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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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『高学歴ワーキングプア』(水月昭道)続報

■旧ブログ「高学歴ワーキングプア(水月昭道)」シリーズのつづき。■本書については、かなり酷評をしておいたが、それ以上に「みもふたもない」批判をしている記事(一見まっとうにみえる)があったので、それをはりつけておく。

高学歴ワーキングプア ~ 博士は大学教員への夢を見る?
公開日時: 2007/11/08 02:58
著者: hokky (cafe noir) トラックバック(0)
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 たまたま本屋さんで目に付いた高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院という本を読みました。高学歴ってどのあたりのことを指しているのかな?と思ったのですが、博士のことのようです。本書は、基本的には、大学院重点化計画によって、大学院の博士課程を修了して「博士号」を取得する人が増えているが、博士課程まで進んだ方を受け入れてくれる大学や企業のポストが少なく、正規雇用者として就職できないという現状について書いてあります。ただ、この本の筆者の方は、最初の方で「企業は博士卒を必要とはしていない」と言い切ってしまっており、博士号を取得したら「大学教員になるもの」ということを暗黙の前提にしてしまっているようです。少子化によって大学や大学院の定員に対して受験者が少ない状況が今後も続き、大学や大学院が淘汰されていくような状況の中、新たに博士号を取得した人たちの大学教員のポストは少なくなるのは当然のような気がします。あと、今、業績を出していない大学教員がいつまでも大学に居座っているから自分たちのポストがないという感じで、現在の大学教員に対する恨み節のような内容になっています。 「博士号」を取得した人は、大学教員になるしか道がないのであれば、確かに、その主張は理解できます。本当にそうなのでしょうか?



 本書で、少し気になったのは、「博士号」を取得した人は、取得していない人(例えば、博士前期課程を修了して企業等に就職した人)と比較して何が良いのでしょう?例えば、本書に『大学院生には、すべてのことに対して自ら問題を設定し、仮説をたて、あるいは最後に導き、それを検証し、自ら解答を得ることが求められる。<省略>日々の生活のなかで、思考を鍛える訓練や思考実験などを繰り返し行っていくこと。これこそが、大学院生が大学院に在学している間に与えられる環境であり機会なのである。』とあります。また、他にもいろいろと書いてあるのですが、この程度のことは、通常、企業にいてもやる話で別に「博士号」とはほとんど関係ないと思います。

 逆に、博士の方は『企業側が「博士卒は視野が狭い」』という理由を考えたことがあるのでしょうか?実は、博士課程に進んで研究を進めると、思考自体が論文を書くための思考になってしまうになってしまいます。まず、前に引用した『自ら問題を設定し』で設定する問題は、無意識の内に「論文が書ける問題」になってしまいます。そして、問題をモデル化したり、仮説を立てたりするわけですが、その段階で、「論文にならない部分は排除」されてしまいます。このとき、簡単化するために、本来の問題の中からいくつかの瑣末(論文にならない)な問題は前提からはずされてしまいます。そして、そのような問題と仮説を元に検証することになるわけです。このように進められた研究は学術論文にはなるかもしれません。しかし、企業がそれを元に商品化をしようとすると、実は、ほとんどそのままでは使い物になりません。商品化するためには、学術論文からは排除されている部分が重要だったりするのですが、その部分は論文にならないために、大学などではほとんど手を出しません。また、大学教員は、一般企業に就職しないまま教員になることが多いので、そういった部分の重要性をまったく理解していません。

 一方、博士前期課程あたりで企業に就職すると、論文になる問題だけではなく、商品化するために論文にならない問題をこなすことになります。そうやって、30歳くらいになったとき、企業から見るとどちらの視野が広いと思いますか?博士課程は、あまりに論文主導型になりすぎているために視野を狭くしているような気がしています。

