■有名人ネタ。
栄光学園中学校・高等学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊も1950年9月から1年半、本学で教鞭を取った事がある。 その時に小柴が生徒に出題した定期試験は、「この世に摩擦がなければどうなるか答えよ」という記述問題。正解者は3人だったとのこと。模範解答は、解答欄に何も書かない「白紙答案」。理由は、「摩擦が無ければ鉛筆で文字が書けないから」である。
■「
模範解答は、解答欄に何も書かない「白紙答案」」という、
パラドキシカルな模範解答を用意するのは、いいとして、それが定期試験というのは、やりすぎだろう。■でもって、かりに、まったく 物理的な「
摩擦」現象について、解答不能な人物が3人いて、それゆえに「白紙答案」を提出するしかなかったとしたら、どうするんだろう。■こういった行為は、「伝説」をつくるうえではいいが、教育的効果がほとんどなさそうだし、そういった奇矯な行動をとった本人が大人物にならなかったばあいは、単なる自己満足=時間の浪費にすぎなくなる。
■ノーベル物理学賞受賞のためには、単なる時代的偶然ではなく、たぐいまれな能力が必要だとはおもうが、小柴先生、かなりの こまったさんだった可能性がある。「天才は、なんでもゆるされる」ってのは、暴論だろう。 ■もし、「
摩擦が無ければ鉛筆で文字が書けないから」解答できないというなら、解答欄だけではなくて、氏名等の記入欄もかけないことになる。氏名記入欄には摩擦を利用して鉛筆で記入できたのに、解答欄にはかけない、なんて、矛盾するからね。
■これは、
禅宗などでの「
公案」と同質であって、
SF的な
メタ言語思考ということを かりに教育的効果として評価するにしても、「
ウソつきのクレタ人」的な
パラドックスに ハマってしまうのだ。■もし、これら論理的な帰結に矛盾しないように「模範解答」を表現するとしたら、出題教員にむかって挙手し、みみもとで、「摩擦が無ければ鉛筆で文字が書けないから」解答できないとささやくほかない(笑)。
■しかし、摩擦がホントにない状態を想定するなら、体内の筋組織自体が機能不全になるのではないか? 筋肉が収縮するというのは、無摩擦で可能なのだろうか? そのヘンは全然わからないけど、こういった「公案」的なパラドックスは、哲学的訓練にはなっても、物理学の感覚をあげられるのかな? これも疑問。自然科学の前身が自然哲学だったという歴史的経緯と、パラドックス問題は直結するだろうか? ■あるいは、解答欄と氏名記入欄とで、摩擦を利用できるかどうかの差異をつけていいという、二重の基準(同一論理階梯では矛盾する)を、どうにか ひねりだすところで、アタマをつかわせるのか?(笑) ■はたまた、摩擦がなくても、挙手と発声は可能であることを生理学的・物理学的に説明させるとか?…
■もちろん、しろうとめにも
相対性理論やら
量子力学やら、
素粒子論などを理解するためには、パラドックス論もふくめた頭脳の柔軟さは不可欠だとはおもうけどね。
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