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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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伝統に合理性をよみこむ心理としての日本語論

■「ながく ひきつがれてきたモノには、合理的な存在理由がある」というのが、歴史主義による保守的論理の定番である。■漢字養護論、敬語論、古典芸能擁護論、敬老主義など、いろいろだ。
■しかし、日本語の伝統なんてものの大半は、非合理な慣習にすぎず、外部の人間からみれば、おかしなものばかりで、おもしろがってばかりいられない しろものだろう。■たとえば、「語呂合わせ」とか、「助数詞」なんぞは、その典型のはずだ。

■たとえば「助数詞」の専門家の一部には、「同じ助数詞でも前後の文脈から、その場では何を数えているかがすぐに判断できたはずです。例えばイカは「一杯」と数えますが、「杯」は他のものにも使います。しかし魚屋さんで「一杯」と言えば、扱っている商品で「杯」と数えるものはイカしかない。文脈から分かるでしょう。……数え方自体のルーツはとても古く、万葉集にもたくさん出てきます。それが江戸時代になって商人達が活発に商売を始め、さまざまな商品をやりとりするために「数え方」という工夫がなされたのだと考えられます。でも現代のビジネスマンも、同じ事をしているんではないでしょうか? 配送会社の方などが梱包の「梱」と書いて、「1梱、2梱」などと数えたりしますが、あれは「商品は複数だけれど、届ける手間としては1回分」という意味で用いている。そういう、状況や条件が生み出す数え方というのは、現代にもあるのじゃないかと思います」などと、まとめているひともいるようだが、これは強引すぎるだろう。■旧ブログ記事「日本語の助数詞の非一貫性」なんて問題もふくめてね。
■だって、冷静にふりかえってみれば、すぐわかるじゃない? ■ウィキペディア「助数詞」の「一覧」には、イカの項は、「食品の場合は一杯(はい)、生物の場合は一匹(ひき)」とだけある。ちなみに、「魚」という項に、「一匹(ひき)、一尾(び)、一喉(こん)」などとあるが、ほかの魚介類と区別する合理的根拠はない。エビは、「一頭(かしら)、一尾(び)」とあるが、イカとおなじように、区別できて便利だろうか? タコには イカと並立するような助数詞がないようだが、これはなぜ? ■サカナ屋さんが、イカだけを特別視して、一杯・二杯・…と区別させる価値があった時代があったとして、いま そんなのある?


■こうしてみてくると、「魚屋さんで「一杯」と言えば、扱っている商品で「杯」と数えるものはイカしかない。文脈から分かる」といった、機能的合理性で「伝統」「慣習」を説明するのには、疑問がある。■文脈で、ほかとわかるように、助数詞が分化したというなら、(1)無数に分化するか、(2)煩雑にならないよう、一部の呼称だけ、特別あつかいになるはずだが、そういった合理性はみてとれない。

■たとえば、ウサギを「一羽(わ)」とよびならわす風習は、現代日本の大衆にとって全然一般的じゃなかろう。だからこそ、「ウサギは一羽、二羽とかぞえます」といった、クイズなどになりえる意外性をもつと。ウサギを トリとゴッチャにして、一羽・二羽とかぞえる機能的合理性があるなら、おしえてほしいもんだ。あるはずなかろう。■ウィキペディア「ウサギ」にもあるとおり、「ウサギの日本語における助数詞は、主に鳥類に対して使用される「羽(わ)」を使用する(近年では「匹(ひき)」、「頭(とう)」を使用する事も多くなっているが)。これは獣肉食がタブーであった時代、ウサギの跳躍するような動作、また翼のような長い耳の形状が鳥を連想させることから「ウサギは獣ではなく鳥だ」とみなし食肉として供していた事の名残である。」。どうせ、なまぐさ坊主たちが、こういった隠語を発明したに相違ない(笑)。■こうした経緯は、獣肉食をいやしむ風潮(それが、現在のベジタリアンのような深遠な思想をもっているとはおもえないが)が、ウサギを四足歩行をおこなう動物とみなさないゴマ化しのため、という、偽装工作用の符丁(隠語)としてのみ、機能的であり、それは、すくなくとも現代日本の大衆にとって、無意味な「伝統」にすぎない。
■日本の異様に複雑な助数詞を、「伝統文化」だなどと、その保護活動をすすめようという風潮が一部にあるようだが、有害無益だとおもう。■すくなくとも、日本にやってきて定住しようとする外国人などにとって、完全な「言語文化の障壁」だ。「情報のバリアフリー」運動の理念からしても、時代に逆行し、排外主義をあおりかねない うごき だとおもう。


