理想的には「非国民通信」(http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/1)の「Hey mr. porno star!」(2008年5月29日号)に対してかいたコメント「あえて規制派のいうことでただしいと思えるものを挙げると」(5月30日)のように論敵のいうことでも部分的にただしいと思える箇所の存在は認知し、そのうえで「やはり全体的な分析としてはあなたはまちがっている」という風な、解像度の高い分析をおこなうことがのぞましいのでしょうが、「マンガの可能性と限界について」というような大きすぎる題材になると私の手にはおえず、あのような断片的な思いつきつぎはぎ文章しか書けませんでした。ただ、そこで挙げた『創』(5月号)や『論座』(7月号)は、より包括的な分析だと思いますので参考にしてくだされば幸いです。
タカマサさんの記述「これは、虚をつかれました。」とリンクしている「Hey mr. porno star!」においてコメントを補足しました。そのコメントの題名自体も「補足します。」なんですが、要するに私が『超エロゲー』という資料および自分の直感をもとに書いた某エロゲーの社会的影響力について、補強する資料をしめしておいたのです。よかったら参考までにどうぞ。
世界の欠食児童の49%がインド在住というのはスゴイとおもいます。
それでいてインドの富豪は「日本」の富豪以上にゆたかである(というウワサをきいています)。
もちろん、だからといって「日本」が平等な社会であるわけではないんですが、独裁とハイパー独裁のどちらがよいのかはわからない気がします。
選挙制度自体が存在しないことからして、他の独裁国家に比べてもおそらく特殊であろう中国(民主的であるという体裁さえもととのえる必要を権力者が感じていなさそうにおもわれる)にくらべても、選挙制度があるのに貧富の差がここまで拡大しているインドも、ある意味では特殊な気がします。
(ちなみに"International Herald Tribune"4月15日号の1ページには"Poverty tops issues in Indian vote"という見出しが、3ページには"In Indian election, every party promises more ways to help the poor"という見出しがそれぞれのっています。)
Posted by easter1916 at 00:44 │Comments(2) │TrackBack(0)
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http://app.blog.livedoor.jp/easter1916/tb.cgi/51768604 この記事へのコメント
随分前の記事に政治論だったか神学論だったかがそのうち出版されるというようなことを書かれていたと思うんですが、そっちはまだでしょうか?(一読者の催促)あと値段は2500円以上になるとキツイです(一読者の希望)。
この雑誌はどこかで見つけて読んでみたいと思います。神聖喜劇読んでないんですけど。そういえばコミックがあったような。
Posted by けん at 2009年03月07日 01:25
けん様
コメントありがたうございます。
わたくしの『神学・政治論』(仮称)は、やうやく第一校正の段階です。夏までには出版できるでせう。『神聖喜劇』はコミック版も出てをります。いい出来とはいへるものですが、やはり原作にはかなひません。光文社文庫全5巻の長編ですが、ぜひ一度お読みください。できれば二どお読みになることをお勧めします。決して読みやすい小説とはいへませんが、かならずや人生観が変はるほどの経験となるはずです。私自身の神聖喜劇論はごく短いものですから、立ち読みもできるかもしれません。
Posted by tajima at 2009年03月07日 02:42
『地理』(2008年6月号)から「学校教育で『地理』はなぜ必要か?」という連載がはじまりました。
内容は業界の既得権益を守ろうとする意図がミエミエです。もちろん、地理は学校教育の社会科の中で「日本」史ほどには国家・民族・人種を固定化(本質化)しようとする短絡的な教科ではないことはみとめますが、それでも必要であることをうったえる論調としてはややよわいと感じます。もっとも、地理学者の政治的影響により「日本」史愛好家の政治的影響力が相対的にそがれるのなら結果的に人権を守る社会の到達がはやまる、という可能性は否定できませんが。
『現代思想』2008年6月号は「ニューロエシックス 脳改造の新時代」という特集です。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%ED%A5%A8%A5%B7%A5%C3%A5%AF%A5%B9
いうまでもありませんが、脳を支配されたらおわりですので、ましこ氏のような反権力的な本を読むのと平行して脳を支配する技術に対する監視も、一定程度の余裕のある市民はこころがけるべきでしょうね。
これまた、新幹線車内ゆえトンネル等で電波環境が異様にわるいので
●ブログ内「地理」関連記事(http://harana.blog21.fc2.com/?q=%C3%CF%CD%FD)
●ブログ内「地理教育」関連記事(http://harana.blog21.fc2.com/?q=%C3%CF%CD%FD%B6%B5%B0%E9)
■地理学者は、学校教科教育を歴史学についで支配する勢力でしょうが(法学・経済学)よりも、地政学(http://harana.blog21.fc2.com/?q=%C3%CF%CD%FD%B6%B5%B0%E9)系に右派展開しないかぎりは、いま以上の勢力をかちえないでしょう。■しかし、社会学や人類学周辺の、カルチュラル・スタディーズ等の思潮の洗礼をあびつつ、そちらにはしるのは、いかにも反知性的で権力追従的とうつって、かっこよくない(笑)。■これは、国民国家が装置としてかかえこんだ地歴教育に依存して勢力温存をはかったツケであり、必然的ジレンマでしょう。
つづき
●「イロは、先入観をもたせる強力な手段」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-242.html)
●Google検索「ニューロエシックス」(http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLJ,GGLJ:2006-29,GGLJ:ja&q=%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%ad%e3%82%a8%e3%82%b7%e3%83%83%e3%82%af%e3%82%b9)
●立岩真也「『現代思想』特集:ニューロエシックス――脳改造の新時代」(http://www.arsvi.com/ts2000/20080007.htm)
補足リンク
●旧ブログ「あやしいメタボリック症候群騒動」(http://tactac.blog.drecom.jp/archive/1819)
●旧ブログ「詐欺商法」関連記事(http://www.google.com/search?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=%81h%8D%BC%8B%5C%8F%A4%96@%81h+site%3Ahttp%3A%2F%2Ftactac.blog.drecom.jp%2Farchive%2F&btnG=%8C%9F%8D%F5&lr=)
●旧ブログ「集団催眠」関連記事(http://www.google.com/search?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=%81h%8FW%92c%8D%C3%96%B0%81h+site%3Ahttp%3A%2F%2Ftactac.blog.drecom.jp%2Farchive%2F&btnG=%8C%9F%8D%F5&lr=)
●旧ブログ「1984年 真理省」関連記事(http://www.google.com/search?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=1984%94N%81@%90%5E%97%9D%8F%C8%81@+site%3Ahttp%3A%2F%2Ftactac.blog.drecom.jp%2Farchive%2F&btnG=%8C%9F%8D%F5&lr=)
本書ネタ2件
■あと、本書を最初にとりあげたブログ『hituziのブログ 無料体験コース』(http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/)も更新停止になり、『hituziのブログじゃがー』(http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/)に移転した。
■うっかりしていると、ドンドン事態がすすんでしまう。「なまもの」をあつかっている本書も、賞味期限が はやくきたりして(笑)。
また、実は難解な本をイメージしていたので、手軽に読める分量もありがたく感じました。参考文献も意識的にたくさん盛り込んでくれているとのことですし、入門書として広く読まれると嬉しいですね。奇特な人しか読まないなんてことのないように、これも宣伝してみます。まずは実生活の中で。
>しかし、クソまじめなフリをしつつ こっそり痛烈な皮肉をはなつなど、かなり意地わるい(笑)
たしかに(笑)。しかし、かく言うタカマサさんも実は……!?(爆)
本書の意義と限界
■コメント、ありがとうございます。
■この件の第3部で、詳細にツッコミをいれたいとはおもうのですが、本書は、類書にみられない、異様におもたい脚注という問題をかかえているとおもいます。■おそらく筆者は、読者層をおおむね3層にわけ、①「脚注をほとんどよまない層」、②「脚注にツッコミをいれることに よろこびを感じる層」、③「その中間で、本文に対する注記が やくだつ/やくだたない の微妙な層」…などと 想定して、啓発と挑発を計算していると。■その戦略が成功しているかといえば、微妙でしょう。結局は、②層しか、本書をたのしめない程度にしか、本文自体が整理しきれていないと。
■第一、右派が「プロ市民」などと中傷するだろう、仲@ukiukiさんが みすごしているような情報をもりこんだと、筆者は想定していないはずです(ちがうかな?)。■いや、そういった 「くろうと層」をくやしがらせるような、微妙な線での 情報提供をわざとおこなっているかもしれませんが、それは 不勉強をなじるという意味ではなくて、意外に とりこぼしているかもしれない、虚をつく、という方針でしょう。
■ちなみに、「クソまじめなフリをしつつ こっそり痛烈な皮肉をはなつなど、かなり意地わるい」という姿勢は、たしかに酷似(笑)。近親憎悪的な ツッコミをいれたくなります。■ただ、旧ブログ以来、当方が お行儀がわるいことは、周知の事実。所詮優等生の のりをこえられない(?)本書は、たとえば ヤンキー文化の 実践層には、まったく 無意味な文献でしょう。というか、文化資本、要求しすぎです。ヤンキー層にかぎらず。
>本書は、たとえば ヤンキー文化の 実践層には、まったく 無意味な文献でしょう。というか、文化資本、要求しすぎです。ヤンキー層にかぎらず。
ああ、たしかに。この種のテーマについて前々から関心があってそこそこ予備知識もあったからこそ、短時間で読み通せたのかも知れませんね。指摘を受けて振り返れば、第1章のあたりは私もどう読んでいっていいのか、かなり戸惑いましたし。Wikiの引用部分は飛ばしても大丈夫(?)と割り切ったら、ずいぶん読みやすくなりましたけど、いろんな寄り道(どれも重要と思いますが)の組み合わせやつながりがもうちょっと練れていたら、もっとスリリングな読書体験だっただろうなあとも思います。
で、ふと思いついたのですが、本書の内容を謎解きミステリー風の漫画に仕上げたら、かなり広い層に受けるかも知れませんね。優等生ののりをこえて、弾けて(爆)。
と言いますのも、拙ブログを某極右系の有名ブログが時折紹介してくれてるんですが(困った主張を展開しているブログとして)、拙ブログの記事に「マンガがある」と紹介された回だけ、格段にそこからのアクセスが多かったんです。マンガを共通言語にしてのコミュニケーションの可能性、かなりある気がします。『ゴーマニズム』とか『嫌韓流』とかの例もありますし。
>この件の第3部で、詳細にツッコミをいれたいとはおもうのですが
楽しみにしています!
