■前便の関連で、おもいついたことを かきとめておく。
■高校、とりわけ
公立 高校の現場
教員 の意識のひくさを痛烈に批判する木村先生は、公教育空間(おもに小中高校)を
工場・監獄 となぞらえている。■すくなくとも、戦後日本の小中高校現場、とりわけ教室という
教科教育 空間は、校長=工場長、
教員 =中間管理職、生徒=工場労働者に、暗黙になぞらえた学校文化に支配されており、現在の消費者至上主義の市場原理に完全にのりおくれているという。■この、
教員 たちの暗黙の前提と、その市場内部での実質的機能についての事実認識については、当座ふみこまないことにする。
■ここでは、あくまで、公教育空間が ほかの諸組織・諸現象をかりることによって比喩
(ヒユ) 的に表現される際の、隠喩
(インユ) ないし直喩
(チョクユ) の有効性についてだけ、論点整理したい。■この点にだけしぼっていうなら、公教育の
教科教育 空間を工場になぞらえるのは、得策ではないのではないかとおもう。
■すくなくとも、「市場が必要としている工作物を納期までにしあげて、配給する」といった過程に対応する機能を、
小中学校 がはたすことは例外的だからだ。■もちろん、「どんなラインにはりつけられようと、即座にプロセスの意味を認識し、即応できるような心身の練磨」という意味では、現実のオートメーション工場のライン・スタッフの養成所といってよかろう、という指摘は、それなりにただしいとおもうが。 ■しかし、「工場のラインに即応できる柔軟な心身の育成」というなら、それは、企業の研修施設(期間)なのであって、決して、工場ラインそのものではない。■したがって、現場を実質的にしきる中間管理職としての職長・班長といった指導層や、それを官僚組織の長として統率する工場長として、
教員 や校長ら管理職をなぞらえるのは、たとえとして、いささか すわりがわるい。
■むしろ、ライン的な工場になぞらえるなら、教育長=工場長ないし社長、校長=職長、
教員 =工場労働者、生徒=製品、ではないか? 実際、卒業生をみる周囲の視線は、「人材」という分類がなされた、「製品」そのものだろう。「製品」を社会に提供しつづける(社会は、それを前提に毎年のリクルート=人材補充をくりかえす)機関として、社会は、学校を位置づけている。■生徒がしめしてみせる、学力やら適応力やらは、「製品」の性能である。■いや、事務所・工場や官庁などが、みずからの存在意義を確認しようとする際(製品やサービス商品を世にとう)のコストとして人件費が計上され、卒業後の研修で「製品やサービス商品」を完成させるために投入する素材として「一人前」にするなら、家庭=原材料提供組織、学校=部品メーカー、企業=工作機械メーカー、…といった たとえが、いいかもしれない。
■しかし、いずれにせよ、生徒を現場労働者になぞらえるのは、得策でなさそうだ。■なにしろ、教育サービスをうけるがわ、という リクツによって、生徒や保護者は、税金というかたちをとるかどうかはともかく、カネをはらわされている。工場労働者が、寮費・食費・制服管理費などをピンはねされていることはあっても、一応賃金をはらわているがわであり、カネを一方的にまきあげらえれているわけではない。■その意味では、はらいこんだ授業料が回収できるとはかぎらない各種学校や学習塾、など、詐欺商法系の たとえをする方が妥当ではないか? 実際、
ある論者 は「
霊感商法としての学校教育 」という痛烈な批判をくわえている。■いや、実際、木村先生のいうような学校
教員 が支配的な
公立 高校であるなら、それは、単位修得のご利益が、授業料と全然みあっていない詐欺行為が反復・隠ぺいされているわけで、全然極端な たとえではなさそうだし。
■では、「
監獄 」という たとえはどうか? ■これは、自由を制限され、禁固刑以外は、「労務」に服させられ、しかもそこので生産物は超低価格でうりとばされているが、ともかく、そこでの生産物が社会の一部*以外では、全然期待しないものであるという点では、なかなか学校と本質がかぶっている。
* 「おみこし(神輿)」など、特殊なものは、それをあてこんでいる層が実在するようだ。 ■絶対的終身刑や無期懲役や死刑以外は、刑期がきまっており、最初に いいわたされた「刑期」を「おつとめ」として たえるという意味では、「収容施設」としての学校の機能をなぞらえるのに、実に適している。■病院や医療刑務所が、いつでられるかわらず、医師の判断にゆだねられているのに対して、すくなくとも日本の小中高校のほとんどは、トコロ天式であり、「年季」があければ、「はい、さようなら」。そこで、欠点・欠落部分などが矯正・補強できたのかは、ほとんどとわれず、機械的に「学年性」で年限をむかえるという、実に官僚的な処理も、ぴったりである。■自動車教習所のように、資格試験合格のための実技・法律知識をみにつけさせると称しながらも、かならずしも保証しかねるし、すくなくとも、いつ卒業できるか、全然保証していない組織とも対照的だ。
