実証史家なので、そこから 入念な検討をおこなっていくのであるが、ここでは、そういったプロの作業は、ふかいりしないことにする。

室町時代における「日本」「日本人」

室町時代における「日本人」という史料の用例を調べてみると、ほとんど見当たらない。朝鮮王朝の史料『朝鮮王朝実録』には「倭人」と「日本人」が出てくるが、圧倒的多数が「倭人」である。「倭人」と「日本人」は同じなのか、と言えば、実は違う。『朝鮮王朝実録』の中の「倭人」を「日本人」と同一のものとして史料を解釈するのは、史料を誤読していることになる。子細に検討するとほとんど用例の見られない「日本人」は室町幕府の関係者のことを指している。「倭人」は室町幕府関係者以外の人々である。朝鮮王朝と関係を持つ日本列島上の人々と言えば、室町幕府関係者でなければほぼ壱岐・対馬に限定される。「倭人」というのはほぼ彼らを指しているのである。……

…当時の権力は今のように領域支配を行っているわけではないことに注意する必要がある。基本的にどこまでが「日本」なのか、というものではない。従って「日本」と外との境界は「日本」か「日本」ではないのか、という二者択一のものではない。黒か白かではなく、グレーも存在するのだ。「境界領域」というものが「日本」と「日本」ではないものの間に存在するのである。…

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■な~んて、どっきりするような すごいことを展開しているんだけど、それは、原文にあたってもらえばいい。


■「日本国籍という法的な区分として判別が簡単なはずの「日本人」というくくり」に、さまざまな矛盾・ホコロビがあることは事実だ(『幻想としての人種/民族/国民』)が、近代的な意味での「●●人」という くくりによって、分類するための境界線を設定するためには、現実的に「国籍」の異同しかない。■そして、この近代的=国際私法的な区分によることなく、「「日本人とは何なのか」を定義」することは、存外むずかしい。
■たとえば、血統概念で 日本列島に常住していた住民の子孫といった方向で「定義」しようとしても、『幻想としての人種/民族/国民』が着目するような、東郷茂徳であるとか、ドイツ人医師・博物学者シーボルトの むすめ楠本イネなどを例示されたばあいに、血統主義は、すくなからぬ「例外」を うみだしてしまうのである。
■一方、DNAの分布は、統計学的な量的世界=連続体を対象化している。■したがって、Wallerstein氏がいうように、まず「定義」せよといわれても、もともと量的な次元で連続性をもった現象群を、帰納法的に「統計的に有意」などと くみあげていくわけだから、演繹的な定義とは、あいいれないのである。■「そもそも「日本人」というのは一つの定義であって、実体ではない」という、Wallerstein氏の指摘は正論なのだが、近代法の産物である「日本国籍」なる境界線以外による「定義」が困難なのだから、実は、「実体」の有無問題といった次元にないのである。
■一般には、歴史学者や社会学者、民族学者たちによって、「帰属意識」「同族意識」「歴史意識」「民族文化」などがとりざたされてきたわけだが、これまた『幻想としての人種/民族/国民』および『日本人という自画像』が着目する哲学者カントは、ドイツ人とはいえない(ケーニヒスベルクプロイセンの都市であろうと、あまりに現在のドイツ領と距離がはなれすぎている)、といった やっかいな問題がでてくる。
■プロイセン領の領域変動やら、広義のドイツ語話者の分布うんぬんはともかく、「当時の権力は今のように領域支配を行っているわけではない…基本的にどこまでが「日本」なのか、というものではない。従って「日本」と外との境界は「日本」か「日本」ではないのか、という二者択一のものではない。黒か白かではなく、グレーも存在する…。「境界領域」というものが「日本」と「日本」ではないものの間に存在する」以上、空間概念による「日本国」は、「定義」たりえない。空間概念による「定義」が破綻している以上、ある「空間」の「住民」といった次元の「日本人」の「定義」も自動的に破綻する。■つまり、「実体」がないんだから、「操作的定義」をほどこしてから 議論しろ、という、あまりに 正当な正論は、ほとんど いやらがせ/いいがかり ともいうべき、指摘なのである。だって、血統でも、文化でも、そして領土概念からも「実体」がないんだから。

■その意味では、「後世の人々が源頼朝の樹立した支配機構を「鎌倉幕府」と定義しているに過ぎない」という次元と同質の問題として、「後世の人々がヤマト朝廷など豪族政権を継承した勢力による五畿七道の領域内を『日本』と定義しているに過ぎない」といった把握でいいか、それ自体が微妙だ。■いや、それこそ、ほんの数十年まえの日本史研究者が共有していた無自覚なヤマト・イデオロギー(「日本史」という「連続体=実体」があることを、全然うたがわなかった)であり、それが学校現場や大衆メディアなどでは、全然修正されていないといった問題は、『幻想としての人種/民族/国民』『日本人という自画像』の筆者のデビュー作『イデオロギーとしての「日本」』(初版1997年)の主要課題だった。この次元では、それは「定義」ではなくて、イデオロギーとか共同幻想といった問題だとみなされている。■たとえば「源頼朝の樹立した支配機構を「鎌倉幕府」と定義」する作業は、合意点にいたることが むずかしいにせよ、いずれ実証史学の蓄積によって、せいぜい2~3の有力学説にまとまっていくだろう。しかし、近代国家としての「日本」の成立以前の列島上周辺の諸現象に、一定の「定義」が可能なのだろうか? 「同族意識」も、「均質的な文化」も、「対外的呼称」や周囲からの「命名」の次元でも、「日本」なる「実体」など不在であるばあいに、それが「操作的定義」によって、うまく議論を限定できるかである。
■もちろん、DNA情報の分布によって、帰納法的に「日本人の成立がもう少し具体的に語れるようになる」とか、「私たち日本人とは何なのかということを考える切り口」がみつかるとかいった問題設定がナンセンスであることだけは、たしかだ。「分子人類学による説明」は、現代日本人とよばれる集団内部の多様性をしめしているだけで、「鎌倉時代から現代人まで遺伝子的に連続性がたかい=そのあいだ、列島内外で でいりは ごくわずかだった」なんてことを証明したがっている御仁たちは、前近代と近代の連続性を証明したいんだとおもう。あたかも、自然科学的な統計手法をつかえば、それが客観的に可能であるかのような幻想をかかえ、みずからの着想のイデオロギー性/政治性に全然無自覚なままね。■でもって、こういったナンセンスな作業を一所懸命してしまうのは、結局、「日本の連続性」という共同幻想を全然解体しようとしてこなかった、歴史教育の悲惨な産物だとおもう。

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タグ : ナショナリズム

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コメント

お久しぶりです、ハラナさん。

東北の文化・伝統をイメージするシンセサイザー音楽ユニット「姫神」は、中央との違いを意識した作品を作っています。

たとえば「天翔る」という作品。これは青森の劇団とのコラボレーションで、自分たちの国が都に収奪されたことを幻想的に表現しています。
http://www.youtube.com/watch?v=q90AkmulOPE
なおこの姫神は、東北地方のアイヌ語の地名をモチーフとした曲も発表しています。

日本の本土・本州は出入りも差異もないという人たちは、多分こうした発想とか感性とかがあると大変に困るのでしょうね。


標準語劇なのが ちょっと残念

ですが、とりあえず、『吉里吉里人』(井上ひさし)とかの完成度の中途半端さでも、ないよりはマシというのは、連続性幻想にまどろむ層には、あてはまりそうです。■フィクションは想像力をかきたてて、たしかにわるくないし(たとえば、オーウェルの『1984年』とか、ブラッドベリの『華氏451度』)。

