プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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『本能』の政治性(某ブログから)

■『ascension』という哲学的なブログから転載。■旧ブログで何度かとりあげた、ましこ・ひでのり『たたかいの社会学』(三元社)の記述をめぐっての記事。


『本能』の政治性
ましこ・ひでのり氏「たたかいの社会学」から、御文章を引用させて戴く。
その後、私自身の論考を行う。
もちろん、それは私自身の拙い解釈に過ぎない。
ましこ氏御自身の御説は、同書をお読みになって、吟味されたい。




「(男性中心社会の)シナリオを共有化し、役割イメージにそって演じている主体は、主たる受益層としての男性だけではない。
むしろ、主婦層へと流入しようとする少女たちにこのシナリオが注入されてきたのでなければ、現状が説明つかない。
職業より結婚を選ぶ女性たちが、あまりにも多いからである。
家事/性欲充足の私事化戦略(「外部化せずに、安上がりにすませたい」)という男性中心的なシナリオと、『オトコに集金業務をまかせて、生活を確保したい』という女性の戦略=シナリオは、共存関係というより、共犯関係にあるといってよい」
「『女性が潜在的/顕在的な強姦願望を持っている』とか『女性にはマゾヒズム的傾向があって、暴力的にあつかうことが、むしろのぞましい』といった妄想が無責任に広められているだろう点は見逃せない。
(中略)
一旦こういった妄想体系が定着してしまった社会では、性行為全体が友愛のコミュニケーションのメディアから、暴力コミュニケーションのメディアへと変質してしまう。
サディスト/マゾヒストを非日常的に演技(攻撃と防御/屈服/忍従)してみたり、一部のカップルだけが耽溺するのでなく、性行為が一般的な意味で積極性=攻撃性としての男性性と、消極性=受動性としての女性性との確認行為へと実質化してしまうのである。
(中略)
この結果、性交体位や生殖器の形態そのものが、物理的実体として積極/消極、攻撃/受容など、二項対立を形成しているかのような幻想が定着し、自律運動を始める。
ある心理学者が述べる通り、性行為が女性の屈辱を意味し、陵辱者であるかのような役割演技なしには興奮できない男性が一般化してしまう」

「男性の性的はたらきかけを消極的にうけいれることこそノーマルといった受動性神話にとらわれる女性が再生産されることで、実体験や見聞により男性が俗流イメージを『再確認』するという悪循環が生まれてしまう。
(中略)
同様に、女性が性的関係においてのみじめな位置を自覚したくないがために、『自分よりレベルが上だ(=この男に性的に服従するなら仕方がない)』と正当化できる男性を無意識に選ぶよう社会はしこんで来た」

「男性的性格とか女性的性格などが実在するかのような幻想が、実際に性的アイデンティティを再生産する構造は、以上のような暴力/被害関係の再生産構造でもあるのだ」

「競技化し観戦の対象となった格闘技は、互いの尊厳を象徴的にたたきつぶすことを目標に争うサディスティックなゲームである。
(中略)
こういった象徴化された暴力ゲームは、同時に強姦をも直喩/暗喩している。
(中略)
強姦者は、性行為そのものの性器的快感を求めているというよりは、相手に暴力を加えること自体に重点があって、性行為自体は、象徴的にクライマックスではあっても、被害者の心身への暴力の一種に過ぎないと思われる。
格闘技と強姦との通底性は、以上のように、相手の尊厳を侮辱するゲームの論理にあり、それは対象人格を 【『女性化』】 する構造とみることが可能である。
ここでいう『女性化』とは、『女性性=受動性/男性性=能動性という神話を合理化し、相対的に自分が優位にあるという象徴的序列を証明しようという作業=プロセス』を指す」


以上のましこ氏の見解を、私は、次の様に理解する。

・男性的性格
→能動性・支配性・攻撃性

・女性的性格
→受動性・被支配性・被支配嗜好性(マゾヒズム)

・男性から女性へはたらきかける心理
→「女性化」
→「女性性=受動性/男性性=能動性という神話を合理化し、相対的に自分が優位にあるという象徴的秩序を証明しようという作業=プロセス」
→「相手の尊厳を侮辱し、貶める(価値貶化)」ことへの欲望という心理的淵源(心の核)に通じる。

