■ウィキペディア「
タイソン・ゲイ」から、一部転載。
2008年6月29日 全米陸上競技選手権に於いて、追い風4.1mという強風の中9秒68(追い風参考記録)という人類未到達の記録で優勝。追い風参考記録やドーピングにて剥奪された記録などを含めるとこの記録が「人類最速」のタイムである。
……
後半追い込み型の選手であり、特に50mを超えてからの追い込みが凄まじい。世界陸上2007大阪大会の決勝でも、前半でリードしていたアサファ・パウエルを後半で追い抜いての金メダル獲得であった。 ---------------------------------------
■「人類未到達」だの、「人類最速」だとかいうが、「
前半でリードしていたアサファ・パウエルを後半で追い抜いての金メダル獲得であった」ってことは、前半50mは、最速じゃなかったってことだね。
■ついでに、ウィキペディア「
ウサイン・ボルト」も一部転載。
2008年8月16日、北京オリンピック陸上男子100m決勝では、終盤勝利を確信したのか、両手を広げ流しながら走り、ゴールも胸を手でたたくなど余裕の走りで、9秒69(風速+0.0m/s)という驚異の世界新記録を樹立し、2位との差は0.2秒、他をまったく寄せ付けない圧倒的な速さで優勝、金メダルを獲得した。…----------------------------------------------
■コースごととか、ライバルの動静とかで、かけひきなどはなさそうな100m競争のばあい、オリンピックの勝者が「人類最速」を保証されていないことは、たしかなようだ。■ただ、「
追い風参考記録」って制度がある以上は、コースというより、レースの10秒前後のあいだの風速は、公認
記録になるかどうか、決定的になる。■そこで、ウサイン・ボルト選手は、公認された「世界最速」ってことになるのだろう。
■しかし、風速はともかく、100mはしるあいだ、つねに先頭でないかぎり、「人類最速」っていっていいか微妙なことは、さきにのべたとおりだし、なんで
100m競争のときに「人類最速」とか「世界最速」っていわれるのが自明視されるのか、わからんね。なんで、100ヤードじゃいけないのかとか、50mじゃいけないのかとか、
200m競争はなぜはずされるのかとかね。
■もちろん、200mはともかく、
400mとか800mなどは、無呼吸ではしりきることはムリなので、当然ペース配分、ライバルとのかけひきとかがでてくるだろう。■100mでも、あいてのスタートダッシュであせってしまって失速とかいうのがあるようだけど、それを除外すれば、かけひきぬきということになるだろう。しかし、逆にいえば、100mの過程で、ほかのリードをゆるすようなはしりをしたばあいは、「最速」じゃないことを意味する。
■そして、「おいかけっこ」型で、「おいついた方/あとおいぬいた方がはやい」といった論理できそいあうなら、ながい距離での勝者ほど「はやい=エラい」ということになる。
短距離より中距離、中距離より
長距離、マラソンより、100kマラソンの方が…とね。■実際、狩猟民の一部の戦略は、動物がつかれるまで、おいかけつづけるという手法らしい。
■そして、こういった「最速」問題に、ユレがあるからこそ、男子の100mと、マラソン競技の双方に、走力の象徴というか二極分化がうまれているんじゃないだろうか?