■ただ個人的には、大山朝常『沖縄独立宣言 ヤマトは帰るべき「祖国」ではなかった』(現代書林1997年 ISBN 4-87620-935-9)あたりの方が、おすすめかと(ウィキペディア「琉球独立運動」でも参考文献にあがっている)。

アムネスティに参加しているひとからの相談です。

某メーリングリストより。

 13歳のAさんが、(不法滞在の両親の下の生まれた子ですが)日本語しか話せないのに強制退去か、のり子さんだけ両親と別れて日本に残るかの選択を迫られています。

 選択の期限は今月の9日です。

 今頃になって言いだす私が悪いのですけれど、できるだけのことをしてやらないと、悔いが残るようで、かわいそうで、MLに書きました。

 ●入管の問題として、「今後もこの事件を組織として大々的に取り上げていきたい」

と思うのですけれど、皆さんどう思いますか。
 
 ●入管、法務省に外国人を受け入れなければ本当に開かれた発展ある日本が築けない(これからの少子化の世の中に)それを訴えなければならないと思います。

ヘルプページ: http://help.yahoo.co.jp/help/jp/groups/
グループページ: http://groups.yahoo.co.jp/group/mubobi-sapporo/
グループ管理者: mailto:mubobi-sapporo-owner@yahoogroups.jp

・モバイル: http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/1.html
・移行手続: http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/2.html
・利用規約: http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/3.html 

「近くにおじさん、おばさんが3人いる」が、つよきの根拠のようです…

「長女に限り滞在許可も」法相、個別事情に踏み込み発言
http://www.asahi.com/national/update/0306/TKY200903060097.html
2009年3月6日11時5分
 不法滞在で国外退去処分が確定した埼玉県蕨市のフィリピン人、カルデロン・アランさん(36)が、長女のり子さん(13)が学業を継続するために一家3人の在留特別許可を求めている問題で、森法相は6日、閣議後の記者会見で「近くにおじさん、おばさんが3人いる」と明らかにした。そのうえで「適切な保護、養育の環境があれば、子どもに限って許可を出してもいい」として、あくまで全員での滞在を要望する一家側に再考を求めた。

 法相の裁量で決める在留特別許可について、個別の事情に踏み込んで発言するのは異例。一家の在留期限は9日に迫っている。

 また、強制退去後5年間は入国が禁止される規定についても、「もうちょっと柔軟に、1年ぐらい、あるいはそれを待たずして一時的に子どもに会いたいということなら、上陸特別許可を出すこともやぶさかでない」と特別に配慮する姿勢を見せた。のり子さん本人は再入国許可を得れば、自由に行き来できる。

 カルデロンさんの代理人によると、父親の姉と母親の弟、妹の計3人が埼玉県川口市などで、日本人と結婚するなどして適法に滞在している。ただ、「それぞれ家庭があり、子どももいるため、経済的にも環境的にもすぐにお願いできる状態ではない」としている。

関連して


多文化情報誌『イミグランツ』というざしが今年の3月に創刊されたそうです。

そのホムペは以下のとおり。

http://www.imin.co.jp/

わたし自身は『リベラルタイム』(7月号)52~3ページの記事でこの雑誌の存在を知りました。

初のヒスパニック最高裁判事

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090807-00000013-jij-int

だ、そうです。

ウヨク(右翼)は最終的には何をめざしているんですか?

利権をめぐって権力闘争する(本人が自覚的であるか否かをとわず)ことがウヨク(右翼)の言動をささえている原理なのでしょうが、ウヨクの最終的な目標がわからないんですよ。どうかんがえても破滅への道しかない。(以前にも紹介した、下記のサイト参照)

http://www.geocities.jp/abe_netsuzo21/tennoh/index.html

ウヨクが我利我利亡者である以上、そのウヨクが自滅をのぞむことは自己矛盾である様に感じるのですが、何故に自滅をめがけて疾走するのかが理解できないんですよ。単純に、だれがどのような方法で説得しても自滅への道であることが理解できない、潜在的な能力の限界をかかえているひとびと、ということなのですか?おしえてください、タカマサさん。(いや、仮に理由をご存知でしたら、ですが)

ついでにいうと

何度か出したネタだが『コブラ』(6人の勇士編)でも、全面戦争をうったえるクリスタルボーイに対して海賊ギルドの幹部が、われわれギルドは寄生虫なんだから宿主であるカタギ衆を全滅させるような戦争をしたらわれわれもほろびる、という内容の意見をのべていたと記憶しています。その意見を排して暴走したクリスタルボーイは暗黒神に心を乗っ取られていたので暴走したのも無理ないとしても、ウヨクはそれと同様の言動を延々とつづけているわけですよね、最近の「在特会」にしても。
このひろい世界のなかで、原理的にどこまで「日本」の覇権がおよぶのかという問題に対する理論的な正解はわかりませんが、その正解がどの範囲であれ、「日本」の覇権が原理的に可能な限界までいきわたった途端、「日本」は崩壊にすすむしかなくなるのに、なんでわざわざ崩壊をはやめるの?
極端なはなし、世界中が「日本」になってしまったら、その後は何をするの?というか、何を出来るとおもっているの?
ウヨクで誠実な人間など一人もいないことを重々承知で尋ねる。ウヨクは上記の事実の指摘をよんだうえで、何を最終的にやりたいのか、そしてやれるとおもいこんでいるのか、こたえてみな。

一応くぎをさしておくと

「おくに自慢くらい、どの時代や地域にも存在するものだ」という言い訳をウヨクがすることを想定して、以下の文を引用しておいてやるから、ウヨクはこの文を詔として今後一生毎日朗読すること。

自分の国に誇りをもつという意味での国家主義ならば、どの国にも多少はあることです。戦前の日本の教育で問題だったのは、そんな生やさしい国家主義ではありません。少しならよかったけれども程度が「極端」だったからよくなかったなどというものではなく、質そのものが国際社会には通用しない異様なものでした。日本は「神国」である。天皇は神聖にして侵すべからざる「現人神」である等々……。(核時代44年(1989年)が初版の『偽預言者に心せよ!』(浅見定雄・ばんすい社・86ページ)より)

ウヨクの行動原理私論

利権をめぐって権力闘争する(本人が自覚的であるか否かをとわず)ことがウヨク(右翼)の言動をささえている原理なのでしょうが、ウヨクの最終的な目標がわからないんですよ。どうかんがえても破滅への道しかない。…

ウヨクが我利我利亡者である以上、そのウヨクが自滅をのぞむことは自己矛盾である様に感じるのですが、何故に自滅をめがけて疾走するのかが理解できないんですよ。単純に、だれがどのような方法で説得しても自滅への道であることが理解できない、潜在的な能力の限界をかかえているひとびと、ということなのですか