本書へのツッコミとか
■うーん。そうですね。仲@ukiukiさんの たち位置自体、トホホな現代日本の現状を象徴していて(ま、当方もそうですが)、「乾いた笑い」しか もよおさないような 現実の反復ですよね。■先日の、フィリピン系のコドモたちの日本国籍訴訟だって、問題の本質をさけたいかのように、「一歩前進」系で、メディアはスクラムをくんでいます。あの『産経』でさえ(笑)。■ギョーザ事件と同質ですね。
■それはともかく、このシリーズ第3弾で、こまかなツッコミをいれるつもりが、そんなことして、なんの意味があるのかなぁ? と、少々、疑問がもたげてきました。■これって、大学生むけのテキストがベースで、知的市民を「第二市場」として想定していることは、あきらかですけど、こまかに イチャモンつけても、生産的ではなさそうですね。勤務校中心に初版うりきって、そのあと2刷でかきなおすにしても、何年かあと?…って感じだろうことかんがえると、生産的批判がどの程度可能かなぁと。
■ま、それはおくとして、マンガという媒体の積極活用は、たしかに意味がありそうですね。そこまで かみくだくのが、タイヘンという問題をおけば。■もっとも、『ゴーマニズム』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0)とか『嫌韓流』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%8C%E9%9F%93%E6%B5%81)で、「コミュニケーション」がとれたんでしょうか? なにか、右派が みずからの不勉強というか、構造的死角をひらきなおっただけのような気がするのですが…。■かりに、本書のマンガ版のような媒体が刊行されたとして、ネット右翼あたりが ちゃんと うけとめるのか、はなはだ疑問ではありますね。あれだけ、仲@ukiuki さんが、わかりやすく問題点を整理したって、全然学習効果、あがってないじゃありませんか?(笑)
徹夜でしょうか?
■評論家の勝間和代(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%96%93%E5%92%8C%E4%BB%A3)さんが、『効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法』で、ベストセラーやテレビ番組の大半が、なぜダメか? 2000円以上の、著者たちが欲得ぬき・自己実現としてかいた本にこそ良書があるとのべた根拠は、100万人単位に理解されるまで かみくだけていることの限界でした。■たしかに、みんなにわかる、ってことは、おそろしく単純化された図式でないとムリで、おなじことは、マンガもそうですよね。まあ、バカうれして、同時に質もたかい作品が マンガにはありますけど、それはエンタテイメントが、たまたま良質にしあがったという意味であって、啓発系のマンガなどで、それが成功したためしかないとおもいます。■それこそ、俗情によりそうかたちでの扇情的な筆致になりがちですよね。まあ『ゴー宣』は、薬害エイズや部落解放同盟などの広報活動にはなりましたけど、功罪あいなかば、ではすまないぐらい悪影響がおおきいとおもいます。
■マンガでかききれるぐらい かみくだき、しかし 読者におもねって 乱暴な単純化はさける、なんて芸当が可能なのか? ■やれるんなら、もうだれかが やっているような気もするんですが(笑)。
■いや、マンガ文化うといんで、貝枝さんみたいなマニアには、批判されそうですけど。
なぜか きえちゃったんで、再掲
おはようございます。
>こまかに イチャモンつけても、生産的ではなさそうですね。…(中略)…生産的批判がどの程度可能かなぁと。
なるほど。たしかに、読者層も広くはなさそうですし、新しい事情も数年のうちには出てくるでしょうから(手話の学校認可の話とか出てくるかと思ったのですが、あえて外したのか原稿に間に合わなかったのか。あるいは私の見落としかも)、今あえてあれこれ指摘するなら、「ここのツッコミはおもしろくない!」とかでしょうか。かなり私的な好みが出てきそうです(笑)。他には、ちょっと気になった脱字とか。でもそれも生産的とは言えませんものね。
>「コミュニケーション」がとれたんでしょうか? なにか、右派が みずからの不勉強というか、構造的死角をひらきなおっただけのような気がするのですが…。
う~ん、そうですねえ……。あの手のマンガ、誤解をまき散らかす効果は絶大だったと感じているので、コミュニケーションと言うより情報伝播の手段としては本書よりは効果的ではないかと。そう考えると、コミュニケーションというよりシンプルに「メディア」の問題として書くべきだったと今、思い至りました。深夜の思考は変なところでズレたりショートしたりしちゃうのかも……と、コメントした時間帯のせいにさせてください。
ともあれ、「そこまで かみくだくのが、タイヘンという問題」が最大のネックですよね。越すに越せない大井川、って感じです(笑)。
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2008/06/10 07:51 | 仲@ukiuki #z/AVyrZM URL [ 編集 ]
とりいそぎ
私もマンガ(およびアニメ・ゲーム・ケータイ動画をふくむ)の可能性については未知数だと思いますが、残念ながら限界は不可避だと思います。その限界を高く見積もるか低く見積もるかで楽観論と悲観論にわからるのでしょうけれど、限界がないとかんがるのはあまりに無謀な考えだと思います。(『創』(創出版)2008年5月号の特集「マンガはどこへ行く」は、まだ精読していないのですが、マンガの限界について象徴的な示唆を投げかけているような直感があります)
ですので
■マンガでかききれるぐらい かみくだき、しかし 読者におもねって 乱暴な単純化はさける、なんて芸当が可能なのか? ■やれるんなら、もうだれかが やっているような気もするんですが(笑)。
という、点については基本的に同意します。
ただ、「もうだれかが やっている」とはいえ「マンガでかききれるぐらい かみくだき、しかし 読者におもねって 乱暴な単純化はさける」という事例として、ルポをマンガでおこなっている事例は特筆に価すると思います。単行本としては、たとえば弱者の主張をマンガにした作品がありますし(一例として同性愛者の主張をマンガにした『LOVE REVOLUTION!』(Girlish)という本もあります)
また、世の中にネタがあるかぎりは続きそうな『実話ナックルズ』(ミリオン出版)や『サイゾー』(サイゾー)における「教えてっ!真夢子お姉~さん」や『紙の爆弾』(鹿砦社)における「キラメキ★東京漂流記」なども良質なルポマンガだと思います。
ルポ以外では風刺をともなったマンガも、難しい問題を「かみくだき」ながら「乱暴な単純化はさける」という行為をつづけているようにも思えます。上記の『サイゾー』における「カストリ漫報」や「データ係長」もそうですし、諸週刊誌の4コママンガはその系統でしょう。週刊ではなく月刊誌でも他にまだあるのかもしれませんが、かの『世界』(岩波書店)が「閣下とジャック」という、岩波にしては頑張っているといえるマンガを載せていることは他に比べても特筆に値するでしょう!(皮肉ではなく褒めてるんですよ、念のため)
あとは、風刺に近いですが読者の思考の枠組みをどれだけ揺さぶるかを試すマンガとして、『クリティカル進化論』(北大路書房)も興味深く読みました。ただ、これはマンガとその解説文の相乗効果によって読者の思考の枠組みを揺さぶる事例ですから純粋なマンガとはいえないかもしれませんが(もちろん、『クリティカル~』のマンガ部分が一定程度まで思考の枠組みを揺さぶる作品であることはみとめますが)。
ところで、この論点はそもそも映像メディアの限界がどこにあるのかという論点の下位の論点になると思うのです。『論座』(朝日新聞社)の2008年7月号に「メディアとジャーナリズムは共存できるか」という記事がありますので、それが参考になるとは思います。
以上、とりいそぎ思いつきを述べてみました。補足や反論をいただければ幸いです。
補足
ルポマンガやマンガ広告を作成している「エアーダイブ」という会社をご紹介します。参考までにどうぞ。
http://www.air-dive.com/main.html
あと、科学マンガというと学研が有名ですが、『生物45億年??』をふくむ、1980年代の講談社発行の科学マンガシリーズは再評価されてしかるべきだと思います。
マンガのいやな可能性
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=9452
いや、若者や貧困の問題にくわしいときく雨宮処凛氏の指摘によれば若者は実際は日本共産党の志井和夫氏の法を指示しているのだ、とのことですが、私にとって同好の士であるオタクたちがどれだけ「公私の狭間にけじめをつけてくれ」(『拳闘暗黒伝セスタス』13巻106ページ)るのかいなかは、未知数ですからねぇ。
