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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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チベット騒乱の背後に地下資源問題(谷口正次)

■おとといの、日経ビジネス・オンラインの記事。

チベット騒乱の背後に地下資源問題
青蔵鉄道の本当の意味
2008年4月8日 火曜日 谷口 正次
keyword 中国  製造  資源  鉱山  環境  チベット 

 去る3月14日、中国チベット自治区の首都ラサで大規模暴動が起きた。中国政府は北京オリンピックを間近に控え、鎮圧、沈静化に躍起である。外国メディアの取材をシャット・アウトしていたため、実態はよく見えない。

 中国人民解放軍が最初にラサに進駐してチベットを併合したのは1950年、半世紀が過ぎた。その間、戒厳令が発令された大規模な暴動としてはダライ・ラマを追放した1959年3月と1989年3月であった。どういうわけか今回も3月、これまでのチベット人の犠牲者は100万人を超えると言うわれている。1989年の動乱の映像がYouTubeで放映されているが、その弾圧の過酷さがよく見て取れる。今回も似たようなものと容易に想像できる。

 中国はなにゆえそのように強硬手段でチベットを統治しようとするのか。それは、チベットに眠っている豊富な地下資源である。その眠りを覚ます役割が、2006年7月に開通した青蔵鉄道である。青海‐ラサ間1145キロメートル、約3200億円かけて建設された鉄道は採掘された資源の輸送手段になるわけだ。

 国あるいは地域を実効支配する常套手段が鉄道建設である。自国民を大挙して送り込み、資源を収奪する方法は、かつて、日本も満州で行った。国策として南満州鉄道を建設し、100万人移民政策を推進、鞍山の鉄鉱石、撫順の石炭その他有用資源を確保した。青蔵鉄道も全く同じ手法である。この方法を中国は今、チベットだけでなくアフリカのコンゴ民主共和国でも実行している。

 チベット自治区とその周辺のチベット族居住地域の地下資源は、資源飢餓国中国としては絶対に開発したいところである。青蔵鉄道建設に先立ち、その沿線地域において政府地質調査団が広範囲にわたり探鉱した結果、銅、鉛、亜鉛、鉄鉱石の鉱床が発見された。これら資源の価値は1250億ドルと評価されている(Interfax-China)。銅が2000万トン、鉛・亜鉛が1000万トンで、1カ所の銅鉱床で確認された埋蔵鉱量789万トンは、中国全土で2番目の規模である。

 これら調査結果を2007年1月25日、新華社通信が公表した。多くのチベット人にとっては、それまで青蔵鉄道建設が資源収奪を目的とするものだと疑念を抱いていたが、そのことが確認されたというわけである。チベット高原における中国の行為は、インフォームドコンセントもなく、チベット人には何らの自由も優先権もなく、中国の資源収奪は占領されたチベットにおける、“白昼堂々の盗み”とまで表現するチベット人もいる。鉄道に反対してきたのは、資源収奪もさることながら、漢民族がどんどん増えることによってチベット人が駆逐されることを恐れていたからである。

 ちなみに、2007年ラサの人口35万人のうち漢民族が既に20万に
達している。

 さらに、チベットの人たちが心配していることは、資源開発に伴う環境破壊である。今、チベットはまさにゴールドラッシュ。中国企業のみならず、カナダ、オーストラリアなどの外資も権益を取得して探鉱・開発に参入してきている。これに対して、“自由チベット”の活動家たちは反対の声を上げている。

 例えば、カナダのコンティネンタル・ミネラルズ(Continental Minerals Corp.)がラサの南西240キロの地域で行っている4.5億ドルの銅・金鉱床の開発プロジェクトが標的になっている。

 ダライ・ラマも鉱山開発による自然環境破壊には懸念を表明し、2003年には欧米企業の鉱山開発を再考するように呼びかけた。その内容は「チベットにおいて事業を行うことを考えているすべての外国企業とその株主の皆さんに、事業を始めるに当たって倫理的な価値について注意深く検討することをアピールします」(I appeal to all foreign mining companies and their shareholders who are thinking about working in Tibet to consider carefully about the ethical values when embarking on such a venture)というものであった。2003年に、オーストラリアの鉱山会社、シーノ・ゴールド(Sino Gold Ltd.)はチベットにおける探鉱権益を放棄した。

