プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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大濱徹也『アーカイブズへの眼-記録の管理と保存の哲学-』(刀水書房2007)

■「公文書」関連記事の続報。
■まずは、出版社紹介ページから目次を転載。


【主要目次】
Ⅰ.国家を問い質す場 
  第1章 日本の公文書館―現在、問わるべき課題をめぐり―
  第2章 公文書館の責務と使命
  第3章 情報保存の現在―明日への扉―
Ⅱ.土地の貌たる器
  第1章 貌としてのアーカイブズが問われること
  第2章 記録を残す営み
  第3章 現在社会と公文書館
  第4章 証として記録―知の遺産を生かすために―
  第5章 地方文書館の保存と使命
Ⅲ.インテリジェンスの府として
  第1章 企業アーカイブズの世界
  第2章 大学アーカイブズが問われること
  第3章 アーカイブズ、図書館、博物館
おわりに―アーカイブズが地に根ざすために―
■書評も掲載されているので、一応。

【書  評】
(専門図書館No.229-2008.5、波松章勝氏)より

日本において、アーカイブズという用語の認知度は高いとはいえず、歴史研究を支える古い「史料の蔵」といった矮小化した捉え方をされることも多い。・・・略・・・「現在(いま)アーカイブズに問われるのは、知と情報の宝庫として、アーカイブズを日常の営みにいかに位置づけるかである」と述べている。行政組織にせよ、企業・学校にせよ、様々な組織での営みが何をしてきたのか。その組織に生きる人たちが社会にどのような責務を果たしてきたのかを検証するときに重要なのが、アーカイブズである。・・・略・・・「アーカイブズは記憶を共有し、創造していくという作業を営む場であるし、開かれた社会をつくっていく器」=「社会の器」であると定義する。・・・略・・・アーカイブズをそれぞれのコミュニティの営みを記録し、その記録を共有し、多様に検証していくことで新しい活力を生み出す器ととらえ、様々な具体例を示しながら、それを活かしていくためには、国民に情報を公開し共有していくこと、歴史・政治文化を問い質す力(記録のとらえ方・読み方)、多様な情報を記録していくことが必要であると指摘している


■おそらく、図書館職員らしい人物による紹介文。


アーカイブズへの眼―記録の管理と保存の哲学(単行本)
アーカイブズとは何か、どういうものか、についての講演集である。講演集といっても、アーカイブズ機関における研修会においての講演なので、一般的な話ではない。
(ここでのアーカイブズは、機関としての、あるいは組織としてのアーカイブズである。)

アーカイブズについての見方の中で代表的なものの一つが、アーカイブズ=古文書というものであろう。同時にアーキビスト=歴史研究者、というのもある。

著者はこういう見方に対し、アーカイブズは歴史学に従属するものではなく、独立した活動分野であり、さらには、コミュニティや国の結節点となる重要な存在なのだ、と力説する。著者の思いがストレートに伝わってくる、そういう意味では熱い本である。

著者によるアーカイブズの位置づけは、なるほどと思わせるものがある反面、あまりにも力説するところから、逆にアーカイブズのステータスのなさ、といったものが透けて見えてきてしまう。

これは類縁機関である図書館や博物館にも言えることであるが、その文化的意義は声高く主張されるが、実際は低いステータスしか持っていないのが現状である。その再確認ができる、という悲しい一面も持っている。

しかし、著者のアーキビストとは、という語りかけの中に、実は司書とは何か、という語りかけに相通じるものがあったりする。
そういう意味では、類縁機関である博物館、図書館、文書館(最近はMLAと称されたりする)に関心のある人、あるいは現に仕事に就いている人にとっては刺激的な本でもある。

記述に重複が多い、という見方もあろうが、それぞれの機会においての重要な部分であるので、それらを省いてしまうと話の筋道が見えなくなってしまう。それぞれ独立した講演を集めていることもあり、重複を気にするよりは著者の意図するところをくみ取るべきであろう。

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■ハラナによる、まとめ。


(1) 公文書とは、行政組織の過去の記録のうち、歴史的価値のあるもの、といった位置づけは、まちがっている。歴史的価値のあるなしが、たとえば「専門家(歴史家)」によって一義的に判別可能であるといった俗論からも解放されなければならない。歴史的価値があるかどうかは、将来の利用者の能力・問題意識次第で確定されるものであって、事前に実体として実在するような性格にはない。→したがって、たとえば ある自治体の中世期の古文書などを歴史的意義があるとかいって、保存・管理の第一位にすえるなどは、本末転倒である。

(2) アーキビスト(公文書管理者)とは、行政組織にとどまらず、企業・学校・宗教団体など、およそ公的な性格をおびる官僚制組織が、よってたつ文書主義にしたがって、恣意的にならないよう、つとめて没価値的に 取捨選択して記録化する専門職員であって、歴史家のしもべでなどない。→したがって、歴史家が自分の史資料収集と論文化のためにアーキビスト業務を演出し、たとえば論文化するまで公開しないとか、学派のために私物化するといった姿勢は論外である。

(3) 公文書は、保存される直前まで、現有の業務文書として「現役」として機能していたものであり、後世における検証に付せるよう、また後世の議論が文書主義的根拠にもとづいた責任あるものになるよう、記録化されたデータである。→前項と密接にかかわるが、公文書は組織内外の市民のための共有データであって、歴史家などエリート/マニアの占有物でないことはもちろん、エリートが自分たちのために有意義と位置づけるような恣意的な資料保存とか取捨選択は論外である。