いや、「そういう貝枝、おまえはどうなんだ」と問われたら「私はきっちり公私の狭間にけじめをつける」と断言できる自信はないんですが、それにしても実際どうなるんでしょうね日本の政治。
といいつつ、内心では『拳闘~』のオクタヴィア皇后はもとよりルスカの方も恋心が無いのではなく「自覚が無いだけではないのか?」(同109ページ)というドライゼン副長の懸念の当否が気になったり、日本の政治よりも「政治危機は未だ何一つ解決してはいない」(『ヤングアニマル』白泉社2008年11号295ページ)『拳闘~』におけるローマ帝国の政治の方が気になっているので、私には他人に説教する資格が無いことは認めざるを得ませんが。
いろいろあるんですね
■期待にたがわぬ(笑) 博覧強記ぶり、ありがとうございます。
■であるとするなら、可能性をみかぎってはいけませんね。■もりこむメッセージの質・量によりけりでしょうが。
もう少し拡張して
理想的には「非国民通信」(http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/1)の「Hey mr. porno star!」(2008年5月29日号)に対してかいたコメント「あえて規制派のいうことでただしいと思えるものを挙げると」(5月30日)のように論敵のいうことでも部分的にただしいと思える箇所の存在は認知し、そのうえで「やはり全体的な分析としてはあなたはまちがっている」という風な、解像度の高い分析をおこなうことがのぞましいのでしょうが、「マンガの可能性と限界について」というような大きすぎる題材になると私の手にはおえず、あのような断片的な思いつきつぎはぎ文章しか書けませんでした。ただ、そこで挙げた『創』(5月号)や『論座』(7月号)は、より包括的な分析だと思いますので参考にしてくだされば幸いです。
ところで、論点をマンガからもう少し拡張してゲームに関しては『シリアスゲーム』(東京電機大学出版局)という本があることも指摘いたします。
また、娯楽というか人間の欲望をどのように社会と折り合いをつけさせるのかについては『科学』(岩波書店)の2008年1月号と4月号に書かれた「脳の報酬系が導く有限系バリ島の自己組織化」という記事が何らかの参考になるかもしれません。
ともあれ、私としては前述の『週刊朝日』の表紙をみて、麻生太郎氏がシャア=アズナブルのようなカリスマになるのではないかという懸念が頭から離れません。(↓)
http://jp.youtube.com/watch?v=nCvC4nolh5Q&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=TS3fXCPmkgg&feature=related
というか、上記の「Char's Speech in Sweetwater」が、なんだかダライ=ラマ氏のように見えてきます。彼の地での閉塞感自体がSweetwaterに匹敵するかもしれないので、ダライ=ラマ氏をもちあげる彼の地の庶民をせめる気にはなれませんが。
入れ子構造あるいは大小関係
メディア全般(『論座』7月号参照)>マンガ・アニメ・ゲーム・ケータイ動画の可能性(『創』5月号および『シリアスゲーム』参照)>個々の事例(上記の諸作品参照)
という入れ子構造あるいは大小関係は普遍的であろうという気がします。あとは(1)各入れ子の間の大小関係がどれほどひらいているか、(2)また個々の入れ子についてどれだけ期待できるか、という風に論点が整理できると思います。
ですので、この後このネタについてさらに書き込まれる方は、(1)と(2)について詳細な分析をしていただけると生産的であるような気がします。
もちろん、この書き込み自体も神ならぬ貝枝個人の直感によるので、まちがっているかもしれませんが、何らかの参考にしてくだされば幸いです。
これは、虚をつかれました。
……
で、ここで言及されている「美少女アダルトアニメ雑誌やゲーム」ですが、皆様実態はどの程度ご存知なのでしょう? 少なくともこの発言の主である円より子氏は何か誤解したまま批判しているような気がします。ある意味で、朝日新聞を左寄りだと信じて、それを叩いているネトウヨと同レベルの勘違いがあるような気がするのですが、まぁそれも国民の目線でしょうかね。
特にゲームの方ですね、美少女アダルトゲーム、通称エロゲーです。たぶん円より子やその他諸々の人が抱いているエロゲーのイメージと実際のエロゲーの中身は決定的に食い違います。規制を加えようとする人はエロゲーを反道徳的なもの、暴力的なもの、変態的なもの、陵辱色の強いものと、そういうイメージで捉えているのではないでしょうか。まぁ、そういうエロゲーもないでもありません。しかし、売上ランキングの上位30位くらいまでを制圧しているエロゲーというのは、全く違うのですな、これが。
で、売上ランキングの上位を常時独占している主流派のエロゲー(以下、何の留保もなくただ「エロゲー」といった場合はこの主流派を指します)ですが、この辺を他のポルノと一緒にしてはいけません。一般にポルノと言ったらエロを追求する世界ですが、エロゲーは違うのです。他のポルノを叩くのと同じ感覚でエロゲーを叩いている、擁護している人もいるわけですが、それは概ね勘違いに基づいています!
まず、売れ筋のエロゲーに暴力など存在しません。エロゲーの女の子達は「自主的に」男主人公に傅くのであり、力ずくで女性を服従させるようなエロゲーは売上ランキング上位には顔を出しません。大半のエロゲー購買層は明示的な力関係が顕在化されることを嫌い、それがあたかも本人の意思で行われ、双方にとって好ましい関係であるかのように描かれていることを好むわけです。エロゲーの中で描かれているのはヒロインが力ずくで屈服させられるようなシーンではありません、「喜びを持って」主人公に跪く世界なのです。
ともすると、強制された関係よりも自主的な関係の方が好ましく、前者は規制されるべきだが後者は許容されるべき、そう考えられることもあるでしょう。エロゲー購買層の多くは実際にそう考えます。ところが違うのです。主人公にとって好都合な状況が、何らかの強制によって作り出されていることが明示されている場合よりも、それが隠蔽されている、自覚されない場合の方が遥かに危険なのです。
たとえば植民地支配を考えてください。植民地の人が入植者を笑顔で迎える場面を想定してみましょう。その笑顔が支配者の強制によるものであると、そう理解されている場合と、それが全く自覚されず、「我々は歓迎されているのだ、我々の支配はよいことなのだ」と確信している場合、どちらが危険な考え方でしょうか?
少なからぬエロゲー購買層は、女の子が「喜びを持って」主人公に跪く世界に共振しており、女性の性が一人の男性の管理下に置かれること、独占所有下に置かれることを当然と考え、これを双方にとって善い関係だと感じています。言うまでもなくこの関係は明白な支配関係なのですが、エロゲーの世界ではこれが力による強制に拠ってではなく、女の子の自主的な意思によって実現されます。そして自主的な意思によって実現されるが故に、そのような関係こそが正常なのだとをエロゲー購買層は確信を深めてゆくわけです。
実際、エロゲー購買層の女性の性に対する考え方は驚嘆するほど保守的です。主人公以外の男性と(そう、売れ筋のエロゲーは常に一人の男性を中心に回ります)関係を持つような女性は売女として罵られますし、処女であるかどうかで評価が大きく変わります。セクシーであることよりも、貞淑であること、貞淑でありながら主人公にだけは積極的に奉仕すること、こういうモデルが求められているわけです。逆に言えば主人公の手の中に収まらないような奔放なヒロイン、開放的な性は憎悪の対象であり、堕落した罪ある女と見なされさえします。深夜に街をぶらついている女や米兵に声を掛けられて付いていく女などレイプされて同然、そういう思考をエロゲー購買層は強く持っていますし、中には名誉の殺人を肯定するような人さえいるのです。
主流派のエロゲーは保守的な性道徳観を、男性の元に女性の性が管理されるべきとする閉鎖的な理想を鼓舞し続けています。私のようなガチの性解放論者にとってヴィクトリアニズムに侵されたエロゲー業界はポルノ界の同志であると同時に相反する敵でもあるのです。ですから私であればエロゲーを「女性の性を封じ込めようとしている、性を後宮に押し込めようとする思想を育てている」として批判したいくらいです。
一方で政界の規制派は、どういう観点からエロゲーを批判しているのでしょうか? 常に一夫一婦で性はその内側に限定されるべきとか、女性は結婚するまで純潔を守るべきとか、そういう保守的な性道徳の信奉者であるならば、エロゲー批判は的外れです。自分と同じ性道徳観の唱道者を批判してどうする? 新自由主義者が朝日新聞を叩いたり、ネトウヨが中国政府を批判したり、それと同じような間抜けさを感じるのです。エロゲーってのは保守なのですから、保守派は自分達の同志を増やすためにエロゲーをむしろ薦めるべきなのです。まぁ某議員の性道徳観など知ったことではありませんが、エロゲーが煽っているのは何なのか、その辺を理解してから批判した方がより正確な問題提起は出来るかと。それが一般の理解を得られるかは、これまた知ったことではありませんが。
↑ すばらしい!!!