 もう随分昔の話ですが転職の面接のときに、「あなたは何ができますか?」という質問に「部長ができます」「課長ができます」と答えた人がいたという話が話題になりました。まさか「博士号」を取得している人に「あなたは何ができますか?」と質問したら、「博士号を持っているので大学教員ができます」「博士号を持っているので研究員できます」なんて答えが返ってきたりしませんよね?でも、本書を読んでいると、あながち冗談ではないような気が・・・

 これから博士課程に進学を考えている人は、本書のような現状を理解した上で高学歴ワーキングプアにならないように自身で何らかの手を打った方が良いのかもしれませんね。

関連エントリ

博士は何をする人ぞ

----------------------------------
■基本的に まっとうなツッコミのようにみえる。おそらく、水月氏は、ほとんど反論できない。■つまり、自分たちを人文・社会系大学院博士課程にひきずりこんだ大学人たちへの告発と、それを公憤として配信する以外の意義がない、と立証されてしまっている(笑)。
■ただ、こういった批判を本書など告発にくわえることが、生産的なのかどうかは、はなはだ疑問。

■①まず、こういった批判は、結局、自業自得論、みずからのモニタリング能力不足の指弾にしかならない。■つまるところ、これらの論難が大衆的に一般化することは、本書が告発する、文部科学行政の組織犯罪の巨視的構図と、末端の一線官僚である大学教員を結局免罪してしまうことになる。■理工薬科系・医科歯科・生命工学農学水産学系などの大学院ならともかく、人文・社会系の博士課程後期が、通常のサラリーマン・OL等の人材養成用にできていないことは、明白な事実。■たとえば、イギリス文学専攻の大学院生の知識や能力を翻訳・通訳業、観光業、出版業などに援用することは充分可能だろうが、大英帝国およびその旧植民地に全然無関係な時空・領域の業務、たとえばトヨタ車を東海地域でよりおおくうりさばくための経営計画などに充当するのは、人材養成のムダ、労働市場のミスマッチといえるだろう。後者の業務をこなすことができる、イギリス文学専攻の博士取得者は、実在するだろうが、学位論文作成までにかけられた労力・能力・資金・時間等は、おそらくほとんど還元されることがない。
■②「人文・社会系の博士課程後期が、通常のサラリーマン・OL等の人材養成用にできていない」現状=構造とは、植民地的な大学をおさえているという前時代的な特権にいすわっているか、指導教員が就職問題についてほとんど無策であるか、どちらかだということも、再確認しておく必要があるだろう。■つまり、人文・社会系の大学院生に就職の世話ができる有力教授とは、旧帝大系ないし旧高等師範系という研究大学の一部特権的な研究室のぬしたちであり、水月氏らが問題にしている「植民地」の維持をやめていない層である(旧帝大系とて、戦後確立・分化独立した分野なら、植民地をかかえていないので、大学院生の就職は自力突破になる)。それは、タテマエ上の公募制度を空文化させる、コネ就職のたぐいであり、それが依然として支配的な空間があるということ自体、実は大問題だ。
■逆に、こういった植民地をもたない研究室は、大学院生個々人による公募ポストの自力突破しかなくなる。■なにも、現今の大学の就職部やキャリアセンターのたぐいのように、20代後半の青年たちに、リクルート活動のきめこまやかな指導をしろとはいわない。しかし、およそ企業が酔狂でないかぎり新卒採用などの層として想定しないし、その専門能力をあてに即戦力採用することもない人文・社会系大学院修了者の「いきばのなさ」は、深刻な問題として課題にあげられるべきなのに、植民地をもたない大学院の先生方のほとんどは、「がんばってね」としかいわないのがつねだ。■つまり、植民地をもたない研究室の先生方、論文指導は、適当に(ときに、かなり「いい加減」に)にこなすものの、自分がかかえこんでしまった責任は、全然感じていないのである。自分たちの設置・維持した大学院の定員をみたし、自分たちの組織への補助金等が減額されたないための素材として利用しただけで、あとは「自力更生」をと、ひらきなおるのだ。