■しかし、前便でかいたような、「なにをどんな合理的根拠で提供するのか?」「その教科知識がえらばれるにあたった経緯や、それをあてがう過程がどうしてそういった形態になったのか?」「そういった授業形式に、現状のスタッフが現状のようにあたっている合理的根拠はどこにあるのか?」「これら、生徒が事実上拒否困難な収容所的空間において、それをパスできる回路が保証されているのか? ないなら、それはどういった合理的根拠ゆえか?」■これら、諸問題については、もちろん刑務所関係者や、そこにブチこむ首謀者だった、検察官や裁判長だって、まともにこたえられないだろう。「これまでの前例にそって、分類し判断しただけです」と、こたえるにとどまり、出所後の再犯率や、「犯罪の学校」と 隠喩される刑事学的現状とか、そういったことには、絶対に責任をおわずにね。
■しかし、「刑務をおえることによって、充分反省して真人間になり、社会復帰できるだけの基礎技能もみつかる」といった、ウソ八百を偽善的にくりかえす、そういった法務官僚たちの無責任体制は、まさに、「卒業後なんぞしったこっちゃない」と、うそぶく、
公立 高校の先生たちとかと、完全にカゲがカブるよね(笑)。
■本来、学校は「進学予備校」「就職予備校」ではなかったはずだが、事実上、そういったあつかいしかうけなかったし、学校も消極的に、ときには積極的にそのやくわりをこなしてきた。黙々とね。いや、そういったかたちで、国
公立 も私立もみんな、「いきのこり」をはかってきた。■本来、学校は、家庭や地域に居場所のない層にも すくいのてをのばすような、アジールであり、そういったものを代表する空間として「
保健室 」が機能してきたわけだけど、「障碍者をくいものにしない病院(精神病棟や老人病棟だけじゃなくてね)」という、理想の病院像が たとえにつかえるような、そんな空間が 例外的にしか存在しないという、ユトリのなさ。■「
夜回り先生 」みたいに、
勤務校をもっていたころは、かなり本務・同僚にシワよせしていただろう 人士とか、
公文 みたいな民間の補習塾みたいなところが、社会のヒズミのなかで くるしんでいる 子たちを必死にケアしているけど、官僚組織としての学校は、「託児所」「ケア施設」に たとえることが、困難なぐらい、ユトリをうばわれているらしい。
●旧ブログ
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タグ : 小中学校 教科教育 教員 公立
18歳までに以下の本を読み終えれば高等学校までの教育は実質不要
理科
『小・中・高の理科がまるごとわかる』(ベレ出版)
社会科
『高校生の社会常識ノート』(一ツ橋書店)
数学
『生き抜くための数学入門』(理論社)
『こんなに役立つ数学入門』(ちくま新書)
外国語(英語である必然性はないが、とりあえず英語)
『とことんわかりやすく解説した高校3年分の英語』(ベレ出版)
「国語」
『国語審議会―迷走の60年』(講談社現代新書)
『日本語の作文技術』(朝日文庫)
『だまされない<議論力>』(講談社現代新書)
『ことばとは何か』(ちくま新書)
「日本史」必修化に対抗するために
『侵略戦争』(ちくま新書)
かなり不正確ですが、学校教育への日本人の心理的な偏執を「コミュニティへの同化」に求めていたような言い方だと思いました。その時に、「<日本教」に「学校宗」という大きな宗旨があって、人はみなそこの信者。棄教者になるのは勇気がいるのかな> と思いました。
いろいろ
■いつも詳細な情報提供ありがとうございます。おへんじできていませんが感謝しています。
■「国語」(カッコつき)以外は、みんな未見なので、よんでみます。■統計学が不当に軽視されている数学教育などは、確率論的な発想をさせたくないのではと、邪推したくなりますし。
■イバン・イリイチ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%81)は、学習者ネットワークを主張し、いわゆるスクーリングは、タイピングとか技能講習以外不要といいはなち、フりー・スクール論に多大な影響をあたえたし、パウロ・フレイレ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%AC)は、相互学習による意識化によって学習者たちが自己解放にむかう方向性をうたいました。■高校卒業程度の学力が公的証明されないと、ほぼワーキングプアへと、おいこまれる(「博士号」とか、証明されても、おいこまれるわけですけど)なかで、学校教科がないかぎり実在するはずのない「基礎学力」とやらが、なにゆえ正統性を保証されているのか、徹底究明しないと。
kuronekoさま