雑感
おおまかにいうと、著者のましこ氏自身は参考文献にあげていなかったですが、以下の4冊の本を融合させて要点を抽出し、さらに解像度をあげた詳細な分析と最近の社会動向をもりこんだ、というのが私の感想です。
その4冊とは
1.『国家主義を超える』(阿満利麿・講談社)イメージとしての「日本文化」を解体している快著。
2.『侵略戦争』(纐纈厚・ちくま新書)行政的存在としての「日本」特にその支配者階級の侵略性を幕末(という区分も示威的であることは認めるが)から第二次世界大戦後までにわたって時系列的に書いた快著。
3.『正しく生きるとはどういうことか』(池田清彦・新潮社)他人の人権を侵害しないですべての人が自己実現できるような、あるべき社会をえがいた快著。
4.『歴史/修正主義』(高橋哲哉・岩波書店)かならずしも支配者でない市井の庶民にとっての、さらに第二次世界大戦後うまれの人々にとっての戦争責任およびその責任の取り方とは何であるかを説いた快著。
あと、ましこ氏自身が「議論を簡単にするために」(88ページ)と明言しているように、意図的にはずされている点として「精神障碍」や「知的障碍」に関しては『知的障害者の自己決定権』(平田厚・エンパワメント研究所)を参考にすれば、たぶんすべての人にとってあるべき社会を希求するための基盤として完璧であるように感じます。
一部は以前登場した文献ですが…
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLJ,GGLJ:2006-29,GGLJ:ja&q=%e3%80%8e%e5%9b%bd%e5%ae%b6%e4%b8%bb%e7%be%a9%e3%82%92%e8%b6%85%e3%81%88%e3%82%8b%e3%80%8f%28%e9%98%bf%e6%ba%80%e5%88%a9%e9%ba%bf%e3%83%bb%e8%ac%9b%e8%ab%87%e7%a4%be%29
●『侵略戦争』(纐纈厚・ちくま新書)
http://www.google.co.jp/search?num=20&hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-29%2CGGLJ%3Aja&q=%E3%80%8E%E4%BE%B5%E7%95%A5%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%8F%28%E7%BA%90%E7%BA%88%E5%8E%9A%E3%83%BB%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8%29&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
●『正しく生きるとはどういうことか』(池田清彦・新潮社)
http://www.google.co.jp/search?num=20&hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-29%2CGGLJ%3Aja&q=%E3%80%8E%E6%AD%A3%E3%81%97%E3%81%8F%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8B%E3%80%8F%28%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B8%85%E5%BD%A6%E3%83%BB%E6%96%B0%E6%BD%AE%E7%A4%BE%29&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
●『歴史/修正主義』(高橋哲哉・岩波書店)
http://www.google.co.jp/search?num=20&hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-29%2CGGLJ%3Aja&q=%E3%80%8E%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BC%8F%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%80%8F%28%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%93%B2%E5%93%89%E3%83%BB%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%9B%B8%E5%BA%97%29&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
●『知的障害者の自己決定権』(平田厚・エンパワメント研究所)
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLJ,GGLJ:2006-29,GGLJ:ja&q=%e3%80%8e%e7%9f%a5%e7%9a%84%e9%9a%9c%e5%ae%b3%e8%80%85%e3%81%ae%e8%87%aa%e5%b7%b1%e6%b1%ba%e5%ae%9a%e6%a8%a9%e3%80%8f%28%e5%b9%b3%e7%94%b0%e5%8e%9a%e3%83%bb%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%83%91%e3%83%af%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%88%e7%a0%94%e7%a9%b6%e6%89%80%29
■入門書ということで、わかりやすさ重視とはいえ、ましこ氏が、なにを省略したのか、なにをかくしたのか、さきにすすむための「解剖」が必要ですね。
一応既出記事もリンク
http://tactac.blog.drecom.jp/archive/2115#comments
●「【沖縄集団自決訴訟・大江氏側会見詳報】1・2(産経)」
http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-188.html
●「あやしいコンビニ 2」
http://tactac.blog.drecom.jp/archive/596#c5
●「動物をかうことの意味2=差別論ノート25」
http://tactac.blog.drecom.jp/archive/681#c0
●「血統幻想がささえる戸籍制度」
http://tactac.blog.drecom.jp/archive/1313#c3
ネタのつかいまわしですが賞味期限は
愛国戦隊大日本
http://jp.youtube.com/watch?v=Ky5Bszw7L5s&search=dainippon
およびその解説
http://www.gainax.co.jp/anime/daicon/dai.html
あと、漢字に意味などないということは理屈ではわかるのですが、『インパクション』162号186~7ページの「『皇賊新聞』インタビュー」の様な漢字のつかいかた(おちょくりかた)はすばらしいセンスだとおもいます。
いや、貝枝のセンス自体がズレているのだという可能性は否定できませんが。
麻生太郎金脈研究
http://kodansha.cplaza.ne.jp/wgendai/article/080609/top_04_01.html
いや、金脈なら話題を麻生氏にかぎることはないんでしょうけれど、この項目(ましこ氏の新刊紹介)においてけっこうマンガネタで突っ走ってしまったので、他ならぬ麻生氏のネタは書いても逸脱してはいないと思います。
また、麻生氏がシャア=アズナブルのようなカリスマになる危険性はそれなりに高いと感じますので、その意味でも紹介する意義は小さくはないでしょう。
いや、「だったら貝枝、おまえがアムロ=レイになって麻生を止めろよ」というツッコミがくるかもしれませんが、麻生氏がシャアになれる確率はともかく貝枝がアムロになれる確率はほぼゼロパーセントなので期待はしないでください。
7年間のブランクのせいで腕がにぶっている(下記のページ参照)、というのではなく潜在能力自体が低い、ということで、くれぐれも根本的に期待しないように。(って誰に向かってしゃべってるんだ?オイラは)
http://jp.youtube.com/watch?v=tlvtc1AbHsY
http://jp.youtube.com/watch?v=x3-K5YkApiU
虚構のシャア=アズナブルと、なまみの麻生
■前者は、創作上、完全無比にえがかれているのは当然ですが、後者は、本質的にアナだらけであり、カリスマ視する一部大衆以外は、だれも それを完璧視しません。■本質的に天才でなく、失言をくりかえすような配慮の欠如は、カリスマ性が早晩崩壊することを宿命づけているでしょう。安倍氏のようになるのでは?
■『週刊現代』は、是非安倍前首相のときのように、徹底したデータ収集につとめてほしいものです。ほかの媒体が、いくらしらんぷりをしても。
補足しました。
異様なまでにこいコメント欄ですね(笑)
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/cmt/7e186f3b0c0ca98c1b32eaa4e556cb49
■『非国民通信』さんは、虚をつくするどい御仁。ただし、もっとも味読すべき層が、絶対よまないだろう、よんでも理解しないだろう、いや絶対理解したがらないだろう、点が、かなしいといえば、かなしい。
おほめいただきありがとうございます。
おほめいただきありがとうございます。(いや、ほめてないかも?)
ところで、上記のコメント「入れ子構造あるいは大小関係」で
メディア全般>マンガ・アニメ・ゲーム・ケータイ動画>個々の事例
という風に分けましたが、補足して「マンガ・アニメ・ゲーム・ケータイ動画」と「個々の事例」の間に「とりいそぎ」で書いたような、ルポ・風刺・思考の枠組みへの揺さぶり、という類型をいれるべきでしたね。
で、「メタ言語論」(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-151.html#comment609)で挙げた『勝手に改蔵』は風刺と思考の枠組みへの揺さぶり、という両面を持っているように感じます。
それにしても、純粋な娯楽としてのマンガにかぎっても、創作をせず評論に特化している私にとって「これはおもしろい!でも何がどうおもしろいのかがうまく評論できない」という、くやしいおもいをさせる創作者の技来静也(わざらい=しずや)氏(『拳闘暗黒伝セスタス』の作者)や玄鉄絢(くろがね=けん)氏(『少女セクト』の作者、『コミック百合姫S』の2008年5月号から別の連載を再開)が、かならずしも元ネタとして濃い資料を読んでいないように思えるのは、『日本人とユダヤ人』という愚劣な本をもとに何故『にせユダヤ人と日本人』ほどの名著を書けたのかとおなじくらい不思議です。
たとえば技来氏は『拳闘~』1巻の巻末には詳細な参考文献リストを挙げていますが最新号の『ヤングアニマル』(2008年12号)の末尾において「森君『完走』おめでとう!君は偉い。」などと近代スポーツ礼賛をやらかしてますし、玄鉄氏のホームページ(http://www.lo-tek.info/)を読んでも、それほど濃い元ネタを同氏が読んでいるようには思えないんですよ。
久米田氏の『勝手に改蔵』のように、作中の風刺のみならず風刺の対象になっている元ネタ自体が濃い場合にくらべ、謎は深まるばかりです。「ショボイ元ネタでも技来氏や玄鉄氏らの体を通すと高度に洗練された創作物になる」という不思議な能力がある、としか思えません。
たとえていうなら
貝枝「わたしの知らない元ネタが、内蔵されているのか?」
技来氏&玄鉄氏「わかるまい!サブカルを評論のネタにしている貝枝には、このオレの体を通して出るちからが!」
貝枝「体を通して出るちから?そんなものが、メタ次元で書ける評論の射程を超えられるものか!」
という感じですかね。
(ちなみにこのたとえ自身の元ネタは以下の動画の2分15秒以降参照)
http://jp.youtube.com/watch?v=tCRUTQt_vfM&feature=related
でもって、貝枝がどう思おうと、実際に両氏の創作が貝枝の評論の射程を超えているという事実が揺るがないのも上記の動画のとおり、と。
ネタと加工と解析
■でもって、文化をウンヌンする御仁たちのおおくが、「どれほどゆたかな文化的背景を流入させ、コラージュ・テキスト化したか」でもって、ほめたたえようとするのですが、およそナンセンスだとおもいます。■文化現象の価値とは、「どんなものを、どのようにひきうけたか」ではなくて、「どんなあたらしいものを表現し、その潜在的可能性もふくめて、衝撃をあたえたか」でさだまるものでしょう。■「自分は、●●と▲▲を継承した(影響をうけた)」とか、古典芸能的な権威づけをする表現者がいますが、いさぎよくない。思想家の内田樹先生などは、「師匠がいないとダメ」と断言しますけど、「師匠がいれば、いいってもんじゃない」と、かえしたい(笑)。■はっきりいって、ヘボなバレエ公演とか、権威主義ばかりで、たえがたいものでしょう。「うつくしくない/おもしろくない/かろやかでない」の三重苦。古典で、関係者以外に、「努力賞」的評価ではなく、市場的価値で「おみせできる」水準に達しているアーティストはおおくない。おなじ才能・おなじ修練の水準からいえば、ヒップホップなど、ポップ系のダンサーの方が、ずっとエンタテイメントとしてすぐれている。■ポップアートは、すぐあきる・すたれるかもしれないけど、おてがるに「うつくしい/おもしろい/かろやか」を実現していることがすくなくない。そして、それらポップアートの成功例が、古典的知識の蓄積を膨大に消化したうえでの大衆むけ作品とはかぎらないということ。たとえば「ビートルズは西洋古典音楽の正統的凝集物だなんてものじゃない」という事実ひとつとってもいい。
■古典を全否定するのは、アホだとおもいますが、古典教育さえ復活させれば、閉塞状況を突破できるみたいな幻想をふりまくのは、まちがっているでしょう。
■でもって、本論にもどると、完璧な評論をされてしまうということ、つまり、完全に解析されて、分解・再生・改編可能な状態にまで徹底的に透明化されてしまったばあい、それはアートでなくなりますよね。いわゆる「データベース」化して、二次加工される素材にまで還元されてしまうと。■いや、半永久的に再利用される素材としていきながらえれば、それは大発明なのですが、すくなくとも、一個の全体像をなす作品としてのオリジナリティは解体されてしまうと。■したがって、表現者は、ネタとして二次利用されることはのぞんでも、完全解析されないような、あいまいな領域をかならずのこしておくんではと、にらんでいます。■ライブ・パフォーマンスのように、音像・画像としてディジタル化することに限界があるようなものはともかく、言語表現や絵画的なものは、100%ディジタル化されても、100%解読されないような部分を、意識的・無意識的にのこすんではないでしょうか? で、実際、すくなくとも言語表現は、自分が意図しない解読を誘発するテキストと、複数のコンテキストをかかえてこんでしまいますから、それら全部を表現者が統制しきれるはずがないという意味もあります。
感服しました。
私も、引き継いでいる文化資本の質と量が、創作だけではなく評論もふくむ、何らかの表現の質をきめる決定的な要素だと思っているわけではなく、むしろ限られた元ネタで洗練された表現を行うことの方がはるかに高度な作業であることは認識しているつもりです。ちょうど「限られた食材でおいしい料理を作れる人こそがすぐれた料理人である」といえるように。
また、私がオタクのなかで特に評論の能力においてすぐれている、という自負があるわけでもありません。ですので「ほかのオタクならぬこの貝枝の評論の射程を超えるとは、信じられない」などと感嘆しているわけでもありません。
あくまで「それにしても技来氏や玄鉄氏は、その作品世界の濃密さにくらべて、元ネタがショボすぎる。どう工夫してもおいしくできないような食材を元にして、ものすごくおいしい料理を作れる、魔法のような腕前を持つ料理人のようだ」と単純に感嘆しているのです。
みぎ、お返事まで。
オマケ
マンガネタ追伸
ルポマンガ
『心はどこまで脳にあるか』(海鳴社)
河出書房新社の『KINO』(vol.7)がくんでいる
一応わたしがしる範囲であげると
ただ、より現代的な作品は知りませんし、ケータイ動画にいたってはとんと無知です。どなたかおしえてくださればありがたいです。
麻生氏に対抗できる人物(たち)
ちなみに「腐女子」とは、わかりやすくいうと『さよなら絶望先生』の藤吉晴美(ふじよし=はるみ)さんのような感じです。(って、余計わかりにくい?)
