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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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小林哲夫『ニッポンの大学』2

■さきほど おおはばにかきたした小林哲夫『ニッポンの大学』のつづき。■旧ブログはもちろん、このブログでも「大活躍」内田樹御大が、解説文をかいている。

「大学はランク付けすることができるのか?」
 逆説的なことだけれど、このラディカルな問いが本書の全体に伏流していると私は思う。小林さんは自分で立てたこの問いにきわめて常識的な回答をしている。「大学のアクティヴィティのうちランク付けできる部分と、できない部分がある」というのがその回答である。
 注意深い読者なら同意していただけると思うが、本書はさまざまな項目についてのランキングを列挙した本ではなく、むしろそれらのランキングを通して、「ランク付けする」という行為をのものの意味と妥当性を問い返した本だと私は思う。
……
「私がここに作って並べたランキングの根拠もまた、みなさんは疑ってかかるべきではないのか」。小林さんはそう問いかけている。私は「素材」を提供しただけである。それをどう読み解くのかは読者ひとりひとりのリテラシーにかかっている。このランキングのこの順位に位置づけられていること(あるいは位置づけられていないこと)は何を意味するのか。それは大学人自身が考えることである。小林さんは控えめな筆致ではあるけれど、そのような挑発的なメッセージを大学人に向けて発していると私は思う。…
 そのメッセージに私なりに回答したい。
 本書のランキングを通読して私が理解できたことの一つは、大学の研究機関としてのアクティヴィティはランク付けが可能であるが、教育機関としてのアクティヴィティはランク付けが困難だ、ということである。
 研究機関としてのパフォーマンスの高さは、論文の被引用回数や国際的なジャーナルへの寄稿数や科研費採択数やノーベル賞受賞者数や特許申請数でたしかにリアルに数値的に示される。けれども、教員が研究者として優秀であるということと、その大学が教育機関としてすぐれているということは一致しない。
 もちろん、教育目的が限定的な場合(キャリア官僚養成や医学部や法科大学院などの場合)は、卒業生の資格試験合格率でその教育機関の「有効性」はクールに数値化できる。しかし、ほとんどの大学は教育目的をそれほど限定的にはとらえていない。
 ……
 例えば、外国語を学ぶ目的は、検定試験で高いスコアを上げたり、運用能力によって高収入を得る卒業生を輩出することには尽くされない。異国の文化に魅了される学生を生み出すことも、異言語の世界分節につよい違和感を覚える学生を生み出すことも、そもそも外国語がどうしても自分にはなじまないという不能感を味わう学生を生み出すことも、すべては教育的に機能すると私は考えている。そうでなければ、教育は少数の「検定合格製品」と圧倒的多数の「不良品」を選別するだけのプロセスになってしまうだろう。私はそのようなプロセスを「教育」とは呼びたくない。
 私は別に「きれいごと」を言っているわけではない。ごく現実的なことを申し上げているのである。教育機関の目的を、数値的・外形的に表示可能な知識や技能のある水準をクリアーさせることだと考えている教師たちは、(すべての学生がきわだって優秀な場合を除いて)その労働時間のほとんどを不満といらだちのうちに過ごさなければならないだろう。だが、つねに学生に対する不満といらだちに責められているナーバスで不機嫌な教師から学生が学び取ることができるのは「つねに不満といらだちに責め立てられるいるナーバスで不機嫌な人間」の生き方だけである。
 それは不幸な教育環境だろうと私は思う。
 学生たちが学校で学ぶべきもっともたいせつなことは、「世界の成り立ち」や「人間のありよう」について多くを知っている人間は、そうでない人間よりも幸福に生きる可能性が高いということである。その教えの真実性は、現に教師自身が深い知識や高度の技能を有しているせいで幸福に生きているという事実によってしか担保されない。そして、教師ひとりひとりの「幸福に生きている」仕方はひとりひとり異なっており、どのような汎通的基準によっても数値化・序列化することができないのである。」
〔pp.250-3〕
----------------------------------
■①数値化できないという点では研究水準だってそうではないか? 数値化可能なのは自然科学・生命科学・数理科学みたいな理科系とか、法学・経済学周辺の「結果」がくらべやすい領域だけだろう。■内田先生があげている外国語教育近辺の実践ではなく、研究だって、それが数値化になじむかどうか微妙だろう。文科系の基礎研究や、ニッチ分野は、マイナーであり、予算なんか、そんな簡単につかないし、研究費のおおさとか引用のされかたなどで序列化されたら、「無意味」とされてしまいそうだ。

■②教育実践が数値化・序列化になじまないのは当然だし、「「世界の成り立ち」や「人間のありよう」について多くを知っている人間は、そうでない人間よりも幸福に生きる可能性が高い」という一般的なモデルは、賛同できなくもない。しかし、それは経験則として統計学的にたしかめられてきただろうか?■それが、「現に教師自身が深い知識や高度の技能を有しているせいで幸福に生きているという事実によってしか担保されない」といってしまえば、統計学的経験則などという必要がなくなるが、それなら一層、「幸福教」を実践できている教師という珍種にしかできない曲芸ということになり、それは統計学的・経験則的に「「世界の成り立ち」や「人間のありよう」について多くを知っている人間は、そうでない人間よりも幸福に生きる可能性が高い」という仮説が反証されつづけてきたという、皮肉な現実ではないか? 学校の先生方が、公私ともに幸福な実生活をまっとうしつづけてきたという「証拠」がだせるなら、きかせてほしい(笑)。■それとも、小中高校とちがって、大学には、そんなに公私ともに充実した紳士淑女が、そして「「世界の成り立ち」や「人間のありよう」について多くを知っている」知性が結集しているのか?

