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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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生活保守主義としての「食の安全」意識とナショナリズム39

■「生活保守主義としての「食の安全」意識とナショナリズム38」の続報。■原田さんのレポートを2本まとめて転載。

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世界の環境ホットニュース[GEN] 696号 08年10月09日

          毒餃子事件報道を検証する【第35回】        

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 毒餃子事件報道を検証する   原田 和明

第35回 東アジア共同体構想(1)

 福田の辞任は政権投げ出しとの批判にさらされましたが、一連の毒餃子、毒飲料事件が福田内閣の外交姿勢に対する執拗な警告だったとすると、福田は政策変更よりも、辞任によって毒餃子事件を終わらせることを選択したとも考えられます。「外相時代、中国・韓国との関係を損ねた」とニューヨークタイムズ紙(9.25 社説)に論評されるような麻生太郎が 新首相に就任したことで、毒餃子事件は、福田内閣がテロとの戦いに敗北したという形で終わったと見られます。

 同紙は麻生新首相に対し、「日本の将来は最大の貿易相手国である中国、韓国、急速に発展する他の近隣国と政治・経済的関係の強化にかかっている」と協調姿勢をとるよう提案、麻生氏が現実主義的な政策を取れれば、首相として成功するだろう とエールを送った(9.26 産経新聞)とのことですが、それは福田前首相が実際にやろうとしていたことでした。その政策を阻止しようとの企てが毒餃子事件だったと考えられますが、さらに福田の足を引っ張ったのが日本の警察庁・マスコミの姿勢でした。この事件に関して警察庁・マスコミは、いたずらに事実関係を歪曲して中国悪者論を展開していたように見受けられます。今回はその背景について考察してみたいと思います。


 毒餃子事件の背景にあったのは、「食の安全」などという問題ではなく、21世紀の日本の外交路線を巡る対立、親米派とアジア重視派の対立であったと推測されます。「日米関係が良好なら、日本の 安全保障は 大丈夫」とうそぶいた小泉元首相や、その後継の 安倍晋三と違い、福田康夫は 親中国派議員を党・内閣の主要ポストに配し、「アジア重視」を鮮明に打ち出しました。しかし、この外交路線の対立は何も福田内閣に始まったわけではありません。1950年代から対立の決着はつけられず、妥協の産物として、国連重視とともに、「自由主義諸国との協調」(親米派の主張)と「アジアの一員としての立場の堅持」(アジア重視派の主張)が日本の外交三原則とうたわれたのでした。

 福田政権の誕生により、日本の外交路線が現在の「日米同盟か国連か」という、ほとんど違いがわからない 麻生vs小沢 の政権選択選挙の争点よりもはるかに大きく「アジア重視」に振れたのです。

 この路線変更が意味するものは小さくありません。福田が進めようとした日中関係の改善は、単に日本と中国の問題に留まらず、なかなか進展しなかった東アジア経済圏(東アジア共同体)構想が一気に実現する可能性を秘めていました。すでにこの頃、その下地は整っていましたから、毒餃子事件の犯人は、この東アジア共同体構想が実現に向けて大きく前進する事態を放置できなかったと推定されます。そして、犯人との関係は不明ながら、東アジア共同体構想を最も警戒していたのは米国でした。


 話は1991年初め、海部俊樹首相の時代に遡ります。4月に東南アジア諸国を訪問する海部首相に、マレーシアのマハティール首相が首脳会談の席で、「東アジア経済ブロック構想」を持ち出すと言い出したのです。この構想こそ、マハティール首相が長年思い描いていた、欧米に対抗する「アジア勢力圏の構築=東アジア共同体」という壮大な構想だったのです。この当時、米国はメキシコ、カナダとの間で北米自由貿易体制(NAFTA)を構築しようと していましたし、欧州も EU 統合に向けて動きを加速させていました。

