■旧ブログで「
義務教育と市民的素養」の根源的矛盾について再三議論をかきつらねてきた。
■『
[重]塾講師のつぶやき 』の先日の記事「
専門職批判」では、つぎのような指摘がある。
朝日新聞の今日の論壇時評。政治学者の杉田敦氏。学校現場での教師への風当たりも強い。教育界に反省すべき点も多いが、学校で身勝手にふるまったり、教師に筋違いな要求をしたりする「モンスター・ペアレント」の存在も伝えられる。官僚批判と同じく教師批判でも、政治家や政府が、「民意」を後ろ盾に中心的な役割を果たしている。教師は「サービス労働者」として「消費者」の要求に従えという市場主義的な発想と、教師は公務員として政府の方針に従えという国家主義的な議論とが、教育改革論として連動してる面がある。今の「改革」というもの自体が「市場主義的な発想」と「国家主義的な議論」が連動したものだ、という気がする。 続いて「欠けている当事者意識」という部分で、憲法学の西原博史氏と教育学の堀尾輝久氏の論争が紹介されている。憲法学の西原博史は、子どもの権利論の立場から、たとえば日の丸・君が代への反対を子どもに強制するのも(賛成への強制と同様)教師の権力行使であり、教師は教育内容の決定を独占すべきでない、と問題提起した。これに、長年教育学の主柱であった堀尾輝久が反論を試みている。子どもが発展の途上にある以上、教育内容の決定は、最終的には「教師の専門性に基づく『責任と権限』」に委ねられるべきである。「教師の自由が奪われれば、生徒の自由も失われる」ただし、教師には責任を果たすための不断の研究が求められるし、親や地域住民の声にも耳を傾けるべきだと言う。この問題を議論する時に「日の丸・君が代」を例に出すのは、問題が複雑になるだろう。次のように言えば問題はよりクリアになるだろうか。子どもの権利論から言えば、進化論を教えられるのも、読書すべき本を決められるのも、「子どもに対する教師の権力行使」なのだ。例えば読書感想文を書く時に、ある特定の枠をはめることは、当然「教師の権力行使」になる。読むべき本の選定を教師が独占すべきか否か、ということになる。あるいはID説を教えずに、進化論を教えるということについて、宗教者や論壇から「ID説も教えるべきだ」と言われた時に教師はどうするべきか、という問題である。このように言われると「教師の専門性に基づく『責任と権限』」に委ねられるべきである、という感じがしてくるのだ。生徒の自由に任せると、とんでもない本を持ち出す恐れがある。ちなみに私は読書感想文に『増鏡』を題材にしたことがある。アホだ、としかいいようがない。当時の国語の先生は優しかったが、今の私ならば書き直しを命じるだろうな。-------------------------------------------
■「
先行者にして継承者としての教育者(内田樹氏の教育哲学)2」などでとりあげたとおり、「
「到達可能な途方もない次元の水準」とは、当然のことながら初学者には理解(俯瞰)不能だから、技法の体系全体=理念がめざす方向性や射程などは、わけがわからないままはじめるほかない(「なにやら、すごそうなことをやっているらしい」という直感しか、とっかかりがない)という原理」は、内田樹氏らのいうとおりだとおもう。■あらかじめ「薬効」が周知されているような領域では、教育サービス商品として完全な制度化ができるかもしれない。しかし、内田氏らがいうとおり、ほとんどの商品には、期待と実感とのズレ(使用前→使用後)という、さけられないリスクがともなうはずだ。■だから、
ロースクールや大学院博士課程のような詐欺的商品はともかくとして、ほとんどの教育商品は、ある程度は「幻滅」「失望」の危険性をのみこんだうえで、購入/入門するほかない(笑)。
■しかしである。義務教育のばあい、「教育商品にも、リスクは つきものですよ」といった、したりがおがゆるされるだろうか?
■もちろん、こういったリスク論を強調すれば、「
検閲機関としての文部科学省」を合理化=正当化しかねない。■しかし、大学はとりあえずおくとして、小中高校の現場教員に、「
教師の専門性に基づく『責任と権限』」という自信が、はたして普遍的だろうか?
■大学のカリキュラムなどにロコツに介入することはひかえる文部科学省が、小中高校の教科教育に教科書検定制度というかたちで、事実上の検閲・規制をくりかえしてきた背景には、小中高校の現場教員に、「
教師の専門性に基づく『責任と権限』」という自信がないという現実があるのではないか?
