プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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学位論文・学術書の知的誠実さ2

前便つづき】

■議論のかぶりという意味では、小熊英二氏の業績群だけにとどまらない。
■たとえば、ましこ・ひでのり氏の文献は、編著の『ことば/権力/差別 言語権からみた情報弱者の解放』(三元社2006)だけがあがっているが、本書に直結するような議論があるとはおもえない。あがっていることが唐突で、かえって不自然な感じ(「言語権」とかで、一応関連してはいるが、本書の議論のために不可欠の文献ではない。単に、めをとおしたよ、というアリバイ的リストアップとしかおもえない)。
■「先行研究」等への言及のなかにも、ましこ氏の所論は、いっさい ふれられていない(「国語」概念の辞書的定義として、わずかに言及されている=p.403)。しかし、これは 実に不自然だ。すぐに関連性がみてとれる文献だけでも(上記『ことば/権力/差別』と別個に)3点もあるからだ。
■そのうち、あまりに問題意識がかぶっているとおもえる2点の目次の主要部分を版元のページから転写。

●『[増補新版]イデオロギーとしての「日本」 「国語」「日本史」の知識社会学』(三元社2003)
第1章 神学としての国語学/国史学――イデオロギーとしての「日本論」序説 017

1-1 なぜ国語科と社会科をとうのか 018
……

第2章 イデオロギー装置としての国語 031

2-1 「国語」とは,「日本語」とはちがうものか? 032
2-2 「母語」概念の再検討と「国語」概念 036
2-3 日本語教育からみた国語教育の不可解 042
2-4 イデオロギーとしての「国語」イメージ 047
2-5 「国語」の連続性神話の論理構造 061
2-6 標準口語文法という歴史的逆説 067
……
2-9 よみかき能力の「自明性」 123
2-10 言語学者の知識社会学――国語教育の背景としての「共通語」概念の機能 131
……
2-11 イデオロギー装置としての「国語」――小括 151

第3章 イデオロギー装置としての日本史155
……

第4章 イデオロギー装置としての学校教科と周辺知識をこえて 207
……
4-3 地域にとっての日常言語教育の意味再考 239
4-4 「連続性」神話をのりこえるために 244
4-5 知識社会学としての国語学/国史学がうきぼりにする,あらたな方向性 248

終章 沖縄諸島/非識字者を包囲する現行制度=われわれの日常意識/生活 253
……
終 章 2 国語教育/歴史教育周辺の動向 補遺 287
●『ことばの政治社会学』(三元社2002)

1章 同化装置としての「国語」
-近代琉球文化圏の標準語浸透における準拠集団変動・知識人・教育システム 045

1. 国民国家のなりたちと、文化放棄としての近代化  045
2. モデルケースとしての琉球諸島―国民国家にとっての課題としての「辺境」  046
3. 無自覚から「国民」へ―劇的な準拠集団変動のめじるしとしての標準語化  048
4. かきことば、もしくは外国語としての標準語  049
5. 世代間のミゾとしての言語転移過程と、学校教育  051
6. 後進性の<自覚>と、「主体」的「文化放棄」  052
7. 欠陥言語説と標準語―虚構としての「普遍的」近代性  054
8. 解放のシンボル・メディアとしての標準語―地域内差別の弁証法  057
9. 人格としての近代と風俗改良としての教育―「国民」国家形成のミクロ過程  059
10. 同化装置としての口語文法から、均質性-連続性の確認作業としての国文学へ  061

2章 クレオール化装置としての国民教育
―「市民的素養」と地域/少数派文化の変質 067

1. 近代教育の本質を国民国家形成と少数派の関係性からとらえかえす  067
……

3章 国語の発明、方言の発明、国史の発明 091
1.  はじめに  091
2.  ことばの同一性再考  091
3.  国語教科書がはらむイデオロギー  095
4.  社会言語学の公理からみた日本語/琉球語関係  101
5. 「発明された伝統」としての言語/方言と歴史  104

4章 「沖縄方言論争」というアリーナのゆくえ 107
……
4. オリエンタリズムと搾取  111
5. 伝染病としての植民地主義とその撲滅  114
6. 「方言」という表現再考  116

5章 求心力の中核としての民族語
―言語復活をめざす沖縄人とアイヌ民族を中心に 119

1. はじめに:言語的社会化/国民国家/少数派  119
……
2. 沖縄語=「ウチナーグチ」という中核  124
……
3. アイヌ語という中核  131
……