 ↑ ■私見では、ウヨクは一枚イワではないとおもいます。■しかも、自覚の有無としての利権闘争・権力闘争と、ウヨク性は、別個の次元にあるとおもいます。すくなくとも、自民党タカ派や民主党タカ派の連中が、えせウヨクであり、ナショナリストをかたった利権野郎集団だということはできますが。■問題は、かれらに コロりと やられている、ネットウヨの わかものたちなど。■かれらは、雨宮さんたちが「改心」して、敵は社民勢力ではない…と喝破しているのに、全然直視をできずにいる。格差拡大が自分たちのクビをしめているという構造も直視できない(したくない)。あらぬ方向に被害妄想的な敵を幻視しては、無意味な攻撃をくわえて、利権野郎たちを利する。
■ちなみに、自称ウヨクの、えせ愛国者どもの大半は、関東軍よろしく、「エル・ドラド ジパング」が沈没するころには、「亡命」の途についているような連中です。「自滅への道」ではなくて、連中にとっては、「しずみゆくふね」でしかないんです。連中は寄生虫ですから、宿主がどうなろうと、そんなこと しったこっちゃない。宿主がよわっってきたとみたら、平然と のりかえるだけです。

『国家主義を超える』(講談社)を再度よみました。

ざっと読み通した程度ですが。
やはりスゴイ本ですな。
『イデオロギーとしての「日本」』や『幻想としての人種/民族/国民』といった、ましこひでのり氏の一連の著作にくらべても決してひけをとらない名著だ。「日本」における創られた伝統を解体している点(同書第一章「古式とタブー」参照)にくわえ、ましこ氏の上記著作にくらべての優位として、「日本」における国家主義をささえてきた精神文化史の変遷も分析している点があげられよう(同書第三章「現世主義」参照)。
この本がもっとおおくの人に読まれるようになれば、似非ウヨク「にコロりと やられている、ネットウヨの わかものたちなど」も改心するとおもうんですが……無理ですかね?この点に関するタカマサさんの見立てや如何に。

あと、別件ですが、以下の4冊も再度推薦しておきます。

人種差別をあつかっている『「野蛮」の発見』(講談社現代新書)
軍事侵略をあつかっている『侵略戦争』(ちくま新書)
障がい者差別をあつかっている『知的障害者の自己決定権』(エンパワメント研究所)
女性差別(ジェンダー)をあつかっている『媒介する性』(藤原書店)

『国家主義を超える』は宗教に関する本でもあるので、宗教つながりでネタを

ageておく。ただし、以下のサイトは性的な表現…というか、(一部のマニア以外には)くだらねーネタだらけなので、マニア以外には推薦しません。

http://www.p-ratic.net/cgi-bin/kakolog/readres.cgi?bo=Baby&vi=1225175300

ちなみにネタもとは以下のサイト

http://www.p-ratic.net/cgi-bin/kakolog/readtitle.cgi?bo=Baby

アマゾン(ネット通販)の しなぞろえ

■阿満利麿『宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証 (ちくま学芸文庫 2005)はありますが、何度も紹介いただいている、『国家主義を超える 近代日本の検証』(講談社)は、しなぎれを理由にか、Amazonには、ならべられていませんね。■それとも、前者は後者の改訂版なのかな…。

■前者については、
宗教学者として精力的な活動を続ける著者の本です。
特に異端的な宗教に関する扱いは著者ならではの手法です。が、
国家論となるとどうでしょうか。
「前夜」という雑誌では1868年明治元年から明治政府(国家)のキリシタン弾圧がはじまったかのように
述べていますが、その頃はまだ藩政がしっかりと残っています。
江戸幕府のキリシタン弾圧は江戸時代も延々と続いており、著者のあげる例は
本来歴史学者によって江戸時代最後のキリシタン弾圧として研究されています
(こういう所が歴史学者に宗教学者が馬鹿にされる所なのかもしれませんが・・)
宗教問題は、江戸幕府が倒れたとたん、明治国家によって発現されたものではありません。
どうも、歴史的視点はかなりカットされており神道が明治になり突然大ブームになり
敗戦と同時に完全に抹消したかのような感さえうけます。
ある程度資料批判ができる人にはおすすめできるとは思います。

という酷評もありますが、僧侶も一目おく 実力者の書であるようですね(http://blog.goo.ne.jp/zen-en/e/7d2f9561abc4ff2583a25680011a3b6b)。
■ひとくぎり ついたら、とりよせてみます。

■また、これも何度か話題にのぼっている
『「野蛮」の発見』(講談社現代新書)
『侵略戦争』(ちくま新書)
双方とも良書ですね。
■ジェンダー論をはじめとして、高校生ぐらいでよんでくれていると、いいんですけどね。大学にいくのは人口の半分なわけだし、大学もあてにできないし…。

♪だ・い・ち・に、ま・い・お・り・た、てんし。え・い・え・ん・に、つづくエモーション!

劇場用アニメーション映画「宇宙戦艦ヤマト」(http://yamato2009.jp/)が製作されつつあるのですから、ヤバさとしては同等かそれ以上の、以下の様なネタも劇場用アニメーションにするべきですにょ。

『ボクと妹』(しのざき嶺・ジェーシー出版)
『ザ・病院』(武市好浩・PSK)
「いつも何度でも」(「登場する人物はすべて18歳以上で」あるところの『いけない少女』(おがわ甘藍・松文館)収録)

ちなみに今回の拙稿の題名の元ネタは『EVAN GET IT ON』のオープニングテーマ…だったような気がします。

参考までに

『エヴァンゲリロン(EVAN GET IT ON)』については下記のページ参照。

http://ameblo.jp/shit-girl/entry-10239006377.html

ありました、オープニング。

でもって、歌詞も貝枝の記憶どおりでした。(←さすが!)

ニコニコ動画より『エヴァンゲリロン Opening』

http://faoe.blog120.fc2.com/blog-entry-700.html

中途半端な目標にした方が、短期的には被差別者のやくにたちそうな点について

<「中途半端」についてのおことわり>
この場合の「中途半端」とは妥協案ですが、長期的な目標としても通用するものとしての案ではなく、あくまで短期的な目標としては原理的にただしい主張を犠牲にしてでも、多少なりとも被差別者の取り分をふやすことを最優先にする、という意味です。

<わたしが接した範囲でのアイヌ民族のこと>
わたしは、とある革新的(とおもわれる)アイヌ民族支援の団体かかかかわった経験があり、いまもその団体とつながりがあるのですが、その団体に所属していることをアイヌ民族のひとにはなすと、よろこばれる場合もありますが、過激であるとしてイヤがられる場合もあります。

<原理的にただしいことが、戦略・戦術としてはただしくなさそうにおもえること>
逆に、その革新的(とおもわれる)アイヌ民族支援の団体の構成員もとい会員に過激よばわりされたことをつげると、そのアイヌ民族のひとがむかしにくらべて右傾化したのだ、という指摘をうけました。多分、事実関係としてはその会員のいうことの方がただしいのだとおもいます。

<運動家たちと研究家たちとのこと>
市民運動としては、こまかい点で用語のまちがいとかがあっても、長期的にはどうすれば被差別者がすくわれ差別者が謝罪や補償をするかをかんがえつつ、短期的には多少なりとも被差別者の取り分(収入)がふえることをめざすべきである様に感じます。もちろん、取り分がふえると、その再分配をめぐって被差別者同士のうちゲバがおこる危険もありますが、そしてそれは回避すべきですが、そのことをおそれてばかりいて高邁な長期目標ばかりをかかげていても、当面の生活費をどうやって捻出するのかという問題に対する明確な解決策をしめせない人間は、研究家としてはともかく運動家としては不十分な姿勢しかしめしていない様におもいます。逆に研究家であれば、原理的にただしい長期目標をブレずにしめしつづけることが任務なのでしょうが。どうにも、わたしが個人的にしった運動家と研究家は、その点が逆になっている様な気がしたので、ここでぶちまけた次第です。

