プロフィール

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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動物農場(アニメ版)

●『しらちゃん日記』(2009年01月08日)の記事を全文転載。リンクの大半は、かってに追加。


歴史は繰り返す。支配する者とされる者。その構造は変わらない、ただ・・・ 今、豚は太っていない。

半世紀前に『動物農場』がアニメ映画化されていたとは知りませんでした。映画を見るに先立ってジョージ・オーウェルの『動物農場』を読みました。今まで読もう読もうと思いながら読んだことなかったんですよ。もう20年も前のことですが、友だちがこの本を読んでいたところ「動物が好きなんですね」と言われたという話を思い出しました。

小説はとんでもない傑作だと思います。ただ、ネタとなっているソ連の歴史やスターリントロツキーなどの人物像を知らないと楽しめないとは思います。動物が支配権を握ったあと、革命リーダーの豚ナポレオン(=スターリン)に都合がいいように歴史が書き換えられていく様は圧巻でした。

映画ではそういったソ連を連想させる描写はかなりうすまり、映画のチラシのコピーの「歴史は繰り返す。支配する者とされる者」という普遍的な法則を強調した感じになっていたのがいいかもしれません。冷戦下の1954年、この映画は反ソの目的のためにCIAが資金援助したとのことですが、いまこれを見たらアメリカの腐敗を描写しているようにも見えるしね。

小説と映画では終わり方が異なりますが、小説は小説らしい終わり方。映画は映画らしい終わり方だと思います。これはいい脚色でしたね。三鷹の森ジブリ美術館が配給で宮崎駿がからんでいることもあってか、渋谷のシネマ・アンジェリカは若い女性が多かったです。楽しんでもらえたものと思います。

「今、豚は太っていない」ということばは宮崎駿がこの映画の公開に向けてコメントしたものです。人には貧しい生活をさせて、自分は肥え太る人を「豚」というわけですが、宮崎は言います。「セレブって豚のことでしょ。今、豚は太っていないんだよね、ジムかなんかにせっせと通ってスマートだったりするから」、的確すぎて恐ろしいコメントでした(笑)。


映画「動物農場」公式サイト
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■まぜっかえすなら、野生のイノシシが ふとってなどおらず、筋肉質であるように、イノブタであろうが、ブタであろうが、ヒトに食用として肥育されない以上、不必要に脂肪がついたりはしない。肥育されたブタのばあい、四川大地震の際「36日ぶり豚救出 体重150キロ→50キロに」なんて、わらっていいものか 微妙な現象さえおきるが(『中日新聞』2008年6月26日)。
■ひるがえって、ワーキングプアほか イヌ・ネズミを はしらせて、バブリーな投資・消費生活をくりかえす、「セレブ」連中は、19世紀のブルジョアらのように脂肪をためこまないのは、ごくあたりまえ。搾取された労働の産物が脂肪やチャラチャラ・ドレスに転化するか、高級スポーツジムやサプリメント、高級マンション・高級車などに転化するかは、それこそ流行次第。
■それと、より陰惨で、監視社会がもたらす非人間性もあわせて告発した作品“1984年”と、どちらを優先して再読すべきなのか 微妙なところ。■いや、権力闘争の愚劣さは、『動物農場』で、“監視社会”は『1984年』で、“管理社会”は『華氏451度』と、それぞれ焦点を 別個にあてて作品の含意を未読すべきなのかもしれない。“ハイパー独裁”は、権力による情報管理がみえなくなっている複合的なシステムなのだから、単発の寓話では対抗しきれない。


●旧ブログ「オーウェル」関連記事
●日記内「オーウェル」関連記事
●旧ブログ「やせ過ぎ女性の比率の国際比較(社会実情データ図録)
●旧ブログ「若い女性、終戦直後よりスリムに(朝日)
●旧ブログ「あやしいメタボリック症候群騒動3

