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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ 一生を母親に貪り喰われた男』は相当スキャンダラス

■きのうふれた羽入辰郎マックス・ヴェーバーの哀しみ 一生を母親に貪り喰われた男』(PHP新書)は、かなりスキャンダラス(笑)。■羽入氏のメジャー・デビュー自体がスキャンダラスだったが、今回もすごい。
グーグル検索で第一位にきてしまう『極東ブログ』の紹介は、あまりにマニアック。■なので、もうすこし穏当でバランスのとれた紹介をのせておく。

マックス・ヴェーバーの哀しみ
羽入 辰郎著

家庭背景から見た学者の病
 マックス・ヴェーバーは大きな業績を残した宗教社会学者である。戦後の日本にも影響を与えて、「知の巨人」とまでたたえられた。それは近代合理主義を学びたいという意図からだったが、しかしそんな時代は過ぎ去って、現代人が抱える大問題は崩壊する家庭に関するもの。
 著者はソーシャルワーカーとして精神科の病院に勤務した経験を持つが、本書で問題とするのもヴェーバーの両親の対立、母子関係、妻マリアンネとの夫婦生活など。家庭的な背景から、彼の学問が何だったのかを問おうとするのだ。
 著者によれば、マリアンネが書いたヴェーバーの伝記は、夫の精神疾患が縦軸になっていて、誰が夫を精神疾患になるまで追いつめたかを主題にしているという。夫妻は性関係を結ぶことができなかった。しかし夫は愛人と不倫の恋をしていたのだ。

 哲学者カール・ヤスパースはヴェーバーを診察した精神科医だったが、ヴェーバー没後、愛人エルゼ・ヤッフェあての恋文を見せられて、「マックス・ヴェーバーはまず妻マリアンネに対して、ついで自分自身に対して、さらに彼の姿を仰ぎ見ていたわれわれすべてに対して、裏切りを犯していたのだ」と書かざるを得なかった。

 本書の論旨を一言でいえば、ヴェーバーは世俗的な父と同じタイプの人間だったが、夫と対決したカルヴィニストの母の虜(とりこ)にされて、いやいや学者となり、嫌いな宗教を扱う羽目になってしまったという。

 そのヴェーバー像は想像にもよるが、それでも彼が宗教を扱った際の疎遠な感覚を裏付けるものがあって興味深い。著者は有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、作者が資料を改竄(かいざん)したことまで指摘する。

 興味をそそったのが資料についての脚注だ。全集が出されたが重要な時期の書簡はすべて未刊であり、ヤスパースによる病状記録もマリアンネが破棄したとのこと。隠された闇の部分を著者は主題としたのだ。

 増子耕一

(本紙掲載:11月25日)

----------------------------------------
■羽入氏、にげをうっているというよりは、慎重に

…現在刊行中のヴェーバー全集は、書簡集を第五巻『1906-1908年』からしか出しておらず、…要するに、マックス・ヴェーバーの精神疾患の原因を、その成育史から究明しようという、われわれの関心から見た場合の肝心な部分が、さっぱり刊行されていない…
 本書は以上の事情により、マリアンネによる『伝記』に大幅に頼らざるを得なかった。本書の最大の弱点がここにあることを、筆者は誰よりも承知している。


