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「公教育のメタファー」という記事へのトラックバックへの、おかえし記事。
■木村先生、「どんなラインにはりつけられようと、即座にプロセスの意味を認識し、即応できるような心身の練磨」は、「
急激に不適応を示し始めた…。そういう能力は付加価値を産めない…。…忠犬ハチ公は、しょせん、時給700円の世界でしかないという現実。中国やインドで十分安価な労働が調達されてしまうという現実。多様な価値、多様な需要、多品種少量生産、こうしたコンセプトが富を蓄積していくのだという現実に、教育は対応できなくなってきた」とする。
■そして、だからこそ「
グローバリゼーションという状況から、せめて、当人は多様を生み出す能力はないかもしれないが、多様を受け容れる、多様を欲する個人、そうした舌の肥えた消費者で構成される社会をつくり、そのなかから、リーダーシップをとる個人や企業体が多様を生み出す社会になること…。…よき消費者となるための教育。…つまらない授業はつまらないと判断し、自分にとってとんがった食指を持てる個性に育てる、これが教育の新しい段階としてせり出してきている…。環境に配慮する個のありかた。多様を受容できる個の在り方、これが教育の内実を占めるようにならなければ、次のシナリオはない」と。
■今後の中等教育(中学高校・高専1~3学年など)の方向性、とりわけ、職業教育以外の普通教育(要は教養教育)領域については、特段に異論はない。■しかし、過去からの経緯というか、現状認識については、少々違和感がのこる。なので、違和感の整理を少々。
■①まず、これまでの中学・高校は、「
よき消費者となるための教育」と無縁で、「
どんなラインにはりつけられようと、即座にプロセスの意味を認識し、即応できるような心身の練磨」を目的としていたか? である。■自分で過去このようにかいておいてなんなのだが、ハラナ個人は、こういった総括には賛同できない。
■「
どんなラインにはりつけられようと、即座にプロセスの意味を認識し、即応できるような心身の練磨」は、あくまで結果論、ないしは、暗黙のうちに企業社会や官僚組織が学校に期待してきた「
かくれたカリキュラム」として、のべたまでだ。明確な教育目標として明文化されたことは一度もないはずだ。
■もちろん、こういった方向性で成果をあげられる生徒は、「できる子」であり、教師・使用者がわが のぞむ、「いい子」にほかならない。だから、明文化されたカリキュラムとか教育方針にかかげられていなくても、事実上、学校文化・教員文化が、これらの方向性を強化することはあれ、それにはどめをかける力学はほとんどなかったとおもう。■しかし、だからといって、「
どんなラインにはりつけられようと、即座にプロセスの意味を認識し、即応できるような心身の練磨」が「
かくれたカリキュラム」ではなくて、「おもてのカリキュラム」で、大手をふるってきたといえば、ちがうとおもう。
■なぜ、こう断言していいかといえば、そういった「
心身の練磨」が主目的なら、教材をもちいた教科教育は、単なる「練磨」のための「素材」にすぎず、はっきりいえば、なんだっていい、ということを意味するからだ。■これは、C.
ダグラス・ラミス氏が、『
影の学問 窓の学問』などで、《無意味な苦行をしいるのが軍隊だが、学校教育も本質的に大差ない》と痛烈な皮肉をのべたこととかぶるのだが、軍隊はともかく、学校教育が、これを主目的にくまれているといった「自画像」を教員各層がえがくとは到底おもえない(笑)。■しかし、これら教科教育のはらんでいる無意味性、虚無性問題は、「
どんなラインにはりつけられようと、即座にプロセスの意味を認識し、即応できるような心身の練磨」を「
かくれたカリキュラム」として理解したときに、充分合理的に説明がつくし、なぜ企業社会や官僚制が、こういった「かくれたカリキュラム」に依存してリクルート活動をくりかえしてきたかも、理解しやすくなると。■これらの構図は、全然皮肉でもなんでもない。教科教育に全身全霊をこめてきた、きまじめな教員以外にはね。
■②つぎに、「
よき消費者となるための教育」と無縁であったかといえば、職業高校や高専の専門カリキュラムはおくとすると、それ以外の、いわゆる「普通教育」の本旨は、むしろ「
よき消費者となるための教育」、ないしは「よき市民となるための教育」をめざしていたとおもう。機能不全が基本で「羊頭狗肉」そのものだったとはおもうがね(笑)。■いいかえれば、旧文部省や旧・
教育基本法(いや、新・
教育基本法でさえも)が目標とした普通教育のタテマエとは、「よき消費者」「よき市民」像であって、「よき労働者」ではなかったとおもう。「
どんなラインにはりつけられようと、即座にプロセスの意味を認識し、即応できるような心身の練磨」を主目的にしていたら、あんなカリキュラム構成になるとは、到底おもえないしね。
■これは、
大塚英志さんあたりのとく、近代家族の結婚戦略=「