■ちなみに、競争者の相当数が棄権するような、フルマラソン級の競技のばあい、天候やコースによって、
記録がちがってしまうというのは当然として、ライバル同士のかけひき=精神戦が決定的ってのも、よくかんがえると妙だね。■かけひきなんか無縁にして、純粋な走力を比較するために、時間差でスタートさせちゃ、なんでまずいんだろう?■ 「いや、風速とか気温・湿度とか条件がかわってしまうから」などといった返答がでそうだが、マラソンなみに距離があると、途中で風速とか気温・湿度とか条件がかわってしまうでしょ? ってことは、同時にスタートしたって、バラけてはしっているあいだに、環境が微妙にかわってしまう危険性があるのは、ノルディックのジャンプ競技の風のいたずらと同質。
■球技や格闘技系などでは、よくあるが、「敵地」か「ホーム」かで、応援の圧力がちがうなんてのもあるよね。■陸上だって、応援がうるさくて、集中できないなんてリスクもあるだろうし、そういったものを全部こみにしている競技ってのは、純粋にはみえない。
■ちなみに、あらたな「人類最速」の
ランナーが登場したからといって、人類の走力の平均値があがったわけではない。平均値・中央値・最頻値などはほとんど不変だろう。人類の一部のマニアックな天才たちが、100分の1秒をあらそう。あるいは、「ぬりかえた」とさわがれる意味はどこにあるのか?(『
あたらしい自画像』三元社)■
SPEEDO社製の水着などによる
記録更新などとも無関係とはいえない「進歩」「達成」だ。
■もし、
パラリンピックの選手の一部に、
義足で、「なまあし」の
ランナーよりはやい層がでたとき、かれら・かのじょらを「人類最速」とよぶだろうか?■よばないとしたら、
SPEEDO社製の水着や
ドーピングやらの問題と義足とは、どう異質なのだろう。義足はドーピングとおなじ、ズルなのか? 特殊なウェアとかトレーニング法がズルでない理由は? 義足によって
サイボーグ化した選手が、フェアじゃないというなら、どこまで最新技術をもちこむのが、ズルじゃないんだろう?
■経済力とか、各国代表になるための競争の水準とか、予選で世界記録を更新してしまうとか、4年に一度、各国代表として、わくをあらそうほかないという、オリンピック独自の問題もあるけど、記録とか勝敗というものがかかえる根源的な矛盾が、すけてみえるね。■純粋な身体能力だの、非政治的な環境だの、そういったイメージは幻想だということ。■そして、4年に一度ぐらいしか、その競技をめにすることがない、にわかファンにとって、競技者のせりあいの意味なんて、わかりっこないわけで、そこでの興奮や感動ってのも、ナショナリズムや商業主義、映像技術なんて、「背景」の「不純物」から自由ではないってこと。
■たとえば、中国国民が日常的にはほとんどたのしまない柔道という競技に、やたらとつよい選手が続出するといった不可解な現実の異様さとかもふくめて、「ひたむきさがうむ感動をありがとう」などと、ソボクな感想をいっているばあいじゃなさそうな、舞台ウラがすけてみえる。■いや、「ひごろ みききしない柔道競技を観戦して自国選手を応援する中国人は異様だ」などといいたいのではない。それなら、日本人だって、町道場をめにしない国民が大半のはずで、体育で男子を中心に武道の一種としておしえられなければ、しらずにおわるのがつねなに現状。フランスにも競技人口でしたわまるような現状で、「本家意識」をかかえる連盟と、それに疑問をもたない国民ってもの自体が、充分グロテスクだし。
●「
「泳ぐのはあなたでも、世界記録を出すのは水着です」(素粒子)」
●「
オリンピックで露呈するグロテスクなナショナリズム」
●旧ブログ
「柔道」関連記事
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タグ : ランナー短距離長距離記録
『朝日』社説(08/18)
