プロフィール

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評
メール:sociologio2007@yahoo.co.jp

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説明と同意のない公教育サービス

■哲学者の内田樹氏や、教育学者の宇佐美寛氏らは、学生が学習の起点において、学習の到達点や意義を把握していないとみる。

■もちろん、こういった教育論にたつ御仁たちが、みんな一枚岩というわけではない。■たとえば、内田氏/宇佐美氏自体が、教育課程の設計というか、目標を全然ちがうものとしてイメージしてる。内田氏は、教育は結果論であり、学習者はもちろんのこと、指導者も、学習者がどう変貌するかは予想しきれないとみているようだ。一方宇佐美氏は、大学での大規模授業であろうが、明確な指導過程・到達点をイメージし、学生への発問や質疑応答を通じたモニター作業によって理解度を把握しつつ微調整して、イメージにギリギリまで最大多数をおいこんでいく、という教育理念のようだ。■前者が、教員の大多数の実感・実態に即した教育観であり、後者のように、自他にきびしい、緊迫感のある禁欲的な教育観は実態として少数派だろう。
■そして、実際問題、教員志望者など資格取得指向の学生を中軸とした授業空間を前提にした後者と、学習者にそれほどまでに共通した目的意識があるはずのない、教養教育的な空間(いわゆる「お嬢さん学校」など)を前提とした前者とでは、おのずと、「到達点」の設定や過程などにおける、緊迫感が質的にちがってくるはずだ。 ■また、いかなる教育空間でも、指導者が設計した綿密な教育目標と計画にもとづいて、厳格にトレーニングがくりかえされねばならないといった、強迫的な発想は、ひとりよがりというものだろう。第一、信念のひとというほかない、宇佐美氏らが設定した教育目標や手法が、完璧であるという保証はどこにもない。それが凡百の中途半端な教育者より数段質・量両面ですぐれいているにしても、学習者全員に、いついかなるときにもで、いい影響しかおよぼさないという断定など、だれにもできない。「完璧でありたい」という理念と、現実に完璧であるかどうかは、ほぼ一致しないとおもわれるし、完璧な教育は、かみならぬ全知全能でない人間がおこなう不完全な認識と言動からして、原理的に不可能だ。■だから、かりに徹底的に計画をたて入念に準備をするにしても、つねに、不測の事態がおこること、意図しない結果が事実としてもたらされるという想定をしておくのが、当然だし、誇大妄想におちいらない現実主義というべきだろう。

■しかし、このように、ある意味対極的にみえる両者が、実は共通しているのは、「学生が学習の起点において、学習の到達点や意義を把握していないという」普遍的な経験則から、「だから、指導者主導で教育は実行されるべきだし、そうでなければ機能しない」という、保守的学習観である。
■いや、それが原理的にまちがっているいいたいのではない。むしろ、指導者が、そういった前提で指導体制の準備をつくり、実践していかないぎり、学習過程の暗黙の文脈にのりきれない層を大量にとりこぼして、事実として失敗するだろうから。■「資格試験に合格」といった、ごく単純な学習目標で一致しているような空間でないかぎり、指導者の責務は、かなりおもたいと。
■しかし、旧ブログにみならず、このブログでも何度かかいたことだが、「学生が学習の起点において、学習の到達点や意義を把握していないという」普遍的な事実をおして、「つべこべいわずに学習する」といった「おしつける」だけの正当性を、小中学校の教科教育や課外活動は含意しているか? それを、生徒・保護者にうけあえるか? である。
■内田氏のように、合気道を大学のクラブ活動でおしえるのであれば、何重の意味でも主体的に「やりたい」と、師匠の門をたたいたのだろうし、宇佐美氏が強烈な個性のもと強力な指導方針を維持していることは、いわゆる「赤本」でも名物教員としてウワサだったようだから、千葉大教育学部に進学して教員資格を取得するためにはさけられない関門としてうけとめられていただろう。■しかし、そういった主体的選択ではなく、政府が自治体を通じて、少年労働などを禁じたかたちで排他的・独占的・っ強制的にあたがう公教育は、「つべこべいわずに学習」と「おしつける」だけの正当性をもちえているか? 親には「義務」を課し、生徒にはほとんどほかの選択肢をあたえずに、あてがう権限の正当性