●「2008/12/20より「動物農場」ロードショー!」 『1984 blog』( 2008/11/29 20:30)
●「オーウェルのブログが開設された」 『1984 blog』(2008/09/22 23:58)
●「ブッシュのアメリカは、なぜオーウェルの「1984年」に似ているのだろう ―」『1984 blog』(2005/09/08)
●“http://orwelldiaries.wordpress.com/
●「森井教授のインターネット講座 第438回 監視社会」(asahi.com マイタウン徳島 2008年10月02日)
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テーマ : 気になる映画 - ジャンル : 映画

タグ : ハイパー独裁 真理省 1984年 オーウェル

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コメント

寓話つながりで

■コメントが消失してしまったので、代理投稿【ハラナ】。

********************
オーヱルではありませんが、『ピグマリオン』も言語帝国主義を再考するためにやくだちそうですね(あるいは映画版の『マイ=フェア=レイディ』でもいいかな、ご都合主義的な結末が原作の『ピグマリオン』とはことなり、気にくわないが)。

あと、以下の記事も、人間の言動は洋の東西をとわないということを示唆する事例として興味ぶかいとおもいます。
http://goyaku.seesaa.net/article/22233214.html
ちなみに、貝枝が興味本位…もとい興味ぶかいと感じた箇所は、2006年8月11日づけ「イタリアン・ヤオイの侵入」という記事です。
いや、ここまできたらいっそ、イタリアつながりで『拳闘暗黒伝セスタス』のヤオイ同人誌作成を日伊両政府が両国友好のための外交施策として実施するところまでいってほしいですな。
で、日本はそのみかえりとしてジャパニーズ=ヤクザをイタリアン=マフィアのもとにおくって、その度量のひろさ(弱者救済)について研修をうける独占契約をえる、と。そのための交通費および滞在費といった諸経費に増税が必要ならやむをえないと貝枝はおもいます。どうせヤクザは根絶できないんだし、それがすこしでもマシなヤクザになれば、結果として社会的厚生は向上するでしょう。ちがいますかな?潔癖症の狭量なサヨクたち。すくなくとも、貝枝のこの案の方が、野党連帯をしようとしない社民・共産(のなかの多数をしめているであろう強硬派)よりも、弱者にとって利益をもたらすとおもいますがね。
********************

ウィキペディアから

『ピグマリオン』(Pygmalion )は、ジョージ・バーナード・ショーによる戯曲。舞台、映画の「マイ・フェア・レディ」の原作にもなった。『マイ・フェア・レディ・イライザ』という日本語の訳題も存在する。1913年初演。
教育によって淑女や「いい女」をというプロットは映画『シーズ・オール・ザット』『プリティ・ウーマン』などにも影響を与えていると言われたり、引き合いに出されたりすることが多い。


登場人物
イライザ:花売り娘
ヒギンズ:言語学者。毒舌家。
ピカリング:大佐。言語学者でもあり、ヒギンズに会いに来た。
ヒギンズ夫人:ヒギンズの母
ドリトル:イライザの飲んだくれの父
フレディー:イライザに恋する青年
ピアス:ヒギンズ家の家政婦。しっかり者

あらすじ
花売り娘イライザは、誰の発話からも出身地を当てるという音声学の天才である言語学者ヒギンズと、ひょんなことから出会い、彼の家に押しかけ、淑女の喋り方を教授してくれと頼む。実験精神に富んだヒギンズは彼女を家に住まわせ、彼女のスラム街風の発声を矯正する。そして、事態は思わぬ方向へ…。
ショーはこの作品に、ヒギンズがイライザと結婚する結末と、イライザがフレディと結婚する結末の二通りを書き、迷ったが、フレディと結婚するという皮肉な結末を選んだ。しかしその後の映画は、ヒギンズと結ばれる結末を暗示している。

映画版
イギリスで1938年に映画化された。
監督: アンソニー・アスクィス、レスリー・ハワード
脚本: ジョージ・バーナード・ショー 、W・P・リップスコーム 、 セシル・ルイス
出演: レスリー・ハワード、 ウェンディ・ヒラー
日本では劇場未公開だったが、DVDは発売されている。既にこの映画は、いったん出て行ったイライザが戻ってくる場面で終っている。