北京五輪の晴れ舞台で、電光掲示が映した数字は9秒69。21歳のスプリンターが演じた衝撃的な世界新記録に、世界の人々が酔ったに違いない。
俊足自慢ぞろいのレースで、誰よりもリラックスしていた。
スタートの位置につくまで、場内の音楽に合わせて体を揺らしていた。選手紹介の場面では、自らの胸をたたいて「ぼくだよ」とおどけたしぐさ。ゴールの10メートルほども前から勝利を確信。両手を広げ、歓喜のポーズのまま駆け抜けていった。このリラックスぶりが、技術的にも世界新記録の原動力の一つになっていたといってもいい。
走るというもっともシンプルな動作は、神経と筋肉の複雑な連係プレーから成り立っている。
例えば、脚を動かすには太ももの前と後ろの筋肉を交互に収縮させる必要がある。トップスピードに乗ってから「さらに速く」と考えると、脳が筋肉へ与える指令が速くなり、混乱して前と後ろの筋肉が同時に収縮する現象が起きやすい。こうなると筋肉が固くなり、速さは鈍る。
彼の残り10メートルは流しているようにも見えたが、緊張せず、最後まで神経と筋肉を制御していたに違いない。
人間はどこまで速く走れるのか。研究者たちの間では9秒6が限界の一つに挙げられてきた。早大・人間科学学術院の鈴木秀次教授も、かつてそう予想した一人だ。様々な運動能力の向上などから考え合わせた結果だったが、あっさり到達されてしまった。
「頭が小さく、腰回り、ももの付け根が太い。失礼な例えだが、サラブレッドのようだ」と鈴木教授はみる。
身長196センチはそれだけで短距離走者の常識を覆すサイズだ。小刻みに足を使うスタートに失敗すれば、ストライドが生きる最高速度に達する前にレースが終わってしまう。従来なら違う競技を勧められていたに違いない。
常識を疑うことで可能性は生まれる。近年の記録向上は靴やトラックの改良もあるが、肉体そのものにまだ記録が伸びる余地があることを示した。
歴史に残るという意味では、競泳男子のマイケル・フェルプス選手(米)による金メダル8個獲得も偉業だ。72年ミュンヘン五輪で同じ米国のマーク・スピッツが記録した7冠を上回っただけではない。フェルプス選手の金は1人で四つの異なる泳ぎをこなす個人のメドレー2種目を含んでいる。
競泳では最も長い間破られなかった女子800メートル自由形の世界記録が、19年ぶりに塗り替えられた。
限界にみえるような記録も壁も、いつかは乗り越えられていく。
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■「限界にみえるような記録も壁も、いつかは乗り越えられていく」。そんなはずはない。いずれ「限界」がかならずくる。しかも、ごく一部のエリート・ランナーが、記録をぬりかえることが、人類全体にとってもつ意味は、実はほとんど0にちかいことは、『あたらしい自画像』などで、あきらかにされたとおりだ。朝日の論説委員も、人類の限界はまだやってきていない、という共同幻想にまどろんでいる自覚がないようだ。■こんな方向に大衆をまどろませるかたちで、「希望」をつないだつもりになって、どうするというのだろう?■スポーツの記録といった方向でない、「改善」「解放」があるだろうに。
けしてしまったので、代理投稿
ホスト:pr-out-f136.google.com
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別に50mで走っているわけではないので前半が遅かろうが関係ないと思いますよ。
よくおよみくださいね
■後半おいこみがたランナーで、50mすぎてから逆転するタイプなら、50m走や30m走競技が制度化されたばあいに、「人類最速」でなくなるだろうということです。■したがって、「別に50mで走っているわけではないので前半が遅かろうが関係ない」というコメントも無意味だということですが、おわかりですか?
