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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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「美しくない国」の無自覚な差別主義者の実例としての反中国派

■この動画(「毎月22日を「中国人犯罪糾弾の日」に!【前編】1/2」)が、どういった意図で撮影されたのか、しらない。■しかし、ここにうつっているのは、まぎれもない民族差別主義者たちだ。しかも、おそらく自覚が全然ないと、おもわれる。



■ほんとは、いちいち主要部分を モジおこしして、詳細に検討のうえコメントをつけるべきだろうが、時間がないので、やめておく。■しかし、これは、現代日本の一部とはいえ、一部の人間の犯行によって、国民全体を「いっしょくた」に差別するための議論を展開してはじない連中が実在するという、まぎれもない証拠だ。■「凶悪シナ人はでていけ」といっているのであって、「シナ人」全体を差別しているのではない、といいはる、このアリバイのはりかたも、うすぎたない。■この「シナ人」という呼称も、言語学者から わる知恵をかりたらしく、自分たちの差別意識を合理化するために もちいているだけだ【後述】。
■凶悪犯罪者は、(その背景にかかわらず)、処罰ないし収容するほかない。しかし、一部の人物が凶悪犯罪の実行者がでたことをもって全体を一般化できるなら、日本人全体もそういった差別・侮蔑もそれをあまんじなければなかろう。
■これらの デタラメ・卑劣なやりくちを、どの程度自覚しているのか、この動画だけではわからない。しかし、こういった人物がひとりでもまぎれこんでいる国民が実在するという現実は、たとえば漢民族に「日本人は中国人を本質化(過度に一般化)して、侮蔑するうすぎたない集団だ。こいつらが、例外的少数のはずがない」と、本質化された非難をまぬがれない、という皮肉な逆説には、無自覚だろう。■こういった、「本質主義者」たち同士は、かんたんに暴力事件をひきおこし、まともな外交努力もくりかえせないまま、戦争に突入したりしやすそうだ。■「いや、それも右派ナショナリストに対する本質主義的差別だ」と、だれが反論するだろうか?(笑) ■ちなみに、ハラナの経験則からすると、現代日本人が「シナ人」「支那」という表現をもちいるとき、そのほとんどは、差別主義をともなっていると、おもわれる。■「東シナ海南シナ海インドシナ半島」といった地理学的用法、「シナ・チベット語族」といった言語学的・人類学的用法、あるいは東洋史学のなかの東アジア研究など以外で、漢民族や華僑・華人系を「シナ人」よばわりする必然をもつ現代日本人など、おもいつかないからだ。■有名な評論家、呉智英(くれ ともふさ、1946 - )氏や、小谷野敦(こやの あつし、1962 -)氏、石原慎太郎都知事などがめだつが、以下に一部引用する「学術界における使用例」(ウィキペディア「支那」)のような、呼称としてのえらぶほかない必然性など、みききした記憶がない。

しかし現在の中国研究に関する著作、歴史・文学・哲学いずれの分野においても「支那」ということばを使用することはほとんどない。史料中にあれば原文のまま引用することはあるけれども、研究者自身の文章にはほとんど全く使われないことに留意すべきである。

また、言語学界でも、中国という呼称は、「シナとその周辺の諸地域からなる多民族国家の呼称」であって、漢民族だけの固有の土地、言語等に冠することはできない、英語の「チャイナ」、ドイツ語の「ヒネーゼ」に対応する日本語の呼称は「支那(シナ)」であるという立場から、いわゆる中国語に対してシナ語と呼称する研究者もみられる。

このように、学術界における「支那(シナ)」の使用は、第一に、概念と用語に厳密であろうという学術的態度と、第二に、シナの部分だけを指す王朝や政権の変遷を越えた国号としても使用可能な固有名詞の呼称が存在しないこと等に起因するものであり、使用者たちの政治的立場と関連性があるわけではない。学術用語としての「支那(シナ)」は、代替語が生まれない限りは今後も使われていくであろう。


■結局のところ、おなじく「日本での事例」(ウィキペディア「支那」)の、つぎのような記述が、おおむね妥当なところだろう。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。「支那」という呼称は「嫌中」派の一部が使用しているため、中国に対し否定的見解を持っている者が使う言葉と認識されている。

■こういった俗流の差別語を、学術的な用法から正当に援用しているようなポーズをとること自体が、関係者の品性を象徴しているような気がする。

■そして、「日本人であろうと、中国人であろうと、千差万別」という、ごくあたりまえの経験則はあっても、「こういった連中と一緒にされたくないなぁ」という意識自体が、ナショナリズムの一種であることは、ちゃんと確認しておく必要がある。■かれらは、突出した例外的存在ではなくて、近代日本のまぎれもない「嫡子」としての戦後日本がもたらした構造的産物であり、少数ではあれ、確実に再生産されてきた「日本人の一部」なのだと。
■このグロテスクな日本人の言動の証拠は、まぎれもない「同胞」の一部の現実だ。

