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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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資源消費という次元でくらべれば、農産物/畜産物/魚介類は連続体である

「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…」の補足記事であり、同時にそれへのトラックバック記事「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」および「畜産物と農産物は、質的に ちがうものだ」への暫定的回答。

■誤解のないように最初にことわっておくと、たとえばウィキペディア「肉食と環境・食料問題」のつぎのような記述に、異論はない。

牧畜は、大量の資源を消費する。特に、直接間接を問わず水資源の消費が膨大である。例えば、小麦を1キロつくるには2トンの水が必要で、10キロの小麦から1キロの牛肉が採取できるため、牛肉1キロを生産するには20トンもの水を使用している。

実際に大規模な畜産業が発達しているアメリカでは牛肉を大量生産するために地下水を大量に使用している。オガララ帯水層はこの牛肉生産を支えるための穀物生産により急激に水位が低下している。このように肉食は環境破壊へつながる場合がある。また他国から食肉を輸入する国は、すなわち水資源を輸入しているのと同じことになるため関連がある(仮想水)。

一方、先述の様に肉を得るにはその10倍の重量の穀物が必要であり、単純に考えて肉食は直接穀物を食べるのに比べて1/10の数の人間しか養えない事になる。特に欧米の大規模畜産による穀物の大量消費は食糧問題の観点からも問題になっている。
----------------------------------------------------
■問題はだね。こういった問題をかんがえるために、「ベジタリアニズム(vegetarianism)」といった思潮群をもちだす必要があるかだ。■はっきりいってないとおもう。「動物性たんぱく質消費の政治経済学」とでもいうべき問題群は、「ベジタリアニズム」といった理念・実践とは別個になりたつし、せいぜい健康問題について参考になる程度じゃないか?

■「動物性たんぱく質消費の政治経済学」とでもいうべき問題群は、「オリジナル‐カロリー【original calorie】」「仮想水」「フードマイレージ (food mileage) 」といった観点から、利害のことなる複数のたちばの専門家による試算を比較対照すれば、かなり客観的に計量的な判断がくだせるはずだ。■そこに、「(なんらかの理由で、さまざまな)肉食をひかえたい」という姿勢を検討しなければらない、必然性などなかろう。■政治経済学的な貧困問題、格差問題、収奪問題として、「肉食」の個々の是非をとえばよく、そこに、地理学・民族学・歴史学・社会学等による食文化の歴史問題を参考程度にからめればすむだろう。

■でもって、表題の件だが、「畜産物と農産物は、質的に ちがうものだ」という議論のなかの、

「資源を消費するという意味では、農産物も畜産物も、みんな大差ない」

こういう発想を、わたしは ぶっこわしたいのです。

スーパーに いってみましょう。いろんな商品がありますね。野菜もあれば、肉もある。どれも値段が ついてますね。そうです。野菜も肉も商品です。どちらにしたって、「たべもの」という点で おなじです。

そうです。そういう発想で、わたしたちの日常は なりたっています。農産物と畜産物のあいだに、質的断絶をみいださずにいます。これが、わたしたちの「たべるということ」の、いびつな政治性です


という議論は、まだ不充分だとおもう。■なぜなら、「オリジナル‐カロリー【original calorie】」「仮想水」「フードマイレージ (food mileage) 」といった問題提起を総合するなら、その背後には「化石燃料」への依存度、「地産地消」の空洞化という、それこそ政治経済学的な共通点がみあたるからだ。■こうかんがえると、「牛肉食には罪悪感がぬぐえないなぁ」という、政治経済学的に妥当な意識はとりあえずおくとすると、「農産物と畜産物を同列に とらえるのは、もう やめましょうよ」というのは、あまりにソボクなスローガンにきこえる。■はっきりいえば、化石燃料や水資源をガンガンつかうことによって 育成される農産物、捕獲される魚介類、もたらされる鶏卵や牛乳、などなど、全然ほめられたものではなく、「資源消費という次元でくらべれば、農産物/畜産物/魚介類は連続体である」という、あまり うれしくない まとめかたが可能になってしまうということ。

■したがって、「牛肉食は政治経済学的に全然正当化できない食文化である」などと、自己批判的に節制をはじめ、かえすかたなで欧米の肉食文化を痛撃し、あわせて おそらく巨大な石油くいムシのはずの近代捕鯨擁護論をうつ…といった方向性は たぶん まちがっていない。が同時に、「とりあえず、飼育大型獣をやめる」といった次元で満足してしまうなら、「自然にやさしいロハスな生活」って自己陶酔的偽善と、同質の限界をかかえるだろう。■そんなことは、hituzi 氏だって、のぞんでいないはず。