「腐女子」はともかく
麻生氏ネタ
「日本」のサブカルにはハリウッドもメロメロ
どうせなら『ヤングアニマル』つながりで「コイズミ学習ブック」(こいずみまり著)も映画化してくれハリウッド!
ま、実際に「コイズミ~」を映画化したら「国会で取り上げられた発禁ソフト」(『超エロゲー』太田出版・26ページ)の『177』のように、米国議会で取り上げられてさらしものになったあげく共和党右派によって配給が禁止される、というオチになりそうだが。
『JANJAN』に紹介記事
↑ たぶん、ここ以外では たちいった感想がかたられていないだろう本書に、はじめて書評がつくか…。
ましこ=ひでのり氏の業績は
その3点とは、「言語」と「たたかい」そして「社会学それ自体」です。
第一に言語について。『ことばと国家』(田中克彦・岩波新書)などの名著が先行研究として存在していたとしても、ましこ氏の『ことばの政治社会学』および『ことば/権力/差別』(ともに三元社)が革新的な本であることは否定できないでしょう。
第二にたたかいについて。『「健康に良い」は体に悪い』(高田明和・光文社)などの名著が先行研究として存在していたとしても、ましこ氏の『たたかいの社会学』(三元社)が革新的な本であることは否定できないでしょう。
第三に社会学それ自体について。『社会学』(奥井智之・東京大学出版会)などの、社会学全般をわかりやすく解説した名著が先行研究として存在していたとしても、ましこ氏の『あたらしい自画像』(三元社)が革新的な本であることは否定できないでしょう。
それに対して、本書『幻想~』の様な、「日本」という幻想の解体に関しては、おなじましこ氏による先行研究『イデオロギーとしての「日本」』や『日本人という自画像』(いずれも三元社)をあわせても、わたしがしばしば言及している『国家主義を超える』(阿満利麿・講談社)にくらべて、とりわけ革新的とまではおもえないのです。もちろん、わたし自身の6月16日のコメントにある様に「要点を抽出し、さらに解像度をあげた詳細な分析と最近の社会動向をもりこんだ」点は、ましこ氏による革新的な点だとはおもいます。ただ、それでも「日本」に関する分析は、おなじましこ氏による「言語」と「たたかい」そして「社会学それ自体」に関する分析ほどには革新的ではない様に感じるのです。もちろん、それは先行研究の詳細さ自身が「言語」と「たたかい」そして「社会学それ自体」にくらべて「日本」の場合は事前に進行していたことのあらわれであって、ましこ氏自身の問題ではないのかもしれませんが。この点についての、ハラナさんのご意見はどうですか?
「ましこ・ひでのり解体新書」
■(1) 「いわゆる ましこ本の参考文献は、アリバイ的な存在である。」
↑ ■大学人は、自分に火の粉がふりかかることをおそれ、大学外の層は、おそるおそる 「こわいものみたさ」系の見物気分なので、あまり着目されない論点だとおもいますけど、ましこ氏の著作の巻末に、膨大な文献表がのっているのは、ことばはわるいけど、「おどし」なんじゃないかと(笑)。■「よむべき文献おさえてるぞ。モンクあるなら、全部よんでから、かかってこい!」式のガードしているんじゃないかと。
■それと「せなかあわせ」なのは、文献表は、あとで自分が参照するためのリストであって、たとえば肯定的にあつかわれている本も、オマージュ(賛歌)なのかは、微妙ですよね。権威づけに、大量援用されているんでは?
■(2) 「ましこ本は、2002年刊行までと、それ以降では断絶がある」
↑ ■『増補新版 イデオロギーとしての「日本」』みたいに、新版がでているものは、単なる追加版だとみなして除外すると、ましこ氏の著作は、2002年の『日本人という自画像』と『ことばの政治社会学』で、ひとくぎりで、あとは「余生」なんじゃないでしょうか? ■注意ぶかく初出をみればわかりますが、2002年までの刊行物は、基本的に非常勤講師時代に発表したものと、常勤ポスト着任直後にかかれた文章群です。就職できずにいた「不遇」な時代(と、前身の大学院・PDF=研究員時代)と、着任後、俄然元気がでただろう時代と混在はしていますが、基本的に「挑戦者」という意識が濃厚な著作物ばかりです。■しかし、そこまでに収録されなかったものや、その後のかかれたものは、学内紀要・共著・テキストなど、「納期までに、一定分量をしあげる」式の職人技系の作品しか かいていないんじゃないかとおもいます。
■だから、たとえば2005年以降にかかれた『あたらしい自画像』や、ことしの『幻想としての人種/民族/国民』などは、妙に、かたりくちが やさしい。■それこそ、脚注では、一応、ヤバいこと かきこんでいますけど、これは同業者・業界関係者へのアリバイ工作であって、想定読者層は、あきらかに20代前半までの大学生あたりでしょう。■『ことばの政治社会学』までの、超攻撃的姿勢とは一転して、わかものむけの「うけねらい」とまではいわないけど、教育・啓発しか 主眼においていないんですよ。■おそらく2003年ごろをさかいに、「超攻撃モード・ましこ」は死んで、「余生/伝道モード・ましこ」として再生したんじゃないでしょうか?
■(3) 「ましこ本は、基本的に時事的ではない」
↑ ■書評紙『図書新聞』に「思想時評」を連載していたころこそ、時事的な文章をかいていたし、まえがき/あとがき等は、とことん時事的な話題がおおい、ましこ本ですが、ましこ氏の基本姿勢は、非時事的な構造の暴露なんだとおもいます。■ひょっとすると「耐用年数がみじかくて、はやく賞味期限がきてしまう時事ものは、さけたい」という動機があるかもしれませんが、ともかく、20~30年ぐらいは、あんまり変質しなさそう、って予感がある領域にしか、ふみこまない傾向があるとおもいます。■その典型例が『たたかいの社会学』で、闘争や抑圧とか、性別役割分業とか、そのヘンで、「あんまりかわらなそうな領域」をとりあげて、「みもふたもない」構造を指摘するのが、おすきみたいです(笑)。皮肉ないいかたをするなら、「現実に劇的に変質してほしくない」と、ねがっているんではと(笑)。■しかし、そういった、「あんまりかわらなそうな領域」がすきという傾向は、『あたらしい自画像』はもちろん、『幻想としての人種/民族/国民』でも、あまり変化していないとおもいます。前者での健康幻想だのスポーツ神話の解体作業と、「日本人幻想」「人種神話」みたいな、この列島の根幹にあたるような「通奏低音」的な部分をとりあげた後者とは、スタイルにおいて、通底していると。
■(4) 「最近の著作は、納期問題でかかれている」
↑ ■ちなみに、『あたらしい自画像』も『幻想としての人種/民族/国民』も、たぶん数か月でかきあげていますよ。「教科書かかなきゃ」って切迫感でかいているだけで、挑戦的・挑発的な姿勢、執筆時の興奮とかとは無縁の、「納期」問題が、ただよってくるからです。■インターネットを駆使できるようになり、検索技術・複製技術を最大活用して「促成栽培」された「作物」であって、筆者は「省エネ」、作成過程ではエネルギーの大量消費の時代との対照性、って感じがします。■大学とか学界とかに対する対抗心や求職といった動機がなくなって、もっぱら教育上の「納期」だの、わかて研究者との共同作業といった動機で「納期問題」が中軸になっていると。■典型的なものは、雑誌『社会言語学』での論文群ですね。あれって、たのしそうに かいてないでしょ?(笑) しかも、「1年に1本は学術論文をかいておかないと」といった業績づくりともちがう。「雑誌『社会言語学』のレギュラーメンバーとして、毎号かいてます」っていう使命で、まいとしかいているだけなんでは? ■いや、もちろん、なにか論集として刊行する計画の一環として、シリーズもの(「近年の俗流言語論点描」)かいているかもしれないし、なんともいえませんけど、たのしげでもないし、学界をせめたてる、って パワーも感じられない。■その意味では、(2)とかぶりますけど、2004年ぐらいからは、すべての著作が「おつとめ」化しているんでは? という推測をしています。
■(5) 「もともと、ましこ本は、パッチワーク=編集としての斬新さねらいであって、本質的あたらし指向ではない」
↑ ■そして、デビュー作の『イデオロギーとしての「日本」』だって、ましこ氏は、「あたらしさ」を主張しているんではないとおもいますね。「パッチワーク=編集」の努力をある程度しただけで、「コロンブスのタマゴ」になるのに、なんでみんなしない、って、いきどおりで、教科書・学界批判をしたわけであって、「これが大発見」なんてのは、もりこんだつもりがない。■ましこ氏が「発見」とおもっているのは、『社会学評論』にのった論文から一部きりだされた部分とか、ごくわずかであって、ましこ氏の主張は、「パッチワーク=編集」の努力の方向性のあたらしさ、努力の結果浮上する意外な事実の「発見」という点にあって、パイオニアだなんておもっていないんでは?■障害学と社会言語学と社会学とは、親類関係である、みたいな、立岩真也さんの社会言語学バージョン、森壮也さんの社会学バージョンみたいな、「ニッチ産業」を提示した点は、一部そういった自負をもっているかもしれませんけど…。
■だから、たとえば『幻想としての人種/民族/国民』をとりあげて、ナショナリズム分析とか国家論として、あたらしくない、とんがっていない、という批判は、当然だけど、もともと、そういった野心を、はじめから もちあわせていないんだとおもいます。あとがきでも、最先端の議論じゃないって、ことわっているし。■いままで、だれも そういった くみあわせを かんがえたこともなかった、って「コロンブスのタマゴ」をねらってはいるけど、「どうだ、あたらしいだろ」って誇示とは正反対でしょう。「創作料理」を発案した定食屋さんとか、そういったイメージでは?