■やっつけでかいたので、網羅的にメタファーの対象をさがしていませんが、「ムラとしての学校」「(相撲部屋など)合宿所としての学校」「新宗教団体の一種としての学校」「知のネズミ講としての学校」「家元百貨店としての学校」……など、おびただしく「●●としての学校」は、かんがえられるとおもいます。■問題なのは、おおかたの学校論に、極端な美化・理想視とか、正反対の全否定とか、およそ非現実的な断定がおおく、改善策が全然みあたらない点です。■もっとも、批判精神をみにつけたら、既存の学校教科の大半に反発か、すくなくとも違和感・疑念をおぼえるはずで、おとなしく優等生を演ずるとしら、まさに「変人としてツブされないための偽装工作」としてだけでしょう。
ネタとしての学校
で、以下マジモード。
数学が定量化の手段であることと、語学(エスペラントの方がはるかに中立で合理的であることを踏まえつつ、米帝国の圧力に妥協してとりあえずイングランド語)が伝達の手段であることをふまえ、上記の数学と外国語(イングランド語)の本を読み終えた人には以下の本をオススメします。
『これなら分かる最適化数学』(共立出版)
『環境のための数学』(朝倉書店)
『Scilab/Scicosで学ぶシミュレーションの基礎』(オーム社)
『Meaning and the English Verb』(ひつじ書房)
あと、「ベレ出版」(http://www.beret.co.jp/)の新刊『深海の科学』というのも面白そうです。いや、素養というには幾分マニアックな範囲かもしれませんが。
ま、いずれにしても定量化や伝達という手段など必要かつ十分な程度の習得を支援のみに配慮し、それ以上にそもそも定量化や伝達する目的こそ重視すべきでしょうな。ましこ氏の新刊や「ジェンダー史学会」(http://wwwsoc.nii.ac.jp/gendershi/)が指摘するような内容こそ肝心である、と。そのように手段と目的を明確に区分しないと『日本人とユダヤ人』の英語版(原著ではない)のように伝達した途端に「日本」という想像の共同体に多少なりとも関わっている人間全体の民度がうたがわれ大迷惑というオチになりそうです。
ともあれ、タカマサさんの「確率論的な発想をさせたくないのではと、邪推したくなります」という指摘はまったくごもっともだと思います。上記の『だまされない<議論力>』をよめば十分であろうに無意味に駄文をよませて、しかも漢字という障害を文化資本として身につけさせているとしかおもえない「国語」教育と、上記の『侵略戦争』をよめば十分身につくであろう近現代「日本」史の素養をわざととばしているかのような「日本史」こそ、数学以上に問題ですが。
教育関係者の不安感のアオリ行為
■いずれにせよ、ご紹介いただいた啓発書は、あきらかに市民のための統計学ほかみたいな色彩があるようなので、よむのがたのしみです。■きっと、遠山啓(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E5%95%93)さんたちの運動などは、こういった方向性をもっていたでしょうに、高度経済成長ですすんだのは、百マス計算や公文式系の「反復練習」系と同質の学力論だったようです。■なんで、こうなってしまったのか(計算トレーニング等も、身体技法同様、アホになってやってみると意外にラクな面は否定できませんが)、思想史的にふりかえる必要があるとおもいます。■筆算・暗算等を全部廃して、コンピューター・関数電卓などに全部外部化することは、なかなか困難なので(障碍者むけには、必死にソフト開発が必要ですが)、全否定できませんが、計算や記述をやたらに大量にやらせる現在の大学入試などは、かなり野蛮な文化として、冷静に客観視する必要がありそうです。■科挙あたりに、源流があるのかなぁ?
東京図書という出版社には、よい本があると思います。
とありますが、そしてそれはそうでしょうが、『SPSSによる統計処理の手順』や『SPSSでやさしく学ぶ統計解析』など、東京図書という出版社には、統計の計算のためのよい本があると思います。
ウヨクが右翼にうよくとき
しかしながら驚くべきことに、この通念には全然根拠がない。
『民族とは何か』(講談社現代新書・189ページ)
社会科に追記
国際情勢や金融に関する、より詳細な分析としては「原田武夫国際戦略情報研究所」(http://blog.goo.ne.jp/shiome/)がよいとおもうのですが、社会科というべき一般教養としては「全国金融~」がとっつきやすい(原田氏の方は一般教養というにはあまりに詳細すぎる)とおもいます。
『高校生の社会常識ノート』入手
■『高校生の社会常識ノート』をてにいれましたので、それへの寸評をかねて、新規記事をかく予定です。
他の教材についても記事を書いていただければさいわいです。
一緒にツッコミいれて、出版社にプレッシャーかけましょうか?