少数派が「右傾化」してみえる現実

> 長期的にはどうすれば被差別者がすくわれ差別者が謝罪や補償をするかをかんがえつつ、短期的には多少なりとも被差別者の取り分(収入)がふえることをめざすべきで…、取り分がふえると、その再分配をめぐって被差別者同士のうちゲバがおこる危険…をおそれてばかりいて高邁な長期目標ばかりをかかげていても、当面の生活費をどうやって捻出するのかという問題に対する明確な解決策をしめせない人間は、研究家としてはともかく運動家としては不十分な姿勢しかしめしていない

 ↑ ■基本的に、そのとおりだとおもいます。■要は、長期戦略と短期的戦術の強靭かつ柔軟な つかいわけと。前者をおもに担当するのが、少々距離をおいた研究者で、後者にはりつくのが運動家だとおもいます。まあ、ボランチみたいに、スィーパー的最後衛から大局をみとおし、前線に徐々にでていって、機をみて果敢にシュートをこころみる、みたいなスーパースターを、マンガ・SF的には期待しがちですが、やはり、野球・アメリカンフットボールみたいな分業はナンセンスにしても、そこそこの分担を適性に応じてやるべきだろうと。
■そして、そこでは、当事者との物理的・心理的距離と、時間的・戦略的な射程とが、単なるアナロジーではなくて投影し、かなりの程度、時空上の「同形」をとっているような気がします。■運動論的には、スィーパー的最後衛たる歴史研究者と、最前線のワントップ・フォワードまで、球がすっととおるような監督業がみつかるといいんですけどね。というか、ボランチもできるような、守備的ミッドフィルダーでしょうか? フィールドの内外では、当事者にとって全然意味がちがいますから。
■ちなみに、ボールが象徴するのは、当事者ではなくて(それでは、「マイノリティころがし」←野村浩也)、包囲する無自覚な多数派のもたらす諸問題です。

■ちなみに、少数派が「右傾化」してみえるのは、多数派の無自覚とか悪意の産物でしょう。

お返事ありがとうございます。

お返事ありがとうございます。賛成していただけてうれしいです。

>■ちなみに、少数派が「右傾化」してみえるのは、多数派の無自覚とか悪意の産物でしょう。

との点に関しては詳述しますと、上記の「革新的(とおもわれる)アイヌ民族支援の団体」に対して「過激よばわり」したアイヌ民族のひとも、その団体にむかしは参加して活動していたそうです、現在の会員がいうには。なので、むかしにくらべて、そのアイヌ民族のひとが右傾化した、という指摘は、上記のアイヌ民族支援団体が基本方針を長期間堅持しているとおもわれるので、事実ではあるのでしょう。ですから問題はおそらく、ハラナさんも同意してくださった箇所である「当面の生活費をどうやって捻出するのかという問題に対する明確な解決策をしめせない人間は、研究家としてはともかく運動家としては不十分な姿勢しかしめしていない」という指摘に集約されている様におもわれます。いずれにせよ結論部の「どうにも、わたしが個人的にしった運動家と研究家は、その点が逆になっている様な気がした」という印象は、多分まちがってはいないとおもうです。アンタら役割いれかわれよ。いや、いれかわってない現状のままでも、時間のゆるすかぎり協力はするけどさ。

雑感

いろいろ雑感。

>「どうにも、わたしが個人的にしった運動家と研究家は、その点が逆

♪どーにも、こーにも、意地っぱりぱり意地っぱり……
な、わけですね。なんとなくわかります。その意地が弱者に悪影響をもたらさない範疇におさまってくれていれば問題はないのですが、大丈夫かなぁ……(←いかにも他人事な口調)。

>スーパースターを、マンガ・SF的には期待しがちですが

♪スーパースターのおでましに……とくらぁ。
わたしもむかしはそんなスーパースターがどこかには存在する(自分が知らないだけだ)とおもっていたんですが。

http://www.youtube.com/watch?v=QpY8QrUNKlI

いや、彼の場合はタカマサさんに(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-304.html)「統率力はともかく、戦闘機パイロットとして天才的な技量をもつがゆえに、絶対的自信がゆるがない」(2008/06/20 13:00)と評された統率についても、やる気をだせばできる様におもえるんですが、対等な条件で戦闘することに固執して国家機密を敵軍にながす様では、そもそも統率に対するやる気自体をもてないのかも…(下記ページの2分11~22秒参照)

http://www.youtube.com/watch?v=Eq4BHoAaC68

ちなみに、某もと首相によって、広義のツンデレであるとはいえるかもしれないが狭義のツンデレであるとまではいえない(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-930.html)との評価をうけた(2009/09/05 19:36)チェーンさんの活躍は、以下のプレステ1版を参照されたし。

http://www.youtube.com/watch?v=k8tvdgnFkyA

それにしても軍服のしたがスカートなのってどうよ?

って、なんだか雑感というより、単なるネタの弾幕みてーになっちまったな。「弾幕あついぞ!」……(←まったく収集つける気なさげ)

「業界」「現場」は「適材適所」

匿名希望さま

■現実の変動を忠実におうことこそ研究者、ってのは、かなりカンちがいだとおもいます。いや、もちろん、マニアックな アマチュア・ジャーナリズムが成立するのは、逆接的にアカデミズムだけ、っていうリクツもなりたつとは、おもいます。ジャーナリズムは取材費と時間が必要なわけで、一銭もはいらない、もちだしだけのジャーナリズムなんてのは、原理的に存在しない。テレビドラマみたいに資産家が探偵するとかみたいな、ヘンなマニア・ジャーナリズムは夢想のなかだけでしょう。■結局は、ほかに生業がある(弁護士だの市議会議員だの)市民活動家とかしか、スポンサーぬきのジャーナリズムをつづけられない。そういった一種として、大学のセンセってのも、ありだとはおもいます。■しかし、テレビ・新聞等のコメント屋の常連になるのならともかく、大学のセンセが、ジャーナリスティックに論評するのは、もともと本業じゃありません。それは、大衆の権威主義にめをつけた「ブンヤ」さんたちが でっちあげた偶像。自分たちの分析に、おすみつきをつけてもらうために、○○大学教授だの、△△研究所の▽▽医学博士みたいな登場をねがうだけと。■大学のセンセにもとめられる本業とは、学生さんの指導と、中長期的にブレにくい耐用年数のながめのご研究をじみちにおやりになること。そのなかで、体力・精神力などにユトリがある御仁だけが、最前線に「さしいれ」をするということだとおもいます。研究成果を、「おせわになりました」と、当事者が理解できるかたちで「報告」するとか、行政との コネを提供して便宜をはかるとか、知名度を利用して広報するとか…。■そういった「資源」を豊富にもたない大学のセンセが最前線にでかけていったら、搾取的調査か混乱しかもちこまないのでは?
■逆もまた真なりで、最前線でサポートすることを期待されている御仁が、「中長期的にはこれが最適解なのだから、ブレてはならない。めざすは最短ルート」みたいな、ゴリゴリ原理主義をもちこんだら、単なる「極左冒険主義」だし、生活苦とか差別にくるしむ当事者の分裂をまねくだけでしょう。■是々非々、清濁泡を飲むで、原理原則など、状況にあわせてほうりだせないといけないはず。
■つまりは、「適材適所」ってことです。問題は、「ボランティア」なので…ってことで、犯罪的な次元まで悪質でないと、「善意」の暴力を当事者がこばめないこと。



