プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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公教育のメタファー3

■「公教育のメタファー2」の補足であり、かつ、それへのトラックバック記事「本田由紀を読む 2 学校経由の就職 その1 強固な実在性」および、続編「本田由紀を読む 3 学校経由の就職 その2 90年代以降の揺らぎ」「本田由紀を読む 4 ハイパーメリトクラシー化」などへの、おへんじ。

本田由紀氏については、『「ニート」って言うな!』を中心に、旧ブログで、何度もとりあげてきた。■なので、ここでは、本田氏の所論については、ふれない。あくまで、本シリーズへの木村先生の疑念をとき、問題点を整理することだけを目的とする。


■さて、木村先生からのトラックバックにかぎらず、「本田由紀を読む」シリーズにかかれている論点は、ごく乱暴にまとめてしまうなら、ほぼ2点に集約できるとおもう【内容的には、前回のハラナの論点と融合させてある】。

■①学校は、従順な心身(上意下達=命令服従系の心身)をつくり、それを教員のおおくは、善と信じてうたがわないできた。■自分たち教師集団への従順さは、卒業後の工場ほか、広義の官僚システムに適応するために不可欠な態度であり、教科教育ほかをふくめて、従順さをみにつけるとは、社会への適応能力をみにつけることと同義であると。
■そこでは、教科教育が「出藍の誉れ」などの可能性もふくめた自由・主体性の獲得を目的としないことは、いうまでもなく、広義の官僚システムに適応するための基礎知識の習得を目的ともしておらず、教科教育は、従順な心身を構築するための方便としての素材でしかない。その意味では、公教育の主目的は、教科教育によって知識をさずけることではなく、知識をさずけるという形式を墨守することで、付随的ではあるがかならずまとわりつく「隠れたカリキュラム」としての、従順さの獲得である。
■教員は、偽善者なら、これに自覚的であり、必要悪として秩序の再生産の基礎的過程としてになう(もちろん、真の意味をかくして)し、愚鈍な層なら、自己欺瞞をともなうかたちで、真の教育の目的を、めくらましする過程に無自覚に生徒をまきこむ主体となる。■企業社会や官庁は、こういった「かくれたカリキュラム」の実践者としての教員を利用することで、みずからの組織構成員のリクルート過程の相当部分をになわせていることに、自覚的である。大学生を採用する企業が学部や専攻を事実上とわないのは、その象徴的なあらわれである。
■これらの構造は、高度成長期であろうが、高度消費社会であろうが、本質的には不変である(いや、つい20年ぐらいまえまで、不変だった)。

■②しかし、本田ら社会学の知見では、グローバリゼーションを軸にした社会の変容によって、「従順な心身」が、完全に時代錯誤となっており、市場原理のもとで、急速に価値を低下させている。■その意味では、「学校経由の就職」が、すくなくとも1990年代後半意向、急速に意義をうしないつつある。


■しかし、ハラナは、こういった総括に全面的に賛成はできない。■前回、「公教育のメタファー2」で、ロボット化した労働、ロボットのおもりをさせられる「ケア労働」の普遍化を、中岡哲郎氏の議論を参考に、強調しておいたが、それはなにも、「命ぜられたこと以外になにもできない」という意味でのロボット化を、意味していないからだ。
■むしろ、「イスとりゲーム」というメタファーを意識的に共存させておいたとおり、当人の主体的判断の余地をかなりのこした職務を、すくなくともキャリア組には、用意してきた。つまりは、広義の官僚制のもとでの上下関係という、軍隊的な「垂直分業」を再生産するべく、リクルートの初期段階で、最高位までたどりつきうる少数のライバル関係集団を頂点とする、「出世すごろくゲーム」にほうりこむのが、人事制度なのである。■国家公務員の採用制度や、法曹のリクルート、医療スタッフのなかでの医師国家試験を頂点とする国家資格分業などは、ロコツだが、民間企業も、その規模の大小をとわずに、これらのリクルートを展開してきた。
■ここで、キャリア組に要求される「柔軟な心身」とは、「命ぜられたこと以外になにもできない」という意味での「従順な心身」とは異質である。かりに、かれらの言動の本質が定型にハマっており、資本制やら官僚制の原理原則から、自由とはほどとおいようにみえるとはいえ、かれらに主体的な裁量権がわずかであれのこされていて、ときに上位者の意向にさからってでも、主体的判断を優先させるような言動、たとえば「逆命利君」なども出現しうる点で、それは「ロボット的」とは、到底いえない本質をもっている。■そして、東京大学をはじめとする、各種官僚制内部へのリクルート競争とは、「柔軟な心身」によって中間管理職以上の職位、研究・開発活動に充当される人材と、「従順な心身」として、組織のコマ・素材として利用される人材を、まずは2分し、それぞれのなかでの、裁量の余地の大小をふくめた労働条件の格差を正当化する装置なのである。
■その意味では、「これらの構造は、高度成長期であろうが、高度消費社会であろうが、本質的には不変である(いや、つい20年さきだって、不変なのではないか?)。