関連項目
・ピュグマリオン
・ピグマリオン効果:この戯曲から付けられた学名なのか、ピュグマリオンの神話が語源なのかは定かではない。しかし、イライザの、次のようなことを意味する台詞がある。「ピカリング大佐は私をレディとして扱ってくれたので、彼に対して私はいつでもレディだけど、ヒギンズ教授は今でも私を花売り娘としてしか扱ってくれないので、彼に対してはいつまでも花売り娘である」。



ピュグマリオーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目ではギリシア神話のキプロス王について記述しています。ギリシア神話のテュロス王についてはピュグマリオン_(テュロス王)をご覧ください。

ピュグマリオーンとガラテア
ピュグマリオーン(ピュグマリオン、Pygmalion)は、ギリシア神話に登場するキプロス島の王である。
現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻した。その像を見ているうちにガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。
一部の伝承にはゼウスがその女を望んで、ピュグマリオーンから奪ったという。

影響
映画『マイ・フェア・レディ』の下敷きになったバーナード・ショウの戯曲『ピグマリオン』はこの伝説に材をとったものである。また、和田慎二のファンタジー漫画『ピグマリオ』でも、石になった女性というモチーフが用いられている。



『マイ・フェア・レディ』(My Fair Lady)は、1956年3月にブロードウェイで初演され、6年6ヵ月に及ぶロングラン公演となったヒットミュージカル。原作は、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』(Pygmalion)。ブロードウェイの初演ではジュリー・アンドリュースがヒロイン役を務めたが、映画化の際にはオードリー・ヘプバーンが起用された。作詞・脚本アラン・ジェイ・ラーナー、作曲フレデリック・ロウ。原作者のショーはミュージカル化に否定的だったため、ショーの死後に製作された。出演女優には100万ドルのギャラが支払われると前もって公表されていた。

ストーリー
第1幕
オペラがはねたばかりのコヴェント・ガーデン・オペラハウス前。イライザ・ドゥーリトルという花売り娘が、売れ残りの花をさばくために駆けずり回っている。その姿を見ながら一心にノートを書きなぐる男がいた。彼の名はヘンリー・ヒギンズ教授。一流の言語学者で、下町上がりの成金に上流階級の話し方を教えて生計を立てている。彼が「どんなに下世話な花売り娘でも、自分の手にかかれば半年で舞踏会でも通用するレディに仕立て上げられる」というのを聞き《Why Can't The English? 「なぜイギリス人は英語が話せない?」 》、イライザは猛烈な興味を示す。《Wouldn't It Be Loverly?「素敵じゃない?」 》
翌朝、ヒギンズの家に「下町流に」着飾ったイライザが現れる。「手も足もちゃんと洗ってきたんだよ」と、自分を一人前のレディに仕立てるよう頼むイライザだが、ヒギンズは最初は袖に振る。しかし、居合わせたヒギンズの友人で言語研究家のピッカリング大佐が、「もし成功したら、イライザの授業費を全額持つ」と言ったため、ヒギンズは俄然乗り気になり、イライザの教育を引き受けることにする。
数日後、イライザの父アルフレッドが、ヒギンズの家にやってくる《With A Little Bit Of Luck「ほんの少し運が良けりゃ」 》。彼はイライザがヒギンズに囲われたものと思い込み、それをダシに金をせびりにやって来たのだ。一度は追い返そうとしたヒギンズだが、アルフレッドの話を聞くうちに彼の「道徳観」にいたく感じ入り、5ポンドを渡して帰す。そればかりか、アメリカの投資家に彼を「イギリス一の中間階級道徳家」として推薦する手紙までしたためてしまう。《I'm An Ordinary Man「僕は普通の男だ」》
ヒギンズによるイライザの訓練は困難を極めた《Just You Wait「今に見てろ」 》。しかしヒギンズはついに、イライザに上流階級の話し方をマスターさせることに成功した《The Rain In Spain「スペインの雨」》。狂喜乱舞するヒギンズとイライザ、そしてピッカリング《I Could Have Danced All Night「一晩中でも踊れたのに 」》。彼らは勢いに乗って、ヒギンズの母親がボックスを持つアスコット競馬場に乗り込む《Ascot Gavotte「アスコット・ガヴォット」》。しかし、イライザの社交界デビューは散々なものになった。彼女は上品な話し方こそ身に着けていたが、中身は下品な花売り娘のままだったからだ。イライザの言動のせいで大恥をかき、おまけに母親にまで「人間でお人形遊びをしている」と罵倒され、ヒギンズは屈辱に燃えて自宅へと戻った。だが、ボックスでイライザと同席した貧乏貴族の令息フレディ・アインスフォード=ヒルは、ヒギンズの家まで彼女を追いかけ、彼女に会えるまで玄関の前で待ち続ける決意を固めたのだった《On the Street Where You Live「君の住む街角」》。