とことわっている〔pp.198-9〕。■しかも、

 マリアンネの『伝記』の中にエミーに関する情報は少ない。いつもはヴェーバーの相手方の手紙も引用し、立体的な俯瞰図を作ってくれるマリアンネが、エミーの手紙だけは引用しようとしないのである。これは実に奇妙である。
 ヴェーバーがエミーに宛てて書いた、『青年時代の手紙』に編纂されているヴェーバー側からの相当数の手紙は、よく考えてみれば、実は受取人であるエミーが所持していたはずのものである。それを『手紙集』に編纂すると聞いて、エミーからマリアンネに渡されたものと推測される。
 では、ヴェーバーの側に保存されていたはずのエミーからヴェーバーに宛てた、やはり相当数にのぼるはずのエミーの手紙は、一体どこへ行ってしまったのか。生前のヴェーバーが、マリアンネとの結婚を決意した時、全て焼却したとでも言うのか。
 しかし、そんな記載は、もちろんマリアンネの『伝記』のどこにも記載されていない。『伝記』であれだけヴェーバーが少年時代に受け取った手紙まで使い、人間関係をあれだけ立体的に構成してみせてくれたマリアンネが、この重要な時期のエミーからの手紙だけは一切使おうとしないのである。
 嫉妬……という言葉が筆者の脳裏をかすめる。
 そういえば、後にヴェーバーの愛人になったエルゼ・フォン・リヒトホーフェン〔結婚後、エルゼ・ヤッフェ〕に関する記載も、『伝記』においては妙に少ない。但し、エミーはエルゼよりはるかに深くヴェーバーの生き方の問題性を見抜いていた。
 妻であり、夫の学問的理解者であると自負していたマリアンネとしては、肉体関係があったエルゼに対してよりも、精神性のつながりが自分より深かったエミーの方を、より深く嫉妬するであろう。
『伝記』にわずかに引用されているエミー自身の手紙は、ヴェーバー没後の、ヴェーバーとの、あのかけがえのない時期を回想した一通の悲痛な手紙のみである。……
〔pp.140-1〕

とものべている。■筆者がほのめかすとおり、ヴェーバー/エミー間の書簡の相当部分が、マリアンネによって焼却など処分されている可能性が否定できない。自分が信じたかった、そして世間に信じさせたかったヴェーバー像構築にふつごうな(=衝突矛盾する)データを永遠に消滅させるために。■(ヴェーバーの精神病理をするどくみぬいていた)エミー >> (実は肉体関係があった愛人)エルゼ >> ヴェーバーが性的不能におちいっている(その原因が全然特定できない鈍感な)マリアンネ、という、歴然として格差を、漠然とながらも マリアンネは直感していただろう。

■ともあれ、ヴェーバーの母 ヘレーネは、少女時代に経験した性的暴行をトラウマとして、(カルヴァン主義的な潔癖主義もあいまって)、性へ嫌悪感をすてきれず、マックス・ヴェーバーら兄弟を愛することができなかった。■しかも、むすこを支配しようとして、唯一成功したのが、成人後のマックス・ヴェーバーであり、それがゆえに、エミーと結婚できず、マリアンネとも性的不能であり(夢精はするのに)、ヘレーネがノーマークだった愛人たちとだけ性交渉が可能だったと。■そして、実はすきですきでしかたがなかった父親の人生(政治的・弁論的世界)のあとおいも阻止され、全然きのりしない大学人という人生をムリやりおくろうとして、人生の大半を精神疾患をわずらうかたちで、浪費したというのである。20年以上もの長期間。■通説となっている、父を論難して、死においやったという自責の念が精神疾患の原因ではなくて、自分を抑圧した母への、抑圧された憎悪のせいで。
■しかも 羽入氏によれば、あの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』自体が、いやでいやでしかたがない学問への屈折しきった心理(=全然本気で正当化できない「職業としての学問」への自己欺瞞)の産物であり、しかもそこには、カルヴァン主義への憎悪をともなった非難がこめられている〔pp.104-28〕というのだから、おそれいる。