 「このままでは、アジア諸国は、これら二大勢力の餌食にされてしまう。アジアとしても日本という先進国の主導の下に、中国・韓国を含めた協力体を構築して、欧米の意のままに従うという受身の立場に甘んじることなく、帝国主義的な欧米の圧力に対抗していくべきである」というのが、マハティールの思想でした。しかし、それでは米国の反発が予想されました。そこで、「東アジア共同体」では刺激的すぎるとの周囲の意見を容れて、東アジア経済フォーラムと改称、さらに表現をやわらげて、東アジア経済評議会(EAEC、Cはコーカス、拘束ある決定は行なわない集会という意味)と呼んだりして、欧米の警戒感を和らげるところからのスタートでした。

 しかし、米国は、すかさずこの構想の本質を見抜いて反対の姿勢を明確にしました。91年5月8日の日米次官級協議で、ロバート・キミット国務次官は明確な反対の意志を小和田恒・外務審議官に伝えています。ベーカー国務長官はマハティールに、「どんな形であれ、太平洋に線を引くことは絶対に認められない。東アジア経済圏構想は日米両国を分断するものだ。」と直接批判の言葉をぶつけていますし、日本政府にも「絶対にこの構想に協力してはならない、このような危険な構想は潰すべきである」と迫って反対させようとしました。(坪内隆彦「アジア復権の希望・マハティール」亜紀書房1994)

 ところが、このマハティール構想を、よくぞ言ってくれたと内心歓迎する日本人は少なからずいたのです。外務省にも、「ここまで日本に期待を寄せるマハティール首相に誠意をもって応じるべきだ」と考える者もいました。しかし、外務省全体としては、米国への配慮から賛成できなという空気が支配的でした。それでも、91年3月4日の外務省の会議で、「あの構想を無視していいのか?」「本当に議論の余地はないのか?」など若手官僚から問題提起の声があがっています。(1991.3.8 読売新聞)

 外務省でも賛否が分かれる中、1991年10月、明仁天皇が即位後 最初にASEAN諸国を外遊された際、マレーシア国王主催の晩餐会で事件は起きました。アズラン・シャー国王が歓迎スピーチの中で、「東アジア経済協力体構築への支持について天皇陛下自らのご裁断を仰ぎたい」と直訴されたのです。しかし、翌日、外務省アジア局からマレーシアの大使館に「日本は賛成できないとマレーシア政府に返答しろ」との訓令がでました。外務省が天皇陛下の面目を潰してでも反対の態度を拙速に表明しようとしたのは、その翌月に来日予定のベーカー米国務長官に「断っておきました」と返答したかったということのようです。外務省にとっては天皇の面目よりもベーカーの機嫌の方が大切だったとみられます。(天木直人「さらば外務省」講談社 2003)

 ベーカー米国務長官は、天皇陛下の面目を潰して日本の不参加を表明しても、まだ安心しなかったのか、渡辺外相主催の歓迎夕食会で、「アメリカが入らない組織には、日本も入らない」と約束させています。(1991.11.29 毎日新聞)

 このような米国の強行姿勢に、外務省幹部はただ追従するばかりでした。福田康夫の父・福田赳夫政権時の外務省アジア局長だった中江要介は次のように述べて批判しています。

 「マハティール構想の場合にもまた、日本は先に米国の顔色を窺っているのである。米国が NO と言えば、一緒になって何かとあら探しをする。米国がアジアの経済圏構想(東アジア共同体構想)に反対するのは、米国の覇権主義が邪魔されるからであろう。そのしり馬に乗って構想を潰すのに加担したとなると、それは日本の政治的役割を放棄したことになる。アジアと反対の方向を向いている日本には、アジアでの政治的役割はない」(中江要介「中国の行方」KK ベストセラーズ 1991)

 マハティールも第一回東アジアサミットを前にして読売新聞の単独インタビューで次のように語っています。「我々には日本が必要だが、それは米国の代弁をしない日本だ。」(2005.12.4 読売新聞)