 2007年5月には、四川省側にある町で、数百人のチベット人が暴動を起こした。それは、チベット人が先祖代々聖なる山と考えている9つの山の1つ、ヤラ山(Yala Mountain)で始まった中国企業による鉛・亜鉛鉱山の開発をやめさせようとしたものである。

 8人の代表者が四川省成都の省政府に開発中止の嘆願に行ったところ、彼らは今、行方不明になっている。

 金属鉱物資源だけではない。中国地質調査所の副所長(Zhang Hongtao)によると、チベットの西の辺境キャンツェ(江孜)盆地には“超大型石油ガス田”と大規模オイル・シェール鉱床が発見されているので、青蔵鉄道の終点ラサからさらに西200キロの町、シガツェ(日喀則)までの延長が、第11次5カ年計画の中で優先度の高いプロジェクトとして上がっているということである。

 中国にとって、チベットの豊富な資源の本格的な採掘が始まれば、アフリカその他リスクの大きい遠い外国の資源への依存を減らすことができるわけであり、チベットの地政学的な価値は極めて大きい。したがって、13億人の人口と経済成長を考えると、北京政府が外縁発展を強力に推し進めようとするのを阻止することは難しいであろう。

 2007年10月21日の第17回中国共産党全国大会において胡錦濤国家主席は、過去5年間の政権運営の活動報告を行った。その冒頭で胡政権が抱える“困難と課題”を列挙し、その第1番目が「資源・環境・格差」であった。資源は国家の最重要課題なのである。国民に直結した問題の「雇用、社会保障、教育医療、所得分配」が第2番目となっているくらいであるから、地下資源豊富なチベットとチベット族が住む周辺地域の統治のためにはいかなる弾圧も辞さない構えである。

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資源ナショナリズムは、定番の話題だ。それをめぐった「陰謀論」もかぞえきれない。「9・11テロ」→「イラク戦争」とかでもね。
■そして、国連安全保障理事会の常任理事国など大国が、これら資源ナショナリズムがらみの地政学策動を、「良識」として、ひかえることは、まずありえない。中長期的な利潤の極大および安定をはかる多国籍企業(および、そのスポンサーたち)、そして各国のナショナリストたる大衆が、「権益」(=地政学的欲望)をひかえるというのは、構造上ありえないからだ。■だから、中国政府の策動を特別視するというのは、それこそ「差別」、ないし「二重の基準」だろう。すくなくとも、大国や日本などが、とやかくいえた義理ではない。

■とはいえである、1989年のチベット弾圧の功績をおおきな好機として躍進し現在の地位をかちえたといわれる胡錦濤国家主席が、「過去5年間の政権運営の活動報告を行った」際に、「胡政権が抱える“困難と課題”を列挙し、その第1番目が「資源・環境・格差」であった」というのは、一見皮肉なめぐりあわせにみえる。■だが、世界がかかえる南北問題の縮図を、国内に東西問題としてかかえる(「南 << 北」という格差にてらすなら「西部 << 東部」だが)超大国にあっては、国内の地政学的矛盾が消失するはずがないわけで、政権の頂点にたつ人物が、そこから逃避することは不可能なのだ。■チベット人民の希望の象徴が、ダライ・ラマ14世であるなら、抑圧・弾圧の巨大集団としての漢民族の象徴こそ、胡錦濤国家主席といえるだろう。

■ちなみに、アメリカは、同質の蛮行を過去にちゃんと「卒業」してしまっているだけで、ロシアは「卒業」まえである。■日本だって、旧蝦夷地・琉球列島など、資源ナショナリズムがらみの地政学的蛮行を経験ずみであることは、いうまでもない。規模がちいさいからといって、「なかったこと」にするのは不可能だ。
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テーマ : チベット問題について - ジャンル : 政治・経済