■また、これら「学校経由の就職」が時代錯誤でグローバル化する資本主義市場のなか、日本列島上でも急速に無意味化しているのかといえば、そうではなかろう。
■工業高校や大学の工学部の研究室が、「実績関係」といったコネクションによって、リクルート構造のなかで権益を享受してきた、といった、個々の風習などは時代錯誤になっていくかもしれない。■しかし、資本主義のメッカというほかない、アメリカ・イギリスなどの資本主義市場が、依然として学歴主義を「卒業」できていない。いや、むしろ、たとえば経営・経理なら修士号、ほかの分野なら博士号を取得しておくことが、「スタートライン」にたつ最低資格であるといった、資格主義は、日本以上に「学歴主義」が徹底しているとさえいえるのだ。
■現在の日本列島で、博士号をもっていること、すくなくとも博士課程後期を満期退学して、学会誌論文を業績としてもっていることを前提にしているのは、大学教員や研究所以外にないだろう。■そして、あやしげな学歴主義もどきで、たかだか東大法学部卒だので、はばがきいいてしまう、国家公務員やら国会議員などは、まったくもって「学歴主義」とはほどとおい、「発展途上以前」の時代錯誤な空間といってよかろう。


■したがって、木村先生が、既存の高校教諭などの認識を時代錯誤であると批判されることには、反対しない。■しかし、合理性はともかくとして、「学校経由の就職(就社ではない)」という、近代後期に定着した、この世界史的な普遍的現象が、そんなにあっさりと、きえさるとはおもえない。イヴァン・イリイチをはじめとする、教育批判思想がどんなに公教育や学歴主義を病理だと指弾しても、経済階層上、優位な地位を確保する層の大半が、「学校経由の就職」によるのだから、ことのよしあしとは別次元で、現実を直視しなければならない。■高校教師が、世間でやくだたない教科教育をナルシスティックにくりかえしているというなら、予備校講師の相当部分だってそうだろう。だって、小中高校での普通教育は、本質的に非実学的にくまれているからだ。
■いや、資格試験予備校だって、あやしい。国家資格が課している問題群が安定しているから、受験生の不安に対応するかたちで指導が可能なだけで、各種の資格試験の出題が実務の現実とはかけはなれて複雑だとか、簡単すぎるとか、そういった批判はたくさんある。
■その意味では、司法研修所であるとか、研修医の所属病院であるとか、ごく特殊な空間以外では、「すぐさまやくだつ知識」なんぞを、教師一般がとりあつかっていないということだ。■そして、企業や官庁は、学校の選抜機能は重宝がっても、学校がさずけた知識には、一貫して冷淡で、不信感・軽侮をたやさなかったではないか?

■そういう意味では、学校とは、「無用の用」的存在でありつづけたし、現在もそうではないか? ■けっして、「教習所」ではないし、「刑務所」や「病院」にたとえるのも、ズレがある。教員志望者にとっては、「知のネズミ講」として、家元制度や宗教教団ににているが、通過する生徒・学生の大半にとっては、無関係で、これも、うまくない。……■ま、その意味では、「託児機能を主務とするデイケア・サービス」、「受験業者のために基礎学力を保証する、作業施設」といったところか?……

■「かくれたカリキュラム」に自覚的・無自覚的にからまっていく教員各層の共存・対立・矛盾関係も、みのがせない。■「兵卒/下士官の育成・弁別装置」であるとか、産業戦士や経済官僚のリクルートをささえる基礎部分とか、うえあげた「デイサービス」などと同様、メタファーがシャレにならんという現実も無視できないだろう…。
■しかし、過去の聾学校が、手話を禁じながら、実質的にデフ・ファミリーにそだたなかった ろう児童に手話をみにつけさせる機能をはたしてきたという、皮肉な現実、帝国日本が皇室の藩屏にすべく設立した高校・大学(旧制)というエリート高等教育機関が、革命家やアナーキストの育苗になったように、学校は、教師はもちろんのこと、企業や官庁、家族が予想もしないような副産物をもたらす空間だとおもう(「ハコもの」じゃなく、大集団が結集することで生じる関係性・刺激もね)。■その意味では、すくなくとも、「反逆児の託児所」とか「特権組織の癌化装置」なんて、皮肉な表現もありえるか?(笑)
■ま、基本的機能は、「(1984年)の真理省の末端部局」といったところか…。



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