・以上の価値観/心理は、実際の社会構造を作りだす。
→社会構造=全ての人がそこで生活し、そこから逃れれば、自己のアイデンティティを築けず、また、自己として人として生きて行けないと感じる物質的枠組み・構造。物質的小宇宙。
→政治/法/経済構造(男性が女性を養うことが一般化している経済体制)

・物質的社会構造は、精神的社会構造(個人の価値観・個人の価値体系)を作りだす。
→物質的社会構造は、それを模写し、反映した個人の心理を作りだす。
→従って、個人の心理の一部たる欲望を、そしてその中の一つであるSexual desireも作りだす。

・「男性的性格(支配性・攻撃性)」という価値基準が、「女性的性格(被支配性・被支配嗜好性)」という通念を作り出し、
→男性による女性へのはたらきかけは、
→「女性の人格の尊厳を侮辱し、貶め、『化けの皮を剥がし』・『体の本音を言わせ』・『あなたは私の上位にある人です』と告白させ、認めさせ、
→「この男性は、私よりも上の人なのだから、私はこの人に服従し、屈服し、養って貰い、従って当然、性的にも服従する」ことを認めさせる。
→男性による女性へのアプローチとしての「女性化」というプロセスまたは心理機制


・そして、男性による女性へのSexual desireは、女性を『女性化』するということにあり、
→その心理は、実際の性行為においても、男女共に実演される。
→「女性化」という価値観・イデオロギーが、実際の性行為において実践され、確認される。
→行為と心理とイデオロギーの再生産
→社会構造に組み入れられる。
→社会構造の再生産


・すなわち、男による女性へのはたらきかけや欲望が、「女性を『女性化』すること」にあるような価値観やイデオロギーを持つ社会が、人々が生活する社会構造を形成し、従って、上記のイデオロギーは政治的・社会的なものであり、その政治的・社会的なイデオロギーと価値観が、「極私的」であり、「個人の自由の極」であると通念されている「性行為」の中においてこそ、「再生産」されている。

・すなわち、最も「極私的で自由である」と通念されている「性行為」の現場こそが、最も政治性と社会性を孕み・組み込んだものである。
それは、社会通念=社会構造全体に通底する巨大な価値観の「なぞり」である。


・一つの時代とは、その時代における支配層が作った小宇宙である。
そこに住む人々は、その「惑星」が、宇宙開闢以来から続いて来たものであるかのように意識して、「本気で」生きている。

私達の時代は、「男にこそ、自己や自我があるのであり、女は、男の自己・自我を証明するものに他ならない」という価値観が支配している時代ではないだろうか。
仏教の言葉で言えば、この時代は、男の「我ー慢」(アートマ・マーナ)の証明こそが至上のものと考えられている社会なのではないだろうか。
そして女の「アートマ・マーナ」とは、「強い男に服従すること=強い男に見初められること=選ばれること」にあるのではないだろうか。

とすれば、このような社会的価値観の中に住む人間達の性生活や性行為にもまた、この価値観が入り込み、組み入れられる。
すなわち、個人の心理は、社会の価値観という背景によって形成される。

問題は、この社会と社会の価値観は、各個人にとっての小宇宙なのであり、従ってその宇宙たるマクロコスモスが組み入れられた個人の心理たるミクロコスモスは、自己の宇宙を、すなわちこの場合は、「自己の欲望を超えられない」ということである。

それは、「欲望を抑えられない」という意味ではなく、「たとえその欲望とそれに基づく欲望の実践行為が、どんなに自由の極限であり、極私的なるものの極であると思っても、実はそれは社会的価値観を淵源として生じて来ているものであるゆえ、社会的価値観の枠から出たものにはならない」という意味である。

とすれば、その「欲望(個人心理)」は、「男の自我(アートマ・マーナ)」、すなわち「誇り」を証明するための「第二の人」として、女という存在があり、従ってそのような価値観の中から生え出た枝としてのSexual desireもまた、上記の価値観を実践する「支配ー被支配/支配の嗜好性/被支配の嗜好性」という「快楽・享楽・楽しみ・喜び」という「枠=小宇宙」を超え出たものにはならず、むしろそれをなぞり、再生産する「政治的行為」になるということを意味する。