第2幕
アスコットでの失敗から6週間後。地獄のような特訓の末、イライザの再デビューの日がやって来た。場所はトランシルバニア大使館の舞踏会。ヒギンズやピッカリングの心配をよそに、イライザはトランシルバニア皇太子からダンスの相手に指名されるという快挙をやってのける。途中ヒギンズの弟子だというハンガリー人にゆすりまがいの詮索を受けるも、イライザは見事にだまし通した。イライザは花売り娘からレディへと、鮮やかな変身を遂げていたのだった。
こうして、実験は成功に終わり、賭けはヒギンズの勝利となった。舞踏会から帰宅し、互いの健闘をたたえあうヒギンズとピッカリング。《You Did It「でかしたぞ」》しかしその2人の横で、イライザは静かに唇を噛み締めていた。彼女はまさに今、自分が単なる実験用のハツカネズミであったことに気づいたのだ。実験を通して、彼女の中には一人の人間としての自我が目覚めていた。しかしヒギンズは、彼女を一人の人間として扱ってはくれなかった。そしておそらくこれからも。
一人きりになった実験室で泣き崩れるイライザ。スリッパを取りにヒギンズが戻ってくる。イライザはヒギンズにスリッパを投げつけ、それをきっかけに大ゲンカが始まる。原因がわからないヒギンズ。《A Hymn To Him「男の賛歌」》「この家に自分の居場所はない」。そう感じたイライザは、こっそり家を出て行く。
外に出たイライザは、待ち構えていたフレディと一緒に《Show me「証拠を見せて」》自分の故郷コヴェント・ガーデンの青物市場に向かう。しかし、昔の花売り仲間たちは、レディとなったイライザに気づくことはなかった。絶望に駆られるイライザの前に現れたのは、ピカピカのモーニングで着飾った父親の姿だった。聞けば、ヒギンズがアメリカの投資家に出した手紙のせいで、彼は投資家の遺産相続人となり、年4,000ポンドの金を受け取ることになってしまったのだ。その上、翌朝には愛人との結婚式まで控えているという。それでも彼は「イライザを引き取ることは出来ない」と言い張る。そしてイライザに「お前なら一人でもやっていける」と、励ましになっていない励ましの言葉をかけるのだった《Get Me To The Church On Time「時間通りに教会へ」》。
翌朝、イライザがいないことに気づいたヒギンズは大慌て。彼女に秘書的な役も負わせていたので、スケジュールが一切わからなくなってしまったのだ。イライザが逃げ込んでいたのは、ヒギンズの母親の家だった。イライザの理解者となってくれる者は、もう彼女しかいなかったのだ。2人が話し込んでいるところに、ついにヒギンズが怒鳴り込んでくる。ヒギンズの母はわざと、息子をイライザと2人きりにした。イライザはヒギンズに「あなたのことは好きだが、人間として扱ってくれない以上、もう一緒にはいられない」と告白する。《Without You「あなたなしでも」》しかしヒギンズは、ますますへそを曲げてイライザを突っぱねる。結局イライザは再びヒギンズの前から姿を消し、ヒギンズは母親の前でイライザを散々馬鹿にしてから家路に着いた。
しかし、ヒギンズは気づいていた。イライザが自分と同等の人間になっていたこと。そして、いつの間にかイライザのことが好きになっていたこと。しかし、自分はイライザを拒否した。なぜなら、彼にとって女は一人前の人間ではなかったからだ。それでもなお、彼女の面影は頭の中から離れない…《I've Grown Accustomed to Her Face「忘れられない彼女の顔」》。
帰宅したヒギンズは、研究室の椅子で独り想いにふける。録音してあったイライザの声を流しながら。
突然再生が止まり、聞きなれた声がこう言った。「手も顔もちゃんと洗ってきたんだよ」。
ヒギンズは応えた。「私のスリッパはいったい…どこだい?」