貝枝さま

■ユーチューブは、時間のつごうで みにいけませんが、プレイング・マネージャーというか、現役選手と監督業を兼務できると誤解している御仁とか、さっさと監督業に専念したら絶対にいいのに、「まだまだ、わかいものには、まかせられない」とかいって、後進の成長をはばんだり、組織に有害な影響をおよぼす御仁がいますね。ひどければ「老害」と。■非暴力主義者のハラナとしては、前便からスポーツや戦闘のメタファーばっかりで、なんだか うまくないんですが、敵機を一機撃墜するよりも、その時間・体力・知力を、敵機を数機おとせる後進を数人育成する方にふりむけるとか、最前線にはでていくことをひかえて、後輩たちが前線で「最適解」の攻撃・防御を展開できるように、後方から指示をだすとか、窮地におちいっている前方を支援すべく援護射撃を適宜おこなうとか、そういったゲーム・メーカーとしての活躍へと転身すべき人物もたくさんいそうな気がします。■当方などは、馬齢をかさねたので、「最前線」も「最後方」もになえませんが(笑)。
■ま、これも、前便でかいた、時空上の距離のメタファーとかぶるかと。年長者・経験者は、最前線にでしゃばらずに、後方から最低限の指示をだすにとどめる自制が必要でしょうね。職人さんみたいに、最前線でひっぱるしかないひと、一生最前線記者なんて御仁もいるけど、それは例外と。

「日本的な伝統」の継承者をオルグして

天皇制に打撃をあたえられないかとおもうんですが、どうですか?
華道や茶道や歌舞伎といった「伝統」芸能は、その成立経緯をかんがえれば天皇制とは無関係のはず。ただ「日本」が国家主義を推進するために天皇制に依拠している結果、上記の様な日本的な「伝統」芸能と親和性がたかいという現象が生じているだけであるわけですよね。であれば、そうした「伝統」芸能のにないてが反天皇制を標榜すれば、ほかのひとや団体が反天皇制を標榜する以上に天皇制にとって打撃ではないでしょうか。実際にそうした「伝統」芸能のにないてが反天皇制を標榜してくれるかいなかは不明ですが、それらのにないてを優先的にオルグする戦略的・戦術的意義はあるとおもうんですが、どうですか?
ちなみに天皇の病気に言及した「不敬」な落語を「自粛」させられた経緯のある落語界(『偽預言者に心せよ!』ばんすい社・45ページ)はオルグに応じてくれるかもしれない…という期待を勝手にしております。でももともと天皇制と親和性がひくそうなので、オルグしてもあまり打撃にならないですか?

「日本」の象徴は天皇でないとイヤだという心理構造について

「日本」の象徴は天皇でないとイヤだという心理構造については、それが「日本」の国家主義を根本的に疲弊させているという問題がある。逆の価値観にもとづく国家主義のたちばからかんがえてみよう。つまり、王族(皇族)およびその頂点にたつ王(天皇)との一体感がないと国民としてのほこりをたもてないというひとびとの国家と、ほかの象徴(文化財やさまざまな「伝統」)を国民統合の象徴としている国家があるとする。かりに諸外国との交流のために文化財や「伝統」をたがいに観賞しあう機会があった場合、後者の国ならば単に自国の文化財や「伝統」自体を披瀝するにとどまるだろうが前者の国は自国の文化財や「伝統」と王族とのつながりをつねに念頭において披瀝する。そんな国が他国と対等に対話できるだろうか。わたしにはそうおもえない。そもそも諸外国の国家主義者は、そんな姿勢でないと自国の文化財や「伝統」にほこりをもてないひとびとの心理のなかに、自国民さえ差別する心理構造をよみとり、そんな国で文化財や「伝統」をまもっているひとびとをあわれにおもうだろう。すなわち「あの国では、いくら一所懸命に旧来の格式を墨守しても、その営為には自国民からも敬意がはらわれず、王族が認知してはじめて自国民からも敬意がはらわれる。なんとあわれな国だろうか」と。そしてその様に、王族ぬきではなりたたない国家主義などは、自国内における差別主義をあからさまにしている点において一般的な「おくに自慢」の精神的たかみには到達できない。というのも、個々の文化財や「伝統」の優美さで評価されるなら文化資本が入手できるひとならば平等に習得できるのに対して、王族にみとめられないかぎりは自国民からも評価されないということは、文化資本をみにつける機会のあるひとびとのあいだにさえ差別が生じるからである。
諸外国からは、「あの国では、外国からみてどんなにうらやましいほど優美な文化財や『伝統』でも、それらをまもっているひとではなく、それらに格づけをする王族こそがもっともえらいと評価される。自国の優美な点さえも虚心に評価できない人間など信用できない」とみられるだろう。

以上、「想像の共同体」である国民国家を前提とした議論ではありますが、ウヨクが優美な華道や茶道ではなく和服のきこなしもみごとな京都の冷泉家でもなく洋装で諸外国にしょっちゅうでかけるテンノーヘーカこそ国家そのものとかんがえているとしかおもえない某辺境列島は、諸外国の国家主義者からどうみられているか、というシミュレーションとしてまちがっていないとおもいますが、いかがですか?ハラナさま。

天皇幻想

匿名希望さま

■落語界、って、そんなに左傾しているんですか? ■歌舞伎だのといった世界よりは体制的でないふんいきを感じますが、エラそうな落語家って、たくさんいますよね。世襲が結構いるし。■落語の芸術性とか否定はしませんけど、そこが保守政治や王権から自由かというと、リサーチ不足なので、保留しておきます。


■アラブ地域とか、民族衣装をきた指導者がたくさんいたりますが、おおくの国では洋装が支配的ですよね。したがって、わりと「和魂洋才」的な やりくりは、普遍的現象なのではないかとおもいます。■むしろ、神道儀礼のときに、急に復古するという、きりかえこそ、「東洋の神秘」みたいに、オリエンタリスティックな解釈でうけいれられてしまうのでは?

■ただですね。たかだか150年ぐらしかない、近代天皇制である以上、それが かなぐりすてられても、正常化する保障はないとおもうんですね。■以前もかいたことがありますが、アメリカやフランスのように、王族ぬきに、強烈なナショナリズムは成立しうるわけです。石原慎太郎などは、全然王族を必要としない右派であり、単に「手段」としかかんがえていないでしょう。幕末の志士たちと同様、「玉」という道具でしかないんですよ。■したがって、国際的なぶんどりゲームにおいて、不要と判断したら、あっというまに皇室はほうりすてられるとおもうんですね。
■それと、すくなくとも現在の20代の層って、全然皇室を必要としていませんからね。

>■落語界、って、そんなに左傾しているんですか?

