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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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戦後教育の産物の一例

■右派ナショナリストのTシャツ業者らしい人物(おそらく男性)の文章【表記等にも みだれがあるが、ご愛嬌なので、そのまま転載】。

日本人が日本国を愛するのは当たり前である。自分が生まれ育った国をかけがえのないものと感じ、大切にしようと思うのは自然な感情である。教育基本法の改正論議においてもこの「愛国心」という言葉を盛り込むかどうかに焦点が当てられたが、反対をしていた人たちの意見はまったく意味がわからなかった。反対するということは住んでいるこの郷土、日本を愛さなくてもよいということか。ならばなにも地べたを憎んで生きていく必要はない。日本国籍など棄ててどこか他国にでも移住して帰化すればいい。母国、国家というように国は母であり家である。個人の自由などというものは我がままだとして叱られるのが倫理道徳として正しい。「愛国心」は、母に孝行する気持ち、家族を大切にする気持ちから来る。左翼の好む地球市民などという言葉は宇宙人と同じくらいに空虚で寒々しい。理屈で議論するものではない。また、他国を攻撃することでも民族優位という差別意識でもない。命より大事なものを知ること、愛する者を最後まで守り抜く覚悟である。皆もこのTシャツを着て日本人としての誇りを世界に示しそうではないか!


■自分のかたっている論理の射程が全然自覚できていないために、破綻が全然みえないまま、空疎な高揚感だけつたわってくる。■しかし、こういった暴論が、戦後民主主義とよばれる政治体制が維持した戦後教育の、まぎれもない産物なのである。
■この破綻した議論を、冷静に、具体的根拠をあげて論破できないような人物が、教壇にはほとんどたっていなかった。という、空疎な「思想信条の自由」の 無残な「鬼子」である。■さきほど 無残な暴論を連発して大臣を辞任した、東大でのエリート議員とやらも、戦後教育の「もうしご」のひとりだ(1943年うまれ)。

■「戦後教育は、まちがっていた」という批判は、なかば ただしく、なかば まちがっている。
■(1) 「みずからが 自然な愛国心」をもっていて、周囲にはそれが不足している、ないし欠落した非国民がいる」といった妄想を、意図しなかったとはいえ 確実にはくぐんだという点では、あきらかに欠点があった。■ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』とか、エリック・ホブズボームらによる『伝統の創造』といったお説教をきかされるまで覚醒しないぐらい、「国土・国民・主権国家(政府)」の三位一体を、うたがうことなく「愛する」ことが可能だと信じていた層が膨大にのこり、エセ「愛国者」が はびこることに全然抵抗力をしめせなかった。■国内に、さまざまな民族的少数者がいるし、郷土を愛せても「国土全体」なんて到底愛せない層、不実な政府になど憎悪しか感じない層、国民の一部として尊重されたことなど一度もない層が実在するという、知識・想像力・自己批判の機能しない、野蛮なナショナリストを大量に再生産した。■日本国・日本民族・日本文化といったものが実体として時空上普遍的に維持されきた、といった、非科学的な神話・共同幻想から卒業できていない大量の国民を育成したという意味では、戦前よりマシだったと断言できない本質をかかえていた。■うえに引用した、Tシャツ業者やら 国家議員やらの 破綻した論理=放言は、その無残な結実である。
■いいかえれば、右派層の妄想とは、正反対の意味で、世界で思想的孤立をふかめている妄想系の野蛮な右派層が、いまだ はびこっているという現実として、「戦後教育は、まちがっていた」という批判は、なかば ただしい。■そういった知的野蛮をゆるしてしまうような、「自由のはきちがえ」が確実にあった。「論理的に破綻している」「歴史的にそんな経緯など存在しない」と、自信をもって断言できる具体的データをそなえた教員が実にうすかった。つまり、そういった教員を組織的に養成できるような大学カリキュラムをくめなかった。■そういった知的緊張感がなく、ひたすら政府とことをかまえた運動をしていれば、そのうち「正義は かつ」式に、知的野蛮が消滅していくだろうといった、おめでたい楽観主義を修正できない知識人が大半で、教員養成課程が機能不全のまま はしりつづけた。…