■ひとことも言及がないのは、あまりに不自然。ふしぎだねぇ(笑)。

■琉球大学着任以来、「方言研究」を沖縄で ずっとリードしつづけた上村幸雄もと教授を批判した第6章 戦後沖縄の「学力問題」における「言語問題」――上村(1978年)、儀間、東江グループを中心に」の「第2節 上村幸雄「民族、国家、言語――『処分』と言語政策――その考察の前提」」の部分についても、そう。■ましこ氏は類似した問題意識から、『日本人という自画像』の「3.2. 「沖縄/先島諸方言」衰亡論という同化イデオロギー」(pp.78-82)で、上村氏に痛烈な批判をくわえている。
■村上教授が、上村もと琉球大教授を(退職後だいぶたっているとはいえ)批判したのは、たしかに勇敢だといえる。しかし、ましこ氏の議論に、まったくふれないのは、不自然だ。■なぜなら、村上教授が着目している、教育科学研究会・国語部会やら、スターリン言語学やらの議論では、おさえきれない論点について、ましこ論文は言及しているからだ(「相互理解可能性」によって、言語/方言関係を論じられないとする、言語学の通説をのべている、上村氏自身の議論と、「衰亡論」=イデオロギー的な発言の矛盾、「衰亡」論=危機言語論を強調しつつ調査を長年くりかえす矛盾など)。■村上教授は、ましこ氏の衰亡論イデオロギー批判との議論の異同を明確にする責務をおうし、同時に、衰亡論に抗するうごきとして、みずからも着目する比嘉清『うちなあぐち賛歌』(三元社)などのうごきに、以前から着目していた、ましこ氏の議論(「散文運動の発信基地としての「うちなあぐち村」」)にも言及しないと、おかしいだろう。
■さらには、「4-3 地域にとっての日常言語教育の意味再考」は、別だての論文、「国語概念を解体する国語教育史 : 「沖縄をテーマとした国語読本の編成に関する研究(第二集)」の再検討を中心に」(『沖縄大学地域研究所年報』Vol.9(19970331))になっているが、『沖縄をテーマとした国語読本の編成に関する研究(第二集)』ってのは、琉球大学教育学部教育学科の先生たち、藤原幸男教授の編集した報告書。■これを、あげないのは、なぜ?

藤澤健一『沖縄/教育権力の現代史』『近代沖縄教育史の視角』(社会評論社)にいたっては、文献リストにさえない。完全黙殺?■藤澤先生は、沖縄教育研究史上から、存在しないものとされてしまっている(笑)。
■ながくなるから やめておくが、「近代沖縄教育史の視角●目次」「沖縄/教育権力の現代史」という、社会評論社の目次と、本書の目次を比較するとよい。

小坂井敏晶民族という虚構』(東京大学出版会)には、1年半もまえの論文審査で全否定の酷評をしたはずの弟子の論旨を、みずからの「独創的な考え」とおもいこんでしまった教授の逸話がでてくる(pp.184-5)。■教授にも、そういった心理メカニズムがはたらいたのか?


■「村上呂里『日本・ベトナム比較言語教育史---沖縄から多言語社会をのぞむ」(明石書店2008年)を読む」でも、ベタぼめだなぁ。ましこ氏とは一時同僚だったはずの浅野誠先生。琉球大勤務時代の同僚の力作をまえに、中京大勤務時代よんだだろう言語論が、記憶のかなたに きえさったのか?(笑)

■冗談はともかく、学術論文のたぐいは、古典芸能と基本的におなじだ。既存の伝統をひととおり 全部ふまえたうえで、「付加価値」を「独創」部分として提示すること。つまり、「伝統」との「異同」を明示するのが責務のはずだ。巨匠グレン・グールドバッハ解釈を無視しては、現代のバッハ演奏家=「業界人」としていきていけないみたいにね。■国語教育史の専攻だからといって、「タコつぼ」に まどろんだまま、たとえば社会学系の関連業績を網羅しないような文献リストはゆるされないし、論点にカブりがあるなら、最低でも注記でふれねばならない。■なかでも、藤澤健一氏の諸業績が 存在しないかのように 無視するなどは、言語道断というものだろう。■文献表にあげただけですますのも 不誠実であり、最低限、議論の異同を明確に明示する責務がある。

■「独創性」がいくら、あろうと(ベトナムでの少数言語教育政策の位置づけについては、どの程度の「独自性」が付加されているのか不明なので、ふれないが)、「反則」は「反則」でしかない。一般読者むけの評論じゃないんだから。■いや、「独創性」が しろうとめに 全然なくみえようと、ある問題意識にそって、既存の研究業績をすべて網羅的に整理して、その整理作業自体に 「独創性」をうたうことに成功すれば、それで充分「独創」なんだよね。「サーベイ論文」などと、「業界」では、よばれているようだが。

■いずれにせよ、これらの学術的な「反則行為」は、単なる個人的逸脱ではない。学位をあたえた某有名大学の審査委員会、助成をみとめた科学研究費助成金の審査委員の先生方、そして、あとがきで、さまざまな謝辞をおくられている先生方や出版社の編集者のみなさんの「共犯」関係の産物なのだ。■現代日本のアカデミズムの水準が、いかなるものか? 「タコつぼ」状態が、どんなに ひどくて、指導者や編集者が不勉強であればあるほど、無茶がとおってしまうか? それを象徴的に表現している事例といえるだろう。■これは、個人的不祥事などではなくて、現代日本の有力大学という空間や有名出版社の体質・実力を端的に露呈させてしまったスキャンダルとみるべきだ。
前々便同様、こういった 問題化しない問題が、沖縄がらみで でてくるというのは、めいる。■そして、このように 整理しておかないと、気分がわるいままなので、かきだしておいた。
■関係者は、よみにくるかなぁ…。どうせ自浄作用など はたらかないだろうけど、「業界」外からでも、批判しないと まずいとおもう。業界が「タコつぼ」のままだと、いつまでも こういった「反則」「悪弊」は、へらないで放置される。自覚もされないまま。


●旧ブログ「『日本語はだれのものか』
●旧ブログ「「ムダ」とはなにか」シリーズ
●ブログ内「「ムダ」とはなにか」関連記事
●旧ブログ「高学歴ワーキングプア(水月昭道)10=「ムダ」とはなにか26
 ←シリーズほか関連記事リンクあり
●「『高学歴ワーキングプア』(水月昭道)続報2(女子篇)
●旧ブログ・シリーズの日記内続編「「大学の自治」という幻影
 →●「植民地としての大学と大学人の自治権

●「平成19年度 科学研究費補助金の交付状況
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タグ : ナショナリズム 日本語 言語政策

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