■先週の『週刊エコノミスト』「
闘論席」から、
宋 文洲氏のオリンピック論を転載。■いや、実にすばらしい。以前からかきつらねてきたことを、かなり代弁してもらって気分。■ま、スポーツ、およびオリンピックに対する理念主義については、全然同意できないが。
スポーツは健康な肉体と精神を促進するためにあって、国威発揚のためにはない。メダルの数はオリンピック参加の目的ではない。これは中国の政府と民衆だけに向ける言葉ではなさそうだ。
日本のマスコミは、メダルを取った選手の健闘だけに「感動」し、喝采を送る。競技中に日本の選手が優勢になった瞬間のアナウンサーの絶叫にも違和感を覚える。北朝鮮の激情アナウンスにも聞こえる。決勝で金メダルがかかっているならまだしも、予選からそんなにヒートアップしてどうするのかと思うことも度々だった。
星野ジャパンが中国に勝った時の日本のマスコミも恥ずかしい。「命を懸けた」とか、「中国に自爆させた」とか、まるで戦前の大本営発表である。
中国では野球をやる人がほとんどおらず、歴代オリンピックではいつも予選で敗退していた。そんな弱いチームに勝ったぐらいで「命を懸けた」と聞いて、私はむしろ不安を覚えた。案の定、星野ジャパンはメダルを取り損なった。取る実力がありながら……である。
いいところだけを見せる。いいところだけを伝える。これが今回のオリンピック主催国への批判であった。しかし、オリンピックをめぐる自国に関する報道を見る限り、日中は五十歩百歩だった。
メダルにあれだけ熱心な日本のマスコミは、そのメダル数は韓国にも及ばないことに触れない。たかだかのスポーツであるが、その国の自信と活力を映し出す。---------------------------------------
■「
スポーツは健康な肉体と精神を促進するためにあって、国威発揚のためにはない。メダルの数はオリンピック参加の目的ではない」との断言は、いわゆる優等生が共有する無自覚な偽善・イデオロギーであって、普遍的真理でなどない。■古代オリンピックの目的は、神々のまえでくりひろげる祭典として、わかものたちのパフォーマンスを「ささげもの」としていたはずだ。そこには、アスリート個人の名誉と所属ポリスの名誉が、からんでいただろうが、アスリートの肉体と精神を促進することを、目的となどしていなかっただろう。かりに、肉体の練磨が目的だとしても、それは、スパルタの軍事教練などの実利的目的だろうから、それは、鎌倉武士以降の武人たちの武芸の修練と同質なのだとおもわれる。■すくなくとも、個人主義的な心身の修養・体育を ねらいとして 制度化されたものではあるまい。こういった解釈は、いわゆる、
近代オリンピックを成立させた、
クーベルタンらのアマチュアリズム(アマチュア・スポーツ・イデオロギー)を まにうけてしまい、批判能力を発揮できていないのだと、おもう。
■しかし、こと日中のメディアの醜態、それをひきだした大衆のナショナリズムについての論評は、まとをいているとおもう。
【かきかけ】
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いつものネタともう一点
「ミネルバ7.7」
http://sports.geocities.jp/minerva77hokkaido/
あと、『紙の爆弾』(10月号)の編集後記には北京オリンピック自体への言及もありますが、それと対比するかたちで以下の様な記述もあったむねおつたえします。
北京オリンピック報道一色の裏で、最も気になったニュースはといえば、福島県の産婦人科医の無罪判決です。日本という国家に対しては、すでに不信感しかないなかで、あえて国家という「制度」に求めるものがあるとすれば、生命と平等の保障、この二点のみです。亡くなられた方を悼みつつも、この裁判が医療の現場を揺るがしかねないことに不安を感じつつ、裁判の行方を注目してきました。
もちろん、北京オリンピック報道一色の裏で、気にすべきニュースはもちろん大量にあるのでしょうが、そのなかで『紙の爆弾』編集部には、この福島県産婦人科医の裁判のニュースを一番気にしていた人もいる、という情報をここにしるす次第です。
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