プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ 一生を母親に貪り喰われた男』は相当スキャンダラス2

■「羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ 一生を母親に貪り喰われた男』は相当スキャンダラス」の補足記事というよりは、そこへの応答とおもわれる、renqing氏のトラックバック記事「羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ』PHP新書(2007年)」への、おかえし。
■まずは、冒頭から主要部分を転載【リンクは原文どおり】。


 私は、これまで邦訳ではチョコチョコ Max Weber を読んできた。

 学部1年の「社会科学入門」なる講義で、大塚久雄『社会科学における人間』(1977)、の存在を教えられ読んだ。芋ずる式に大塚久雄『社会科学の方法』(1966)にたどり着き、そこから導かれて、どうしても読みたくなり、岩波文庫旧版の梶山・大塚訳『倫理』に向かった。

 恐らく、学部時代に旧訳で2回読み、学部卒業後、往復の通勤時間を利用して、新訳で2回読んだと思う。あとは時に応じて拾い読み。

 なぜそれほど惹きつけられたのかよくわからない。ただ、正直なところ、読了後、いつも不定形な違和感が残った。前半の第一章で、一生懸命、ルッターの職業観念の煩瑣な歴史的推移の考証を追いかけたのに、後半の第二章では、ルッター派以外の禁欲的プロテスタンティズムが、近代資本主義の職業観念に特徴的に見られる、合理的(方法的)生活態度の形成に、構成的な影響を与えている、と説く。「へ?、なら前半の議論はなんのためだったの?」と毎回思わずにいられなかった。それでも、その本文や、どこまで続くのかという膨大な注のどこかしらに、毎度新鮮な発見があった。
 その間、他の文献にも少しずつ目を通した。そのなかでも感銘を受けたのは、安藤英治氏の諸著作であり、特に下記の二書である。

 安藤英治『マックス・ウェーバー』講談社(1979年)、「人類の知的遺産」に62として所収
 安藤英治『ウェーバー紀行』岩波書店(1972年)

 安藤氏の労作を通じて、この、一種「狂」(白川静氏が好むpersonality)を孕む、常人離れした業績を生み出し続けた、否、生み出し続けざるを得なかった人物の個人史の重要性に注意が向かうようになった。

 そういう私にとって、羽入氏の新著は腑に落ちるところが多く、実は違和感は全くない。病跡学的(pathographic)な興味深い一つの解釈として受容可能なのだ。何故なら、そこにみられるのは、上記安藤氏の著作に漏れ聞こえる安藤氏が呑み込んだ言葉とも呼応しているように感じるからだ。両氏の違いは、羽入氏が、己の霊感に従って、Weber の秘めた部分にズカズカと踏み込み、安藤氏が、研究者としての自己限定から、検証可能な部分で踏みとどまり、それらに感応しながらも、より大きな文脈で Weber の真価を見定めようとした、ところにある。

 したがって、羽入氏の指摘は、私にとり Max Weber を貶めるものとはならない。私の中でこれまで釈然としなかった諸部分に一つの consistent な story を与えてくれるもので、かえってスッキリとした感じだ。これで引っかかり無く心安らかに、Weber が積み上げたものを取捨選択できる境地に立った気がしている。それは、 Weber が思想家なぞという高尚(怪しげ?)な代物でなく、今世紀最高の人文学(the humanities)の学者であったが故である。
……

--------------------------------------------
■誠実なウェーバリアン(ヴェーバリアン)の冷静な反応だとおもう。雑誌『現代思想』とか、日本社会学会の『社会学評論』あたりが、ウェーバー特集をやっているらしいが、そこでのウェーバリアンたちが、renqing氏ほどの冷静さで本書に反応しているか、ちゃんとみきわめないとけないだろう。