■羽入氏は、「学問が“自分のものではなく、母に取られてしまったもの”であること、“母への貢ぎ物に過ぎないもの”であること…自分が母にコントロールされていたことに、全く気づかなかった」〔pp.193-4〕と推定する。自覚せずとも、精神的に破綻寸前だったのだから、それはやろうにも、できなかったというのだろう。■羽入氏にいわせれば、母親に愛されたかった時期に拒絶された体験=トラウマをいやそうとして、支配・抑圧しようとする母親の術策にはまり、その自覚なしに自己欺瞞の人生をおしとおしてしまった悲劇の人物、「ヴェーバーだけが、学問することの楽しさを見出すことが出来なかった」〔p.193〕と。
■すごみのあるのは、羽入氏がヴェーバーを同情的に擁護しつつも「学問が自分にとって不毛であったからと言って、それをわれわれにまで押しつけてくる権利などヴェーバーにはない」〔p.193〕と、論難する箇所。■これは、ヴェーバーの個人的姿勢を批判しているようにみえるが、ちがうだろう。ヴェーバーがけっして自覚することがなかった、「職業としての学問」への自己欺瞞と、カルヴィニズムをおびた学問倫理への憎悪という呪縛を、無意識に受容・コピーしているだろう、社会科学者たち。そうういった学者先生全員への批判である(その自覚が羽入氏に明確にあるのかどうかは不明だけど)。
■ヴェーバー自身は、学問が余暇的・非生産的=非男性的だから、うちこめないとおもっていたが、憎悪の本質は、そんなところにはなかった。抑圧する母親がおしつけた学問だからこそ、憎悪の対象であり、それが自覚できないからこそ、病的な構成・熱意でしか学術的生産ができなかった。講義もごく短期間しか担当できなかったと。■このような、精神病理の産物という本質を完全にとりそこねて、大層ごりっぱな天職イメージ=ヴェーバー自身が「職業としての学問」において、ごていねいにも全否定しているイメージを、ご自身たちがあとおいできていると錯覚している、というわけか…。


■ウィキペディアの比較的冷静な記述をはりつけておこう。


確かに近代において自然科学が発達するなど主知的合理化が行われ、高度化した技術によって事物が予測可能となっている("脱呪術化"・"魔術からの解放")ものの、それらにともなう不可避の帰結として、今や学問は個々の領域において専門分化の過程にあり("神々の闘争")、「真なる存在への道」という理想は失ってしまっており、もはや生の意味を学問に求めることなどできはしない、学問は価値を示すことはできない、究極的には学問をする意味など無いのだ……。

……

結論としては、それでも敢えて学問に意義を見出そうとするならば、それは個々人の「自己の立場の明確化」の助けになることであるとし、……宿命(みずからが主体であることに耐えるという宿命)を受け入れられないような者は、信仰(キリスト教)へと戻り、そして、日々携わる職業、人間関係における要求に従えば良い……


■要は、「なんじ自身をしれ」=モニタリング能力をみがくことだと。

■そのうえで、羽入氏の学問観とすりあわせをおこなうなら、自己満足こそ学問の本質であり、余禄にエンタテイメントとして機能すれば、御の字なのだという結論なわけだ。■でも、そうなると、「職業としての学問」なんてのは原理的に成立しなくなるね。だって、「税金などから生活費・研究費をひねりだしておいて、自己満足は なかろう」って、絶対ツッコミがでるって(笑)。
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コメント

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の位置づけ再考1

■本文では直接ふれることをさけておいたが、羽入氏には『マックス・ヴェーバーの犯罪――『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』という、おどろおどろしいタイトルの主著がある。■これについては、ウィキペディアの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でも、「羽入・折原による資料引用をめぐる論争」という項目として、特記されている(http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E3%81%A8%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%B2%BE%E7%A5%9E&oldid=16002506#.E7.BE.BD.E5.85.A5.E3.83.BB.E6.8A.98.E5.8E.9F.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E8.B3.87.E6.96.99.E5.BC.95.E7.94.A8.E3.82.92.E3.82.81.E3.81.90.E3.82.8B.E8.AB.96.E4.BA.89)。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の位置づけ再考2

■この件については、renqing氏が『本に溺れたい』で、「羽入辰郎 『マックス・ヴェーバーの犯罪』 ミネルヴァ書房 2002(1)」「(2)」という文章を公開している章(http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/03/___2002_788b.html http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/03/__30ad.html)。そして、梅津順一氏の研究ノート「羽入辰郎教授のマックス・ヴェーバー告発について」が妥当だと結論づけている(http://www.seigakuin-univ.ac.jp/scr/lib/lib_ronso/contents/doc41/07.pdf)。
■しかし、梅津氏は、「ヴェーバー病」患者同士「同病相哀れむというべきか」とか、「本書は羽入教授自身にとって,ヴェーバーの「魔術からの解放」,学問的自立,「ヴェーバー病」の克服過程ではなかったと思うのだが,羽入氏にとってヴェーバー経験が不幸なものとなったのは残念である」とか、「ヴェーバー論文に関わる文献研究にこれだけ時間をかけ,克明に検討しながら,ヴェーバーは偽者だという結論はでは,空しいのではあるまいか」、さらには「「ヴェーバー病」患者が、長年のヴェーバー経験をそのように総括せざるをえないとすれば,お気の毒というしかない」などと、おせっかいな、まえふりを冒頭で延々とかきつらねる。■余裕たっぷりだが、この新書をよんで、どうおこたえになるのか、みものである。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の位置づけ再考3