 それにしても、世界には多くの地域協力体制があり、それぞれ国際社会と共存していたのですから、「東アジア共同体構想」に対する米国の警戒心は異常です。その理由をマハティールは独自の米国人脈を使って調べたところ、「東アジアが結束することに異存はないが、日本が中心となる東アジアの団結は許さない」という、米国の日本に対する抜きがたい不信感と、むき出しの敵愾心が背景にあったことを知りました。(天木直人「さらば外務省」講談社 2003)

 マハティールは91年9月、国連総会の場で、はっきりと米国を批判しています。「アメリカがカナダ、メキシコと NAFTA(北米自由貿易協定)作りを進めていながら、一方で、東アジア経済圏構想に反対するのは、背景に人種差別的な偏見がある。」(坪内隆彦「アジア復権の希望・マハティール」亜紀書房 1994) 




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世界の環境ホットニュース[GEN] 697号 08年10月12日

毒餃子事件報道を検証する【第36回】     

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原田 和明

第36回 東アジア共同体構想(2)

 それでも、外務省は米国のいいなりを続けました。1993年3月、アジア・太平洋地域に所在する日本大使館の次席を集めた昼食会の席上、斉藤邦彦・外務省事務次官は「みなさん、EAEC(東アジア経済評議会)構想をどう思いますか?ひとつ自由に意見を聞かせてください。」と切り出しました。そして、マレーシア公使に着任予定の小島光昭が「日本はできるだけ多くの国際機構に参加して、外交の幅を広げるべきではないでしょうか? ましてや 請われて参加を求められているわけですから、前向きに検討した方がいいと思います。少なくとも米国と結託して、構想そのものを潰すようなことはすべきではないと・・・」と、その意見が終わらないうちに、外務官僚トップの斉藤次官は次のように言い放ったのです。(天木直人「さらば外務省」講談社2003)

「EAEC 構想は百害あって一利なしの、日本にとっては はなはだ迷惑な構想である。」

 しかし経済界の反応は違っていました。マハティールの構想は大きなビジネスチャンスと好意的に受けとめられていました。そこで、従米政策から身動きがとれない日本政府に代わって、民間の立場で EAEC 構想を推進するロビー活動もこの頃 始まっています。発起人となった国会議員は200人にも及び、村山富一首相(当時)の他、自民党から橋本竜太郎、石原慎太郎、平沼赳夫ら、新政党から加藤六月、熊谷弘など、新党さきがけから鳩山由紀夫らが名を連ねていました。いかにして政府を賛成にもっていくかについては「野党の国会質問で政府の姿勢を糾していく」ことで合意。EAEC 構想推進派の反撃が 密かに始まったのでした。(坪内隆彦「アジア復権の希望・マハティール」亜紀書房1994)

 93年12月15日に開かれたアジア・太平洋地域に所在する日本大使館の大使、総領事が出席した会議では、日本も真剣に検討すべきだとの指摘が相次ぎ、ついに、EAEC構想に日本が参加する方向で検討することに決したのです。いかに米国が反対しようとも、「アジアの要望にこたえることこそが日本の国益だ」とアジア重視論が高まったとき、対米追従を続けてきた外務省は深刻な分裂状態になっていきました。北米局は当然、反対の立場であり、経済局は賛成の立場でした。その当時、経済局長だった小倉和夫は「欧米のアジア政策に追従する必要はない。」「アジアを脅威と見るのは、アジア以外に世界の中心があるという欧米中心的な考え方だ。」と明言しました。身動きのとれなくなった外務省は表向き、「あくまで日本はアメリカとアジアの調停役をすべきだ。」とまたしても逃げを打っています。(坪内隆彦「アジア復権の希望・マハティール」亜紀書房 1994)

 転機は、1997年に訪れました。7月にタイでアジア通貨危機が勃発、経済危機は瞬く間にアジア各国に飛び火して、自力での建て直しができない国々が続々と国際通貨基金(IMF)に支援を要請したのです。このとき、日本は 40億米ドルもの 資金調達によって アジア各国を援助して大きな役割を果たしました。この経験をもとに、日本はアジア版 IMF(アジア通貨基金)設立構想を打ち出しました。このときは 通貨危機を経験した韓国と ASEAN が賛成しましたが、日本の台頭を 恐れた 米国と中国が反対して、構想は頓挫してしまいました。(Wikipedia「アジア通貨基金」)