■それはともかく、これまでの管見にかぎっての仮説だが、つぎのようなことがいえるはずだ。

■①羽入氏による「病跡学的(pathographic)な興味深い一つの解釈」は、〈ちちを死においやった自責の念=トラウマがウェーバーを精神疾患においやった〉との既存の支配的な解釈を全否定するものである。■したがって、大学などでウェーバーを「かて」に職をえた研究者たちは、〈既存の支配的な解釈〉を一度でも学生のまえでかたったことがあるかぎり、あるいは、著書・論文等でふれた経験があるかぎり、おのれの力量・時間のゆるす範囲で、説明責任をおったといえる。■なぜなら、それは、ゴシップ的のぞきみ趣味にもとづいた〈ウェーバー神話解体〉の次元ではなく、学問的営為・産物の本質にかかわるものだからである。

■②前項に関して、おそらく なかば自明の論点としては、《カルビニスティック(カルヴィニスティック)に学問的人生をおえたウェーバー(ヴェーバー)》という美化(神秘化)を無視できない。いわゆる「プロ倫」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)に象徴されるウェーバーの著作群の難解さと それに付随すると感じられる〈うみの くるしみ〉は、「カルヴァン予定説」にしたがった自己言及的営為であると解釈されてきたはずであり、ウェーバリアンたちは、その人生をあとおいしていることを、なかば ほこりにしてきたとおもわれるからだ。■ウェーバリアンたちが、プロテスタント信者などキリスト者ならともかく、そうではないのに 以上のようなウェーバー信仰/学問信仰の人生をおくった(おくっている)とすれば、それ自体が病理的である。ご本人たちに病的な要素がないにしても、それは第三者的視点からして、充分病的にうつる。■信者でもないのにクリスマス的ふんいきや教会での挙式に陶酔できる大衆のあさはかさとは次元がちがうのだ。なぜなら、ウェーバーの人生を崇拝する非キリスト者は、おそらく その「あとおい人生」自体を美化する、マゾヒストにしてナルシストだとおもわれるから。
■前項①で、説明責任をおうといったのは、以上のような次元を当然はらんでいるからだ。

■③前項・前々項は、renqing氏の「羽入氏の指摘は、私にとり Max Weber を貶めるものとはならない。私の中でこれまで釈然としなかった諸部分に一つの consistent な story を与えてくれるもので、かえってスッキリとした感じだ。これで引っかかり無く心安らかに、Weber が積み上げたものを取捨選択できる境地に立った気がしている」という、おだやかな読後感に対する自身の反応を、ウェーバリアン各人がおっているという意味でもある。■羽入氏を学問的にいかがわしい行為だといわんばかりの攻撃(ご本人たちは、学問的批判と信じきっているだろうが)をくわえた、おそらく無自覚な動機を自己批判する必要性があるということだ。「今世紀最高の人文学(the humanities)の学者であった」という実感が、単なるブランド意識でなく、文献からおのずと体感できてきたのであれば、「羽入氏の指摘は…Max Weber を貶めるものとはならない」という読後感は、ごく自然なはずである。■貴重な人生ののこり時間をさいて、《学問的にあやしげな攻撃をくわえた羽入某》とでもいいたげな攻撃を、何人も学者先生たちは、その行為自体が、ご自身にとっての「主観的優先順位」をそのまま告白していたという自覚があるだろうか? ハラナのような局外者にとっては、《ウェーバリアン業界の先生方の防衛機制ね…》という、ひややかな感慨しかうかばないんだが、ご当人たち、絶対自覚がないだろう。■「今世紀最高の人文学(the humanities)の学者であった」という実感にゆらぎがなく、ウェーバリアンとしての半生にいささかの後悔もないのであれば、羽入氏の問題提起=学問的挑発を当然のように冷静に黙殺することができたはずだろう。文献実証的に問題があるのであれば、なおさら、かかわるのは「単なる時間のムダ」とわりきれたはずなのだ。

■④むろん、以上の問題は羽入氏自身にもかえってくる問題である。■「病跡学的(pathographic)な興味深い一つの解釈」にかぎらず、《ウェーバー神話解体》にかける、その鬼気せまる学問的エネルギーは、どこからくるのかという意味。おやこ関係にもとづく精神疾患にくるしむ患者たちと医療スタッフの一員としてむきあった体験だけでは、説明つかないとおもうんだよね。■いや、「だれもやりそうにないから、自分しかいなかった」とか、「神話化されたウェーバー像の解体こそ、そのゆがんだイメージの葬送してやる必然性があり、それは自分の天命」とか、おっしゃるんだろうけれども。
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コメント

