■たとえば、京都市の「左京区」についてウィキペディアでしらべると、
つぎのような記述をみかける。
「左京」とは、天皇の在所すなわち御所から見て左側の意。天皇は南面して玉座に座っていたので左は東になる。そのため地図上では右にありながら左京と呼ばれる。本来左京と言えば平安京(洛中)の東側のことであったが、京都市の行政区として生まれた左京区は鴨川左岸の洛東(洛外)地域にあたる。■後半は意味のある記述だが、記述者が前半をわざわざかく必要をみとめたのは、「北上/南下」という、みなれた
地図の上下(東西南北)感覚を自明視している(あるいは、そういった読者を当然視している)からだ。
■ちなみに、「
なぜ地図は「北が上」なのか?」という掲示板は、実に勉強になる。
[17578] 2003 年 6 月 30 日 (月) 15:40:08 U+3002 さん
地図の向き
ARC 地名における「上」と「下」
[17485]両毛人 さん
地図がなぜ北を上にしてつくられようになったかということにつきましては、一般的な説として、方位磁針が北を指し、また方位を知るために古くから北極星が目標とされていたため、というものがある
だとすると、かりに文明が南で生まれたとしても、必ずしも南が上ということにはならないですね。
南極星はないですし、すると、方位磁石が南を指す(正確にいえば、南を指すがわに印をつける)ともかぎらなそうです。
[17496]Issie さん
「北が上」というのが何を起源としているのか,私はよく知りません。
平城京(奈良)や平安京(京都)では確かに内裏が都の北端に置かれ,しかもそれぞれ大和盆地(奈良盆地)や京都盆地の北端に位置したせいで,地形的にも「北が高く,南が低い」という状況にあるのですが,これが「必然」とは必ずしも言えないと思います。
「天使は南面す」と言われますから、古来は「北が上」というのは自然な感覚だったと思います。
十二支の第1支「子」は真北で、五行説でも、第1行「木」は北です。
ただし、東アジアの地図は「北が上」ではなく、皇帝に見えるまま、つまり「南が上(というか遠く)」です。
私見ですが、現在の「北が上」という感覚は、古代の「北が上」とは断絶しており、ヨーロッパ起源だと思います。
以下、思いつくままに書き連ねます。
北を上とするのは、プトレマイオス『世界地理書』が起源と言われています。
プトレマイオスは円錐図法を採用したため、北を上にすると地図が正立三角形(△)になり、レイアウト上つごうがよかっらからだそうな。
ただ、「北が上」が主になるのは、ルネサンス以降です。
中世ヨーロッパでは、エデン(もちろん架空)の方角である東が上でした。
同時代のイスラムでは、南が上でした(理由は不明)。
天文学では、自然の法則として、北半球なら「北が上」です。
簡単な例では、(北緯35°なら)北極星の高度は35°、天の南極の高度は−35°です。
天の北極周辺の狭い領域では上下が逆転することもありますが、それ以外では常に「北が上」です。
ただ、これが地図の向きの確立と関係しているかどうかはわかりません。
天体望遠鏡では、視野が180°回転して見えます。
そのため、天体図(天体の地図)は、南が上に書かれることがあります。
近年になって、惑星探査機の写真をもとに地図が描かれるようになったからか、「南が上」の天体図は減りました。
神戸では、北を「上」、南を「下」と言うそうです。
標高/河流からでしょうね。
ただ、これは六甲山以北にまで適用されるのか、気になるところです。
オーストラリアの「南が上」地図は、観光客向けのみやげものらしいです。 ---------------------------------------------
■ほかにもいろいろあるが、ともあれ、京(畿内)中心の地理感覚や、東京中心の地理感覚だけじゃなくて、地図の方向感覚も客観視しておく必要がある。■人工衛星写真の複製じゃなくて、よみとりやすいようにデフォルメされているとか、いろんな意味での地図情報の加工過程すべてをね。
■ま、これは以前かいた、
空間的前後を投影して、「時間的前後」という次元を表現しようとしたニホンゴの問題と、少々かぶるね。■「川上/川下」や、「山頂/ふもと」のような身体感覚にねざした上下関係とは無関係に、東西南北に上下関係を投影したものだし、京/東京中心の文化的序列意識ともまた別の種類として。
■ちなみに、人工衛星などのように地球の重力から自由でない存在でも、東西南北という感覚は地図的な擬制だってのは、体感できるものなのだろう。■ましてや、月にいくとか、地球の重力から相当程度きれてしまえば、上下感覚自体が消失して、宇宙船内の上下という装置的擬制しか、基準が消失する。
■もっとも、人間だって、ふかざけしたり、重病でしばらく意識をうしなったりとかして、時間感覚をうしなうぐらいねむりつづけたあとは、地理的感覚があやしくなって、「ここはどこ」になるだろう。
■いや、われわれ方向音痴は、ナビゲーションシステムからきれてしまったりすると、それこそ「(わたしがいる)ここは、どこ?」状態は、しばしばやってくる(笑)。■要は、地図的な鳥瞰的感覚をしばしばうしなう、人間存在にとっては、地図的な方向感覚を基準にしないと、客観的な方向意識をうしなってしまう。■目前の前方しか、自分にとっての「進行方向」でしかない、っていう、「井の中の蛙」状態(同語反復的な自己意識)にね(笑)。■時間感覚において、基本的には「いま」しかない、われわれ人間にとっては、空間感覚においても、基本的には「ここ」と「まえ」しかないんじゃないか? そういった自己中心性をほうっておいたのでは、近代的な契約関係が維持できないから、地図と
時計(
標準時システムの「支社」)がかかせなくなったんだろうね。
●ウィキペディア「
地図」
●ウィキペディア「
Category:地図」
●ウィキペディア「
北」
●「
時間的前後・空間的前後」
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