■(2) だが、「戦後教育は、まちがっていた」という批判は、なかば まちがっている。■なぜなら、こういった、ナショナリズム批判を展開しても、思想警察が逮捕にふみきり、ばあいによっては、署内でとりしらべをよそおって拷問殺人をおこなうといった蛮行がゆるされない時代が確実にやってきたからだ。■いや、過去のソ連や、現在のアジアなどの諸地域では、そういった戦前の日本と大差ない野蛮国があるようだ。それとくらべれば、日本列島は「安全」な国家なわけで、「映画「靖国」が軽く吹っ飛ぶ 渡辺文樹監督『天皇伝説』上映中止 ショックだぁ(反米嫌日戦線「狼」(醜敵殲滅))」で紹介したような、微罪逮捕による妨害工作によって弾圧される層は一部にすぎない。■これは、治安維持法が機能停止したからであり、それは単に新憲法との整合性と、GHQの民主化圧力によって廃止されたからだけではない。■おとなりの韓国がほんの四半世紀まえまで、戦前の特高警察憲兵と同様の諜報・弾圧機関をかかえていたのと対照的に、「そんな野蛮はやめよう」という合意が60年まえには成立していたということだ。教育基本法も、そういった精神のあらわれとして、かかれた。■だから、うえの引用にあるような信条の人物たちによって、改悪がこころみられ、エセ愛国者たちによって思想信条の自由がさまたげられるような危険性はましたし、現に公教育現場では、日の丸・君が代の強制と、それに服従しない教員への弾圧がくりかえされているが、ひとりとして、大杉栄小林多喜二鶴彬らのように、虐殺されずにすんでいる。

■くだんの、独善的に「天にツバする」ような戦後教育否定論者がいるように、その徹底には、はなはだ限界があって、教育現場にかぎらず、企業・役所等で、パワハラ・セクハラ・不当労働行為がくりかえされし、難民・移民労働者を虐待するような、そして「凶悪犯人には極刑を」論、実にソボクに「正論」として展開し、刑務官の人権とか自殺願望層リスクなど無視するような、そんな人士が大多数をしめるような、野蛮な人権途上国ではある。■しかし、そういった野蛮な人物が、いつも横行できるわけではなく、一定限度をこえてしまった放言に対しては、右派系メディアでさえも批判する論調で記事をかかないといけないぐらいの「民度のたかさ」は、確実に蓄積されている。■東京都や大阪府で、あきらかに「民度のひくさ」を証明する投票行動がくりかえされる一方、業界の利害とかとは独立した、住民の福利のために奔走する政治家もちゃんと実在するような列島になった。たとえば、戦前の田中正造のような、すてみの人士が一定のあつみをもってそだっているがゆえに、正造のような めだちかたにはならない、という水準で。■これが、帝国憲法と旧刑法、治安維持法から解放され、日本国憲法と教育基本法の精神に規定された公教育と大学の自治がなくて、どうしてうまれただろう。「殉国精神の注入」という強迫観念から自由になり、国外にでることも国籍をすてることも自己責任で自由という原則のなかでも、共同体や自国民への愛着と責任感は維持されるだろうという楽観主義が成立したとき、「強制されない自発的なナショナリズム」がようやく自律化したのだった。


■日の丸・君が代を強制し、戦前の修身的な教科で洗脳でもしないかぎり、「そして、だれもいなくなった」という不安から解放されない、あわれむべき少数派こそ右派であり、教育現場に無用な混乱をもちこんで、ときに犠牲者までうむのだ。■強制と注入などしなくても、自然と移民をあつめてしまうアメリカ合州国などは、そのいい見本だろう。星条旗と国家を愛国心の中核として、さかんに動員するのではあるが、移民たちは、アメリカ合州国の自由がすきだから、その理念と空間を愛して、移住・定着していくのだ。■アメリカ合州国とは、基本的に収奪にもとづいた格差拡大傾向がとまらない非道の空間であり、生命へのリスクもかなりある、不穏な社会ではある。しかし、たがいのナショナリズムの不足をさがして攻撃しあうとか、不足分を注入してでも補充しないとおそろしくてしかたがないといった、強迫神経症からは解放されている。実際、アメリカという空間にきずつき、すてさるひとびとよりも、その空間にあこがれ、ほれこんで定住してしまうひとびとの方が圧倒的におおいがゆえに、不安にかられた愛国心競争などは、無用なのだ。■もちろん、先住者を排撃・抑圧して成立した人工的移民国家であるがゆえに、同様のイスラエルに異様に加担するとか、正義・民主主義のおしうりをしようと強迫神経症的に「途上国」「人権後進国」をさがしだしては、暴力そのものの教育的制裁を反復するとか、「9・11テロ」以降の異様な全体主義状況など、その根っ子は病理にみちている。■しかしそれでも、戦後体制を「おしつけた」合州国のしうちに、愛憎なかばして、いまだに気持ちの整理がつかない、左右両翼のゆがんだナショナリズムよりは、マシだろう。■かれらは、他国にうらまれていることにうとく、ときに反撃されておどろくといった、無残なモニタリング不足をくりかえしているが、すくなくとも、自国への愛情について、深刻な葛藤などはないはずだから。




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タグ : 戦後教育戦後民主主義ナショナリズム

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