ご紹介、感謝

ご紹介の労をとっていただき、ありがとうございます。
以前、自blog記事
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/03/__30ad.html
にも書きましたが、約10年前、1998年の岩波『思想』誌上で、羽入氏論文を目にしたとき、あり得る批判であること、それでも結局、羽入氏の批判では、Weberの立論(論文の意図と帰結)は崩れていないこと、を感じ、某思想史家に私信で、論文コピーに感想を添えて、送ったものです。したがって、いきり立つなら、その時点で、総反撃したらよさそうなものだと正直思うんですよね。羽入氏は当初 academic な仁義を切ってWeber論難を始めたんですから。それを黙殺しておいて、市井の耳目を引くようになってから、大見得を切って、どうするんだ、という感じです。それに、Weber死後16年後の1936年に、この日本で、LutherのBeruffに関するWeberの所論に「目的のためにやや性急ではなかったか」という指摘(それも羽入氏と全く同じ文献学的根拠)がなされています。先人の、それも日本人の優れた業績に気が付かないという、初歩的文献学上のミスは、羽入氏とその批判者ともに、同レベルの「犯罪」でしょう。この点については、橋本氏のサイトにも見当たらないので、面倒ですが、近日中に彼らに通告することとします。
こちらの関連記事のリンクを私の記事に埋め込みますが、ご了解ください。

「かたるにおちる」とは、おそろしいこと

renqingさま


■梅津順一氏の議論については、前便でふれました(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-36.html#comment52)が、梅津氏自身が冷静だとはおもえませんでした。冷静に評価できる点だけスポットをあてるなら、それでおしまいなはずなのですが、梅津氏の筆致は皮肉たっぷりですよね。イジメ意識があると感じます。

■ともあれ、文献をみおとしていたこともふくめて、「かたるにおちる」という、ぞっとするような現実がくりかえされるわけで、ウェーバリアン主流派の先生方は、その自覚がおありなのでしょうかね。■後世、ものわらいになるだけでなく、社会思想史とか周辺の学生さんにわるい印象がはびこり、業界リクルートにも悪影響をおよぼしてしまうとおもうのですが…。

renqing氏の続報

一次文献至上主義の陥穽 (http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/post_0a48.html
Weberだけがビョーキじゃない(http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/weber_3e44.html
「羽入-折原論争」への、ある疑問(http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/post_ffff.html

■特に「「羽入-折原論争」への、ある疑問」は、痛烈である。関係者の反応がみもの。■っていうか、はずかしさのあまり沈黙・黙殺か?(笑)

再度のご紹介ありがとうございます

 橋本努氏と連絡がつきまして、1月中旬までには、私のblog記事と同内容のものが、橋本氏のサイトのコーナーに掲載されることになりました。
 これで羽入氏の、故沢崎氏業績の名誉の簒奪が止まる一方、折原氏の尻馬に乗って、臆面もなく居丈高に羽入批判を繰り広げていた御仁たちが、少しは反省してくれることを祈るばかりです。難しいかもしれませんが。

一歩前進だとはおもいますが…

renqingさま

■橋本努先生のことは、以前ふれましたが、「一歩」とはいえ おおきな前進ですね。
■ただ、小生がアカデミズムを観察してきたかぎり、先生方、みずからの非を自覚したばあいでさえ、こっそり軌道修正してごますのはマシな方、沈黙・黙殺が大半だという印象があります。
■ハチャメチャ・マルクスの信奉者ではなく、謹厳実直、誠実無比をモットーとするだろうウェーバリアンであればこそ、そのきびしい自己批判がなければ自己矛盾そのもののはずですが、どうなるか? みものです。皮肉でもなんでもなく。そして、この件をごまかせると業界のみなさん(岩波書店などもふくめて)が、たかをくくっているなら、そのブランド力は中長期的に低下していくでしょう。■「ご本尊ウェーバーはすごいにしても、追従者たちの大半はニセものだった」というギャラリーの印象が定着していきかねませんから。