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コメント

相対化すべきものとすべきでないもの

タカマサさんならば共感していただけると思いますが「人権は相対化すべきではないが諸文化は相対化すべきである」と私は思います。それゆえに『リバタリアン宣言』(朝日新書)や『正しく生きるとはどういうことか』(新潮社)といった本の主張は正しいと思います。すると真に普遍的な問題は、既にして現出している様々な社会制度や社会関係資本(ひらたくいうと「しがらみ」)をいかにつなぎあわせてサバルタン的公共性を実現するか、ということになると思います。
ところが!某国立大学における、(実定法の解釈論ではない!)法思想や法社会学専攻の教員がおこなっている議論においてさえも、相対化すべきものとそうでないものを混乱している(ひどい場合はまったくの正反対に主張している)事例にでくわすのである!
イタリアが実質マフィアによって支配されている国家であっても(というと「差別だ」と言ってくる人がいることは織り込み済みである)、その結果もたらされる所得分配が社会的厚生関数ではかったときに一定程度までサバルタン的公共性を実現している(と推測される)のに、なぜ日本はそれができていないのか!「米帝国の属国だから」といういいわけは通用するまい。そもそも日本は、ドイツとともに「資本主義のショーウィンドウにしてやれ」という戦勝国の国策によってえこひいきをされたのだから、その条件下でこれほどまでに不平等な社会にしてしまったことには(イタリアよりも恵まれていたのだから!)「民度が低い」という以外に説明のしようがあるまい。
さらに情けないことに、日本共産党は社民党以外の野党とも(よほどすり合わせられる共通項がない限り)統一候補をたてることすらしない、というのである。
学問として政治をあつかっている政治学者であっても、仮に政治家として起用されたらもう少し柔軟に妥協すると思うのだが、現時点ですでに政治の実務家たる党員が一切の妥協をしないということは、私には利敵行為としか思えない。

もちろん、だからといって中国に問題がないわけではない(というか、ありまくり)

もちろん、「インサイド中国」(『サンデー毎日』2008年4月20日号)における「東アジアの最大の不安定要因は、実は中国そのものだ」という主張は至言であると思う(東アジアという区分自体もイデオロギー的であることは認めたうえで)。「天狗投げ(柔道の技)の欠点は使い手自身だった」というオチ(『新コータローまかりとおる!柔道編』21巻・講談社)に匹敵する衝撃的な至言であるといえましょう。もちろん、戦後補償はおろか、公的な謝罪さえしていない日本政府には中国政府を批判する資格など、針の先ほどもないけれどな。

さすがはIOC(もちろん悪い意味で)

国際オリンピック委員会(IOC)は9日午後、当地で緊急の理事会を開き、北京五輪の聖火リレーに対する妨害行動等に関連し、各国オリンピック委員会連合(ANOC)が作成した声明文案を検討。ANOCの案に盛り込まれていた「チベット」の文言を削除した。(『毎日新聞』2008年4月10日号16ページ)

たとえば「法社会学」業界ですが…

■ウィキペディア「法社会学」(2008年1月19日 (土) 02:21; PixelBot (会話 | 投稿記録) による版)をみると、つぎのとおりです。
法社会学(ほうしゃかいがく)は、法にまつわる社会の現象を分析する学問。

第1に、その社会状況を明らかにする事が目的。 第2に、そこで明らかにされたことによって、現実の法制度の改善、人々の意識の変革を促す事が目的。

例えば、司法制度改革の議論は法社会学の領域。また、「日本で訴訟が少ないのはなぜか?」というテーマは法社会学の領域。 日本の法文化を検証した川島武宜は法社会学者の一人。

日本の法社会学の創始は末弘厳太郎といっていいだろう。[要出典]

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B3%95%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6&oldid=17449272