■ウィキペディア「語呂合わせ」をみても、「他の言語」というサイドリンクには、イングランド語(English)しかあがっていない(“Japanese wordplay”)。■つまり、漢字表記の異様なばかりの複雑さ・恣意性とならんで、日本だけの奇習なんだとおもう。
■これを「日本文化/日本語文化の独自性」だなどと珍重するとしたら、ものわらいではないか? 「便利だね」などと、苦笑まじりに、おもそろがられるとはおもうが。苦笑まじりになるほかないのは、助数詞どころではない、恣意性にみちあふれているからだ。■たとえば、「数字の暗記」をみれば、よくわかる。
1 : いち、い、ひとつ、ひと
2 : に、ふたつ、ふた、ふ、つ(英語から)、じ
3 : さん、さ、みっつ、みつ、み
4 : よん、よ、よっつ、し、ふぉ(英語から)、ほ
5 : ご、こ、い、いつつ、いつ
6 : ろく、ろ、むっつ、むつ、む
7 : しち、ななつ、なな、な
8 : はち、は、ぱあ、やっつ、やつ、や、やあ
9 : きゅう、きゅ、く、ここのつ、ここの、こ
0 : れい、れ、ぜろ、ない、わ(字形から)、まる(字形から)、おー(アルファベットのOから。)
っ(促音)やー(長音符)、ん等は、数字に関わらず比較的自由に使われる。


■あてられる日本語文の1音は、しばしば恣意的にとばされたりするし、その逆もある。だから、ある数字連鎖は、別の日本語をあてることも可能になる(おなじく、ウィキペディア「語呂合わせ」)。

日本では国家予算が決定すると、これに語呂合わせを作る恒例がある。1973年のそれは14兆2840億円(142840億)であったことから、政府はこれに『いい世に走れ』という語呂合わせをつけて発表した。これに対して、「いい世にはしない」という語呂合わせが発表され、新聞紙上等をにぎわした

■要するに、「語呂合わせ」したい当人・集団の恣意にまかされていると。
■ほか、暗記術としての機能的合理性も微妙だ。おなじく、ウィキペディア「語呂合わせ」から。

1192年 源頼朝が鎌倉に幕府を開く。
いい国 作ろう鎌倉幕府

 なお実際には誤りであるという説が強い。頼朝が征夷大将軍に任じられた年は1192年だが、実際に1192年に突然幕府が開いたわけではないことに注意する必要がある。
 ちなみに、これを「よい国つくろう鎌倉幕府」(4192年)とやってしまったと言うのは、ガッツ石松伝説の一つである。
 また、爆笑問題のバク天!では、視聴者の、友達がテストで「いい国作ろう鎌倉幕府」の作ろう(2960年)の方で答えてしまった、という投稿を放送した。



■機能的合理性によって、日本語文化の奇習を正当化しとうとすると、いろいろ ほころびがあらわれる。

■まあ、こういった文化防衛論の大半は、論者たちと、その周辺の危機意識・不安が基盤なんだろうから、そちらの分析が急務かも。

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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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コメント

コンビニにいったら

『この一冊で日本のルーツ〈起源〉がまるごとわかる! 』(青春出版社)という本がうっていました。

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