【補足リンク】
●旧ブログ「いわゆる3K(その3,職業差別)
●Google「屠場
●ウィキペディア「屠殺
●「YouTube - 屠場
鎌田 慧『ドキュメント 屠場』(岩波書店,1998)
桜井 厚+岸 衛『屠場文化―語られなかった世界』 (創土社 ミニミニ・ブックス,2001)
三浦耕吉郎/編著『屠場 みる・きく・たべる・かく 食肉センターで働く人びと』(晃洋書房,2008)
●Google「肉食
●Google「捕鯨
●Google「ヒートゥ
●Google「ヒージャー
●Google「ワーフール
●Google「食用犬
●Google「LOHAS

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テーマ : 環境・資源・エネルギー - ジャンル : 政治・経済

タグ : 肉食 格差 食糧

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コメント

そぼくなところから はじめる

ありがとうございます。

肉をたべないということは、いとも かんたんに実践することができます。ちょっとした気の もちようです。

もちろん、たべることについて かんがえる根拠として なにをもちだすかは、いろいろ あっていい。ベジタリアニズムであってもいいし、政治経済学でもいい。わたしは、職業的研究者になれるほどの能力がないと判断したから博士課程にも すすまなかったので、わたしは、そぼくに いきます。政治経済学的なことについて、わたしは わかっていないことが おおすぎるので、これから べんきょうしなきゃなあとは感じています。

自己満足的な偽善って、たいせつだと おもいますよ。ロハスも いいじゃないですか。

しない善よりする偽善って、おもしろいスローガンだったと おもいます。それにまつわる批判的議論も、おもしろい。

わたしは、エゴイズムで いいと おもうんですよ。人間中心主義でも いい。ただ、その方向性を、どんなところに むけるのかということ。エゴイズムを徹底するなら、近所の川のサカナが たべられるように、環境保護に とりくむって発想をもつことだってできます。

テレビでザリガニをたべてるひとをみて、いいなあって おもったことがあるんですが、とにかく、商品としての食料をたべるのではなく、自分で そだてたり、自分で とってきたりする。それをたべる。そういうことを、ほんのちょっとでも やっていきたいなと おもうのです。

食料をつくるには、はこぶには、なんにでも資源を消費する。それはそうなんだけれども、どのような食料がかぎられた資源を有効につかえる効率よく合理的であるのか。それは、比較して検討する価値があると おもっています。けど、理想的なのは野生のものをほんのすこしでも たべることでしょうね。

本来、わたしにとってベジタリアニズムは ひとに いわずに 黙々とすることでしたので、今回、あーだこーだ かいてしまって苦笑しています。

トラックバック記事の

わたしが いいたかったのは、いま現に「動物性たんぱく質消費の政治経済学」をやっているのは、まさにベジタリアンです、ということ」という一節で、いいつくされているような気がしますね。

■つまり、宗教上・哲学上の思想的実践とか 慣習的なタブーにそった行動様式とか、そういったものでなく、現実的な政治経済的力学を自覚してしまった時点で、■①「大型食用獣の肥育」から距離をおくのは、かかせない第一歩になるけど、■②それこそ、「野草と家庭菜園からの収穫を軸におくような生活をしないかぎりは、さまざまな加害行為に加担している」って意識しなければいけない日常になって、それはそれで 結構キツそうな気がします。

■たとえば、知人にそれを実践しようとしているカップルがいて、それ自体は、姿勢として すばらしいと おもいます。■でも、「自分自身がそういった実践に現実に移行できるのって、いつなんだろう」って感覚もつよい。■「野草と家庭菜園からの収穫を軸におくような生活」にかえるためには、それこそ、いまやっている生業とか人間関係とか、全部くみかえなきゃいけなくなるし。
■もちろん、サルトルが暴露してしまったとおり、「これをやるしかない」ってのは、ほとんどのばあい防衛機制がらみの自己欺瞞・逃避でしかないわけで、世界の弱者にヒズミかけまくりの日常をやめようとしない、「正当な理由」なんて、みつかるはずがありません。■ただ、うすうす自覚しつつありながら、基本姿勢をかえられなかった20年ぐらいを冷静にふりかえるなら、これをおおきく軌道修正するのには、ものすごい ふんぎりが不可欠ってことも、よくわかっています。
■このヘンのことを、じっくり再検討する心身のユトリがほしいんですが、それこそ自分のなかでの「優先順位」問題のなかで、こんなブログの更新とかにも時間・労力をさいてしまっていて(生業・必要時間以外=余白の相当部分をつかいこんでしまっている)、これも逃避の一種そのものなんだと自覚できてしまう自分が、ちょいつらいと(笑)。■「まようなら、のこされた時間、かけてみろ」って、こえもきこえてくるけど、自分の余力にとってハイリスク方向のような予感もあって…。