 それでも、マハティールの執念は 途切れませんでした。この年から ASEAN 首脳会議に、日・中・韓の首脳を招待する形(ASEAN+3)で 東アジア共同体の輪郭を形成していきました。(Wikipedia「ASEAN+3」)その結果、日本は98年10月に改めて総額300億米ドル(翌年800億米ドルに増額)の「アジア通貨危機支援に関する新構想」(新 宮澤構想)を発表すると、今度は 中国も態度を軟化、2000年5月にタイのチェンマイで開催された ASEAN+3(日本、中国、韓国)の蔵相会議で、アジア通貨危機の再発防止に向けた地域内金融協力で合意したのです。この合意はチェンマイ・イニシアチブと呼ばれ、アジア通貨基金実現に向けた第一歩と期待されています。その背景には、地域統合も世界経済の必然的な動きだと みなすようになった中国の変化が ありました。そして、中国はAESEAN 諸国の警戒感を取り除くために、東南アジア6ヶ国の債権の全部または一部を放棄すると発表したり、自由貿易協定では中国が一方的な譲歩を示したりなどの努力を続けたのです。(荒井利明「ASEAN と日本・東アジア経済圏構想のゆくえ」日中出版 2003)

 そして ついに、2000年11月、ゴー・チョクトン・シンガポール首相が、ASEAN諸国と日本、中国、韓国が参加する東アジア圏構想を提唱し、その設立に向けて作業部会の設置が合意されたのです。(2000.11.27 朝日新聞)この時期、日本はバブルの後遺症に苦しみ、失われた10年という時を過ごします。日本の凋落を経て、やっと米国は東アジア圏構想を黙認することになったようです。こうして、マハティールの構想は日本が衰退したことで実現に向けて動き出すという皮肉な経過をたどりました。

 ところが、日本の凋落と前後して、今度は中国が台頭してきました。米国は再び、東アジア経済圏構想を警戒するようになったのです。しかし、2001年に国民の圧倒的支持を背景に登場した小泉政権は米国にとって極めて好都合でした。中国、韓国が嫌がる靖国参拝を毎年強行し、日中、日韓関係は冷え込んでいきました。これでは東アジア経済圏構想は空中分解して、一歩も前進できません。

 2005年12月にマレーシア・クアラルンプールで開かれた第一回東アジアサミットでも、小泉首相は、あくまでも米国の存在が東アジアの平和と安全に不可欠であるとの認識を表明、同時に、自由、民主主義、人権といった普遍的価値の共有を強調することで中国を牽制するという、どこまでも米国の代弁者に終始する基調演説を行なった
のです。(2005.12.4 産経新聞)

 このように政治的には、なかなか進展しない東アジア共同体ですが、経済の面では、東アジアは結びつきを強めていました。1990年代に東アジアの域内貿易が急増、特に中国は最大の貿易相手国になっています。既に日本は経済の面で、東アジアとともに歩んでおり、政治的に親米か親アジアかを問うことは、もはやほとんど意味をもたなくなっていました。(荒井利明「ASEAN と日本・東アジア経済圏構想のゆくえ」日中出版 2003)

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■つくづく日本列島は、アメリカの植民地だとおもわされる。とりわけ、外務省は、米国国務省日本局、自民党は、自由売却党と、解消すべきだろう。
■ま、田中宇さん いわく、ネオコン=かくれ多極主義者説にのっとるなら、中国が経済大国化したんで、一応おもいどおりなんだろうけど、中国経済は最近のリーマン・ショックで失速がはっきりしてしまったようなんでね…。
■いずれにせよ、毒ギョーザ事件の うらには、アメリカがうごめいてもいるようだ。■でも、アッソー政権は、もちそうにないよね。
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タグ : 毒ギョーザ 1984年 真理省 食品 安全 毒餃子事件報道を検証する

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