 ↑ これは、社会学の基本書さえまともによんだことのない(失礼!)法学者による作文だと推測されます。■社会学的センスがカケラも感じとれないし、たとえば、援助交際とか、ヤクザのシノギとか、消費者金融のグレーゾーンとか、産廃の不法投棄問題とか、いろんな社会現象が、法社会学の対象たるべきだという射程がみえてきません。■「司法制度改革」なんてのは、社会学的分析を応用はできる領域ではあっても、「改革」自体は、社会学とは直結しません。これだと、「●●制度改革」といったあらゆる領域に社会学者が、ひっぱりだこになりそうですね(笑)。社会学は、近現代空間という特殊な時空でおきる社会現象の記述・分析を本務としているわけで、「●●制度改革」といった実学的な目的で誕生したものではありませんし。
■あまりに、視野がせまい実定法学者(法解釈学者)たちの「法現象」観が露呈しています。


■ですので、法学部や法学研究科あたりに、法学部出身でご着任の法社会学者の先生方の認識が非社会学的であるとか、「~べき論」と「~である論」の区別が充分つけられない、未整理な思考のまま、議論をくみたてるとか、いかにもありそうな気がします。■かれらに「相対化」する視座をもとめる方が、まちがっているかも。

■法思想史あたりも、あぶなそうです。法哲学者は、緻密な議論をしますけど、思想史は、御立派な法学者の思想を愛情をこめて復刻・注解・解説するしごとだとおもいますんで、これも「相対化」のための必要条件をみたしていない危険性が。

■法解釈学しか興味ない実定法学者たちよりは、期待がもてそうですが、なまじそういった期待をもってしまうがゆえに、貝枝さんみたいな人物には、イライラ感しか よびおこさない予感がいたします。

●日本法社会学会(http://wwwsoc.nii.ac.jp/hosha/

社会学ネタ。ネタとしての社会学。

『社会学の射程』(ISBN-13: 978-4887138742)という本が『社会学評論』(239号)の書評欄でとりあげられています。まだ読んでいませんが、その名のとおり社会学の射程そのものを論じている本として参考までにどうぞ。

庄司 興吉御大の おことば

『社会学の射程:ポストコロニアルな地球市民の社会学へ』(東信堂, 2008)(http://www.toshima.ne.jp/~kokshoji/bk0812shatei.pdf

はしがき

 「ポストコロニアルな地球市民の社会学」という問題提起をしてから、5 年以上の月日がたちました。
 この間、世界のポストコロニアル性はますます明瞭になってきていると思います。アジア・ニーズから始まったアジアの経済発展は、東南アジア諸国連合(ASEAN)から中国におよび、さらにインドにも波及して、今や東アジアから南アジアにかけての地域は世界でももっとも躍動的な地域となっています。アメリカの証券会社から出された BRICs すなわちブラジル、ロシア、インド、中国という問題提起は、むしろまさにその正反対すなわち中国、インド、ロシア、ブラジルという順序でなされるべきであったようにも見えます。
 旧植民地国出身の知識人からなされたポストコロニアリズムという問題提起の核心には、現代欧米の思想が、西洋への自己批判をふまえて世界の広がりと将来を見極め尽くしているような自意識にもかかわらず、自らがかつて植民地として思うままに支配した諸社会の深層にはまだまだ入り込んでおらず、未発掘の諸問題を視野に組み入れえていない重大な限界をもっている、という批判がありました。そしてこの批判は、日本を含む欧米の「先進」諸国にもまた、「先進」という自意識にもかかわらず、自らの内部にまだまだ未発掘の諸問題があるではないか、という追及をも含んでいました。21 世紀に入って欧米日「先進」諸国でいっせいに顕在化してきたワーキングプアや介護労働力不足や無差別殺人犯罪などの諸問題は、まさにそういう追及がますます妥当性をもつようになってきている証左のようにも思えます。
 【中略】人間がシンボリズムをとおしてしか世界に生きられないこと、したがって社会における争いは暴露合戦を含む思想の争いにほかならないこと、それゆえ社会の把握は(相互)思想状況という、今日の言葉でいえば言説合戦をつうじてしかなされえないこと、20 世紀後半以降の歴史は長い眼でみれば旧植民地・従属諸国の主導でつくられていくであろうこと、などです。
【中略】
 「地球市民の社会学」といいましたが、もちろん今日の世界に地球市民どころではない諸問題が溢れていることは承知のうえです。しかし、非西洋すなわちアジア・アフリカ・ラテンアメリに先駆けて乗り出した近代化のあげく、15 年戦争についで第二次世界大戦の半分を引き起こし、近隣諸国に多大な危害を加えたばかりでなく、自らも沖縄を犠牲にし、大多数の都市を爆撃にさらしたうえ広島・長崎に原爆を投下されて、結果として徹底平和主義の憲法をもつことになった日本国の市民としては、それ以外の生き方はありえまいと私は思っています。
 ……この半世紀の世界の激動と諸理論の展開を見直しつつ未来に向けて射程を広げてみることで、理念的である同時に現実的な社会学の新しい行き方も見えてくるのではないか? そう思いながら、そのために残された生命力のすべてを捧げようと思っている社会学者の、これは、あらためてする序論です。