極私的なるものの中にこそ、最も政治的なものが「核」として居座るのである。

このことは、実は、どの時代においても、支配層による政治の定石なのであったと思われる。

自己の「個人心理」の中に宿った「社会」そして「政治」。

そしてそれが、「人(男)が、自己の尊厳やプライドを、人(女)の価値を貶める(価値貶化・侮辱)ことによって成立する」という社会であり、政治であるとすれば。

この大地。

この大地の根源に、男と女の、上記の様な政治的差別構造が存在し、そしてこの大地が、そのような差別的・人格侮辱的政治構造によって再生産されているとすれば。

深く考え続けて行かねばならない問題である。

ひとまず、一言だけ残して、この論考を終わる。

その言葉とは、「Sexual desireは、本能ではない」である。

----------------------------------------
■詳細なノート(『たたかいの社会学』6章3節)といえるだろう。■3年ちかくまえに、同書の4章「業績原理の背後の官僚制、大量生産、社会ダーウィニズム」冒頭を旧ブログで紹介したことがあるが、ごく一部の引用紹介だけで、それにまさるともおとらない、「よめばよむほど不愉快にさせられる記述だし、「みもふたもない」という感じ」だね(笑)。

■社会学の本務は、近現代という人類史上空前の時空の独自性(身分制原理によらない秩序形成とその動態)の記述だとおもうが、その一部としては、社会的属性よるプロファイリング作業だろう。■作家の塩見鮮一郎氏の議論だったと記憶するが、たとえば「独身/アパートぐらし/新興宗教信者」といった属性に、「女性/20代」のふたつの属性をかさねあわせるばあいは、さしたる違和感がないが、「男性/50代」をかさねあわせると、俄然異様な印象をあたえるのはなぜか、といった論点が提出されていた。■要は、ある社会的属性は、統計学的な想定範囲を相当限定してくれるのだが、その属性のある一群は通底性がたかくて、相当かさなりあう。しかし、ある一群同士は、かなりの程度距離があって、それらが同居するのは、かなりのレア・ケースになると。■これらは、先入観をまじえた蔑視とわかちがたくつながる属性による本質化作業なのだが、刑事や弁護士、ケースワーカーなどが日常的に援用するしかない現実的情報でもある。
■社会学者の一部とは、これら職務上のプロファイリング実践の危険性に注意をはらいながら、「いや、少数なんだが、レア・ケースは実在し、それはかなり重要な意味をもつ」と、つぶやく層といいかえることができるだろう。なかでも少数者周辺の参与観察をおこなう層は、これらプロファイリング行為(対象から距離をおいた姿勢)をとびこえたかたちでの最前線での情報収集にいそしむひとびとといえそうだ。

■広義の現代思想(普遍的な真善美探求を断念した、現代社会における特定課題の探求)のひとつであるフェミニズムも、社会学とにている。■生殖器が分泌する性ホルモンを基盤にした社会的属性が、なかば決定的な作用をはたすことを否定しない見解が主流をしめる。性暴力の加害・被害関係や、セクハラの非対称性、戦争はもちろん、生産労働や政治労働上の非対称性、ケア労働や感情労働などの領域での非対称性、…など、性別という属性が決定的規定要因であることを否定しない。■それと同時に、政治労働や情報生産などにおける能力差を疑問視するだろうし、同一労働同一賃金・同一待遇などの原則を空洞化させてきたホモソーシャルな連合(アンチ・ホモセクシャル的な、女性差別の男性連合)の卑劣さを批判するだろう。
【以下、2008/01/05 19:45加筆分】
■属性の大半にあてはまる一般的配慮の次元と個人差としての能力・業績に応じた競争原理による評価の次元とは、別に矛盾をきたさない「二重の基準」である。恣意的に原理原則をネジまげたズルではない。■ズルだといいはる「セクシスト(性差別主義者)」たちこそ、矛盾をきたさない「二重の基準」に 不当な非難をくわえて、詐欺的な印象操作をおこなっているといえる。