■いや、「ダッシュ」力で「人類最速」をうんぬんする妥当性だってあやしい。■本文でかいたことを具体的にイメージさせるなら、100mでの「人類最速」ランナーは、400mでの「人類最速」ランナーにおいぬかれ、そのランナーも800mでの「人類最速」ランナーにおいぬかれ…、マラソンの世界記録保持者も100kマラソンの記録保持者においつかれそうです。初速の10m前後から100m通過までずっとぶっちぎりのスプリンターも、後続ランナーが一流であるかぎり、どこかで、各種目のエキスパートにおいうかれると。10m→50m→100m→500m→…5000m→10km→50kmと、ずっとおいぬかれない、あるいはおいていかれない、ランナーはたぶん実在しない。■それは、100mと200mや、200mと400mの世界記録保持者はでそうでも、100mと800mの世界記録保持者や、800mとマラソンの世界記録保持者がでそうにないことで、ほぼ立証できそうです。■傍証としては、跳躍や投擲(トーテキ)もふくみますが、陸上の十種競技(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%AB%B6%E6%8A%80)の勝者が「キング・オブ・アスリート」と尊敬されるのに、その世界記録9026ポイントの、うちわけの記録ひとつひとつ(100m,110mハードル,400m,1500m)は、一流選手にとおくおよばない(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%AC)、という事実があげられるでしょう。もちろん、とんだり、なげたりと、はしることは、異質な能力といえそうですが、短距離と中距離での競技能力を両立させることさえ困難だということは、「スペシャリストは専門バカ、ジェネラリストは器用貧乏」という、普遍的一般則が陸上にもあてはまりそうだということ。■陸上の十種競技の勝者が「キング・オブ・アスリート」と称されること自体、短距離と中距離の競技能力は、筋組織や心肺能力という2方向で両立しえないと(すくなくとも、両方で一流にはなりえないと)いう経験則ゆえの、皮肉な現実の象徴でしょう。
■つまり、「人類最速」とは、10進数にもとづいた恣意的なトラック競技や、マラソン競技など特殊な距離が歴史的偶然できまったロードレースの、それぞれでしかいえない恣意的な「多神教」しか成立しない。10m→50m→100m→500m→…5000m→10km→50kmと、ずっとおいぬかれない、あるいはおいていかれない、真の「人類最速」ランナーはたぶん実在しえない。
くりかえしになりますが
「ミネルバ7.7」
http://sports.geocities.jp/minerva77hokkaido/
トロプス/からだであそぼ
http://www.google.com/search?hl=ja&rls=com.microsoft%3Aja%3AIE-SearchBox&rlz=1I7GGLJ&q=%22%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%97%E3%82%B9%22&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
"からだであそぼ"
http://www.google.com/search?q=%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%A0%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%9D%E3%81%BC&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&ie=UTF-8&oe=UTF-8&sourceid=ie7&rlz=1I7GGLJ
「別に50mで走っているわけではないので前半が遅かろうが関係ない」といった論理の破綻
http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/etc/news/20090821-OHT1T00151.htm
国際陸連(IAAF)は20日、ウサイン・ボルト(22)=ジャマイカ=が19秒19の世界新記録を樹立した世界陸上選手権男子200メートル決勝の50メートルごとの通過タイムを発表し、ボルトが後半100メートルを9秒27で走っていたことを明らかにした。
最も速かった区間は4秒32で走った50~100メートルで、秒速は11・57メートルだった。2位のアロンソ・エドワード(19)=パナマ=に0秒62の大差を付けたボルトは、すべての区間で決勝に進出した8選手中の最速だった。
■本文中で、世界最速といったときに、どうして100m男子だけが着目されるか指摘した。「なんで、100ヤードじゃいけないのかとか、50mじゃいけないのかとか、200m競争はなぜはずされるのかとかね」といったぐあいに。■トラックバックした記事でとりあげた、ボルト選手のばあいは、「すべての区間で決勝に進出した8選手中の最速だった」そうだから、たぶん 世界史上、200mのあいだ、だれもおいつけない「最速」の人間なのだろう。■しかし、みのがしてはならないのは、「後半100メートルを9秒27で…最も速かった区間は4秒32で走った50~100メートルで、秒速は11・57メートルだった」という点。つまり、スタートダッシュという、初速の部分を除外すると、50~100m区間は平均8.64秒ペース、100~200m区間は平均9.27秒ペースで、はしっていたという計算となる。これひとつとっても、なぜ、「最速瞬間」の比較とかがなされず、単なる10進数に安易にしたがった距離競技をもって、しかも100mに奇妙にスポットライトがあたったかたちでの「世界最速」だの「世界新」が ウンヌンされるのか、正当性がうたがわれるというものだ。
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