 本書は、2003 年 3 月におこなった、私の東京大学での「最初講義」とその前後に作成した資料を基にしています。これらについて、当時の社会学研究室のスタッフを始め、大学院生および学部学生の皆さんにたいへんお世話になりました。あらためて厚くお礼を申し上げます。
 また、本書Ⅳの原稿の手書きからの入力にかんしては 2003 年 3 月まで私の秘書役を務めてくださった川端眞知子氏、本書Ⅰの原稿の録音からの起こしとⅢの原稿の手書きからの入力にかんしては、2004 年 4 月以降私の秘書役を務めてくださっている井上久美子氏にたいへんお世話になりました。井上氏には、ⅢとⅣの準最終原稿と元原稿との照合もお願いしました。お二人のきめ細かなお仕事がなかったら、私一人ではとてもこの本はできなかったと思います。心からお礼を申し上げます。
 最後に、これがもっとも重要なのですが、東信堂の下田勝司氏には、この、著者から見れば独創性に自信があるものの、見ようによってははなはだ型破りの、本の出版を快く引き受けていただきました。氏の大きな心意気にかなうよう、生命あるかぎりよい仕事を続けたいと思っています。
                   2008 年 11 月著者



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%8F%B8%E8%88%88%E5%90%89

 ↑ ■わるいかたじゃないとおもいます。しかし、目次をみるかぎり、表題にあたるのは、第5章の40ページ程度だけ。「カンバンに いつわりあり」だとおもいます。社会学周辺の社会哲学史および社会科学論の詳細なノート、という位置づけには絶対になっていそうですが、それは「社会学の射程」をかたったことになりません。わずか40ページのエッセンスをかたるための、広大なすその、という位置づけがかりに可能であっても、それは、社会学が理論的にカバーできる(すべき)射程全域のスケッチ、ないし、射程内の諸領域の構造、といったことを本来さすだろう表題とは、本質的にことなった作業だとおもいます。■いわゆる「グローバリゼーション」は、現代社会学にとって、不可欠な問題領域だとおもいますが、社会学は、それだけカバーすればいいわけではない。それをカバーすることによって、知的誠実さを証明できるわけでもない。
■稲葉振一郎御大(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%8C%AF%E4%B8%80%E9%83%8E)に触発されてかいた「『社会とは何か』と答えの出ない問いを延々と繰り返すところに社会学のアイデンティティーはある」という皮肉は、うちむきの 堂々めぐりの空論にみえますが、逆説的に「射程」をえがきだしているかもしれません(http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-1112.html#comment9730)。理論物理学が、クォークとか、原子の構成要素をつきとめようと、どんどん ミクロな世界にはいりこんでいこうとしているように、社会現象とはなにかをとい、それを条件づける「社会」なるものの正体をおいもとめることは、社会学がカバー可能な、「最大半径」を特定することかもしれないと。

■時間がとれて、ざっとでもめをとおせたら、補足します。

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