■あと、「ウェーバーは、その精神病理ゆえに驚異的な産物をのこした」という悲劇的逆説が立証されたにしても、そのかれがといた「職業としての学問」の意義・位置づけは当然変容をまぬがれず、ウェーバリアンの権威も当然かわるほかないでしょう。■蛇足ながら、折原御大は、その禁欲的な実証研究を中断してまで、反撃に相当な時間をさいたという選択をもって、その本質をさらしてしまった気がします。■その意味では、羽入氏の執拗な攻撃は、意図した方向とは別の意味で功を奏したというかもしれません。にがいにがい教訓を公然化したという意味でしかないかもしれませんが。

「趣味としての学問」

タカマサ様
 私は、Max Weber のものなら大抵は、「面白いなぁ。すげぇなぁ。」と思いつつ読めるのですが、この『職業としての学問』だけは、学生時代から通読したことが一度しかありません。大抵、読んでて気分が悪くなり、読む気を失っていきます。『職業として政治』なら何度でも読めるのに。
 そもそも、Weber は親元から一人立ちした後半生の殆んどを、母方の遺産で利子生活者として暮らしています。職業としての「大学教授」で給料をもらっていたのは高々数年に過ぎない。だいたい転地療養で1年間もイタリアで過ごすなんて、「職業人としての大学教授」ができるわけがない。
 「趣味としての学問」。これこそが我が Max Weber の実態です。彼の声高の dilettantism 批判など天に唾するものです。 「お前にだけは言われたくない」というのが、この不愉快な書、『職業としての学問』に対する私の率直な感想ですね。
 ただ、念のため申し添えれば、学者としての Max Weber 個人の恐るべき能力は、現代の一流どころの大学教授が束になっても敵いません。
 私自身かなり能力は高いと思っていますが(^^;、それでも Weber の能力は懸絶してますな。でも、幾つか私にも有利な点があります。Weber は故人なので己の見解を改訂してもう成長できないこと。彼が西欧人であり、私が東アジアの知的蓄積を東アジア人として足場にできること。彼の知見は、人文学に広く深く及んでいますが、私の該博な雑学(^^;は彼の想像外の approach で彼と同対象なものを料理できること。これらを有機的に活用すれば、特定の分野では Weber の学的レベルを超えられると思っています。(^^v
 来年の前半には、日本の徳川期から大正時代までを、これまでと全く異なる視点から、近代史として描く著述を書き上げようと思っています。私の Weber 越えはようやくそこから始まります。できるかな?

マスゲームとして科学

■renqingさんが「『職業として政治』なら何度でも読めるのに」「『職業としての学問』だけは、…大抵、読んでて気分が悪くなり、読む気を失って」いくとは、まさに、父親がすきで目標としていたがゆえに「職業として政治」には欺瞞がなく、抑圧してきた母親への憎悪を抑圧していたがゆえに、「職業としての学問」は空疎で自己欺瞞的だったという、羽入氏の仮説をうらがきしているとおもいます。