■③筆者の小林氏が、「ランキングを通して、「ランク付けする」という行為をのものの意味と妥当性を問い返し……「私がここに作って並べたランキングの根拠もまた、みなさんは疑ってかかるべきではないのか」」と「挑発的なメッセージを大学人に向けて発している」としよう。■しかし、そういった自己言及的・自己批判的・自己矛盾的な姿勢は大学人にしか有効でないだろう。■まさか、一般読者にまで、「私は「素材」を提供しただけである。それをどう読み解くのかは読者ひとりひとりのリテラシーにかかっている」と、挑発的にせまるとしたら、それは編集者としてまずかろう。■いや、「もともと筆者・編集者と読者は、(水商売や詐欺商法同様)バカしあいなのだ」といった、虚無的な発想でひらきなおりで編集しつけてきたなら、なにもいうことはないが。〔かきかけ〕
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タグ : 大学 教育機関 ランキング 小林哲夫

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コメント

「学生たちが学校で学ぶべきもっともたいせつなことは、「世界の成り立ち」や「人間のありよう」について多くを知っている人間は、そうでない人間よりも幸福に生きる可能性が高いということである。その教えの真実性は、現に教師自身が深い知識や高度の技能を有しているせいで幸福に生きているという事実によってしか担保されない。そして、教師ひとりひとりの「幸福に生きている」仕方はひとりひとり異なっており、どのような汎通的基準によっても数値化・序列化することができないのである。」〔pp.250」

ブログの筆者のコメントと同じなのか違うのか。

地べたからみると、こういうことを「研究」して「著書」にするっていうのは、信じられな~い。

たくさんの税金を投入された学生たちが、最も大切なことは、たくさん知って、自分の「幸福」を目指すことでなく、いかに自分の、他者の世界をも含めて人生を生きていくかということではないのか。

「そうでない人間」よりもセレブな生活を送れるかもしれない。しかし、そうでない人間も生きているし、そうした人々の声やうめきとともに生きようとしたのが、70年前後の学園闘争のはずだった。

そうした歴史を無視した、売れもの狙いの出版には、あきれ返るばかりである。

そういうお前は、読んだのか!といわれると、読んでいない。肉体労働現場の「幸福になれない人」は、本も読む気もおきなくなっているから(汗)。


著者には失礼しました。本を書くって、きっと大変でしょうからね。

学習者の幸福追求の権利

bananaさま

■また、かきかけの文章にコメントいただいてしまいましたが、自業自得ですね(笑)。

「学生たちが学校で学ぶべきもっともたいせつなことは、「世界の成り立ち」や「人間のありよう」について多くを知っている人間は、そうでない人間よりも幸福に生きる可能性が高いということである……

というくだりについては、私見では、リスク論的に、ほぼ妥当するとおもいます。ひろい意味での危機回避能力ですね。■内田先生的な視座からは、武道をまなぶことによって、心身の可能性をたかめ(OSのバージョンアップ)、もって危機回避能力をたかめることが、幸福へのみち…といった感じでしょうか。■私見では、現代社会にとりかこまれている諸個人が、被害者にも加害者にもならないよう、危機回避能力をたかめることが、消極的な幸福として意味がある…と。
■ですから、あくまで仮定ですが、大学など教育機関が、不安産業として資格・就職試験対策などに特化するのではなく、護身術的に自他の危機回避をめざすのは、わるいことではないとおもいます。他者との関係性をといなおすことは、当然その視野にはいってくるはずですし。
■もちろん、危機回避能力が政治経済学的に「悪用」されれば、「ヤバそうな空間をさける」→「おエラいさんたちににらまれるような、損な役回りは徹底的にさける」→「現在支配的な政治経済体制を、消極的積極的にささえて、全然はじない」てな、個人主義的自己中にハマるおそれはあります。■「危機回避」意識から、他者と倫理性がかければ、おそるべき無節操になることでしょう。内田先生の幸福追求論が、どのあたりをおさしになっているのか、小文では判断できませんね。

■内田先生は、どの本だかわすれましたが、運動はその退潮期にどう誠実に撤退しあと始末するかで、その真価がとわれ、後世への知的リソースとして遺産化するみたいなことをいっておられたはずです。■内田先生自身の学園逃走(じゃない闘争)の実体験は、どう思想的に総括されているんでしょうね。保守派といいつつ、機動隊長の肛門にケリをいれてしまうワンパクぶりとか、武勇伝もおもちらしいし、そういったおもしろばなしだけでなく、深刻な自省過程も拝読したいのですがね…。

■やっかみでもなんでもなく、内田先生ご自身やその周辺が幸福そうなのはわかるのですが、「わたしは幸福だ。わたしのように幸福になれない連中は教育者たりえない」とかいった、過激な議論をされているようなので、ツッコミをいれてみました。■それは、おそろしくエリート主義的であり、事実上公教育を否定することになりますからね。■いや、もちろん、おびただしい数の小学校や中学校の先生方の大半が、公私ともにしあわせそのものの人生をおくれるような社会体制を、そのリベラル右派的な政治理念によって達成できるとおっしゃりたいのだったら、その具体的みちすじをおかきになってほしいと、拙者も切望しております。■その実現のあかつきには、日本列島全体がさぞや幸福な時空となっていることでありましょう。

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