■このような犯罪的な構図をふまえずに、博士課程にすすんだ人物は「商品化」可能な知識を全然蓄積・開発しないとか、視野がせまいなどと、なじってどうするのだ? ■商品化という意味では視野がせまくなるだろう大学院博士課程進学者をいかすための方策が全然巨視的に検討されたことがなく、ただ人員が拡充されたきた犯罪性を免罪し、ひたすら、視野のせまさや、そのことを予見できずに進学してしまった人物のリスク回避能力の不足に責任転嫁するような論理は、まさに大学教員の卑怯な責任のがれの代弁としよめない。■まさか、大学の先生や文部官僚の(覆面の)かきおろしだったり、かれらがゴーストライターとなって、だれかに投稿させているんじゃなかろうね?(笑)

もう随分昔の話ですが転職の面接のときに、「あなたは何ができますか?」という質問に「部長ができます」「課長ができます」と答えた人がいたという話が話題になりました。まさか「博士号」を取得している人に「あなたは何ができますか?」と質問したら、「博士号を持っているので大学教員ができます」「博士号を持っているので研究員できます」なんて答えが返ってきたりしませんよね?でも、本書を読んでいると、あながち冗談ではないような気が・・・

なんて箇所のツッコミも、実にいやらしい。■「「部長ができます」「課長ができます」と答えた人」を50代以上の教授さまたちにあてはめるならまだしも、30代の青年たちにあてはめる、その論理のズラしかたの卑劣さ…。■いいだろうか? よその組織でも通用する能力をもちあわせているかどうか、もとの組織でいのこって当然の人材だったかどうかは、とりあえずおいておこう。いずれにせよ、もとの組織から「用済み」として、きられた中高年層と、研究者のタマゴとして助走をおえたあたりの30代の青年と比較する意味はなんだろうか? 前者の視野のせまさや汎用性のなさと、後者をうけとめそこなっている社会・組織の柔軟性のなさ、ないしは、後者を うけとめる能力などはじめからもちあわせなかったのに、どんどん疾走させてしまった社会の無策は、どうなる?

■そういった意味で、こういった社会の無策を免罪する文章は、卑劣きわまりない。■わる知恵のはたらく人物とは、いるもんだ。こういった文章を洗練化して、官僚などに しらをきられたら、たまらんね。


●日記内「高学歴ワーキングプア」関連記事
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NHKスペシャル|ワーキングプアIII ~解決への道~

NHKスペシャル|ワーキングプアIII ~解決への道~
http://www.nhk.or.jp/special/onair/071216.html
本放送 2007年12月16日 (日) 午後09時15分~10時34分 総合/デジタル総合
再放送 2007年12月18日 (火) 深夜 午前00時10分~01時29分 総合/デジタル総合
★再放送 2008年01月06日 (日) 午前10時00分~11時19分 BS2 (「あなたのアンコール・サンデー」内)

NHKスペシャル「ワーキングプア」 第3弾を放送します。 NHK広報局
http://www3.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/soukyoku/2007/11/005.pdf
NHKスペシャル (動画予告)
http://www.nhk.or.jp/telemap/asxs/nsp1216.asx

[関連ページ - 追加]
NHKスペシャル「ワーキングプアIII 解決への道」の感想
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/workingpoor5.html

NHKスペシャル ワーキングプア
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/3695/1197557565/

ありがとうございました

ななし さま

■ご教示ありがとうございました。たいへん上質な掲示板ですね。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/3695/1197557565/

■他国での状況が よそごとではなく、将来、いや現在すでに潜行しているかもしれないという問題意識や、政府などの責任だけとうて、具体的な企業群の社会的責任をとわない風潮とか、みな賛同できる見解です。■さて、視聴者や政治家・企業家たちは、どの程度、わがこととうけとめられるか?