わたしが参考にしたのは『偽預言者に心せよ!』という本の45ページにある記述で、柳家小三治さんという落語家が昭和天皇が重体のころ天皇をネタにして「いまはやりの天皇陛下の膵臓というのは、これは(五臓六腑の中に)入っておりませんがね。えー、どういうわけで入っていないのか、そこのところはよくわかりませんが…」という発言が問題になり、柳家小三治さんの落語を収録したCBSソニーがCDを「自発的に『自粛』して回収し、『問題』の部分を削ったのだ」という箇所です。ただ、おっしゃるとおり、この一事をもって落語界が左傾しているという期待は、楽観的すぎるかも…(弱気)

> 王族ぬきに、強烈なナショナリズムは成立しうるわけです。

わたしとしては、辺境列島「日本」のナショナリズムが王族ぬきのナショナリズムになれば、それだけでも十分革新的になるとおもいます。というのは、さきにのべましたとおり「個々の文化財や『伝統』の優美さで評価されるなら文化資本が入手できるひとならば平等に習得できる」からです。もちろん文化資本をみにつけられること自体が格差社会の結果なのであって、わたしは別に「王族さえ廃すれば国内の差別はなくなり、あとは国家間の差別や二重国籍者など複合的な要因による差別とたたかうのみになる」という単純な思考法をもっているわけではありません。ただ、王族という、個人の努力や経済的な地位によっては到達できない特権に依拠する国家主義よりはマシでしょう。というのも、文化資本は経済的な地位と個人の努力さえあれば長期的には習得可能でしょうから。
もっとも、「優美な華道や茶道ではなく和服のきこなしもみごとな京都の冷泉家」の方がテンスケ(天皇)よりは手ごわい権威であるという側面もあるとはおもいます。なにしろそれらの権威は無節操な言動だらけのテンスケよりは一貫性はあるでしょうから。

ただ、しかし一方で、それでもやはりテンスケの地位低下を示唆する

> ■それと、すくなくとも現在の20代の層って、全然皇室を必要としていませんからね。

というハラナさまの大御心もとい御指摘は、わたしを多少なりとも安心させてくれるのです。

一貫性について追記

一貫性がある権威の方が手ごわいという点について追記しますと、弱者自身が自分の集団を本質化してしまっている、そしてその本質化が持続的な運動をささえるエネルギーになっている、という側面があるとおもいます。
つまり「被害者であるから補償せよ」という主張よりも「われわれは●●という集団だ」という風に、みずからの被差別性をよりどころにした方が運動を継続できるとおもいます。というか「被害者だから補償せよ」という主張では長期的に運動をするエネルギーをえられない、という現実があるとおもうのです。その様な現実をふまえると、言動に一貫性のある権威が「われわれも●●という集団だ」とブレない姿勢をしめしたときに、その権威のはなつエネルギーに被差別集団が圧倒されてしまう危険性もある様におもいます。その意味ではたしかに、一貫性のある権威に対抗する場面においては「われわれは被害者だから補償しろ」という主張を主軸にするという柔軟な戦略・戦術が被差別集団にとって必要になるでしょう。
いずれにせよ、権利回復のたたかいは、はばひろい能力をとわれる長期戦になるものとおもわれます。

被害者の求心力とか一貫性ほか

匿名希望さま

■「いまはやりの天皇陛下の膵臓というのは、これは(五臓六腑の中に)入っておりませんがね。えー、どういうわけで入っていないのか、そこのところはよくわかりませんが…」という発言は、「いまはやりの…」という箇所こそ問題視されたのかもしれませんね。しかし、たとえば忌野清志郎(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%87%8E%E6%B8%85%E5%BF%97%E9%83%8E#.E4.B8.BB.E3.81.AA.E4.BA.8B.E4.BB.B6)みたいな戦闘性が落語界にあるんでしょうかね?

■身体論・言語論の斉藤孝センセーとかが、NHKあたりとくんで 必死に伝統文化の継承に努力していますけど、わかもの世代のおおくにとって、伝統は、どうでもいいようです。てまひま・カネかけないと ならうことができない伝統文化なんて、所詮マイナー文化であり、エリート文化としての権威を維持するのは困難です。■もちろん、「海老さま信仰」など、テレビ・週刊誌系も、必死に権威主義の維持にとりくんでいるわけで、無関心派がどの程度権威主義層を包囲できるか、その無自覚な攻防が、みものですねぇ。■数百年一貫性がありさえすれば、もと大衆文化だって、充分古典、っていうのが、歌舞伎界だのの論拠でしょうけど、無関心層が膨大になり、特別あつかいの助成金だのを拒否するようになれば、市場原理にのれない業界は、消滅します。実際、江戸文化の大半は、そうやってきえていきました。そして、歌舞伎だって、危機にあって、権力にすくわれたって、歴史家が論証しているはずです。すくなくとも、権力をパトロンにせず、大衆の人気だけでは人気・市場を確保できなかったことは、ウィキペディア程度でも記述しています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%94%E5%8A%87%E6%94%B9%E8%89%AF%E9%81%8B%E5%8B%95)。

■植民地被害者などの求心力と、マジョリティ内部のエリート文化の「権威」とがもつ求心力は、比較してもナンスでしょう。むしろ、現在の天皇は、琉歌をしたためるなど、少数派文化を慰撫する戦術をみにつけています。だから、大衆が歴史的権威にひれふすというより、エリート支配層の柔軟性こそ監視しないと。■それと、被害者がわが 求心力をもちやすいかといえば、被爆国日本、沖縄島、水俣病、労働運動、…等々、悲観的な実例ばかり おもいうかびますが、いかがでしょう?


お返事ありがとうございます。

お返事ありがとうございます。

> 被害者がわが 求心力をもちやすいかといえば、被爆国日本、沖縄島、水俣病、労働運動、…等々、悲観的な実例ばかり おもいうかびますが、いかがでしょう?

この点については、まったくおっしゃるとおりですね。残念ながら、悲観的な実例がおおく、今後もそうなるであろう懸念を払拭できません。

> 大衆が歴史的権威にひれふすというより、エリート支配層の柔軟性こそ監視しないと。

この点も異議ありません。わたしがさいわいにして、一部の革新的な琉球先住者やアイヌ民族のかたがたとしりあうきっかけがあったため、それらの先住者(先住民族)を慰撫する天皇と、その天皇にまるめこまれる被抑圧者という構図を批判しているひととしりあえたのですが、
そうした革新的なひとびとが被抑圧者のなかで、単純な人数の面よりも政治影響の面でこそ、どれだけのわりあいをしめているのかは、かなり慎重に検討しないといけないでしょうね。

そうかんがえると、「非国民通信」の冒頭部分にある様に「未来なんてあるわけがない」という結論になりますかね、やはり。

「非国民通信」らしくない 駄作かな…

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/a206f889659fa2ff2ded26efa45ebc2a
ジョン:「パパ。ひとつ聞いてもいい?」
パパ :「なんだい」
ジョン:「国の仕組みってどうなってるの?」
パパ :「いい質問だ。よし。うちの家族を例にとってみよう。
パパはお金を稼ぐから”経営者”だ。
ママは家計を管理してるから”政府”だ。
そして、パパとママに面倒を見てもらっているお前は”国民”だね。
ウチで働いているメイドのミニーは”労働者”だ。
赤ちゃんは・・・そう、”未来”だね。
国の仕組みってこんな感じだよ」
ジョン:「うーん。よく分からないや。今夜、よく考えてみるよ」

その夜、赤ん坊がおもらしをして、ひどく泣いていた。
ジョンは両親に知らせようと寝室に行ったが、 ママが熟睡していただけだった。
そこで、メイドの部屋に行った彼は、ドアの隙間からパパとミニーがベッドの上で夢中になっているのを見た。
「パパ!」と何度も声をかけたがまったく気づいてもらえない。
しかたなく、ジョンは自分の部屋に戻って寝てしまった。