■さて、うえに紹介したブログの仏教思想の哲理は、充分咀嚼しきれない。■ただ、確実にいえることは、戦時暴力といった極限状況にせよ、ドメスティック・バイオレンスの一種としてのデート・レイプのといった ありふれた現象にせよ、「レイプは本能である」とか「レイプは普遍的な男性文化である」といった、生物学的説明や文化論的説明は、動物には例外的にしか存在しないレイプ等暴力を正当化している詭弁である。■野生動物には存在しない「生得的性暴力」なる幻想をでっちあげ、単にサディズム(イジメ)を正当化しているにすぎない。おそらく「詭弁・合理化・誤謬2」でのべたとおり、「イジメたい」という欲求がまずあり、それを おそらく あとづけで 合理化の論理をひねりだしたにすぎないのだが、自分たちは、Y性染色体だの男性ホルモンの規定にしたがっているだけの言動・文化だといった、責任転嫁をおこなっているのだ。
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コメント

『Monthly JICA』(2007年12月号)はジェンダー特集でした。『沖縄戦と「集団自決」』(別冊世界臨時増刊774)にも戦時下の日本におけるジェンダー化を分析した「<強姦>と<去勢>をめぐる恐怖の系譜」という論考があり、反動的な思想とジェンダー規範の相関関係の強さをあらためて浮き彫りにしています。
もちろん、「そんな相関関係は擬似相関に過ぎない」という主張をする人間がいることぐらいは先刻承知である。しかし、そんな思考を自分の脳内にとどめず他人に向かって主張するのなら、その主張という行為自体が「他人に対する無根拠な優越感に頼らなければ自分の存在意義を他の誰よりも自分自身に対して説明できない、という下卑た心性の発露ではないか?」と他人に思われる可能性を、完全には否定できないだろうなあ…(独り言)

ちなみに、真面目にジェンダーを勉強したい人は「ジェンダー史学会」を参照してください。
(http://wwwsoc.nii.ac.jp/gendershi/)

またまた「得意技」の、「かきかけ」放置(笑)

貝枝五郎さま

■太陽暦という羊頭狗肉のくぎりではありますが、社会的慣習にそって、新年のごあいさつをもうしあげます。

■さて、新フロイト派のフロムやアドルノらが問題化した「権威主義的パーソナリティ」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%9A%84%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3)が、仮説的とはいえ、社会心理学的な実態(実体)として統計学的に検証可能な意識動向(属性もからめた人口分布)だろうと推定できるように、フェミニズム周辺が提起した平等論・特別措置論に異論をとなえる層には、一定の属性が推定できそうです。おそらく、所属階級・階層と性別、学歴・職種、世代と国籍などがからんだ政治信条と、つよい相関関係があることでしょう。■「擬似相関」うんぬんを主張したい人物は、うえの仮説を否定するために、よわい相関関係もないことを立証する必要がありそうです。ま、おおくは、そういった論調のおおくは、慎重な見解ではなくて、おのれの政治信条や感覚と違和感のあるフェミニズム周辺の思潮を全否定したいという「結論」がまずあって、その合理化は、先日問題にしたような「詭弁」でいいわけで、論者のおおくは、自己矛盾などには鈍感な層だと推定されます。■したがって、厳密なてつづきによって、相関関係の否定を立証するなどといった面倒なことはせず、ひたすら、「ジェンダーフりーは野蛮で破滅的な形式平等論」といった政治キャンペーンをはることで、既存の利害がおかされる領域をへらせれば、よしとするでしょう。■かれらにとって、時空や論理をたがえる思潮との比較対照による自己批判的な姿勢などは眼中になく、「生物学的な身分関係は人類に普遍的」という擬似生物学主義イデオロギーをつごうよく政治経済的利害に援用するだけでしょうから。■ほかの種の実例でつごうのわるいケースを黙殺することはもちろん、古今東西のさまざまなジェンダー・セクシュアリティの変動はもちろん、現代社会の特殊性も、どうでもいいことなのです。ロコツにまとめるなら「オトコは戦士であり、オンナは慰安婦兼下女」といったオス・メス観でしょうか?