■たとえば「
インテリジェント・デザイン(ID)」をきまじめに信じている、狂信的というべき保護者たちにとりかこまれて、それでもなお、
進化論生物学の現在の合意点の方が、ずっとずっと整合性・説得力をもつと確信をもって、理路整然と冷静にかたる自信のある現役教員は、日本にいるだろうか? ■「南京大虐殺」や沖縄戦での「集団自決」などについて、あるいは男性学ないし女性学の知見とか、右派・保守派の攻勢に動じないで、平然と授業を展開できる中学・高校の現場に、どのくらいいるだろうか? ■
自己変革をやすむことなく、みずからの教育実践にゆるぎない自信(少々の試行錯誤はあっても)を維持できるような次元で。
■文部官僚たちに なめきられている。つまり、あしもとを すっかりみすかされている状況では、「
教師の専門性に基づく『責任と権限』」に不用意な介入するな。しろうとの保護者はもちろん、官僚たちにだって、現場教員の真剣な実践に理不尽なモンクをつけたりするのは、ゆるさない。といった反論ができないとおもうのだ。
●旧ブログ・シリーズ記事「
高校教諭の専門性」
●旧ブログ・カテゴリー「
教育現象」
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教科内容つながりで
以下、チラシの文面です。
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「つくる会」教科書採択取消裁判
高松高裁 第一回口頭弁論
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ぜひ、傍聴をお願いします!!
9月1日(月)15:00 高松高等裁判所
集合 14:00 1F 待合室
(事前の打ち合わせ・説明)
裁判終了後 報告会(16:00ごろから)
*生徒さえ権利なし(地裁判決)
高橋松山地裁裁判長は、行政権力寄り訴訟指揮を強行し、県教委の違法採択の有無についての審理を行わず、教科書を使用する生徒さえ、採択に関し異議をとなえる権利がないなどとする判決を行いました。それを不服とし、高松高裁に控訴しました。
*一回で結審の可能性が(高裁)!
行政権力寄りである姿勢は、高裁でも変わらないでしょう! すると、県教委の違法行為の有無についての審理を行わず、審理は松山地裁で尽くされていると一回で結審する可能性が高いと予想されます。
*来年の採択に向けて!
来年は、再び中学校の採択が行われますが、違法な県教委の採択を法廷で追及することが、「つくる会」教科書の採択を止める<ちから>となると思います。一回で結審させないために、公正な裁判の監視役として、ぜひ、傍聴にお願いします。
*法廷に臨むに際し、裁判経過説明
これまでの経過と法廷で追及することを傍聴者の方とも共有し、法廷に臨みたいと思います。
ぜひ、下記の時間に起こしください!
えひめ教科書裁判を支える会
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えひめ教科書裁判 HP
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/zxvt29/index.htm
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トラックバック記事にもかいたとおりですが
■そんななかで、「「つくる会」教科書の採択を止める」運動というのは、あしばがよわすぎる。「右派的かたよりのある教材をいれるな」という運動は、そうとらえない集団による「左派的キャンペーン」というレッテルばりに やぶれるでしょう。■政府公認史観と学歴競争という、官民からの攻撃に抵抗できている現場はすくないでしょう。沖縄ぐらいかな…。
■つねづねのべているとおり、「つくる会」教科書を、史料批判でツッコミを全面展開して、ボロボロにしてしまう程度の自信がある教員が多数はならば、なにも問題はないとおもいます。■①「つくる会」教科書が従来の教科書群以上にダメダメであり、②右派的ゆがみをもつこと、認知上の死角がうまれて、思考上の柔軟性がうしなわれること、等々がうきぼりになるはずで、そうなれば、③「洗脳」派によって、学力競争で劣勢になることもないはずですから。■「洗脳」派が席巻した高校入試などがだされたとすれば、その時代錯誤ぶりは、受験業界からだけでなく、ほかの自治体の教育関係者からも失笑をうけるはずだし、それなりの大学にはいれてしまったばあいに、その無残な歴史的素養を冷笑されて、おちこむだけでしょう(右翼活動家になってしまうリスクはあるけど)。
■ともか、「つくる会」教科書をつかいたがるく御仁たちが、「戦争を普通にしたい」層であり、反戦平和などとは正反対の人士であることは事実でも、「つくる会」教科書をつかうことで、殉国少年少女が自動的に大量育成されるかのようなキャンペーンは、それこそ大衆蔑視です(ましこ『イデオロギーとしての「日本」』『日本人という自画像』)。■あるいは、自分自身が「つくる会」教科書を批判的に教材化する自信がない、ダメダメ教員であるという不安をかかえていると。そんな、ヘタレ左翼は教壇からするべきです。そんな、あしこしのよわい左派は、どうせロクな反戦平和運動も展開できない。だって、生徒のことより、自分たちの世界観や党派の方が重要だといったスタンスしか、かんじとれないから。「いつかきたみち」とか、「生徒を戦場におくるな」式のキャンペーンは、もうやめてほしい。そっちに生徒たちがいきっこない歴史認識を授業実践で堂々と展開できる人物は、そんなキャンペーンを必要としないでしょう。「殉国教育」をやらかしたがる教員の不見識だってバリバリ論破して、メンツまるつぶれにできるはず。
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