■治療がどのような結果をもたらすか、完全な予測ができないがゆえに、断言が原理的にできない医療。所詮、医学部での教育をうけていないしろうとには、完全には治療と予後の過程を理解しきれず、結局は医師団という権威主義が保証する「ブラックボックス」に期待をかけるほかない患者。■しかし、そんな空間でさえも、近年は、「説明と同意」が自明視される。かりに、医療訴訟が懸念されるとはいえだ。■それに対して、公教育は、なにか充分な説明をしてきだろうか? いや、現状の教育現場が、あまりに多忙で、そんなユトリなどない、という現実はおいておこう。もし、時間的ユトリがあるなら 説明する気があるのか? しなくていい明確な根拠があるのか?
■静岡の県立高校で公民科を担当してきた木村先生は、「おれの授業が聞けないのか」という、おサムライ意識があったと痛烈に同僚たちを批判する。予備校や学習塾にはありえない姿勢がはびこっていると。■しかし、高校は、まだ義務教育ではなく、一応「退避」に選択肢がある。小中学校で「おれの授業が聞けないのか」という、お侍意識がはびこっているなら、生徒・保護者は、にげようがない。私立や国立の学校や外国の教育機関を選択してにげだす資源をもちあわせていないかぎり。■いわゆる「モンスター・ペアレント」がでないかぎり、あるいは訴訟ざたにもちこむ異様に攻撃的な保護者にでくわさないかぎり(あるいは、そういった決定的にこじれることがないかぎり)、「説明と同意」なんぞ不要だという文化が自明視されているとしたら、それは、異様な構造といえるだろう。

■宇佐美氏のように、いきぐるしいばかりにデザインが徹底している指導姿勢が、小中学校にもちこまれたとしたら、いわゆる「プロ教師の会」の方向性がグロテスクに出現しそうで、こわい。それこそ、「学習の起点において、学習の到達点や意義を把握していないという」普遍的な事実が生徒にあるなら、なおのこと、おしつけていい根拠が保証されていないとまずい。■一方、内田氏のように、「教育は結果論」として、ゆるくとらえられていればいいかといえば、それもちがう。義務教育は、排他的に時間を独占し、ほかの選択肢を事実上否定しているのだから、「どのヘンが着地点か?」が、ある程度生徒・保護者に提示されていないかぎり、「説明と同意」という説明責任をはたしたことにならないからだ。


■つまるところ、一見対極的にみえる教育観が皮肉にもうきぼりにするのは、「きみらは、よくわかっていない」という、ある意味もっともな現実認識から出発する、「おしつけ」の論理の破綻だ。■「自分にはかなりみえているが、保証はできない」という論理にせよ、「自分には完全にみえているので、保証するからしたがえ」という論理にせよ、多様な生徒、多様な人生、多様な情報の交錯する義務教育空間に対して、あまりにあいまいか、あまりにごうまんか、というほかない理念にみえる。■「多様な生徒に対して、そして予測不能な将来に対して、自信をもって義務教育を課せる」とする、その自信は、はたして、どこからもたらされるのか? という、根本的な疑義がうまれてくるのである。
■たとえば、エホバの証人が柔道・剣道等の授業をうけることを拒否したことが、訴訟ざたになった(神戸高専剣道実技拒否事件)が、小中学校で、宗教的信条などと無縁な生徒層が、格闘技などとは無縁なスポーツをあてがわれるのは、「体育」として当然正当化できるのか? なぜ、陸上競技や球技や競泳やダンスなどの、マネごとをさせられる義務があるのか? それは、生徒が教育をうける権利、自分の将来を決するための学習権と、どうすりあわせがついているのか? 単に「いろいろな体験をつむことは、やくだつから」といった理由で合理化できるのか? である。■これらの疑念が、体育などにとどまらないことは、いうまでもない。英語・数学・国語(というなの文芸批評もどき)・…。文部科学省が法的に保証しているという、学習指導要領が、国会など国民の代表者によって承認されたから、当然だというのか?


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