(4) 公文書は、情報公開にともなう個人情報や企業秘密などリスク問題をおくなら、公務上の電子メールや議事の過程を詳細に記録化した文書なども、ふくまれる。→むしろ、議論や ねまわしの結果としての、既存の議事録等の印刷物は、記録としての価値がひくい。

(5) 公文書が、後世における検証に付せるよう、また後世の議論が文書主義的根拠にもとづいた責任あるものになるよう、文書主義にのっとり、恣意的にならないよう、つとめて没価値的に 取捨選択して記録化されたデータである以上、公務にあったものが、かってにもちかえったり、つごうがわるいからと かくしたり、私用にもちいてはならない。→一貫した方針にもとづいた取捨選択・保存が維持されねばならないし、昨年の大阪府の知事メール・データの削除などは、論外。

(6) 「社会保険庁の年金記録、厚生労働省の薬害に関する記録をめぐる問題、防衛省の航海日誌の処分、政党助成金に関わる記録管理等々をはじめ、記録管理への目が弱いためにでてきた事件」についても、「役人が隠した」「ごまかした」「勝手に処分した」から「関係者を処分する」といった責任問題に矮小化するに終始してきたが、「なぜ職務の証ともいうべき記録管理の体系が構築されていなかったのかという本質を問う発言を聞くこと」ができないのは、以上のような公文書の性格が官僚たち自身はもちろん、マスメディアにもわかっていないことの証拠である〔「あとがき」p.202〕。→要するに、組織内の例外的不祥事に対する処罰問題などではなく、業務記録として当然のこすべきデータが 記録されていなかった、かってに廃棄された、ねじまげられたという、文書主義の破綻、官僚制としての構造的違反こそ、問題。

(7) 結局、これらの病理は、「由らしむべし、知らしむべからず」という、市民不在の、あしき伝統、あるいは、属人的・セクショナリズム的な情報=機密文書観が、ぬぐいさられていないからだ。

(8) 将来的には、書物を収集・保存する図書館、古文書を収集・保存する文書館、モノを収集・保存する博物館、といった既存の常識を破壊し、有機的な統合・分業が、はかられねばならない。
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■図書館もふくめてだけど、「その文化的意義は声高く主張されるが、実際は低いステータスしか持っていないのが現状で」、大学とか公立図書館とかでも、組織のなかで すごく軽視されているのが、人事の実態で バレバレなんだよね。会社の社史編纂室なんかも、そうなんだろうけど、主流派でないひとたち、あるいは報復人事の「うけざら」だったり。■つまりは、資料・データにもとづいた 責任ある議論をする気が組織にないので、過去のことは みずにながして、みんなで なかったことにしてしまうと。歴史認識問題などにも通底するとおもうけど、要は、「過去になにをしでかしてきたか? なにを蓄積したか?」って検証をしないで 現実がすすんでいく。そして、権力者の てまえみそ史観をヨイショするために、恣意的=ごつごう主義的な、データの つまみぐい、ねじまげが まかりとおると。■まさに『1984年』の「真理省」が そこらじゅうにあると。

■あと、大濱先生、公文書館が、しばしば県史・市町村史などの編纂事業の あと始末業務みたいな軽視がなされているといった批判をなさっている。しかし、そういった「組織史」作成の、のこりカス的な資料・人員の位置づけにとどまらず、資料の恣意的取捨選択の産物だろう 社史や県史・市町村史などの大半が、御嵩町史(それは、事実上「前町政」批判だった)みたいなものとは異質で、基本的に行政の自己ヨイショ=自己満足/宣伝的媒体になりがちだとおもう。御嵩町の産廃処理場建設計画における、おびただしいスキャンダルをかかせないよう執筆者にせまった“岐阜県史問題”などは、その典型的なケースだろう。■そうなると、社史や自治体史、大学史など学校史(とりわけ私学のばあい)は、企業秘密など機密はおくとしても、当局にとってつごうのわるい経緯をおおいかくすような、うえでのべたような「真理省」的「通史」ばかりが刊行されるような気がする。■そんなもの、いくら公開されたって、無意味だとおもうんだよね。ウィキペディアなどが、その意味では、組織の当局にとって かきたくないことも、どんどんかかれてしまうという「健全性」を発揮するってのは、その意味でも、とても重要だとおもう。■いずれにせよ、アーキビストが専門人として計画的に養成されない この列島のばあいは、一層、てまえみそ的な歴史資料の保存と、それを悪用した「偽史」ばかりが はびこっていそうだ。
■まあ、学校であてがう 「日本史」っていう「通史」が、そのさいたるものなんだから、そのサブシステムとしての 都道府県史・市町村史、社史・学校史・教会史などは、いわずもがなの水準になるだろう。■それをかんがえると、これら「通史」の読者は、高度の、情報リテラシーを要求されることになる。まあ、ジャーナリズムについても あてはまることなんだから、自己責任による 資料批判は、さけられないという、宿命なんだろう。


●ウィキペディア「大濱徹也
●ウィキペディア「国立公文書館
●ウィキペディア「アーカイブス
●ウィキペディア「アーキビスト
●ウィキペディア「学芸員
●ウィキペディア「キュレーター
●ウィキペディア「司書
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テーマ : これでいいのか日本 - ジャンル : 政治・経済

タグ : 1984年 真理省 ハイパー独裁 公文書 アーカイブ

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