■ちなみに、研究者は個人がのぼりつめた到達点ではかるべきなのか? という、根本的な疑念をもっております。ウェーバー御大自身が、後世によってのりこえられることが学問をやるものの本望であるといった議論をしていましたね。■生物の個体発生が系統発生と同形の展開過程をたどることが指摘されていますし、なだいなだ氏が『お医者さん』でといたとおり、わかて医師は修業当初「やぶ医者」時代をへなければならない。生命科学の医学は応用科学であっても、医療そのものは科学ではないという見解はおくとしても、すくなとくも医学は医療現場でおびただしい犠牲者をだしながら進歩してきました。過去にさかのぼればさかのぼるほど、「医学は科学ではない」実例がおびただしく確認できるはず。
■学問というものそのものが、創成期は こころざしがかりにたかくても、データ・理論の蓄積、現象の説明力は大したことないと、R・K・マートン(アメリカの社会学者=科学社会学の創設期の第一人者でもある)はのべました。■ウェーバー御大も、ニュートンが先人たちの蓄積という「知の巨人」のかたのうえにのっているからこそ、後世(にあたる自分)は、先人よりもとおくがみとおせると。したがって、ウェーバー御大をはじめとして、「知の巨人」たちが、いかにたかく、ひろいすそのをしたがえた巨峰であろうと、個別テーマで後世がのりこえないはずがありません。そして、御大自身がのべているとおり、のりこえられないとは、後世がのりこえをはからない程度の価値しかもちえない、展望・後継者をもたなかったという運命をたどったということ。■であれば、「聖典」よろしく、古典をよみかえし、解釈をくりかえすだけでは、神学者にすぎません。「温故知新」がかりに普遍的な真理であろうと、すくなくとも、それにとどまるかぎり科学ではなく、「古今伝授」の世界でしょう。■ですから、基礎科学としての思想史的営為の価値は充分みとめつつも、「現代とはことなる文脈でつむぎだされた古典の知が、現代人にとっていかなる意義をもつのか」、明確なみとおしのない学者さんには、「われわれ しろうとにも意義がわかるように整理をよろしく」以上のコメントはありません。

自慰としての学問

タカマサ様

「現代とはことなる文脈でつむぎだされた古典の知が、現代人にとっていかなる意義をもつのか」

同感です。この点に関し、強烈な意識、志向性を持たない学問を私は、「自慰としての学問」と呼びます。(^^v

1960年代末の全世界的な若者の叛乱は、「俺たちにとって学問ってどんな意味・価値があるんだ?」という問いを含んでいたと思います。残念ながら、そう迫られた側の怯え、若者たちへの取り込み、切り崩し、ピークを過ぎた後の徹底した若者たちの去勢化、これらの手練手管で、優れた志向を持つ若者が大学を去り、走狗が大学に残りました。今の大学には知の叛乱を起こすpowerさえも残っていない。ま、根絶されてしまいましたから。
 私立大学を先頭とする「大学倒産」がこの21世紀前半に起きたときが、一つの天恵かもしれません。

「趣味」であれば、「自慰」であろうが、一向に…

「趣味」が他者に迷惑をかけず、個人的資産などの消費でなされるかぎり、それをとやかくいうたちばにはないでしょうが、問題は、国税・授業料納付などでまかなわれていることが、しばしばであること。■あとは、たとえば「知の巨峰」を走破することで自己満足におわるにとどまらず、みずからが「高峰」の一部とほこっているらしい点ですね。■かなりの程度自己満足的な趣味が公的に保証されているという自覚がない先生方がすくなくないような(笑)…

■学園闘争ごろの大学人の知的営為については、自分なりの整理がついていません。また、学園闘争敗北あたりからの「知の清算」についても。■ただ、当時の知的緊張というか、いきぐるしいばかりの自虐的ともいうべき自己批判精神が風化し、虚無主義が腐臭としてただよいつづけていることはわかります。■「ただ与党にいすわりつづけようという利害以外に共通点がない集合体としての自民党」と同様、「(現代版聖職者という権威をはぎとられたばあいの惨状が自覚しきれず)公認化されたオタク集団という利害以外に共通点がない集合体としての大学」には、俗悪なものを感じます。
■私立大学をはじめとして「倒産」の続出によって、自浄作用がはたらくとはおもえません。利用者がどう覚醒するかにかかっていることだけは確実。

おカネかじり虫

「かなりの程度自己満足的な趣味が公的に保証されているという自覚」
 まあ、そうですね。そういう手合を私は、「おカネかじり虫」と呼びます。(^^v
 ただ、例えば、今から一千年前から五百年前に西域に栄えた西夏の西夏文字を、世界で初めて組織的に解読した西田龍雄博士の業績などを見ると、世にわけの分からん事を一生懸命に研究している人がいて、その人を我々の税金から年収一千万円で食わせる、というのも、豊かな社会の一種の功徳かと。
 自衛隊の戦闘機購入に一機100億円かかる、みたいなことを考えればかなりマシな使い方とも思えるのですが。
 私学助成で、私立大学にも学生一人当たり10万円以上の国家予算が投入されているわけですから、その禄を食む人々が、己の「身分」によって報酬を与えられていると考えてもらっては困るのは当然です。
 結局、カネを使っている側が襟を正すかどうかは、カネの出し手つまり我々納税者が不断のモニターをしているかどうか、少なくともカネを使っている側にそいういう意識を持たせることに成功しているかどうか、にかかっていると思われます。
 納税者の納税意識が「年貢の徴収」レベルであれば、支出分野に関わらず無駄は発生し続けます。