■さて、コメント欄にかきこんでしまったので、本文と、どうおりあいをつけるか?(笑)

あいかわらずのサブカルネタ

いまなおあらためて特集がくまれる高橋留美子氏(http://weekly.yahoo.co.jp/71/)の『うる星やつら』(小学館)26巻46ページに、ふたりの女性がどっちがより女性らしいかをきそう必要にせまられ、「文化が違うんだから、も少し本能的な部分を競うべき」として「母性本能」をきそう、という展開があることをお知らせします。いや、別にサブカルネタでそれほどちからをいれる必要があるのか?というツッコミがきそうですが、上記のページにあるようにいまだに特集がくまれるほどのロングセラー作家が、むかしの作品においてとはいえ「本能」という用語を明言してかいたテキストは指摘にあたいするとおもいます。
あと、現実の人間と接する機会がなく、社会から隔絶された環境の女性がが新生児のころから接してきた唯一の情報源であるマスメディアの影響によって、女性を(男性にくらべて)「ぐだぐだ泣いたりして役に立たない方の奴」(162ページ)と規定するにいたった『愛・水族館』(柏木ハルコ・小学館)の「ふたりは空気の底に」はマスメディアのみをとおして習得するジェンダー規範の事例として、フィクションとはいえ興味ぶかい仮説といえましょう。ちなみに、その『愛・水族館』においても高橋留美子氏を目標とすべき人物としてあげております(111ページ)。

『現代思想』8月号の特集はゲーム理論

今月はゲーム理論を特集としている青土社の『現代思想』に脳科学者・茂木健一郎氏による記事があります。その結論は以下のとおり。

本論考では、神経経済学など意思決定の神経基盤を追究する学問成果の華々しい発展の裏側で、いわば置き去りにされた感のある、「ゲーム理論の経験的妥当性の実験的検証」の困難さについて論じた。本論考における最大の批判(critique)を繰り返すならば、現在行なわれている、生身のプレイヤーを対象としたゲームの実験はゲーム理論の経験的妥当性の検証には役立たない、ということである。なぜならば、ゲーム的状況はプレイヤーの内部から立ち上がるものであり、「ゲーム」を外側から共生することはできないからである。その困難さを思えば、理論を直接に検証するための実験的枠組み確立への道のりは遠いのかもしれない(ひょっとしたらそれは論理的に不可能なことなのかもしれない)。かつてルーカス批判(Lucas Critique)がマクロ経済学の在り方に対して根本的な際検討を促したように、本論考の批判がゲームと経験的現象の間に新たな洞察をもたらす一助になることを願いながら、ひとまず筆を擱くことにする。(91ページ)

本能のこわれた動物である人間(ホモ=サピエンス)の言動を計測する参考にどうぞ。

前巻までのあらすじ(絶望先生風に)

旧帝国海軍中佐という軍歴が詐称である事をついにみとめた、8ビット時代からのエロゲーマニアの五郎。しかしその告白も、あまりに痛い自爆ゆえに右派のみならず左派からもおそれられた殺人マシーン“ブラック・ソード・ゼロ”であるという壮大なカムアウトのための前フリにすぎなかった!
「そもそもラグビー部への推薦入学で大学に入学できたんだったら、ラグビー部を退部したら大学からも退学すべきなんじゃねーのか?」という当然の疑問に満足に答えられていなさげな森喜朗元首相のように、某大学訥弁部の面目躍如たるシドロモドロ状態におちってしまい、ニュータイプの勘とファンネルによってオールレンジ公益もとい攻撃を体現しようとするも、『ビッグイッシュー』103号20ページにおける雨宮処凛氏のマンガ評論がジェンダー概念を詳細に分析していることに敗北感をいだき、「オレにはこんな高度な評論はとても書けん」と、ヲタとしても半端であることを告白するのだった。