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コメント

民族ネタ

わたしは、沖縄戦の戦いの様相を調べていって、アイヌの人たちが兵士として沖縄の人びとを何人も救っている話も聞かされた。
(中略)
糸満の真栄平地区には第二十四師団が陣地を構えた。このなかに前述の山部隊の兵士たちが属していた。そういう兵士のひとりが、戦闘時にガマ(洞窟)から民間人を追いだそうとする若い将校や兵士に対して、「住民を追いだして平気なのか」と身体を張って守ったというのだ。このアイヌ民族の兵士は、第一大隊本部付の伝令として走り回っていたために自らの軍服が破れて着れなくなり、第一大隊長の予備の服を与えられていた。ガマにいる将兵が民間人を追いだすのをやめたのは、この大隊長の軍服のゆえであったとも語られているが、しかし兵士として勇気があったことは事実だ。
(『サンデー毎日』2008年5月4日11日合併号56ページ)

日露戦争のむかしから

日本軍は、アイヌ民族を軍事的動員してきました(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%BE%BA%E5%AE%89%E4%B9%8B%E5%8A%A9)。■白瀬 矗(しらせ のぶ)による南極探検だってそうです(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%80%AC%E7%9F%97)。
■1903年大阪での第5回内国勧業博覧会では、いきたまま「陳列」という屈辱さえあたえましたし(「人類館事件」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6)。
■少数民族・先住民族の存在をずっとみとめなかったくせに、利用だけは徹底するのが、日本政府やアカデミズムでした。

「支那」は世界の共通語(呉智英)

【私の正名論】評論家・呉智英 「支那」は世界の共通語
2008.5.14 03:08
http://209.85.175.104/search?q=cache:a1b-oUSpZ6wJ:sankei.jp.msn.com/world/china/080514/chn0805140310003-n1.htm+%22%E3%80%8C%E6%94%AF%E9%82%A3%E3%80%8D%E3%81%AF%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%85%B1%E9%80%9A%E8%AA%9E%22&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp
 必ずや名を正さんか。孔子の言(げん)だ。名は言葉。言葉が正しくないと社会も文化も混乱してしまう。迂遠(うえん)なようでもまず名(ことば)を正す(正名)のがすべての基本である。

 その孔子の故国に批判が噴出している。農薬まみれの野菜、毒入りギョーザ、少数民族抑圧、過剰な愛国主義…。批判も当然。私はこれに同調する。しかしまず名を正すべきだと思う。

 昨夏、中国食品という会社が倒産した。健全な経営の食品会社であったが、農薬汚染食品の輸入会社だと誤解されて製品が売れなくなったのだ。この会社は広島にある。社名が中国食品で何の不思議もない。中国放送、中国新聞、中国電力、中国ガス、中国銀行…これらは全部日本の中国にあって、支那にあるわけではない。知名度の高いこれら公共企業であれば特に誤解も起きないが、それ以外の、岡山や広島や山口など中国にある中国何々といった会社や団体がみんな迷惑している。中国は「中国」、支那は「支那」とすれば、こんな混乱は起きるはずはない。中国食品も倒産などせずにすんだのだ。

 この混乱の責任はどこにあるのか。第一に「中国」を日本に対してだけ強要する支那。第二に、この異常な主張に諾々(だくだく)として従い、言論機関にこれを強制した昭和二十一年当時の外務省。第三に、この言論抑圧に屈するのみならず、これをなにか「民主的な」改革だと正反対に勘違いしている自称良識人たち。この三つが連動して混乱をもたらしているのである。

 詳論(しょうろん)しよう。

 まず第一の点。「支那」禁止は理不尽な言いがかりである。「支那」という言葉は最初の統一王朝の「秦(しん)」に由来し、世界中でその近似音で支那を呼んでいる。支那人自身が支那を「支那」と呼んだ記録もあり、清朝の公的文書にも「支那」は出てくる。しかし、かつての朝貢(ちょうこう)国である日本には自分たちを世界の真ん中にある国「中国」と呼ばせたいのである。

 第二の点。「支那」が抹殺されたのは、戦後の混乱期である昭和二十一年六月の外務省次官・局長通達による。支那は形式上アメリカを中心とする連合国の一員であり、日本に対して戦勝国である。その力関係を背景に「中国」を強要してきた。外務省は従順にそれを受け入れ、各言論・報道機関に「支那」を禁止し「中国」を使うように通達を発した。その中にこんな文言がある。「今度(このたび)は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使はぬ様(やう)に」。占領下では、正当な理屈さえ禁じられていたのである。

 第三の点。明白な言論弾圧を、自称良識人たちは、侵略戦争への反省や民族差別解消の名目で歓迎した。二十世紀末まで支那を植民地支配していたイギリスでもポルトガルでも「チャイナ」「シーナ」と呼んでいることを知らないふりで。また「中国」が差別的な自国中心主義を意味することも知らないふりで。そもそも外務省通達の存在を、これは本当に知らないのである。

 私は四十年前の全共闘の学生だった頃(ころ)からこの不合理を批判し、支那は「支那」だと言い続けてきた。最近やっと「支那」解禁の動きが出てきた。六十二年前の言論抑圧通達は無効だと外務大臣に言わせる議員はいないのだろうか。(くれ・ともふさ)

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■「シナ」というカタカナがきはともかく、なぜ「支那」という漢字表記が正当化できるのか論じない、デタラメさというか、ズルさを、自覚しているのか、いないのか…。■前者なら卑劣。『論語』等を講じて倫理をうたつ人物として自己矛盾。後者なら、膨大な勉強をつみかさねてきたにしては、あまりにお粗末。

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