無用の用

■西田龍雄御大のご高名ぐらいは存じておりましたが、ウィキペディアには西夏文字(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%8F%E6%96%87%E5%AD%97)の項目はあっても、御大のものはできていませんね。■それはともかく、西夏文字解読がどんな意味をもつかは にわかに判断がつきませんが、「我々の税金から年収一千万円で食わせる、というのも、豊かな社会の一種の功徳……自衛隊の戦闘機購入に一機100億円かかる、みたいなことを考えればかなりマシな使い方とも思える」というご見解には同意いたします。■「無用の用」という部類とかんがえれば、なおさらです。http://www.google.com/search?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=%96%B3%97p%82%CC%97p+site%3Ahttp%3A%2F%2Ftactac.blog.drecom.jp%2Farchive%2F&btnG=%8C%9F%8D%F5&lr=

■「カネを使っている側が襟を正すかどうかは、カネの出し手つまり我々納税者が不断のモニターをしているかどうか、少なくともカネを使っている側にそいういう意識を持たせることに成功しているかどうか、にかかっている……納税者の納税意識が「年貢の徴収」レベルであれば、支出分野に関わらず無駄は発生」という認識にも、まったく同感です。

■議員・官僚の品位が、選挙民・納税者の民度を象徴しているように、文化エリート(スポーツ選手や舞踊などもふくめて)の倫理水準は市民の文化水準を端的にさししめしているでしょう。

renqing氏の続報2

■一見地味目にみえるが、実は痛烈な「一次文献至上主義の陥穽 (http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/post_0a48.html)」 はすでに紹介ずみだが、その続弾として
●「日本 Max Weber 業界の「犯罪」? 」(http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2008/01/max_weber_e733.html
●「羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ』PHP新書(2007年)(余計なお世話編)」(http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/php2007_7a62.html

■この「3点セット」によってうきぼりになった事実とは、原典至上主義・文献実証主義の悲喜劇。■ま、あんまり このヘンをたたきすぎると、「二次文献、さわらぬかみに たたりなし」てな、ひずんだかたちで 一次資料オタ傾向を加速化してしまうかも…。■しかし、ギャラリーからすれば、「先生、そのご研究の現代的意義を簡潔におねがいします」式のツッコミをいれて、研究費的に兵糧ぜめをするしかなかろう。ここまで資本主義体制が過当競争の惨状をみせるなか(ま、一部の企業城下町は、まったり同族体制やっていけど)、人文系貴族のご趣味を「聖域」化しておくことは困難だろうし。

職業としての学問

続報ありがとうございます。
ご紹介戴くまでには及びませんが、久しぶりに『職業としての学問』を読み返しましたので、ご一瞥して戴けると嬉しいです。

コメント欄でのご紹介ありがとうございました

■前便コメントでは、言及をひかえましたが、ご紹介にあずかり、いたみいります。

■「職業としての大学教授」は、アジテーターたることを禁欲すべしという理念が邪魔をして、無自覚な欲求不満が精神をいためつける。それもあって、大学を退職してしまって、夫婦の自尊心をみたし、かつ無意識に憎悪している母親への復讐として、高等遊民的に「趣味の学問」で資産を消費していく…。■シャッツマン『魂の殺害者』(http://www.google.co.jp/search?num=20&hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-29%2CGGLJ%3Aja&q=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%80%8E%E9%AD%82%E3%81%AE%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%80%8F%E3%80%80%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=)などをおもいださせる、すざまじさが…。

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