劇中歌
【略】

ミュージカル
ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』が原作。ただし原作とは結末の部分が大きく異なって、ヒギンズとイライザが結ばれることを暗示して終わる。これはミュージカル化の際初めて行われたものと言われる事が多いが、実は1938年にレスリー・ハワードが監督・主演し、ウェンディ・ヒラーが共演した映画版『ピグマリオン』にも見られる。台本を書いたアラン・ジェイ・ラーナー自身も、ミュージカル化に際し映画版の要素を多く取り入れたと語っている。
My Fair Lady(マイ・フェア・レディ)のタイトルは、Mayfair lady(メイフェア・レディ)をコックニー訛りで表現してもじったものである。メイフェアは昔は閑静な住宅地、今は高級店舗がならぶロンドンの地区の名前である。原作のPygmalionは『ピグマリオン』とカタカナ表記されるが、英語で発音するときは『ピグメイリオン』なので注意。

キャスト
ブロードウェイ初演(1956年3月15日)
ヘンリー・ヒギンズ教授:レックス・ハリソン
イライザ・ドゥーリトル:ジュリー・アンドリュース
アルフレッド・P・ドゥーリトル:スタンリー・ハロウェイ
ピッカリング大佐:ロバート・クート

年譜
1956年3月15日 、ブロードウェイのマーク・ヘリンジャー劇場にて初演。七年半にわたり2717回の公演を重ね、当時としては記録的なヒットとなった。また、トニー賞も最優秀ミュージカル賞、主演男優賞(ハリソン)など8部門で獲得している。
1963年9月、東宝により東京宝塚劇場で、日本初のブロードウェイミュージカルとして上演される。主演はイライザ役に江利チエミ、ヒギンズ役に高島忠夫。好評を博し、翌年には同じキャストで再演された。その後も上演され那智わたる、上月晃、雪村いづみ、栗原小巻がイライザを演じた。1990年以降は、大地真央がイライザ役を勤めて大好評になり、現在まで何度も上演を行っている。
1963年の東京宝塚劇場の公演の時に、日本では初めてカーテンコールの習慣が始まったとされている。

関連書
アラン・ジェイ・ラーナー 千葉文男訳 『ミュージカル物語:オッフェンバックから「キャッツ」まで』 筑摩書房 ISBN 4480871470
大江麻里子 『マイ・フェア・レディーズ:バーナード・ショーの飼いならされないヒロインたち』 慧文社 ISBN 4905849241



マイ・フェア・レディ (映画)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マイ・フェア・レディ
My Fair Lady
監督 ジョージ・キューカー
製作 ジャック・L・ワーナー
脚本 アラン・ジェイ・ラーナー
出演者 オードリー・ヘプバーン
音楽 アンドレ・プレヴィン
撮影 ハリー・ストラドリング
編集 ウィリアム・ジーグラー
配給 ワーナーブラザーズ
公開 1964年12月26日(アメリカ)
上映時間 170分
製作国 アメリカ
言語 英語
制作費 $17,000,000

マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)は1964年制作のアメリカ合衆国のミュージカル映画。同名ミュージカルの映画化。同年のアカデミー作品賞を受賞した。

キャスト
オードリー・ヘプバーン:イライザ・ドゥーリトル
レックス・ハリソン:ヒギンズ教授
スタンリー・ハロウェイ:アルフレッド・ドゥーリトル
ウィルフレッド・ハイド-ホワイト:ピカリング大佐
ジェレミー・ブレット:フレディ
【以下略】

-----------------------------------
■「現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻…そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた」…、って展開は、現代の「二次コン」「フィギュアもえ」と かぶりますね(笑)。■ひょっとしたら、その一部が犯罪者予備軍になっていたかもしれない、アブナイ欲望を、昇華する、非常に洗練された形式というか、文化こそ、オタクであることが、よくわかります。