一件だけ例外発見(笑)
●「偽装リサイクル製品としてのフェロシルトと不法投棄の隠蔽工作」
●「『岐阜県史』問題再考―産廃行政に関する「県史」等の記述の政治性」
■みるからに ヤバそうな題でしょ(笑)。■ただ、社会学・言語学と無縁なメンバーとの共著って点では、これも「納期問題」の産物かも(笑)。■環境社会学っぽい路線は、これまでにないことは事実だけど。
おっしゃるとおりだとおもいますが、補足します。
ハラナさんのおっしゃる様に、たとえ「『超攻撃モード・ましこ』は死んで、『余生/伝道モード・ましこ』として再生した」としても、より重視すべきは、ましこ氏が分量としてはよりおおく分析している「日本」国家主義の分析に関しては、どうしても『国家主義を超える』(阿満利麿・講談社)にくらべて、「要点を抽出し、さらに解像度をあげた詳細な分析と最近の社会動向をもりこんだ」ところどまりであって、むしろ分量としてはすくなくしか分析していない、「言語」と「たたかい」そして「社会学それ自体」に関してこそ、先行研究をふまえたとしてもそれらとは一線を画す水準にまで達している様に感じることにある様な気がするのです。もっとも、その様なアンバランスも、「日本」というネタが上記の3点にくらべて事前にかなり分析つまり解体されていたせいなのかもしれず、ましこ氏自身の問題ではないのかもしれないのですが、よりすくなく分析した事象についての分析の方が革新的である、という風に感じるのが、なんとなく違和感をもよおす、というのが、貝枝的には一番つよい印象です。
想定読者層と射程
それと、自分が人生の主要部分をほとんど学問のかみさまにささげて、それこそマックス・ウェーバー がかたったような「職業としての学問」を実践していないかぎり、「入門」などといった、おそろしいことをくちにできない。
いや、もちろん、哲学者の内田樹さんが指摘するような「師」は、学問上の先生の連鎖を前提にしていて、連綿とうけつがれてきた目標(過去の師匠のひとりが到達・実現したかもしれない地平)を暗示させることさえできれば、それでいいといった見解もあるでしょう 。あるいは、英語圏で“beginner course”“advanced course”などと段階にわけられているように、仏教の教学でも「方便」という戦略的な段階的指導論がとられてきたように、「入門期」用教科書があまれないと、「土俵にあがって相撲をとってもらう」までに移行してもらえないことは、経験的にしられてきたわけです。
とはいえ、日進月歩ですすみゆく「民族」理論の動向全体にめくばりしながら、そこにたどりつきえる道程を整理して、入門期から専門家のタマゴまでの段階を整然と視覚化 したうえで、「初心者が最初にふまえるべき民族理論とデータはここだ」式の提示をできたのかといえば、全然できていないからです。できない相談なのに、「入門書」なんて位置づけるのは、あまりにおこがましい…〔本書「あとがき」冒頭部,pp.141-2〕
■このあたりに、正直に告白がなされているとおもいます。マニアックな読者層にとっては、脚注の質・量あたりでも、不満がのこる水準でしょうが、『あたらしい自画像』あたりと、つくりの質は、大差ないとおもいますけどね。学界に なにか問題提起する意図がないし(スポーツ教育界とか、社会科教育界とか、そういった業界への攻撃的姿勢は感じとれるけど)、なにか 革新的なモデルを提示しようともしていないとおもうんですね。『あたらしい自画像』の図解とかは、あたらしさを ねらっているかもしれないけど、「学界うけ」は、しないんでは? あくまで、予備知識がない学生さんあいてに、意表をつくためのマジックという感じか…。
人種つながりで
入手しました
■まだ通読していませんが、たしかに1990年刊行のものとしては、おどろくべき水準ですね。■たぶん、その後刊行の『西欧の眼に映ったアフリカ 黒人差別のイデオロギー』(明石書店1999)が、この方面の決定版なのでしょう(しなぎれのようですが)。
■岡倉先生、天心が曽祖父にあたるようです。■それはともかく、たくさんの著作をもちながら(http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/List?cnt=2&doTyosya=%89%AA%91%71%93%6F%8E%75%81%5E%95%D2%92%98&mode=douitsu&button=btnDouitsu)、いまひとつメジャーな印象をあたえないのは、やはり日本人に縁どおいアフリカを対象とした歴史地理学のせいでしょうか?
■『幻想としての人種/民族/国民』はもちろん、人種論の決定版である、スチュアート・ヘンリ『民族幻想論 あいまいな民族 つくられた人種』(解放出版社2002 http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7592-6068-7.html)にも参考文献としてあがっていない。
『MIDNIGH EYE ゴクウ(GOKU)』(寺沢武一)は
(「日本」イデオロギーに関しては同氏の『忍者カブト』や『武(TAKERU)』が強烈で、特に後者の「ことだま(言霊)」の発想はスゴイですが(良い意味でも悪い意味でも))原作では「天皇」と言っていたところをアニメ版では「天皇陛下」と言いかえているという指摘はありますが(http://plaza.rakuten.co.jp/nyantoro/diary/200810040000/)いずれにしてもインパクトのある出版会(http://www.jca.apc.org/~impact/)もとい出版物だ。
ウィキペディア「ゴクウ」
本作の主人公。33歳独身。元メガロポリス東京都警No.1の腕きき刑事であり、現在は世田谷のビルに探偵事務所を開いている。刑事時代には新宿を根城にしていたマフィアの1つ、ドン・レオファミリーを一人で壊滅させた過去もある。武器商人・白竜幻二の刺客・孔雀の強制催眠によって自殺させられかけたが、自らの左目をナイフで刺し、その激痛で催眠から逃れた。この時、“面白い男だ”と彼を評した何者かによって救われ、全世界のあらゆるコンピュータをハッキング可能で、かつ各種の高性能センサーも組み込まれた眼球型の小型端末である神の目と、伸縮自在で制御可能なエネルギー衝撃波を射出できる携帯武器如意棒を与えられる。…
■心理学者、岸田秀氏は、孫悟空が象徴化した幻想(妄想)をいろいろ分析していましたが、如意棒は、ファルス(陰茎)の象徴だと解釈していました。■寺沢先生は、アメコミを意識したマッチョな世界をうりにしているので、この点は、意図的かもしれませんが。
■ところで、作品の人種・国籍イデオロギーをテキスト分析するより、それを媒介に読者層の欲望・不安を分析したほうがよさそうですね。「ゴルゴ13」が象徴化している、日本人男性の不安の抽出とおなじように。
賛成します。で、その分析にはぜひ
その分析にはぜひ、寺沢先生ご自身も参加してほしいですな。
「そもそも寺沢先生はすでに死んでいるのではないか?」という指摘もありましたが(下記の掲示板の175(2007/02/23(金) 18:34:24)以降)(http://www.23ch.info/test/read.cgi/rcomic/1169826091/)、貝枝的には195(2007/03/01(木) 14:05:59)以降のやりとりが特にツボでした。
つーか実際は生きているんですよね?
ウィキペディア「寺沢武一」
1998年、人間ドックにより悪性脳腫瘍を発見。以後、治療・リハビリを繰り返した。
2006年9月現在、自身監督による映画を製作中。
2008年1月、26年ぶりにTV版およびOVA版コブラのアニメ製作が決定。OVA版は自身による脚本・絵コンテ・監督。
ということで、「復活」し、ご活躍という風に理解していたのですが…。
だれがなにをどれだけ意識しているかは不明ですが
だれがなにをどれだけ意識しているかは最終的には不明で、類推のいきをでませんが、ファロスつながりでいうなら、やはり『ボクと妹』(しのざき嶺)は名作だとおもいます。「オレの女にしてやる」(97ページ)というセリフがその中でも突出した事例でしょうが、全編を通してのイタいファロセントリズムには『あじあの貢ぎもの』(町田ひらく)収録の短編マンガ「オニゲノム」にみられるような、もと皇軍つまり天皇(!)の軍隊の軍人のエゲツナさをえがくという行為と同様のいさぎよさを感じます。
そして、その点(イタさ)だけが唯一、「ファロスを矯めて国立たず。」という記事をかいた高橋史朗氏(http://www.jca.apc.org/rekkyo/html/kokuban_c.html)とのちがいですが、その唯一のちがいが、どれほどまでに思想的・文化的な深遠さの差異を顕現していることか!