次の朝・・・。
ジョン:「やっと国の仕組みって分かったんだ」
パパ: 「ほう。えらいな。どれ、説明してごらん」
ジョン:「ええとね。”経営者”が”労働者”をやっつけている間、”政府”は眠りこけているんだ。
そして、”国民”の声は完全に無視されて、”未来”はクソまみれなんだよ」


■たとえとして、全然よろしくないとおもうんですね。■まあ、過去の例でいえば、『PLAYBOY』誌(http://ja.wikipedia.org/wiki/PLAYBOY)には、「パーティージョーク」(http://m-playboy.shueisha.co.jp/playboy_special/index4.html)っていう、低俗なアメリカ人がすきそうなジョーク集がのっていましたが、それと同様、ながせばいいというのが、オトナの対応でしょうが、こういった寓話は、簡単にスルーというのは、ちょっとどうかと。

■「パパはお金を稼ぐから”経営者”だ。
ママは家計を管理してるから”政府”だ。
そして、パパとママに面倒を見てもらっているお前は”国民”だね。
ウチで働いているメイドのミニーは”労働者”だ。
赤ちゃんは・・・そう、”未来”
」、というたとえは、全部はずしているでしょう。■いや、日米の財界のオッサンたちは、そのとおりだと、政府・国民・労働者をみているんでしょうが、すくなくとも、勤労者たちは、経営者と政府に「面倒を見てもらっている…”国民”」なんかじゃない。■パパ=労働者、ママ=経営者ないし政府、メイド=派遣労働者、ボク/赤ちゃん=育成事業、…といったたとえなら、まだわかりますけど。

■あと、「”経営者”が”労働者”をやっつけている」という、ボクの「解釈」ですが、労使間のSMプレイは、政府とその被統治者の将来を破綻させる浪費、だと、いいたいんでしょうかね?また、 労使が夢中になっているというプレイは、双方の合意が不在のセクハラなんでしょうか?(まあ、セクハラという現象にあっては、加害者も被害者も「夢中」かもしれません)  あるいは、両者の合意の有無にかかわらず、あたまごしで わけのわからんことをみせつけられている、無知な「国民」というメタファーなんでしょうか? ■ま、そこまで よみこんだ寓話なら、すごすぎますが…。
■わざと お下劣な寓話を作品としたのでしょうが、これは、おとしめてはならない日本列島上の住民を不当に侮辱するものだろうし、反体制派の御仁が、パーティージョークなみの品性下劣な表現に堕しているという意味でも、よろしくないとおもいます。■こういった あてこすりに終始しているかぎり、ホントに「未来」は、「いまだきたらず」のまま永遠にこないかも。


■ちなみに、過去は記憶のなかに、未来は想像力のなかにしかない、物理的には「あるわけがない」存在ですね。■右派のみなさんにおくることばとしては、「日本人」なんて 時空上「一枚いわ」の実体が存在する物理的・社会的根拠がないんですから、「日本人の来歴=過去」もなければ、「日本人の将来=未来」もありえません。日本列島上に展開する日々の生活実態、という「現在」の集積だけが実在します。

■それと、以前「先住民」関連記事(http://harana.blog21.fc2.com/?q=%C0%E8%BD%BB%CC%B1)でもふれましたが、「琉球列島住民は、アイヌ民族とちがって、多数派のヤマトゥンチュに包囲・放逐されたことがない。だから、対ヤマトという次元では、「先住民」認定は、あやまっている」とおもいます(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-574.html)。

再度お返事ありがとうございます。

> 右派のみなさんにおくることばとしては、「日本人」なんて 時空上「一枚いわ」の実体が存在する物理的・社会的根拠がないんですから、「日本人の来歴=過去」もなければ、「日本人の将来=未来」もありえません。日本列島上に展開する日々の生活実態、という「現在」の集積だけが実在します。

まさにおっしゃるとおりですね。というか、そもそも言語(手話言語をのぞく)の本質は「音声」であって「意味」ではないのですから、「日本」の本質とは「ニホン」あるいは「ニッポン」という「音声」でしかないでしょう。そのうえで「ニホンレットウ」あるいは「ニッポンレットウ」における自然・社会・人文現象の総体のうち、自身に都合のよいものだけをきりはりしたコラージュが右派のいう「ニホン」あるいは「ニッポン」であるわけですね。しかしそれはなんとも、左派の感じる「ニホン」あるいは「ニッポン」すなわちアイヌ民族の人やウチナンチュの人を排除し未解放「部落」のひとびとも障がい者も女性も中小企業従事者も田舎にいるひとも要するにあらゆる弱者を包摂すべき人間の視点から認識される日本列島の諸現象と異質であることか。
そうかんがえると、まさに国籍などよりも人権という普遍的な概念にどれだけ真摯にむきあえるかという、ひととしての根本的な質こそが、論じるにあたいする差異だといえましょう。

>「先住民」認定は、あやまっている」とおもいます

とのご指摘については、わたしは「琉球先住者」と「アイヌ民族」そして両集団を併記して「先住者(先住民族)」とかいた様に、意図的に「アイヌ民族は先住民族で、琉球に先住してきた集団は先住者」という風にわけておりますので、「ウチナンチュ」とよばれる非ヤマトのひとびとは集団であっても「民族」ではなく「者」と区別したつもりです。

「先住」という意味

匿名希望さま

●「先住民」なのか「先住者」なのかが重要なのではありません(つまり、「民族」なのか「集団」「住民」なのか、といった集団の質的分類の問題ではない)。●「琉球列島住民は、アイヌ民族とちがって、多数派のヤマトゥンチュに包囲・放逐されたことがない」以上、「以前くらしていた」だの、「以前は主要な住民だった」といった次元とは異質だろうという問題意識にもとづく対比です。
●琉球列島住民は、琉球列島上にかぎっていえば、以前も、いまも、ずっとメジャーな民族です。

なるほど、しっかりと認識していませんでした。ご指摘ありがとうございます。

了解しました。
別の事例として言語について、琉球(沖縄)のことばは沖縄弁とよばれて日本語の一部とみなされてきたのに対してアイヌモシリ(北海道)のことばはアイヌ語とよばれて日本語とは別の言語とみなされてきたこともわたしの意識の一部にあったのかもしれませんが、どちらもヤマト(倭人)から被害をうけつづけてきたとはいえ、沖縄人民はアイヌ民族ほどには「民族」という意識はつよくない、という風にかんがえておりました。が、より本質的な問題は、ご指摘の様に「琉球列島住民は、琉球列島上にかぎっていえば、以前も、いまも、ずっとメジャーな民族で」あり、アイヌ民族とは歴史的経緯および現在の社会状況が異質である、ということですね。わかりました。

メジャーでも被差別者

■日本人たちのNIMBY根性(http://ja.wikipedia.org/wiki/NIMBYhttp://nagoyard.jp/simrepo/r018.htm)の被害者が沖縄島・伊江島住民なわけで、今回の民主党政権の迷走ぶりや、オバマ政権の恫喝(ドーカツ)とか、じもとで主流派でありつづけても、憲法違反をなんともおもわない他府県の多数派の包囲網にはかなわないと。
■ただ、アイヌ民族とはちがって、政治力は チャンス次第で発揮できますね。今度の名護市長選なども、正念場です。

http://harana.blog21.fc2.com/?q=NIMBY

心象地図でも「いちまいいわ」とはいえない「日本」人(『毎日新聞』1月24日号12ページを題材に)