■renqing氏は、「親のスネ」という別記事で「彼はいくつかの大学教授を歴任しますが、私の試算だと、精神疾患の発病で、本当に講壇に立てたのは、彼の大学教授歴30年弱のうち4年ほどです。ほとんどを病気療養と論文執筆ですごしています」とのべている(http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/03/post_cbff.html)。■こういったヴェーバーの後半生に対して、北海道大学の橋本努氏は、通説にのっとって、父を死においやった罪悪感が精神疾患の原因であるとし、それをのりこえたヴェーバーという研究者像を踏襲する。そのうえで「社会学の始祖にして独創的な理論体系を築いたその豊富な知見は、いまだに乗り越えがたい学問的地平を築いている」と絶賛している〔「ウェーバー 近代合理主義と対決する社会学の始祖」『子犬に語る社会学・入門』洋泉社MOOK,2004年〕。
■梅津氏は、「張子のヴェーバー」を標的としているなどと、散々羽入氏をこきおろした以上、「ヴェーバー病」患者であることを、ほこりにおもいつづけていいのか、現段階での見解をあきらかにすべきだろうし、橋本氏は精神疾患の原因の特定もふくめて、てばなしのヴェーバー礼賛の姿勢について、現在どうかんがえているか、しめすべきだろう。
■門外漢からすれば、史料批判の妥当性なんぞ、どうでもいい(ヴェーバーの知的誠実性さえ、どうでもいい)。ヴェーバーがどういった動機で『プロ倫』をかき、『職業としての学問』をかたる一方でなににくるしんでいたかの方が、決定的にうつる。「ヴェーバー病」患者たちは、これまで「ご本尊ヴェーバー」の威光をもとにその社会的地位をえたのであるから、しろうとに、「ヴェーバー症候群」を伝染させつづける学問的倫理性・正当性についての説明責任をおうことになるだろう。■その際、羽入氏の動機がなんであれ、かれの「ヴェーバー症候群」闘病記が個人的にどんな意味をもつのであれ、そんなことは、どうでもいいことだ。そして、そのことは、官僚制モデルなど ゆたかな社会科学への貢献があるという現実と矛盾しない。「ご本尊ヴェーバー」をなじられたがゆえに、「張子のヴェーバー」を標的としているなどと余裕をみせるふりをした。ないしは自己欺瞞のうえで反撃したにすぎないのではないか、という疑惑をはらす責任は、羽入氏に猛攻撃をくわえたがわにある。■かりに、羽入氏の史料批判に問題があったにせよ、学界の反応は、どうみても冷静さをかいていたように、門外漢にはみえるからね。

病み上がり

ご無沙汰してます。病み上がりの体に、いきなり必殺のアッパーカットが炸裂しているようなrenqingです。

私にとって意味があるのは、「Max Weberのやったこと」で、「Max Weberその人」ではありません。なので、Weberがどれほど欠陥人間でも、それは私の人間に関する好奇心をいたく刺激はしますが、私にとって意味あることとは別の関心の次元に属します。

「Max Weber」の偉さを論じて、飯を喰っている御仁も多いでしょうが、それはそれで役に立つ部分を拾えばよし。「そんなuncoな連中に血税を投入するのか」と問われれば、確かに嫌ですが、それが「豊かな社会」の一つの功徳と言えなくもない。ただ、それを許容してきた、財政的基盤が、文科省の下請け「私学振興事業」も含め危うくなりつつあるので、現実的には、ムカシトカゲのように、功徳悪徳含め、デリートされていくのではないか、と考えています。それに、アカデミズムに救うムカシトカゲは、Weber学者に限りません。

