プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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『自分の小さな「箱」から脱出する方法』(アービンジャー・インスティチュート)5

シリーズ第1回でふれておいたとおり、本書は、「箱の中」状態の個人から個人への「感染」を、「院内感染」という現実にきづいた産科医ゼンメルヴァイス(1818-65)の故事になぞらえている。これを予防するための、さらし粉による てあらい(=塩素消毒による、健康保菌者からの解放)が、導入可能だというわけだ。
■たしかに、企業やNGOなど、一定の目的にむかって共同作業を一致団結しておこなわなければいけない組織に、「保菌者」がいて、どんどん「感染者」をふやしていったら、組織は、目的を達成できないばかりでなく、名目と機能が正反対の、グロテスクな組織に変質してしまうことになる。■いや、たがいが あしをひっぱりあうとか、自己正当化にはしるあまり業務に集中できないとか、そういった、機能不全なら、自業自得で ツブれるだけなので、どうでもいい気がするが、これが、安全確保のサービス業務だったり、ひとに情報をあたえるなど、広義の教育サービスであったりすれば、そういった組織内部の矛盾といった次元では、おさまらない。■たとえば、自己正当化ばかりに 神経を集中している、医療スタッフ・旅客業務スタッフや教育関係者などをイメージしてみればいい。■実にグロテスクなだけでなく、ぞっとするだろう。みずからの安全が確保できない利用者とか、人間として欠陥ばかりといった人物だらけの葛藤状態をみせつけられた生徒・学生とか、といった、悲惨なケースである。

■でもって、これらの自己正当化・責任転嫁の防衛機制は、自覚するのが、実に困難だということを、再度強調しておこう。■これは、ハラナ個人の実体験として、のべておく。
■おどろくなかれ、シリーズ第1回で論点列挙した、自己正当化・責任転嫁などの微視的な過程は、ほとんどすべて(「●●した方がいい」という直感=「目的」にそった「善意」)をなんらかの理由で否認する【自己欺瞞】以外の大半)、既知のメカニズムだったということ。それなのに、これらの一連の連鎖=巨視的構造や相互連関には、きづいていなかった。■「箱の中」的状況の自覚が、そこそこありながら、個々具体的な問題について、自分が自己正当化・責任転嫁していることを、直視していなかった。
■なんと、「箱の中」にいるんじゃないか? という反省によって、すぐさま直視・自覚がはじまり、あっというまに、かなりの具体的対象について「箱の外」にでてしまっていた。あまりにも、あっけなく。「コロンブスのタマゴ」という、あやしげなエピソードをきかされたときとにて、「な潤オんだ」という脱力感におそわれたのと、いくぶんにて、「なんで、こんなことに つまづいていたのか」、アホらしくなるぐらいだった。

■この一連のプロセスは、一見アホらしく、ウソっぽくみえるかもしれないが、実際におきたのだ。■「●●した方がいい」という直感を否認する「自己欺瞞」以外、リクツではわかっていたはずの人物が、うかつにも、最初の自己欺瞞の発生をみおとしていたがゆえに、個々の自己正当化・責任転嫁が連鎖的にみえず、自業自得で「ひとりずもう」におちいっている自分が、およそ「ひとごと」となっていたのだ。
■さらには、敵対する人物とか、障害物であるとか、前回問題にしたような、「箱の中」モデルの適用範囲外にも、一部援用が可能であるといった着想も、潜在的にはうすうすわかっていたのだった。■「自分さえ、事前に充分な計算(シミュレーション)と対策をねっておかなかったがゆえに、ハマってしまった困難を、あたかも、敵や障害物のせいにして、自分の対策不足をたなにあげてしまう防衛機制だって構造は、本書をよむまえから きづいていたのに、本書で具体的に自己矛盾をつかれるまで、自覚できなかったのである。■「なんじ自身をしれ(モニタリング)」という、ソクラテス以来の指摘が、いかに実践困難か、自分自身をカガミなどにうつして客観視すること、「周囲」のせいにしてにげないことが、いかにむずかしいかを、痛感させられた。
■「箱の中」にとじこもっているかぎり、シリーズ第2回で指摘したように、「(「ミュンヒハウゼン男爵が自分の髪を引っ張りあげることで底なし沼から脱出したエピソード」(ミュンヒハウゼンのトリレンマ)」のように、自助努力が不能になってしまうのだった。■しかし、個別の対象ごとに、「さらし粉」で てあらいするだけで、ヒトからうつされた「箱」が滅菌されるように、「保菌者」が、周囲の人物に「感染者」をはびこらせないのは、存外簡単なのし、ノドのヨード殺菌のように、自分自身が「感染者」であることを、かなりの程度なおせるということだ。


■もうひとつ、蛇足ながら つけくわえるなら、「箱の中」モデルが、表現行為全般にもあてはまるという点だろうか? ■〈対象人物が自分のおもいどおりに行動しないことを せめるな〉。〈それは最善手をとることをおこたった自分の責任を回避し、対象人物に転嫁する、卑劣で不毛な態度だ〉。…、という本書の人生哲学は、表現者の被害妄想もきびしくといつめているといえるだろう。■なぜなら、公私の人間関係にあてはまることは、表現行為全般にもあてはまるとかんがえるのが自然だからだ。
■〈対象人物が自分の主張を理解しないことを せめるな〉。〈それは最善の表現をとりそこなった自分の無能・無策ぶりを回避し、対象人物に責任転嫁する、卑劣で不毛な態度だ。〉…、となる。〈あいてがアホでつたわらない…と、いかり/なげくのは、「箱の中」の住人だと白状しているようなものだ〉ということになる。

【たぶん シメ】


●シリーズ「『自分の小さな「箱」から脱出する方法』(アービンジャー・インスティチュート)」
       
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