「毎日かあさん」(『毎日新聞』1月24日号12ページ)の冒頭は、以下のセリフではじまっている。

ナレーション:ちょっと前に家族で青森に旅行に行く。
「青森てどこぞね?」
「いやーこの前山形県てゆう県を生まれて初めて知った私には荷が重い質問だな。」
ナレーション:南国人、東北はオールミラクルゾーン

たしかに以上の事例は極端かもしれない。貝枝の直感としては、「本州」(という呼称もイデオロギー的だが)の最北端と最南端の県はアイヌモシリ(北海道)から琉球(沖縄)までの住民のおおくに知られているとおもわれるので。ただ、ひとつの事例としてでも「日本」が決して時間的にだけでなく空間的にも「いちまいいわ」ではないことの証拠として、記録にあたいするとおもわれる。

学校現場での、地歴科の兼務はこまりますが…

すくなくとも、教壇にたつからには、地歴、つまり「時空」双方についての見識が最低限必要ですし、国民国家ニッポンが、千変万化(せんぺんばんか)をくりかえした時空のイデオロギー的継承だったことぐらいは、ふまえて授業してもらいたいものです。

■それはそうと、以前もかいたとおり、いなかものアメリカ人ほどひどくないにしろ、日本人の地理オンチも、結構すごいというか、直接関係のない地域への無関心ぶりは、有名なはず。■『坊ちゃん』(漱石)の「お清」の地理オンチを、一世紀ちょっとまえの老婆の視野と、せせらわらえるかどうか(http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html)。

http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-250.html
http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-198.html

「日本」というシニフィアンに対応する、不動な唯一のシニフィエ

それは、「日本」銀行券である。
そしてその「日本」銀行券が不動である(といっても数十年あるいは100年前後の時間軸にすぎないが)理由は、担税者(納税者にあらず)の不断の努力と天賦の人権を回復する市民活動の営為によるのであって、まかりまちがっても/tenno:/あるいは/tenno:se:/によるのではない。
/tenno:/および/tenno:se:/は「日本」においてもっとも唾棄すべきものであることは以下の著作がしめすとおりであるが、
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0011040301
そもそも、/tenno:/には短期の血統程度の連続性もなく、あるのは戦争責任という負の連続性のみである。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/e50345e3229d5eaf2cec06c35fb66064
ところで、いまになって急に「日本」銀行券の意義を貝枝が力説する理由は、『計画破綻国家アメリカの罠』(講談社)をすこし前によんだからなのであるが、その内容は1.米国はオバマ政権のうちに債務不履行(デフォルト)を宣言し、ヒラリーに大統領が移譲される。2.「日本」に史上最後のバブルが2011年までは生じる、というものである。つけくわえるなら、先日閉幕したダボス会議の影響も政府と銀行の対立をもたらすものとして銘記にあたいするであろう。

経済の法則について一点補足する。

経済の法則はいろいろあるが、「日本」銀行券、より厳密には円などの通貨については、以下の点をのべておく。すなわち、海外に円をもちにげする人間を把握することは不可能である、ということである。なぜなら、ある売国的な人間(たとえば皇賊)が日本円を大量に現金化して海外にもちだし逃亡しても、その時点では円が減少したと認識できず、そして逃亡さきの外国(たとえば朝鮮民主主義人民共和国)での通貨に円を換金したとすると、その瞬間に円の価値が他国通貨にくらべて減少するのである。そしてそうなったら、もはや円で外国の公共財をかいたたいたり人権侵害をしまくったり、さらには子どもの臓器を売買したりはできない。
もちろん、円で外国の公共財をかいたたいたり人権侵害をしまくったり、さらには子どもの臓器を売買したりしてきた「日本」人はみな極悪人である。しかし、そのことをとめるために上記の様な円の持ち出しはみとめるわけにはいかない。というのも、その様な持ち出しをみとめることは「日本」のなかのもろもろの弱者の人権を海外の悪人にうりわたすことにほかならないからである。すなわち、この文章をかいている貝枝や、この文章をよんで理解できている読者諸賢こそが、売国奴どもに対する警戒をつねにおこたらず、円を持ち出す可能性がないか、その挙動に常時うたがいの念をもち、海外での円の換金という売国奴どものまさに売国そのものの行為をくいとめる能力をあたえられた、「日本」の弱者を救済しうる存在なのである。おそらく、2011年の下旬までには実際には持ち出すことはあるまい。そのころまでは円の価値はそれなりにたかいはずであろう。ただ、2011下旬までには国外に逃亡できるような準備はしている可能性は考慮すべきだとおもう。それらを逐一チェックし、公開した方が逃亡をくいとめることに役立つと思う場合は公開し、全世界的な人民のネットワークによりおいつめなければならない。そして売国奴どもの共通点としては、嬉々として愛国主義をおしつけることである。そうした連中をみかけた場合、まずうたがってかかるべきである。
「日本」というシニフィアンがしめす不動な唯一のシニフィエたる「日本」銀行券の価値下落をくいとめ、その「日本」銀行券をわずかしかうけとれない被差別者にとっての生命線たりうるのは、ここまで拙文をよんでくれた「日本」国民ひとりひとりなのである。

貨幣は利用住民のシニフィエ(意味されるもの)か

■まあ、「朝鮮半島の食糧情勢」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-956.html)で紹介した人工衛星による夜景画像のように、経済活動の視覚化装置だとはおもいます。■物品やサービス商品を動員できる経済力・規模を「シニフィエ(表現されるもの)」としたばあいの、「シニフィアン(表現するもの)」である。あるいは、物品やサービス商品との量的比較でしめされる労働者などの時間あたり対価=「客観的市場価格」であって、ドルなど外国為替市場で価値が変動する数量…。といった、分析も可能でしょう。
■これら、市場原理主義的な社会理解が、軍事力やら王権などよりもリアルであり、庶民の日常を表現しており、たとえば愛情・友愛の潤滑油になっているといった現実も無視できないでしょう。

■一方、「売ったり買い戻したりする土地の流通、“貸し”たり“返し”たりする復讐の流通、嫁がせたりもらったりする女性の流通の間にある共通性、すなわち異なった種類の資本とそれに対応する流通様式の共通性を見れば、経済と非経済の二分法は破棄せざるをえない」(P.ブルデュー http://www.nagaitosiya.com/b/exchange.html)という指摘にもあるとおり、経済資本がさししめすのは、人間による交換活動のごく一部の領域にすぎません。交換活動の量的な動態をしめす指標ではあっても。

ぶざまな人種主義者

「縄文人こそ真の日本人。酒に強く、白人のような顔立ち、屈強な肉体。弥生系のチョンは今すぐ出て行け。」
↑ 人類学の素養も欠落した、ぶざまな本質主義系排外主義。そもそも本質主義でない排外主義など、存在しえないけどね。自分たちのまわりに、朝鮮半島にルーツのある住民がたくさんいるだけではなく、そもそも日本列島の住民全員が、アジア大陸からの「移民」だったという人類学的認識ができないらしい。
 ま、これは、世界史だの地理だのをおしえている、中高の先生方の気合・素養の問題なんだけどね。いや、そういった中高の先生方を養成した大学の地歴系の先生方の水準の問題なんだけど。

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縄文人こそ真の日本人。酒に強く、白人のような顔立ち、屈強な肉体。弥生系のチョンは今すぐ出て行け。

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/11/27(火) 19:00:09.87 ID:+hBfdD8EP ?PLT(12000) ポイント特典湖山池沿岸の遺跡展 鳥取で29、30日に山陰道建設に伴って行われた発


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