私学にありがちな、「スポーツ推薦」

■私学のスポーツ推薦について、「ズル」だという感覚は、通常の受験生がいうなら、正論です。■ただし、そういった正論をかませるのは、2月上旬の一般入試で正面突破だけでいくつもりの層だけです。現実には、私学の合格者のうち、そういった層はごく一部のはずです。■したがって、受験生の大半さえ、そういった正論で私立大学の腐敗をうてる層はごく一部でしょう。
■そうかんがえたばあい、スポーツ推薦ではいった学生が、ケガなどでクラブ活動という領域での大学への貢献で不如意だからといって、「やめろ」とせまるのは、実に野蛮です。■学生生活というのは、学業ほか、いろいろあるのだし、かりに2月上旬の一般入試で正面突破した、ごく一部の層だけが、「正統な合格者」などと、エラそうに主張できるものでもないでしょう。■いっちゃわるいけど、そういった、「いろいろ入試」が共存する私立大学の一般入試の水準なんて、たかがしれているはず。だって、かれら/かのじょらが合格しているといっても、もともと定員分ぐらいの「すべりどめ」層が、大量に存在しているはずなんですよ。■つまり、中堅私大の合格者とは、「すべりどめ」層が大量に入学辞退するがゆえに、入学をゆるされたトホホ層なのであり、推薦入試層が学力不足だ、ウンヌン…などと、ひとのことにケチつけるような身分じゃないんです(笑)。
■スポーツ推薦のたぐいだって、要は、卒業できる程度に、在学生のなかで おちこぼれない水準を維持できるかどうかなんであって、クラブ活動ができないぐらい選手生命をうしなったからといって、やめなければいけない道理なんぞ、存在しません。
■問題なのは、森何某とやらが、政治という調整作業をするための品位をもちあわせているか、どうかでしょう。学歴がどうとか、議席がどうとか、ねまわし力がどうとかではなくて、品位ある政治家であったか、品位ある政治家をうみだしたかです。■そして、森何某に品位があったという証明をおこなうことは、ほぼ不可能でしょう。かれを当選させつづけている選挙区はもちろん、かれの政治生命を維持させている日本列島の選挙民は、世界一アホなアメリカ合州国という政治空間と大差ない、下劣な空間というほかない。

わたしの意見が野蛮であることをみとめます。

■そうかんがえたばあい、スポーツ推薦ではいった学生が、ケガなどでクラブ活動という領域での大学への貢献で不如意だからといって、「やめろ」とせまるのは、実に野蛮です。

とのご指摘、納得いたします。わたしの意見が野蛮であることをみとめます。

ただ、別の件については、いまだにわたしはタカマサさんと意見がことなります。というか、右派もよんでいることが推測できる場での発言の優先順位、という戦略・戦術面がちがうとおもうのです。

■問題なのは、森何某とやらが、政治という調整作業をするための品位をもちあわせているか、どうかでしょう。学歴がどうとか、議席がどうとか、ねまわし力がどうとかではなくて、品位ある政治家であったか、品位ある政治家をうみだしたかです。

という点については、「品位」というのが「一貫性」とか「整合性」というものもふくむのならそのとおりだとおもいます。それゆえ、もしふくむのなら以下の文章はまとはずれです。
ただ、もし「品位」というのが、人権意識という価値観であるなら、その価値観は妥当ではあるとおもいますが、右派もよんでいることが推測できる場であらめて強調することは、優先順位としては常時たかいいわけではないでしょう。わたしが「さきにすすみたい…」としながらも「はずかしいと感じるかいなかよりも…」とコメントしたように(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-469.html#comment1050)、要すれば、森をふくむ日本の歴代の与党政治家は、政治的な立場も経済的な損得勘定もしっちゃかめっちゃかであるので「いかなる立場に立っても正当化できなさげなんですよ」(http://harana.blog21.fc2.com/?no=5)。ですので、その点を強調し、その強調が拡散することより「どんな政治的立場であっても経済的な損得勘定であっても、さすがにあいつらをリーダーとしてかつぐのは納得できないよね」という共通認識を右派につくり、右派を内部分裂させたいのです。…って、自分の手口をさらしちゃったけど、まぁいいや。どうせばれてるんだろうし。
そうするとですね。人権意識がなく、ある種の美学に殉じる人に対してのみ共感するような政治的立場の人間であっても、また経済的な損得だけでうごく人間であっても、現与党を支持することだけは出来ない、という心境になって政権交代がおこるんじゃないか、とおもうんですが、どうですかね?
わたしの戦略・戦術は、あまり効率的ではないですかね?