■ちなみに、ハラナ個人はテレビ受像機を自宅にもたないため、再放送などがあっても、おそらくみずにおわるとおもいます。

立岩真也氏の大学院論

http://www.arsvi.com/ts2000/2007103.htm

大学院を巡る貧困について

立岩 真也 2008/11/27
『京都新聞』2008-11-27夕刊:2(現代のことば) http://www.kyoto-np.co.jp/
購読申込 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/kyo_np/koudoku.html

  就職がよくなったという話もあるが、そんなことはない人も当然たくさんいる。大学院にいる人、出た人もそうだ。私も大学が月給をくれる職に就いたのは三十三歳になってだったが、もっと長く常勤の仕事がない人たちもたくさんいる。そしてここ数十年、その状態はさらに進行している。教育研究機関の数は増えないが、大学院と大学院生が増えた。とすればあぶれる人が増えるのも当然だ。この業界のなかにいる人はこのことをみな知っている。だから私は、このことだけは大学院を受験しようという人に言う。言わないと詐欺だから、言う。
  それでも入ってくる人はいる。自ら状況は知った上で選んだことなのだろうから、研究成果をあげるための手伝いはするが、それ以上の責任はありませんというのが基本ではある。ただそれだけのことでもない。ここには仕事とお金の配分の問題が関わっているからだ。今この仕事をして金を得ている人がいる。他方にそうでない人がいる。金は得ているが少ない人がいる。
  非常勤講師はそんな仕事で、一つの科目担当だけなら月に二万円台。他に定まった収入がある人にとっては、頼まれて仕方なく引き受ける代わりの報酬だが、この仕事だけでやっていくなら、週に十個してもその十倍にしかならない。そして、そもそもそんな掛け持ちは物理的に不可能である。実情はこんな具合だ。
  幾つか考えられることはある。例えば別の仕事に就くこと。それはおおいにありだと思う。好ましいことだと思う。ただ、ここでは他の可能性を除外する。すると残るのは二つだ。一つ、仕事がたくさんの人から少ない人に渡す。一つ、賃金の格差を小さくする。
  まず、月給をもらっている私たちは、仕事が多すぎると毎日思っている。多くの場合それは事実だ。他方に仕事をしようという人、実際にできる人がいる。ならば第一に、仕事量のでこぼこを調整すればよい。第二に、受け取りも調整すればよい。
  第一点だけなら反対する人はいない。だが第二点は、場合によったら常勤職の給料を安くしろということだ。そこで常勤職の私たちは入試だの学内行政だの他にいろいろ仕事があると言う。これも、それ自体は事実である。だがそれを勘案した上でもどうか。それは何百万円分に相当するか。すると次に、仕事(例えば授業)の質が違う、などと言う。しかしこれも、労働条件の決定に関与できる側が自らに都合のよいことを言っているのだから、まるごとは信用できない。
  常勤労働者側には現状を維持したい利害がある。さらに今の状況を作ってきた、すくなくともそれを容認してきた文部科学省は、常勤教員の授業の割合が高い大学がよい大学だといったまぬけなことを言う。それを受けて大学は非常勤を減らす方向に向かっているようだ。困ったことであり、まったく愚かなことだ。
 働きすぎることはない。好きな研究も(好きだとして)できない。その分給料減っても、授業その他の仕事を皆で割った方が様々によい。少ししずつ確実なところから実行していけば、仕事の質も管理できる。



■正論だとおもうが、2点指摘。①首都圏や京阪神だと、ほとんどいないかもしれないが、「そもそもそんな掛け持ちは物理的に不可能である」はずの非常勤講師は実在する。例外的少数ではないんじゃないか?■②これ以上、研究・教育費に予算をさきたくない官僚や国民がいるばあい、ふえないパイを再分配するとなると、そんな改革案に既得権をもった常勤研究者がのるか?
■前者は、そんな激務のなかで、研究ができるのか? 業績がつくれるのか? という残酷物語として、本気でかんがえる必要がある。いくら、本人がやります、できます、といっても、あまりに特定の人物がかかえこみすぎだろうとか、1か月の非常勤講師料を、近隣のコネあり常勤職のアルバイト水準ではなく、数本やれば充分たべていける水準にあげるべきだといった正論の次元で。
■後者は、実にやっかい。はっきりいって、パイはさほどふやさないわ、「住民」は、わんさとつめこむ(参入する)わでは、ひとりあたま、とり分がへって、結局、サービス残業やボランティアの領域が際限なくふえていってしまうだろう点。
■「働きすぎることはない。…その分給料減っても、授業その他の仕事を皆で割った方が様々によい」という正論は、はたして現実的な着地点をもちえるだろうか?