梅津氏の論評については、全面的に適切と言っているわけではなく、その最後の評言のみ、妥当というふうに書いたつもりですけど。実際、そのほうが現世アカデミズムで成功すると思うので。

Marx は、妊娠中の妻が大陸の身内へ金策に行っている間、下女を孕ませてしまい、生まれたその男の子を死ぬまで、Engels の子だと公言していました。それを知ったとき、いささか唖然とはしましたが、彼のなした事で、拾える部分を拾えればよい、とは思います。Weberに関しても同じ態度でよさそうな気がします。

あと、私の記事で、Weberのcareerに関するものであれば、下記のTBのほうがよかったかも知れません。ありゃ、TBできない。仕方ないので、リンクを貼らせて戴きます。悪しからず。体力が回復したら、関連する記事を書くかも知れません。では。

Marx と Weber
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/05/marx_weber_a99a.html

ご指摘のことは、別記事でかくつもりでしたが

renqingさま

■ごぶさたいたしております。
■インフルエンザでおつらいということでしたが、タミフルで高熱はひきましたでしょうか?■ともあれ、お加減のわるいところに、ご気分をわるくするようなトラックバックをもうしわけありません。
■おかげんがよろしくないのに、適切でないリンクを修正いただき、いたみいります。

■さて、ご指摘の件なのですが、「Marx…のなした事で、拾える部分を拾えればよい、とは思います。Weberに関しても同じ態度でよさそう」という見解には、まったく同意いたしますし、「官僚制モデルなど ゆたかな社会科学への貢献があるという現実」を否定しないことは、さきにかきこんだとおりであります。
■問題は、「基礎科学の充実」という名分で常勤ポストや研究費捻出を正当化できるのが、どの程度までなのか? 周辺の「応用科学」「市場価格がつく分野」にまけずおとらず、重要なのだといいはる合理性のいかんですね(笑)。

■ただですね。羽生氏へのヴェーバリアン包囲網の攻撃性は、羽生氏の熱意同様に、異様にしかうつらないんですよ。ギャラリーには。そのことを、大学の先生方の相当部分はご認識でないらしい。■こういった先生方は、おそらく大学院や卒業論文等で、謹厳実直な文献実証主義を体現しつつ指導にあたられているでしょうから、その指導原理の権威性と、ご本尊ヴェーバーの精神病理や、著作物の知的基盤などは、無縁であるはずがありません。■いや、羽生氏イジメの光景をながめながら、ますますご本尊のありがたみを再認識する大学院生しか周囲にいないような環境なら、それはそれで自足していて いいんでしょうが、すくなくとも、ご自身たちの社会的地位が、ヴェーバーを権威主義的にもちあげることぬきにありえたか、その説明責任はあるとおもうんですね。■過去のマルクス信者たちが、悲惨な沈黙をたもっているように、モデルの現代的有効性以外の権威主義的利用は、結局ツケがまわるということではないでしょうか?

「病み上がり?」と疑われるかも

別の風邪を引きそうなrenqingです。

「ご自身たちの社会的地位が、ヴェーバーを権威主義的にもちあげることぬきにありえたか、その説明責任はある」

全く同感です。

ただ、この説明責任は、野球場を幾つも並べたような、巨大な加速器を使って、物質の究極を知るとして、数百億円の資金を必要とする実験・理論物理学者たちにも同じようにあてはまります。

結局、専門家の知の権力の正当性を、どのように彼らに弁証させるのか、ということだと思います。Max Weber-Gesamtausgabe の購入を研究予算で検討するときも、実験機器の部品を発注するときの研究予算でも、同じ金銭として、生活保護費の数百世帯分の増減と究極的にはtrade offの視野に入ってこざるを得ませんから。

ただ、納税者が予算使用の説明責任を絶えず迫る、という圧力が恒常的に働かないと、いずれにせよ難しい感じではあります

巨大科学は論外として(笑)

■スーパーカミオカンデ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87)とか、「超伝導超大型加速器」(http://ja.wikipedia.org/wiki/SSC)などがその典型でしょうけど、われわれしろうとに、その現世的効用が説明されたことって、一度もありませんよね(笑)。■「プロジェクトが中止された時点で、既に建造費の20億ドルが費やされ」たとかいう国家予算が、第三世界や国内の貧困層対策に充当されなかったことの正当性は、どう説明されたんでしょうね?