箱入り娘」化志向と呼応している。■要するに、、なるべく高値でうりぬけようとする両親たちの利害の産物として、「花嫁修業」の一環として位置づけられたのが、旧制の高等女学校や新制の高校・短大の「普通教育=教養教育」だったということ。■男子の教養教育が、経営者・技術者・労働者としての素養だったのに対して、女子の教養教育が「
良妻賢母」のための素養だったということ、学校教科的な分類でいえば、前者が「よき市民」養成、後者が「よき消費者」養成という方向での、政治経済系の社会把握に象徴されるとはいえ、その内実に、そう大した差はなかったはずだ*。
* 「よき消費者となるための教育」としては、消滅の危機にある短大の家政科(4年制大学の「生活科学科」に編成がえされるのが一般的)の「家政学」系とか「生活経済学」あたりの科目がある。男子学生に、これらの視座が不要なのかといえば、そんなはずないんだけど、男子には、経済学やら経営学という、「ビジネスマン・モデル」が強固なわけだ(笑)。
つまり、大学・短大では「性別役割分業」がロコツだが、高校までで、女子校の「政治経済」は「家政系」なんてことはなかったはずだ。同様に、男子校の「政治経済」が、経営学の基礎なんてこともなかっただろう。
最近のはやりで、高校などで投資家ゲームをやらせるなんてのも、ことの是非はおくとして、男女差はなかろう。もちろん、それが「よき市民」とか「よき消費者」モデルから はみでた、「よき経済人」モデルへの移行であることには注意が必要だ。■「花嫁」としてうりつけるにしろ、「兵士」としてうりつけるにしろ、「こんなにいい子にそだちました」という、高級肉牛の品評会(競走馬のセリではない)みたいな、カムフラージュされた利害闘争がかかえこまれていたということだ。■教員各層が、受験校以外は暗黙のうちにふせておきながらも、その実しっかりと利害としてからんでいた、階級・階層の再生産機能とか、労働市場の選抜機能の準備作業とか、「普通教育=教養教育」と一見対極にみえる教科教育が、なぜ「高級肉牛の品評会」的な、欲望のアリーナとせなかあわせであるかは、これでよくわかる。■「愛情・丹精こめてそだてた肉牛」は、市場で消費される。
■銀座の一流クラブのホステスさんたちが、毎日美容院でセットし、ときにエステで全身にみがきをいれるだろう、「戦闘準備」態勢の日々、あるいは、スポーツ選手がオフシーズンもふくめて、「パフォーマンス商品としての心身」の調整に余念がないように(ま、一流選手だけだが)、「高級肉牛」を頂点とした「市場原理」に、超微細な差異化をこらして供給しつづけるのは、そういったゲームからおりづらい、保護者・教員各層の個人的利害である。
■これらの素描をもとにすることによって、「
海陽中等教育学校」やら、東京・杉並区立和田中学「
夜間塾問題」といった、あらての現象もよくわかる。6年間一貫性教育という、複線(ぬけがけ)教育とか、東大・京大、早慶等の有名大学をめざした、毎年くりかえされる壮大な古典的茶番劇はもちろんね。
■③
木村先生、「
中国やインドで十分安価な労働が調達されてしまうという現実」が「
多品種少量生産」へのシフトを余儀なくしているとのべている。これ自体に異論はないが、これと労働市場の長期的動態とをからめるなら、先生も依拠している
中岡哲郎氏の、労働の外化問題から、もっとふみこむべきだとおもう。
■中岡氏のするどい着眼は、労働過程が徹底的に分析・分解され、それが大量複製技術として吸収されたあと、労働者の主体性も解体・消失していく。しかもそれは、研究所などの知的労働にもあてはまる。という、おぞましい図式だった。教育労働の一種である、新人研修がマニュアル化されたことをも射程にいれた「
マクドナルド化」とリンクする、おそるべき予測だ。■要するに、
複製技術の究極的な進行は、経営陣とか営業職とか、ごく一部の領域にしか、熟練を要求しない。ひたすら、ロボット化が進行し、ひとはそのロボットのおもりをすべく、「モダンタイムズ」の世界を余儀なくされる。「
コンピューターをふくめた複製ロボットのケア労働」こそ、われわれ労働者の実態・本質なのだ。■いや、総本山「マクドナルド」の研修マニュアルを頂点として、「ひとづくり」自体が複製過程であって、「リクルート」労働ではないとなれば、もっとも人間くさい領域も、ロボット的作業が中軸になる。木村先生自身が、「
マニュアル化した教材をみ、教材の指示に従い、教材とだけ向かい合っています」と、同僚教員たちの視野における生徒不在をなげいているように、教員が充分ロボット化しているではないか?■そして、一部の受験産業で実際にすすんでいるとおり、塾講師の創意くふうをほとんど消失させた完全管理の授業運営がマニュアル化されている空間が誕生したということは、ちかい将来「最大効率を維持するための授業運営マニュアル」と、「初任者研修運営のためのマニュアル」といった、印刷物とパワーポイントの複製のためのファイルが開発されて、全国津々浦々に配給されるのではないか?