左右両翼は、異様にユルめ

■おっしゃりたいことは、わかるのですが、自派にあまいという体質のひとびとに、期待をかけるのは、やめにしたいと。■でもって、アッソー首相だいすき層は、どんな合理化装置をもってしても、擁護不能だとおもっています。あの暴言大臣を容認できるという時点で論外であり、その内部での対立とやらを「利用」する気にさえなれない。■ハラナの野蛮な感性からすれば、石原都知事や橋下府知事を擁護する層と同質の、「おもしろければ、無責任でもいい」という無責任な支持層だとおもいます。■はっきりいって、「失言騒動は、ことばがりだ」式の反応自体に、かれらの知的野蛮さを感じます。絶対くちにしちゃいけないセリフを、うけねらいで くちばしれる。いや、かなり本気で そうかんがえているのを、「空気よめない」がゆえに、くちにできてしまう。…■そういった、幼児性をこのむ選挙民こそ問題ですが、それを悪用する政治勢力が、ゆるしがたい。

■最近、小生、老化のせいか、ヤケっぱちの右派層に対して、残酷な気分にとらわれています。「新保守主義や新自由主義で、自分たちが苦境におちいることが理解できずに、政治選択をするのなら、かってに自滅せよ!」ってね。■いや、そういった、やぶれかぶれの自傷的選択は、まじめな「ワーキングプア層」をまきぞえにするのが、はなはだ迷惑なのですが、一種の「浄化作用」をはたらかせるためには、「新保守主義や新自由主義で、自分たちが苦境におちいることが理解できずに、政治選択をするのなら、かってに自滅せよ!」を自覚してもらわないと。■それこそ、ホントに救済を必要としている層は、ボランティアでささえるとして、おバカな右派層には、天罰てき面で、お灸をすえないと。■かれらの、現実逃避の姿勢は、現実と衝突しないかぎり、覚醒しようがないのでは?

わがみちをいきますが編集権がハラナさんにあることは認識しています。あと、左派の連帯について。

>あの暴言大臣を容認できるという時点で論外であり、その内部での対立とやらを「利用」する気にさえなれない。

了解しました。わたしは、戦略・戦術的に右派内部の対立をあおる言説を今後もかくかもしれませんが、このブログの編集権がハラナさんにあり、削除される可能性もあるという覚悟のうえでかきます。
あと、左派なんですが、そもそもなぜ社民党と日本共産党は選挙までだけでも妥協して連帯できないんですか?もちろん、わたしの質問の意図は「具体的に両党にどのような政策上のちがいがあるのか」ではなく「政治評論家ではなく政党なんだから、なにはともあれ政権をとらなきゃはじまらないだろう」という共通了解のもと「どんなちがいがあっても戦略・戦術的には選挙までは連立するしか選択肢がないはずだ」と両党の幹部のぎりぎり過半数まではかんがえなおす…という状態にならない理由です。
あまりに初歩的な疑問でしたらすみません。

「箱の中」だからでしょう

■成田空港(三里塚)問題で、新左翼各派が対立したりとか、左派は、周囲からみれば微細な差異で連帯できずに、ときに「うちゲバ」で相互の組織力をうばいあい、かつ 市民がひいてしまうという、致命的ミスをくりかえしました。■その もっともグロテスクな結末が、浅間山荘事件での「リンチ殺人事件」でしょう。■いくら、運動が体制側によっておいつめられていたとはいえ、自殺行為だったことは否定できません。
■その点、保守勢力は、既存の利害の分捕り合戦という意味でライバルではあっても、対反体制勢力という側面では「一枚いわ」になれます。■自民党や民主党に結集している議員たちの大半は、このての人士です。政治的におりあえるというよりは、自派の利害追及のためのゲーム理論的な野合で合従連衡が成立すると。
■それからすると、社民党と共産党の対立は、アホまるだしですが、被差別部落問題や反核平和運動にいたるまで、かれらの運動の基盤は自派の党勢拡大にだけあるのであって、被差別部落の解放や平和運動の推進は、その素材・手段でしかないのです。■だから、大同団結できるほうがヘンでしょう。『1984年』の、オセアニア/ユーラシア/イースタシア3大国と同様、対立図式がつづいた方が党幹部の支配にとってつごうがいいのでしょうし。
■ま、それはおくとして、かれらがなぜ連帯できないかといえば(たとえば、日本共産党の、きまじめな下部党員たち)、「箱の中」(http://harana.blog21.fc2.com/?q=%C8%A2%A4%CE%C3%E6)からでられないでいるということでしょう。■「市民・労働者の人権保障という大目標のために、周辺党派に対して自分ができることはなにか?」という、連携への意思を、自己欺瞞によって回避してしまう。あとは、自己正当化と責任転嫁の悪循環です。「いま、社民党と連携をするような提言をして、党中央を批判しても、どうせつぶされる。機が熟すまでまとう」などと、いまうごかないことを正当化したら、それで共産党は体質が維持されてしまう。■社民党は社民党で、「共産党と一緒にされたら、社会民主主義ではなく、暴力革命容認派と連続性があると誤解されるから、距離をおきたい」などと、実質社会民主主義政党に変質した(党内支配は、おくとして)共産党と連携を拒否する。■両者は、無所属候補をみこしにあげるとき以外、単なる、あしのひっぱりあいしか くりかえさないでしょう。
■もっとも、共産党は、小選挙区候補を半減させたとかで、そのヘンは大前進ですよね。もっとも、カネがなくなったんで、そういった体力低下にあわせて、かちめがある選挙区だけにしぼりこんだだけかもしれませんが。