■それからすると、生徒役を周囲につくりたがる、指導者指向タイプは、実害があって、実写児童ポルノと通底するサディズムがみてとれますね。■これは、犯罪者と認識されていませんけど、パワハラ・セクハラのたぐいが そこらじゅうの「社会学的密室」で横行しているという推定を可能にします。スポーツや芸術系で、年少女性を指導したがる男性たち(とりわけ、密室にいきたがる層)は、本質的にヤバい人種であると。



中島敦の小説「弟子」にいわく…

小児性愛者および性犯罪者についての分析(というか、小児性愛者や性犯罪者に対する社会のとりあげかたについての分析)は『論座』(朝日新聞社)の2008年6月号144~155ページを参照していただくとして、今回は、わたし貝枝が小児性愛者であることの告白……もとい、以下のご指摘に関連するとおぼしきネタの提供をいたします。
その「ご指摘」とは

>犯罪者予備軍になっていたかもしれない、アブナイ欲望を、昇華する、非常に洗練された形式というか、文化こそ、オタクである

という箇所です。
中島敦の小説に「弟子」という作品があります。それを収録した文庫本を、わたしは所有していたと記憶しているんですが、いまちょっとみあたらず、たまたま狂疾によって…もとい、たまたま買った『望星』(東海教育研究所)の2008年8月号「特集:中島敦を読み直す」という雑誌の中に「弟子」が収録されているのでそこから引用します。
ちなみにあらすじは、孔子という人物(についてご存じない方はご自身でおしらべください)の弟子である子路という人物が、誠実である点は長所だが短気である点は短所なので、そこを克服するように、と師匠の孔子から叱責されたところです。

子路はこの事で度々師に叱られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに心の中では言い分が無いでもない。いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの憤怒を感じてなおかつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。少なくとも、抑え得る程度に弱くしか感じていないのだ。きっと……。(同誌25ページ)

この箇所がタカマサさんのご指摘とともに、貝枝的にこころにひびくのは、何らかの感情(「いかり」であれ「欲望」であれ)をつよく感じるのにもかかわらず、それを抑制することが「えらい」(あるいは「すごい」)のだと貝枝は感じるのに、よのなかの一定程度の人数のひとは、あたかも感情をつよく感じないひとの方が、つよい感情を感じつつ抑制しているひとよりも「えらい」(あるいは「すごい」)とおもいこんでいる様にみうけられ、タカマサさんの上記の箇所や「弟子」の上記の箇所は、その点を指摘してくれている様に感じるからである。
素朴にかんがえて、小児性愛者でありながら小児に対する性欲を抑制しているひとの方が、そもそも小児性愛者ではないがゆえに抑制するまでもなく小児に対して性欲をいだかないひとよりも「すごい」ことをやっているでしょう。ちがいますかな?…って、だれにむかってしゃべっているんだ?オレは…

いろいろな「欠点」について

■障碍とか、性格のかたよりとか、「平均値」「中央値」「最頻値」から はずれた趣味とか、そんなもの ない方が、ラクといえば ラクなんでしょうけど、ハラナも いろいろと ややこしい人生をおくってきました。大したことないんですけど。■ま、そういった意味で、「同病、あいあわれむ」ではないけど、ある感情、ある指向、ある こだわりが 平穏な人生を さまたげているケースに対して、共感ではできないけど(方向性がちがうから)、理解はできます(想像力がはたらくという意味で)。
■だから、「小児性愛者でありながら小児に対する性欲を抑制しているひとの方が、そもそも小児性愛者ではないがゆえに抑制するまでもなく小児に対して性欲をいだかないひとよりも「すごい」ことをやっているでしょう」ってセリフには、単純に、ネタとして、うけとっておきますけど(笑)、いろんな「標準的」でないもの、メジャーではないものから はなれることができない宿命を、理解できないとか、理解しようとしない「多数派」には、軽侮をおぼえます。「自分たちが少数派に転落するなんて、絶対ありえない」といった、根拠のない確信とかを背景にした、うぬぼれと差別意識に、げんなりするという意味で。そして、逆説的な意味で、「多数派」になりようのない宿命的少数派に対して、「まあ、ぼちぼち いこうや、キョーダイ」と、「同病」でなくても、いいたくなる。