■「外部資金で研究しなさい」式の論理は、人文・社会系の基礎科学を崩壊させますから、それはいきすぎにしろ、「しろうとは、だまってカネをだしなさい」式の権威主義が、あまりにも自明視されてきましたよね。■特に、理科系の巨大科学系は、国策がらみで、巨額の資金をつかうんですから、説明責任がいります。納税者は、もっと勉強して権威主義をはねのけないと。■どっちの説明責任がおもいかといえば、当然巨大科学の方が優先順位がたかいし、文献実証主義系は順位がひくいことには、同意いたします(笑)。


■それはともかく、当方もそうでしたが、ことしは、インフルエンザにかぎらず、別のウィルスに複数回やられるケースがおおいようです。ご自愛を。
■っていうか、ひいている人物から避難するしかありませんかね…。

TBがうまく

どうも。関連記事を書いたので、TBしたいのですが、うまくいきません。恐縮ですが、このコメント欄にURLを埋めさせてください。
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/php2007_d66e.html

リンクありがとうございました

renqingさま

■トラックバック不調は残念でした。理由はわかりません。スパム対策とかおこなっていませんので。■おかえしとして、ご覧のとおり、別記事をかきました。


■個人的には、学界主流派の先生方の反応をしりたいだけでなく、羽入氏のエネルギーの源泉の方に関心があります。おなじ「病跡学的(pathographic)」な関心とはいえ、renqingさんのような冷静な姿勢ではなく、鬼気せまるものを感じるのですね。■おそらく、renqingさんの指摘のばあいは、斯界の先生方もおだやかに聞く耳をもつとおもわれますが、近年の事態の本質は、やはり羽入氏の攻撃的な姿勢にあるとおもいますし。やはり、イジメにちかい反応(=防衛機制)にはしらせるだけの なにかがひそんでいるとおもうのですね。

確かに

羽入氏にしろ、折原氏にしろ、そのエキサイトぶりには、少々、引いてしまいます。私も、熱くなるときはありますが、「議論において、self-controlできない者は、アホ」という仮説を長らく持しているので、大抵、自分で苦笑後、すぐ冷めます。ま、今となっては、勝手にやってくれ、という気分です。さきほど、橋本努氏HPに、60年前に沢崎氏の業績の件をメールしました。さて、どのようになるやら。

主流派の先生たちのモニタリング能力

■別便でもかきましたが、「かたるにおちる」という厳然たる事実を、先生方はどうおかんがえなのか?■ギャラリーのまえで イジメをくりかえすことの印象がどんなものかの自覚がないのは、あまりにイタイタしい。

『学問とは何か』(ミネルヴァ書房)という本が出ました

本書の続編ともいうべき『学問とは何か』(羽入辰郎・ミネルヴァ書房)という本がでました。

『社会学評論』(59巻2号)の

405~420ページに「科学技術の社会学の現在、そして未来」という論文があります。著者は松本三和夫氏というひとです。その結論部は以下のとおり。

科学技術の社会学が、技術政策や環境政策などの革新に関与する場合もある(EUの場合)、あるいは、社会における閉塞感を払拭しようとするかのように、科学技術への右肩上がりの予算投下のみが続く場合もある(日本における第3期科学技術基本計画への25兆円投下)。いずれの場合であれ、科学技術の社会学の学術分野としての豊かな品質と適正な社会的機能があるとすれば、科学技術の社会学を取り巻く複雑な社会的作用と、その自己例証的な帰結にきちんと向き合うことが、そういう品質と社会的機能を保つ無視できぬ条件となるであろう。(417~8ページ)

リッパな先生のようですが

結論だけで判断するのは、まちがっているとしても、なにか おもしろみに かけますね。「失敗学」的な観点からリスクの社会学を展開しているようですけど。

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