いままでよんだなかで4番目におもしろいマンガ

貝枝的には、いままでよんだなかで1番おもしろいマンガは、同着一位で『拳闘暗黒伝セスタス』(技来静也・白泉社)・『少女セクト』(玄鉄絢・コアマガジン社)・『一騎当千』(塩崎雄二・ワニブックス社)なんですが、
『フダンシズム 腐男子主義』(もりしげ・スクウェア・エニックス)はそれらにつづく、貝枝的に4番目に面白いマンガです。
で、なんでこの項目「『本能』の政治性」で紹介するのかというと、この『フダンシズム』の様なマンガが商売としてなりたつ、という一事をもってしてもヒト(ホモ=サピエンス)は本能がこわれた生物だということが納得できるからなんです。というわけで、よかったら参考までにどうぞ。

『ねとげライフ vol.1』という

雑誌(あるいはムック)をよんだのですが(発行は株式会社マックス)、ネットゲームの近況をそれなりに概観はできてありがたいのですが、わたしがこれまで本ブログでかいてきた様な分析をしたいという感想はいだけませんでした。わたしの記憶では、拙文であつかったゲームのうち、もっともあたらしいゲームは『ファイナルロリータ』もとい『ファイナルファンタジー10』であり、それが同シリーズの8にくらべて格段につまらなくなっている(映像はともかく脚本に共感できない、つまりリアリティを感じられない)、という指摘でおわっており、おなじような視点でネットゲームやケータイ動画についての分析をつづけたいとおもっているのですが、分析したいとおもえるネタ自体がみあたらないんですよ。どなたかネタを提供してくだされ。つーか分析自体を本ブログで披露してくださればもっとありがたいですが。

ジェンダーではないが

生物学的な性をあつかっている団体として、参考までにどうぞ。

「日本半陰陽協会」
http://www14.ocn.ne.jp/~pesfis/index2.html

それにしても、時間の推移を感じますね

■貝枝さんの かきこみに、全然反応できないですぎた、この記事の1年間でしたが、「森何某に品位があったという証明をおこなうことは、ほぼ不可能でしょう。かれを当選させつづけている選挙区はもちろん、かれの政治生命を維持させている日本列島の選挙民は、世界一アホなアメリカ合州国という政治空間と大差ない、下劣な空間というほかない」とか、「共産党は、小選挙区候補を半減させたとかで、そのヘンは大前進ですよね」などといった 過去のかきこみには、時間のながれをホント感じさせられますね。■自民党がタカ派的に徹することができない体質をかかえているがゆえに、イライラと暴力性をぶつけてきた右派たちは、今後、どうなるんでしょうね。社民党にひきずられた選択をしたばあいは、「媚中」だの「媚韓」だのといった非難をくりかえすんでしょうが、かれらのエネルギーの標的は、無力な左派たたきよりも、むしろ「かわいさあまって にくさ百倍」の保守勢力にあったわけで…。

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