■一方、自分たちの方が、どうみたって病的で野蛮で暴力的な存在なのに、自覚がないばかりか、周囲からも正当化されてしまう、「社会学的密室の住人」たちには、「いずれ密室から、たたきだしてやる」という気分にさせられます。■前便は、少数派へのエールよりも、この多数派にまぎれこんだ極悪人たちへの、かすかな戦闘宣言というべきものです。

労働や金銭の搾取だけではおわらなさそうである点について(副題:理論上は立論が簡単な問題の方が、立論がむずかしい問題にくらべて実際問題としては解決困難で

以前、「日本ハムファイターズ」とかいうスポーツ集団を公共財として税金を拠出するという主張の危険性をとりあげたと記憶していますが、その様な主張をするヤツと類似の「病的で野蛮で暴力的な存在なのに、自覚がないばかりか、周囲からも正当化されてしまう、『社会学的密室の住人』」がもたらす害毒は、その言動が他人(特に弱者)の労働や金銭の搾取だけではおわらなさそうである点で、再度強調するにあたいするほど驚異的にして脅威的とおもわれます。
先日、某スポーツファンと話をする機会があり、その場では上記のスポーツ団体への公金拠出の話題は出なかったのですが、そのスポーツファンは、わたし貝枝がスポーツの話を聞く際に、不快な表情をすること自体も批判したのです。おもうにそのスポーツファンは、「スポーツを好きにならない自由はない」という価値観さえ持っているのではないでしょうか。冒頭の事例の様な公共財なら、一部の人しか使わなくても公共性があるとおもえる財(ジェンダーやセックスやセクシャリティ上の弱者・外国人・少数民族・有色人種等々のための財)もあり、その様な財の一種として上記のスポーツ団体も認識したのかもしれないと解釈すれば、まだしも「よのなかの全員がスポーツファンとはかぎらない」という、(実に当然の!)事実を認識している、という解釈も、理論的には可能かもしれないでしょう。
しかし、自分にとって不快な話を聞かされたときに不快な表情をすること自体を禁じるということは、そしてそのときの上記スポーツファンの発言が「不快でない表情を演じる」ことにとどまらず、あたかも貝枝が不快感をいだく心性自体を批判する発言もあったことから察するに、さながら「統一協会では、信者同士が教祖の許可なしに異性を好きになることは最大の罪である」(『新宗教と日本人』浅見定雄・ばんすい社、52ページ)という状況の様に、破壊的カルトと同様の心性、すなわち内心の自由さえみとめない心性でしかないと解釈せざるをえないからです。(べつの解釈ができるという方がいらしたら、その解釈をこの場で提示してくださればさいわいです、皮肉ではなくマジでありがたい。というのも、そんな解釈が可能ならば、まだ希望がもてるのですから)

もちろん、労働や金銭は野蛮な政策によって搾取できても内心の自由まで制御することは、たとえどれだけ強力な権力をもつ人間であっても不可能であり、貝枝は上記の様な、破壊的カルトの教祖と同質の心性をもつスポーツファンとも業務上必要とあれば交流する覚悟はありますが、同種の野蛮人がほかにも一定程度存在する可能性をかんがえるに、貝枝が把握できない範囲において、貝枝よりよわい立場の人々が同様のくるしみをあじわわされているのかもしれないと感じ、実にこころぐるしい。タカマサさんの最新記事「かなり ヤバイ状況としての、検索結果」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-629.html)もそのことをしめしている様にみうけられます。理論的には「宿命的少数派」を社会的に認知させることの方が、その少数派性(少数派であること、の意)が宿命的であるために、時間がたてば解決するであろう「多数派にまぎれこんだ極悪人たち」の課題よりも解決困難であると感じており、それゆ「極悪人たち」の方については、なにも「いずれ密室から、たたきだしてやる」などとりきまなくても、そのうち外部からの批判・うちゲバ・アイデンティティクライシスのいずれかで崩壊するでしょう、とタカをくくっていたのですが、理論上の立論自体は容易きわまりないそうした野蛮人に対する対策の方が、その実際問題としての被害の質と量の甚大さゆえに、「宿命的少数派」の問題よりもはるかに深刻なのかもしれない、という気になってきました。

