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前回のつづき。
■本書では、「
誰かに対して箱の外に出ていたいと思ったその瞬間、…もう箱の外に出ている。なぜなら、相手を人間として見ていればこそ、外に出たいと感じることができるんであって、人間に対してそういう感情を抱けるということは、すでに箱の外に出ているということなんだ」(pp.206-7)と、登場人物に断言させているが、これには、議論の余地があるだろう。■「
いったん箱から出てそのまま箱の外に居続ける」(p.207)ことが、つぎの課題になる、というのだが、すぐ もとどおりの「箱の中」状態にもどってしまうぐらい、共依存的で強力な悪循環を「確立」してしまった二者関係のばあい、「箱の外」状態は例外的であり、それこそ自己満足的でアリバイ的な偽善の変種にすぎないかもしれないからだ。
■まあ、それはおくとして、むしろ問題は、「
相手を人間として」尊重するような感情をいだき、「
箱の外に出ていたい」とねがうような、自己変革意識にたつきっかけがあるか? 自分があいてに「〜すべき」と感じた最初の直感を否認して、自分にウソをつく(自己欺瞞)を自覚できるか? なのだ。
■前回あげたような悪循環構造は、すぐきづくとおり、〈ドロぬま〉状態を意味する。だから、「
ミュンヒハウゼン男爵が自分の髪を引っ張りあげることで底なし沼から脱出したエピソード」(「
ミュンヒハウゼンのトリレンマ」)とにて、自力で「箱」からの自力脱出が不可能なのだ。
■そのためには、本書の主人公が、上司ら職場の先輩たちが、みずからの失敗談をまじえつつ「箱の中」からの脱出劇を回想してみせる〈ゼミナール〉が、ある意味不可欠の突破口となる。■本書は、そういった「自己(欺瞞)発見」のための、セミナー・シナリオなのだ。
■だから、そういったカラクリを、本書は、登場人物のひとりに、こうかたらせている。
「
箱の中にいる人間がいくら箱から出ようとあがいても、どうにもならないわけだが、その一方で、箱の外に出た形の人間関係が一つでもあれば、箱の中にいる時間を減らしたり、箱の中に入ったままだった関係を修正したり、いろいろなことができる」(p.230)
「
ひょっとしたら自分が間違っているかもしれないと考えた。君は箱の外に出て、箱の中にいるということがどういうことかを説明しているパドやケイトの言葉に耳を傾けた。そしてそれを自分自身の状況に当てはめた。パドやケイトといるあいだは箱の外に出ていたから、箱の中にいたら決してできないことが可能になった。…他の場面でも、気づかないうちに箱の中に入っていることがあるんじゃないか。と自分を疑ったわけだ。そしてミーティングの結果、奥さんを見る目が変わった」(pp.230-1)
■やはり、自力で自然に「箱の外」にでることは原理的にありえないわけだ。「箱の中」では、ひたすら防衛機制がはたらいて、自分自身の客観的なモニタリングが不可能になっている。自己欺瞞による自己正当化と責任転嫁によって、〈まわりがわるい〉という〈自己中物語〉ばかりが、〈小部屋〉壁面の〈超自己中カスタマイズ・モニター〉にうつしだされるのだから、自己像は絶対に修正されない(笑)。■だからこそ、ひとりでもいいから、たがいに「箱の外」にでたもの同士のペアがかかせない。
■こうした、〈脱出〉と〈離脱の維持〉の構造は整理されたが、「
箱の中にいる人間がいくら箱から出ようとあがいても、どうにもならない」(p.230)という、「
ミュンヒハウゼンのトリレンマ」についても、本書は、ていねいに分析をくわえているので、ごく簡単に整理しておこう。
■(1)まず、くりかえしになるが、総論として「
箱から出ようとあがいても、どうにもならない」【ドロぬま状態】。
■(2)「箱の中」の住人同士が、まともなコミュニケーションをはかろうとか、事態の改善をはかろうとか、あいてをかえようとか、全部ムダである【「箱」同士の途絶】。
■(3)「箱の中」にとどまったままで、問題を回避・リセットしようとおもっても、事態は改善しない。あいての行動はもちろん、自分の行動も本質的にかわらないし、あらてのテクニックの導入なんてのもナンセンス【逃避不能性】。
■(4)ましてや、たがいに はりあおうなんて、最悪だ。総体(結果)として、あいてを一方的にせめる意味しかもたず、たがいが「箱の中」に おくふかく もぐりこむのを進行させるだけだから【無意味な対抗】。
【つづく】
テーマ : **おすすめbook!!** - ジャンル : 本・雑誌
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