ところで、格闘シーンにおける緊迫感は『ファイナルロリータ』を完結編とするロリータ三部作に匹敵するとしても作品全体のイデオロギーはそれら三部作の様な、かわいたユーモアのセンスとは対極にあるとおぼしき『一騎当千』(塩崎雄二)では、4巻70ページにおいて陰茎への口唇愛撫の描写が存在し、5巻54ページにレイプがえがかれているものの、それでいて作品全体としては『GENDER HISTORY』(ジェンダー史学会・創刊号)の48~50ページに指摘されたような「ファロセントリズムの文化とレイプの美術史」とは似ても似つかない物語世界であるように感じる。よくそれだけ対極的な要素を同一作品内にもりこめるものだ。いや…まぁ、『一騎当千』論はこれまでも本ブログでかいたけれども…(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-461.html#comment-top)
国家など想像(創造?)の共同体にすぎないということはみとめるが
ただ、それにしても以下の記事にあるように
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090416-00000112-nna-int
世界の欠食児童の49%がインド在住というのはスゴイとおもいます。
それでいてインドの富豪は「日本」の富豪以上にゆたかである(というウワサをきいています)。
もちろん、だからといって「日本」が平等な社会であるわけではないんですが、独裁とハイパー独裁のどちらがよいのかはわからない気がします。
選挙制度自体が存在しないことからして、他の独裁国家に比べてもおそらく特殊であろう中国(民主的であるという体裁さえもととのえる必要を権力者が感じていなさそうにおもわれる)にくらべても、選挙制度があるのに貧富の差がここまで拡大しているインドも、ある意味では特殊な気がします。
(ちなみに"International Herald Tribune"4月15日号の1ページには"Poverty tops issues in Indian vote"という見出しが、3ページには"In Indian election, every party promises more ways to help the poor"という見出しがそれぞれのっています。)
想像の産物にすぎないけど、巨大な怪物、という逆説
■インドにかぎらず、アメリカやら、中国やらが、めがくらむような経済格差を放置しているのは、そういった「国境線マジック」の極端な例ということでしょう。■インドやアメリカにいたっては、一応、「民主」的な秘密投票というかたちで、人気とりゲームが成立しているのですから、そういった経済格差ゲームという、茶番を、国民の過半数が「支持」しているんだという、オマケさえ ついていると。
鏡の国のアリス倶楽部
「日本」がよい国であるわけはなく、差別が蔓延していないわけもないのですが、いくら政治を改革しようとしてはしりまわってもおなじところを無限にはしりつづける状態からぬけだせないという点において、『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王のセリフ「ココでは同じ場所にいるためには、力の限り走らねばならぬのじゃ。どこか他のところに行きたければ、少なくともその二倍の速さで走らなければならぬのじゃぞ。」(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa733380.html)に匹敵する問題が、「国家」(というものは実在しないが)の内外において同じ原理で(実在しないはずの「国家」特有のイデオロギー、つまり「おくにがら」を基盤として)機能しており、それでいてまた、「日本」の外における問題のあまりのおおきさゆえに、「日本」が相対的にマシな国である様に感じられてしまう心境は、かなりキモイ。実は、「日本」には解決すべき政治課題は、外交はともかく内政に関しては、存在しないんじゃないだろうか?という気にさえなってくるんですが。
もちろん、それは事実認識として根本的に間違っており、たとえ米国・中国・インドの内政問題にくらべて相対的にちいさいとしても十分大問題なんですが、問題の規模がケタちがいであるがゆえに、論じる「国家」ごとに尺度をかえてかんがえねばならない状況が生じ、脳ミソがついていかなくなりそうでつ。
中国ネタ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090419-00000016-rcdc-cn
とのことであるが、
>なかには「こんな調査より、貧しい中国人が何人いるかを調査すべき」と辛口のコメントを残すユーザーもいた。
という指摘は至言であるとおもう。
ましこ氏の関心とかぶるかもしれない本として
よまれたら、感想をかいてくだされ。特に、タカマサさんによる、同書とましこ氏の著作との対比をよんでみたいです如。
書誌情報ほか
http://d.hatena.ne.jp/asin/4650006821
ララビアータ
田島正樹の哲学的断想
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/51768604.html
2009年03月05日
『理想』―国家論特集
哲学・思想系の雑誌『理想』682号の特集「国家論への寄与」のために『神聖喜劇』論を執筆したが、その号がいよいよ刊行された。言うまでもなく、大西巨人氏の小説について論じたものだが、わたくしとしては、『公共性の法哲学』(ナカニシヤ出版)に寄稿した「革命的法創造」の理論の姉妹編として、いはば「革命的主体論」として書いたものである。二つ合わせて、私の政治論としてお読みいただければ幸いである。
Posted by easter1916 at 00:44 │Comments(2) │TrackBack(0)
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この記事へのコメント
随分前の記事に政治論だったか神学論だったかがそのうち出版されるというようなことを書かれていたと思うんですが、そっちはまだでしょうか?(一読者の催促)あと値段は2500円以上になるとキツイです(一読者の希望)。
この雑誌はどこかで見つけて読んでみたいと思います。神聖喜劇読んでないんですけど。そういえばコミックがあったような。
Posted by けん at 2009年03月07日 01:25
けん様
コメントありがたうございます。
わたくしの『神学・政治論』(仮称)は、やうやく第一校正の段階です。夏までには出版できるでせう。『神聖喜劇』はコミック版も出てをります。いい出来とはいへるものですが、やはり原作にはかなひません。光文社文庫全5巻の長編ですが、ぜひ一度お読みください。できれば二どお読みになることをお勧めします。決して読みやすい小説とはいへませんが、かならずや人生観が変はるほどの経験となるはずです。私自身の神聖喜劇論はごく短いものですから、立ち読みもできるかもしれません。
Posted by tajima at 2009年03月07日 02:42
奥井氏・ましこ氏の社会学概論よりも、ふかみを感じた本
市野川容孝『社会』(岩波書店)ほか
http://d.hatena.ne.jp/asin/4000270060
http://k.hatena.ne.jp/asinblog/4000270060
↑ ■ほとんど チェックしていません。時間をみて。
■でもって、「「社会的なるもの」の言説史を追うことで思想史的に「社会」が意味してきたもの、特に忘れ去られてしまった規範的な内実を丁寧に論じている。社会という言葉には、ある規範性がこめられていると言う。それは、他者との係わり合いの中で「寛大、仁慈、人間愛……憐れみの情」を教え、自然的な平等(人権)を確認することではなく、自然的な不平等を超えて平等に生きるべきだという規範性にほかならない。しかし、「社会的social」という言葉は、特にウェーバーら社会学者によって忘却されてきた。社会学的な客観性は、社会から規範性を抜き取ってきたのである。」という指摘は、たしかに正論でしょう(http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20100109/1263054809)。
■しかしですね。以前、普天間移転問題でのべたとおり(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-1112.html#comment9730)、「『社会とは何か』と答えの出ない問いを延々と繰り返すところに社会学のアイデンティティーはある」ならば、「社会的」なる概念の原語(social など)がかかえていた規範的意味をはずしてしまった、社会学者等の知的限界とか問題は指摘してできているにしろ、「それがどうよ?」という、社会学者による、ひらきなおりは、どうしようもありませんね。■いま、市野川氏の本がてもとにないので、ひょっとしたら、そういった知的限界が、社会学周辺の体系性にとって致命的であるとった論証を、氏が成功しているのかもしれませんが、ひらきなおられると、批判がとどかない。「オレ(外的)観察者だから、規範的な~べき論とは無関係」と、いわれたら。■もちろん、社会学者自身が、観察対象としての社会現象に参与ないし関与している宿命は否定できず、「社会にふくまれる観察者である社会学者」という自己言及性問題=逆説はのこりますけど、自己言及に規範を一切もちこまない、という、「すてみ」もありえます。■その意味では、『たたかいの社会学』のばあい、弱者のたちばにたっているポーズを一方でとっているんですが、こと「社会学者=観察者」という位置どりに関しては、まさに「ゴーマンかましてよかですか?」系でしょ(笑)。
お返事ありがとうございます。
市野川氏自身が「~べき」を論じているというほどではないかもしれませんが、「シスモンディの『社会系在学』と、それ以前の『政治経済学』の相違は、前者が後者と異なり、富の『生産』ではなく『分配』に注目し、その改善を説いた点に求められている」(115ページ)という記述がありますので、本書全体における比重がどれほどであるかはともかく、「~べき」論を完全に無視しているわけではないとおもいます。
> 『たたかいの社会学』のばあい、弱者のたちばにたっているポーズを一方でとっているんですが、こと「社会学者=観察者」という位置どりに関しては、まさに「ゴーマンかましてよかですか?」系でしょ(笑)。
意味がすこしわからないんですが、要するに『たたかいの社会学』では、弱者の味方はしているが社会学者という点の異質さつまり社会のなかでの社会学者という立場の特殊性については不問にふしたままの立論だ、というご指摘でしょうか?もしそうなら、たしかにそれはそうだとおもいますが、『~の社会学』という題名である以上、そこまでメタ次元での視点をもたねばならない義務はないと思いますし、そもそも上記拙文の意図である、社会学概論としての『あたらしい自画像』の洗練度については、拙文の評価通りだとおもうんですが、どうですかね?つまり奥井氏→ましこ氏→市野川氏と順番に読んで損はない、と。
「べき」論について
社会科学と「~べき」論
■ありがとうございます。■おなじかた(同一人物)だと仮定してですが、「「べき」論については、2008年に創刊された『社会政策』(ミネルヴァ書房)……の様に「政策」の名を関している媒体の本務なので……、「~学」の名を関している本で「べき」論を展開してもよい……が、展開しなければならないわけではない……から、「べき」論は、それ専門の場に期待する「べき」こと」というご指摘で、論じつくされているとおもいます。■そのうえで、市野川氏の立論を社会学の「アイデンティティ」とからめる議論をしたかったわけです。
■たとえば、市野川氏の立論を端的にしめしているのは、つぎのような指摘だとおもいます(依然として、てもとにないまま論じているという、ていたらくですが)。
今日の社会科学にとって重要な問いは、「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問いではない。ある歴史性をもって誕生し、この問い自身が不可視にしてしまう「社会的」という概念を問題化することである。本書では、この概念の形成過程を辿り直し、福祉国家の現在を照射することから、「社会的なもの」の再編を試みる。(http://d.hatena.ne.jp/myzkki/20091210/1260402422)