■http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-351.html でかいたことは、気にしないでください。山川の用語集なみには、よくできているとおもうので。
■ただ、ウィキペディアの各項目がツッコミどころ満載であるのと同様、受験用教材の細部は、惨状そのものだと。『新しい歴史教科書』あたりにツッコミをいれて運動しているつもりの左派・リベラルのみなさんは、反省してもらいたいものです。
岩波にもプレッシャーかけてぇ
たしかに、岩波の『科学』の7月号は「東アジア環境共生系」という特集を組んでいてよいですし、768~772ページには日本の責任をのべていて、環境問題を他人事としてあつかっておらず、さらに704~5ページの捕鯨問題や708~714ページの「脳の中の有限と無限」のような欲望とのつきあいかたを示唆するシリーズもよいのですが、「数と漢字の物語」(706~7)なんていう無意味な記事を、しかも新シリーズとしてはしらせるんじゃねえ!
いわく
「数と漢字」をテーマにして、何かよしなしごとを書き連ねてみようと思い立って、まず頭に浮かんできたのは、次のような疑問だった。
――『論語』に出てくる漢数字のうち、1番出現回数が多いのは何だろうか。
(中略)
つまり、漢数字の世界において、「一」「二」「三」は、成り立ちの上でも特別なのだ。
(中略)
存在の1.対立の2.
どうもこれだけでは、ものごとはうまく運ばないようだ。対立を乗り越えて前へ進んでいくためには、ぼくたちは常に3を意識していかなくてはならないんじゃないだろうか。
「一」「二」「三」という3つの指示文字は、そんなことをぼくたちに語りかけているようにも思われるのである。
い…いたすぎる。これこそ周瑜公瑾(しゅうゆ=こうきん)@『一騎当千』に「ツッこむのヤだから無視していい?」といわれそうなネタですYO!
こんなダメ企画をシリーズにするんなら、オレにサブカル評論のページをよこせや岩波!『世界』はすでにマンガが載ってるから『思想』あたりによ!
あるいはオレの自伝マンガでもいいな
「第一話 ヲタの音」
できれば五郎は……ヲタと縁のない仕事についてもらいたいと思っています。五郎もカマヤン御大を見ていてそう望むと思うのです。
って、まんま『瑠璃の波風―海江田四郎青春譜―』じゃねーか!
自分でやっておいてなんだけど、いたすぎる…
オイラ自身も「ツッこむのヤだから無視していい?」って言われそうだな…(つーか本ブログ読者の8割はこの箇所よんでそう思ったろうな…)
一ツ橋書店/一橋出版
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%EC%B6%B6%BD%D0%C8%C7
■でもって、ハラナのしるかぎりでは、一橋大学出版会というのは、まだ誕生していないとおもいます。
■「漢数字の世界において、「一」「二」「三」は、成り立ちの上でも特別なのだ」って、たしかに、いたいたしすぎますね。それって、「ローマ字圏にとって i ii iii(I II III)は、成り立ちの上でも特別なのだ」って迷言と、同質ですから。■アングロケルティックな科学雑誌『Nature』の方が、さすがにマシですか…。ウィキペディアも、イングランド語版とは、かなり水準がちがうようですし。ここで、おろかな ナショナリストても、しょうがない(笑)。
単純なまちがいでした。
単純なまちがいでした。すみません。
つーかオイラにサブカル評論を書かせろ岩波。国家がすべてフィクションであることはみとめたうえで、サブカル以外に日本が他国にかてるジャンルはないことはあきらかなんだから、他に何を売りにするっていうんだ?
「マンガ批評の新展開」という特集をくんだ青土社の『ユリイカ』(http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%DE%A5%F3%A5%AC%C8%E3%C9%BE%A4%CE%BF%B7%C5%B8%B3%AB)をみならうべきだ。
「サブカル以外に日本が他国にかてるジャンルはない」かもしれないけど
■安易な本質主義的な日本文化論は、さけたいんですが、浮世絵・洒落本の時代から、ヲタクの世界だったことは、否定しません(笑)。
「日本」史必修化すすむ、
「都立校で『日本』史が必修科目へ」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100122-00000037-san-soci
はやければ平成23年から必修化だとのことだ。
「日本」滅亡まで、あと432日。
しかし、まだ希望はある。最悪の事態として「日本」史の必修化が実現しても、『侵略戦争』(ちくま新書)を国定教科書とするべく天朝さま(新富町の天ぷらじゃない方)に直訴するという手段もあるが、なにしろはやくても平成23年までは実現しないということだ。
というわけで、皇國臣民として天朝さまにおいのりします。みなさんも以下の祝詞をご唱和ください。
へーせーよおわれ。へーせーよおわれ。へーせーよおわれ。
「日本通史幻想」解体論のために
●「「日本人」の連続性問題再論」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-640.html)
●「新刊『幻想としての人種/民族/国民』(ましこ・ひでのり,三元社) 2【追記あり】」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-304.html)
●「新刊『幻想としての人種/民族/国民』(ましこ・ひでのり,三元社)」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-285.html)
●『[増補新版]イデオロギーとしての「日本」 「国語」「日本史」の知識社会学』(http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/122.htm)
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