移動中なので、みじかめに

■スポーツファンにかぎりませんが、自分たちが全人口の3わりぐらいをしめる層は、自分たち過半数~圧倒的多数ではないという現実に鈍感であり、自分たちの自明視する世界像に はっきり違和感を呈する層(=エリート以外は、基本的に少数派)の存在が信じられないのです。■自民党・外務省の外交方針やネオリベの支持者だの、セクハラ文化保持者だの、「カンちがい多数派」は、ウヨウヨいそうです(笑)。そして、その「カンちがい」は構造的であり、革命的な局面にいかないかぎり その世界像が破綻することないので、実にやっかいと。■貝枝さんが直面した、気味わるさも、たぶん、それだとおもいました。

マイノリティつながりで

Yahooの海外ニュースを見ていたら、以下の様なニュースがありました。発信源はアイスランドです。

「世界初」新首相に同性愛者
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/iceland/

ここはひとつ、「日本」もこうした進歩的な潮流にそって、マイノリティのなかでも肩身がせまいであろう、小児性愛者を新首相にせねばなりますまい!


なお、以下はネタです。
「マイナーロボット大戦」という同人誌(パソコンソフト?)がある、と聞いてその名前で検索したら以下の様なページに行き当たりました。いや、マイナーつながりで。
http://www.doujingame.com/news0404a.html

(つーか、「以下はネタです」っていうことは、どう解釈しても「小児性愛者を新首相に」という部分はマジであるという意味になる様な気がします……以上、すべて独り言)

スポーツがまるごと無駄であるという事実をしる人間にとっては

そのエゲツナさが鮮明に認識できる事例として『月刊 教育と医学』(慶應義塾大学出版)の10月号が「運動能力を育む」だの「”たくましさ”をどう育むか」(http://www.keio-up.co.jp/np/kyouiku.do)だのといった特集を組んでいやがる点を指摘しておきます。

なお、同誌の28ページには『都市防災』(講談社現代新書)という本の書評があって、それはそれでおもしろかったですが。

■「食育・体育・パターナリズム」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-33.html)をはじめとして、「食育・体育」推進運動の おせっかいぶり(http://harana.blog21.fc2.com/?q=%BF%A9%B0%E9%A1%A1%C2%CE%B0%E9)には、閉口させられます。■リスク管理できる知識による「自衛」を否定はできませんが、そんなことより、過食にはしってしまうようなストレス要因を、労働者・生徒の周辺から なくせるよう公権力は うごくべきでしょう。■そして、「自衛」のなかには、パターナリズムという公権力による おせっかいから、みをまもる知恵・直感もふくまれますね。

ジョージ・オーウェルの『1984』に言及しているページとして

以下のページを紹介いたします。

「HiroPのブログ」
http://hirop44.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/index.html

もしよかったらリンクにくわえてください。

上記ブログの冒頭より引用

>しかし彼、ウィンストン・スミスは知っている、オセアニアはわずか4年前にはユーラシアと同盟関係にあったのだ。だが、その知識はどこに存在するというのか。彼の意識の中にだけ存在するのであって、それもじきに抹消されてしまうに違いない。そしてほかの誰もが党の押しつける嘘を受け入れることになれば-すべての記録が同じ作り話を記すことになれば-その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。それなのに、過去は、変更可能な性質を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。

上記の引用部は、その1~2番目の文を以下の様に解釈することで現代をいきるすべての人間に対する福音となる。すなわち、
テンノー主権を支持する「神勅」など、「書誌学的にも歴史学的にも、けっして古代にさかのぼるとはいえない一節であるにもかかわらず、江戸時代の後半ごろから、神代以来の言葉としてなんら疑われることなく、天皇支配の根拠としてひろく用いられるようになって」きただけのものであることを、『国家主義を超える』の58ページを読んだ人間は知っている、
と。

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