■つまり、市野川氏は、社会学が、ほかの社会科学が自明視している「~べき論」から「自由」に離脱してしまっている(らしい)、その立脚点に異議もうしたてしているのだとおもわれます。■市野川氏にとっては、「「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問いではな」く、「ある歴史性をもって誕生し、この問い自身が不可視にしてしまう「社会的」という概念を問題化すること」が社会科学全般にとって重要であり、それは、当然社会学にもあてはまると、いいたいわけです。
■もともと、法学や財政学なら、「正義」「公正」など、経営学は「効率」・「社会的責任」等を、教育学なら「発達」・「向上」等を、「めざし」ており、ある意味、「「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問いではない…「社会的」という概念」を自明視して体系化されてきました。経済学だって、希少財の最適配分…といった「べき」論から自由でなく、「資本」の(合理的)運動の合理性を理解し、合理的に「市場」が制御、ないし自律運動するよう非合理的障壁を破砕するという「べき」論をかかえているはずです。それが、貧困論・飢餓論にとりくんだセンのような弱者のための経済理論にしろ、新自由主義のような強者のための経済理論にしろ。
■社会学(そして、たぶん文化人類学)は、そういった周辺の社会科学群が、自明視してきた「べき」論から自由になることを、アイデンティティ(独自性)だとしてきたはずです。「社会的」(social など)というヨーロッパ大陸起源の概念の思想史的な普遍性が、どこにあろうと、ともかく「べき」論という あしかせから自由になり、起源=出自である社会哲学の「嫡子」として、「「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問い」に、もっとも愚直につきあおうとしたのが、社会学であり、「社会」を「文化」におきかえたときに、ほぼおなじ立脚点にあったのが、「文化人類学」だったというのが、ハラナの理解です。■愚直に原理論的な「オタク」を暴走することで、市民感覚からハズれた、どうでもいい抽象論にはしったまま、かえってこないセンセーがたが大量に生息していることは、否定しません(笑)。■しかし、「社会的」(social など)というヨーロッパ大陸起源の概念の思想史的な普遍性を追究することが、社会科学周辺の専門家の不可欠の作業であるかどうかは、微妙です。市野川氏は、社会学が、ほかの社会科学が自明視している「~べき論」から「自由」に離脱してしまっていることを問題としているわけですが、この倫理的な立論は、ふたつの微妙な問題をあぶりだしてしまいます。■①「~べき論」から「自由」でない、社会学以外の社会科学は、社会学以上に「社会的」(social など)というヨーロッパ大陸起源の概念の思想史的な普遍性を追究し、その成果を市民に還元できているか? ②社会学者は、「「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問いではない…「社会的」という概念を問題化すること」を、性格上、方法論的に敏感(≒不安)ゆえに、社会学以外の社会科学以上にやる必然性・責務をもつか? …といった問題です。■乱暴にまとめるなら、①社会学以外の社会科学者の大半は、「「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問い/色]」自体を、とう意識・必然性をもちあわせておらず、それゆえ「「社会的」という概念を問題化すること」の必要性なんぞ、全然感じていないだろうし、そういった方法論的責務を市民社会におって還元することなんざ、今後もなさそうだ(法哲学など、経済・法学系の倫理学周辺はともかく、主流は無関係)。②前項とからむけど、社会学は、そんな倫理的に(逆説的だけど)エラそうな特権的地位にあるのか?(ほかが やらない≒やれないから、やるのは当然?) むしそ「「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問い」に愚直にとりくみのが、社会学ぐらいしかない以上、ここに こだわりをみせる姿勢こそ、独自性といっていいんじゃないか?…ということですね。
■でもって、「「社会的」という概念を問題化すること」なんて方法論的なまわりみちなんぞせずに、たとえば「日本解放社会学会」「寄せ場学会」等は「差別とはなにか?」「差別からの解放はいかにしてありえるか?」といった視座から、現実にとりくんでいるし、「環境社会学会」の実証研究なら、環境問題の構造をいかに整理・理解し、問題解決のいとぐちをさぐるか? で蓄積がありますよね。■優先順位でいえば、「「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問い」 << 「[色:FF3300]「社会的」という概念を問題化すること」 << 社会的問題解決のいとぐちをさぐるべく論点整理すること < 社会的問題解決のために具体的活動すること…となるのではないでしょうか? 優先順位問題にくびつっこむのは、それこそ「べき」論であって、自分のクビをしめかねないし…
■もちろん、「福祉国家の現在を照射することから、「社会的なもの」の再編を試みる」といった作業が、「いそがば、まわれ」式の、逆説的最短コースである可能性は否定しません。よくもわるくも、われわれがいきる現代社会は、ヨーロッパ近代の嫡子・庶子であり(あえて差別的な表現をつかいますが)、「福祉国家」なんてものは、その最たるものなので。
『たたかいの社会学』の著者による総括
↑ ■『幻想としての人種/民族/国民』の「あとがき」では、「『たたかいの社会学』のばあいは、表題どおり、「たたかい」という社会現象だけを対象化するよ、とひらきなおっているわけで、「たたかい」=「あらそうこと」「きそうこと」が普遍的であるがゆえに、それを軸に現代日本をネタに分析してみせることは、社会学入門の一種になるだろうと直感しました。ほかに「あつまり」とか「いやし」とか、いろいろ普遍的な状況・構造があるとおもうけれど、人類史上普遍的にくりかえされてきただろう「たたかい」という形式が、現代日本にあてはめたときに、なにがみえるのか?…」と、コメントしていますね。■言及がないので、はっきりしませんが、たぶん、ジンメルの「形式社会学」がしたじきにあるんだとおもいます。
「…初期ジンメルが形式社会学を提唱することになった背景は、オーギュスト・コント以来の総合社会学が、学問としての独自性を確立することなく、すべての学問を包み込む総合科学としての立場を強調していたことに対して、社会学以外の専門分野からの批判を強く受けていたことが挙げられる。つまり、社会学は他の学問分野をつなぎ合わせただけで実体がないという批判を受けていたのである。
19世紀後半より資本主義社会の複雑化・高度化が進んでいく中で、学問もそれに伴って専門化の傾向が顕著となってきており、そのような状況にあって初期の総合社会学は時代遅れの学問とみなされるようになってきていた。
特殊科学としての社会学の提唱
このような背景にあってジンメルは、他の学問にはない社会学独自の研究対象を模索する中で、人間相互の関係の形式(社会化の形式あるいは心的相互作用)に注目し、これを社会学が扱うべき対象であると考えるようになった。
社会化の形式あるいは心的相互作用とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係などが挙げられる。これに対して、政治、法律、経済、宗教、芸術などは「内容」から分類された学問分野だとして、「形式」の観点からそれらに横断線を引く学問として社会学を位置づけた。
ジンメルによる対象の分類
・社会化の形式(社会学独自の対象):上位と下位、競争(闘争)、支配と服従、模倣、分業、協同、党派形成、秘密など
・内容(そのほかの学問の対象):政治・法律・経済・宗教・芸術・言語など……」
ウィキペディア「形式社会学」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%BC%8F%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6)
■ただ、こういった対象のしぼりこみと、社会学者の自己言及のパラドックス問題≒社会学者の特権的位置どりと社会学者の社会内存在性、といった自己矛盾への意識化≒自省とは、別個の問題でしょう。■5年後にでた『あたらしい自画像』(http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/154.htm)という入門書では、全面カガミばりの半球ドームにうつしだされる自己像と周辺環境…というモデルを提示して、社会学とはモニタリング装置なのだと、といていますが、『たたかいの社会学』執筆当時に、そういった自己言及問題がどの程度意識されていたか微妙だということです。改訂新版=2007年版でも、それへの言及はありません(http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/212.htm)。
いろいろご教示ありがたいです。
特に、
>優先順位でいえば、「「社会とは何か」「それはいかにして可能か」という抽象的な問い」 << 「「社会的」という概念を問題化すること」 << 社会的問題解決のいとぐちをさぐるべく、論点整理すること < 社会的問題解決のために具体的活動すること…となるのではないでしょうか? 優先順位問題にくびつっこむのは、それこそ「べき」論であって、自分のクビをしめかねないし…
という、全体の優先順位は、しっかり銘記するにあたいする正論ですね。
ところで話はかわりますが、塩原勉さんというひとの『転換する日本社会』(ISBN-13: 978-4788504783)という本を最近しりました。「日本」という「想像の共同体」を根拠にした本質主義は問題ですが、同書をざっと見た感じでは、本質主義におちいらない様にして社会学理論の分析をまじえつつ「日本」の社会についてもそれなりに分析している様に見うけられます。本質主義におちいらない範囲での「日本」文化論兼社会学概論というくらいの微妙な意味あいがあって、味読にあたいする様におもえるんですが、どうでしょうか?
岩波講座現代社会学 (23) 日本文化の社会学
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4000107135/?tag=buzzbooks-goo-22
★★★★★ 欲望される日本文化・日本文化論, 2008/6/27
By dvrm - レビューをすべて見る
岩波講座・現代社会学第23巻、「日本文化の社会学」。井上俊氏の「序」に続く実質的に冒頭の論文、杉本良夫氏「日本文化という神話」は、日本人が絶えず聞きたがり、話したがり、書きたがり読みたがる日本人論・日本文化論の多くに潜む無自覚な前提を問い直していく。日本人とは誰のことか、といったことから、日本人、と発語することで日本国内の階層性が隠蔽されること、日本人を単数名詞と見るか複数名詞と見るか、日本人論を語る人たち自体が社会階層的に見て偏っていることなど、日本文化の担い手である「日本人」自体が相当偏差を含んで考えられ、語られ、書かれていることが指摘される。他の論文でも、日本文化論が欲望され、了解されることで日本文化受容者/非受容者に起こるメカニズムの考察、日本的精神の代表ともいえる「和の精神」の唱導者と考えられている聖徳太子の人物像が、実際には明治時代中期に作り上げられたことを示す論文、、「こどもは純粋な存在」とするイメージが実際には大正時代に作り上げられたことを示す論文や、「サラリーマン」という社会的表徴の変遷と日本社会で果たした役割を考察した論文、明治時代以降に「中央」に対して「地方」が意味したところ、など、ありきたりの「日本文化論」はひとつとしてない。むしろ、日本文化論が欲望されるメカニズム自体を浮き立たせようとしている1冊だ。
「日本」「日本人」あるいは「…県民」という規定自体についての考察を促す1冊。
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