■そして、
こういった うねりが巨大なものとなった段階では、もはや、「教科教育の目的」といったことを、とうこと自体が無意味になっているということが、重要だ。だって、ロボットがくりかえす複製作業に、目的なんか、あるわけがない。必要(タイミング/需要)に応じて、必要十分な質/量の複製物をコピーするだけなのだから。■そして、一点豪華主義でプチ貴族化した、「満腹してわがままな消費者」の需要をみたすためには、「
多品種少量生産」に当然シフトした「プロデュース(produce)」が実践されるだろう。薄利多売系大量生産の商品で満足する(あるいは、満足したふりをするほかない)下層大衆と、「満腹してわがままな消費者」の需要を「ふたこぶラクダ」のかたちで市場分業して、になうという、業界内外での「巨大な闘技場」が日々展開しているはずだ。■要するに、大衆社会が未成熟だった近代初期やそれ以前、特権階級むけに、一品もの制作がくりかえされた市場が 大衆社会でうもれ一見かくれたが、なくならなかった。こうした「ひょうたん型」市場むけの「分業」が、大衆社会後期にはいって再編されたということ。「ロボット(+ロボット的労働者)」がつくる製品がでまわる市場と、職人・芸術家が一品もの/プレタポルテ/版画みたいな限定生産をくりかえす市場に、どちらにまわることができるかだ。■サービス労働だって、「
マックジョブ」と高級料亭のおかみ/料理長とを両極としたね。■パフォーマンスだっておなじ。「BGMでいいや」とみなされれば、CDですまされてしまう。他方、あるパフォーマーのライブをみたいとなれば、数百人~数万人という人間が会場にいき、会場にいかなくても、数億人といった規模の人間が中継放送にみいったりする。「かけがえのなさ」という次元でのブランドの格差が厳然とある。
■④悲喜劇的というほかないのは、「
忠犬ハチ公」とか「
時給700円の世界」からの脱出、そこへの埋没の回避をもとめた、「イスとりゲーム」こそ、中等教育を軸とした公教育空間の闘技場だということだ。■前項でふれた「愛情・丹精こめてそだてた肉牛」という皮肉をこめたメタファーは、「
忠犬ハチ公」とか「
時給700円の世界」からの脱出、そこへの埋没の回避をもとめた「イスとりゲーム」の茶番劇ぶりを描写するための準備作業である。はっきり いいかえるなら、証券(生徒)/投資家(保護者)/証券業者(教員)がおりなす「マネーゲーム」であるとか、「OSしか くみこまれていないコンピューター」が、さまざまな高級ソフトをインストールされ、基本データがうちこまれて、「高級ロボット」へと「変身」をとげていく「成長物語」(高級和牛とちがって、一度の消費ではきえさらない)……。といったぐあいにね。■こういったメタファーは、たとえば株式市場に上場できない証券であるとか、「高級ロボット」まで「成長」しきれなかった複製ロボット…とか、依然としてくりかえされている「イスとりゲーム」がかかえる悲喜劇を想像するために有効だろう。
■そして、これらの悲喜劇は「イスとりゲーム」が、時代おくれになるまでくりかえされだろう。そして、そういった、根源的な意味であたらしい時代がやってくるまで、どのぐらいの時間がかかるのか、わからない。あきらかなことは、根源的な意味であたらしい時代がやってくる相当まえの段階で、中等教育の市場的機能がみかぎられてしまう時代がきそうだが、それが20~30年では到来しそうにないことだ。ことのよしあしはともかく。
●「
超ぜいたくな初等教育は可能か?」
●「
「量的変化の質的転化」考2【追記あり】」
●旧ブログ「
複製技術」
●旧ブログ「
マクドナルド化」
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タグ : 中等教育ロボット大量生産多品種少量生産
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