■いや、「学術なんて、もともと『ムダ』の極地であって、パーキンソンの法則にならって、膨張しないように監視しなきゃ」という「正論」もわからなくはないだけに、実に難題。

「最も社会的リスクが少ない博士課程教育のあり方を考える」

『aesthetica sive critica~吉田寛 WEBLOG』(2008-03-09 http://d.hatena.ne.jp/aesthetica/20080309
 ↑ 吉田寛(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%C8%C5%C4%B4%B2?kid=154457)氏による、興味ぶかい博士課程論。
……そう考えると、人文系の場合、学士号(修士号でも可)を取ってひとまず何らかの職に就き、その上で、博士号が必要になったら、また社会人入学で大学に戻ってくる、というのが、大学側にも学生側にも一番リスクが低いのではないでしょうか。なお私が今考えているのは、大学業界・社会全体にとってリスクをいかに合理的に減らす(減らせる)かという問題であって、個々の研究者の意志や心情の問題ではありません。色んな人がいるのはよく知ってます。全員を満足させるのはどだい無理です。

研究者養成大学(院)の場合はそうはいかない、という声もあるかも知れませんが、研究者養成大学とそうでない大学という区分自体をそろそろ廃棄した方がいいと私は考えています。実際、前者がすでにそのようには機能してないわけですから、いくらこの区分に理念的にこだわりたい人でも、早晩諦めざるを得ないと思います(これは、変な言い方ですが、私が言うのだから多分そんなに間違えてないです)。ただ私は、この区分が(かつてのように?)十全に機能してくれるのであれば、それなりに合理的でよいかなと考えます。ただその機能不全の末に今日のノラ博士問題があるわけですから、今のままでは無理です。

以上をまとめると次のようになります。

・研究者養成大学院であれ、そうでない大学院であれ(この区分自体は廃棄してもよい)博士課程の入進学者はすでに自立した仕事をもっている人を基本とする。入進学時に収入・資産審査を行う(これは海外留学のときに実際よくやられていること。ただ、それでは失業者は博士課程に入れないのか、という反論がありうるので、自由とリスクの釣り合いについては、いずれ考えます)。

・博士課程に在学中は、企業の側も大学の側も、特別の配慮をもって、本人の努力をバックアップする(無償でというのは無理なので、そのために後でも述べる「実益」を保証する)。

・博士課程の研究で優れた業績を上げた人には、出身大学や年齢によらず、公募によって研究者のポストを与え、そうでない人には、博士号取得後(あるいは取れなかった場合も)元の職場に復帰してもらう。

・人生の過程で、時間が許し、向学心がある人は、以上のプロセスに何度でもチャレンジすることができる。

もっと言えば、

・博士号の取得が(人文系であっても)本人の「精神的」満足に留まらず、本人にとってはもちろん、企業にとっても、大学にとっても「実益」になるようにする(そのためには給与や昇進のシステム、企業評価や大学評価のあり方などを、トップダウン方式(政策レベル)でいいので、然るべく整備する)。

さあこれで、社会的リスクが最も少ない博士課程教育のシステムが想像=創造できた気がするのだが、さて、いかがか。

まあ私が日々お世話になっている人々の中には学長やそれに準じる地位の御歴歴がおりますし、そういう方々がこれを読んだら(実際読んでることも知ってますが)鼻で笑うに違いないでしょうが、そういう方々にはもっと現実的に何とかしていただくとして。……



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