■かいていて、こういった自虐ネタが生産的なのかどうかは、わかりません。わかりませんけど、批評活動とか整理作業が精神衛生のために、やくだつ保証がないこと(モニタリングによるリスク軽減には、やくだっても)だけは、はっきりしたことは事実。これまた、メタ言語的に キツい。

なるほど

うまくいえませんが、とても参考になりました。ありがとうございます。

「半農半X」だとか、「アンチ自家用車」だとか、いろいろと実践例がありますが、あっけらかんな やりかたが だいじだと おもってます。まじめになりすぎるのは、よくない。周囲が ついていけなくなるし。

賛同されないことを提唱するのは神様やろうな態度だと おもうので、あんまり ひとが いやな気もちになることは主張するつもりは、もともとありません。今回は、あつくなってしまったかんじで。うう。

なんでベジタリアニズムを矮小化するのー?みたいな(笑)。わたしは、15才のとき外国には肉をたべないひとたちがいるらしいということをしって、あるとき やきにくの まずさに 嫌気がさして、ベジタリアンになってみたら、料理がたのしくて しかたがなかった、という経緯があります。たまたまそのころ『アメリカインディアン悲史』をよんだので、余計にベジタリアニズムに価値づけするようになったんですね。あの本に肉食について、なにか かいてあったわけじゃありませんけれども。

なにか生活実践が必要なんだなあと。

最近、ちょくちょく牛肉をたべていたので、ちょっと気になっていたのです。で、もういっかいベジタリアンを再開しています。もちろん、ゆるベジです。

ともかく、げんきが なにより だいじだと おもいます。

“木を植えた男”みたいな運動

■“木を植えた男”(http://www.google.co.jp/search?num=20&hl=ja&q=%E2%80%9C%E6%9C%A8%E3%82%92%E6%A4%8D%E3%81%88%E3%81%9F%E7%94%B7%E2%80%9D&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=)みたいな運動形態をほめそやすのは、社会運動というつながりの軽視になりがちだとか、ある意味危険だとおもいますけど、それをおくなら、個人の趣味・信念が、おしつけがましくなくひろがっていくばあいの基本は、元気と魅力だとはおもいますね。■ゆるゆる つづけて、ムリしない個人的運動ってのは、これから中長期的にはやりそうな気がします。

確信犯的に革新的

『前衛』(日本共産党中央委員会理論政治誌)の11月号の74~85ページには「日本漁業の再生のために何が必要か」との記事があり示唆にとみますが、貝枝的には「何が必要か」っていうとやはり『水産界』編集部が皇賊と決別することが一番必要であるとおもいます。
『展望 The Perspective』(前進社関西支社)の様に確信犯的に革新的であらねば極悪人(具体的には、うよくとか、右翼とか、あとほかにはウヨクとか、それ以外にはuyoku)による人権侵害をみとめることになるわけですからな。それにしても『展望』はパッとみただけでも過激ですな。いや思想的には賛成しますが表現が過激だと、わりとおおくのひとはドンびきにひくので戦略・戦術的にはいかがなものかと……まるでカタギ(非オタク)のひとに『少女セクト』の魅力をトクトクとかたったときの様だ。

▽差別を捉える視点 <アムネスティ・フィルム・フェスティバル>(低能流[ゲイ]文章計画)

http://tapten.at.webry.info/200901/article_15.html
  ↑ すばらしい。

… 当たり前の話だが、僕らが普段、何気なく食している牛の肉は、こうして肉牛を殺し、皮を剥いで臓物を引っ張り出し、綺麗に洗ってから、ようやく肉屋の店頭に並んでいるような精肉となる。食肉センターで、この屠殺→解体といった過程を担って下さる人たちがおられるからこそ、僕らは簡単に牛(に限らず、豚・鳥・魚……馬・羊)の肉を使って調理ができるのである。彼らに感謝しなくてはならないと感じた。

◇◆◇

 だが、食肉センターという呼称が、「屠殺場」という呼び方をしないために、あえて創出されたことに留意しなくてはならない。実は、「屠殺」という言葉も、いまでは使われていない。「屠畜」と言うのだそうだ。

 もともと屠畜業は、いわゆる被差別部落の独占産業だった。言い換えると、「動物を殺して」食べられる肉にするプロセスを、日本では、いわゆる被差別部落の人たちに押し付けて済ませていた。つまり、「動物を殺すような『穢らわしい仕事』など、エタ/ヒニンなど賤民の連中にやらせておけば良い」といった、露骨な差別意識が堂々と罷り通っていた歴史が、日本には、ある。

 現在でも、食肉センターの仕事に携わる人たちの中には、旧部落出身の人たちがおられる。また、そうでない人たちも一緒に働いておられる。ドキュメンタリー作品『にくのひと』では、旧部落出身の人たち/そうでない人たち、双方にインタビューをして、屠畜業という仕事について、および旧部落差別の問題について、単刀直入に問うている。…


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