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ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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批判の対象は、「人間のありかた」であり、そこには自己批判もふくまれる。(hituziのブログ)

■前便へのトラックバック記事へのトラックバック記事。■前便記事への直接関連する部分だけ転載。


批判の対象は、「人間のありかた」であり、そこには自己批判もふくまれる。

さて、タカマサのきまぐれ時評からトラックバックをいただいた。言語学者の「さが」=「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」(hituziのブログ)
戦略的に、議論をもりあげようと、わざとスキをかかえこんでいるのだとおもうが、それにしても、ワキがあますぎるとおもうのだ。

そのとおりだと おもう。そして、ワキは あまいほうが よいと おもっている。すくなくとも、コミュニケーション機能をもつブログなどでは、とくにだ。
そのほうが、批判をもらえるからだ。ほんとうに そうだろうかと、疑問に感じるだろうからだ。
……

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■これは、当然想定内。

いわば、hituzi氏の問題提起の相当部分は、「社会言語学の研究者」という本質化=過度の一般化による、ひとりずもう=幻影である。

これも、そのとおりだ。

すこしまえに、「むしろ矛盾しろ」という文章をかいた。
ひとは だれも、ひとつの定義に おさまりきらない。矛盾するのが あたりまえで、一貫性をどこかで うしなってしまうのが当然で、だれかに定義されながらも その定義を破壊するのが人間なのです。「人間は自由である」とは そういうことです。
社会言語学も、どのような規定にも おさまりきらない自由なところをもっている。そこが、社会言語学の魅力であると おもっている。
------------------------------------------------
原聖(はら・きよし)さんという、言語研究者・歴史家が、シュリーベン=ランゲ『社会言語学の方法』という訳本のあとがきで、「より公平な『言語と社会の学』Science of Language and Society という言い方も生まれている」(1990:p.194)とのべている。■「社会言語学」をこういった、ゆるい学問領域としてあつかうなら、「どのような規定にも おさまりきらない自由なところをもっている」といってよいし、かどや論文/古賀論文などを、広義の社会言語学にふくめるなら、こういった方向性しかとりようがないだろう。
■この問題提起は、本来「hituzi氏は、自分の議論のつごうにあわせて、言語学者の問題意識の水準をのびちぢみさせている。おそらく無自覚に」への回答で、こたえられる問題のはずなのだが、それは、ハズされてしまっている。■ま、それはのちほど、該当箇所で。





タカマサさんの批判にもどる。
社会言語学(=当時は「言語社会学」とよばれていたが)を最大活用するかたちで、国語学の内部から「内破」するかたちで日本語学を構想した かめい・たかし という存在と、ユーラシアの言語理論・実態という「外部」からの視線で日本語現象を革命的に分析しようとした 田中克彦、という存在を、単なる知的断絶とみなすのは、やりすぎだろう。
この ふかよみは、たしかに ただしいところも あるが、ふかよみの しすぎたところもある。

田中克彦(たなか・かつひこ)は、かめい・たかしの後継者であると いっていいだろう。そして、「国語学」を批判した社会言語学者たちは、いわば田中克彦(たなか・かつひこ)の批判精神の後継者だったわけであり、それには安田敏朗(やすだ・としあき)、イ・ヨンスク、ましこ・ひでのりなどがいる。

わたしはといえば、さらにその批判的後継者である。

わたしが したいのは、「祖に会えば祖を殺し」ということだ。わたしが尊重している権威であるからこそ、批判をするわけで、そして すでに わたしが内面に とりこんでいるという意味で、「祖を殺す」(先学者を批判するという意味)作業は、いまの自分を殺す(自己批判という意味)作業でもある。

それは すなわち自分自身を更新するということであり、また、学問を更新するということなのだ。

重要な点は、その更新作業が、自分だけではなくて ほかのひとによっても おこなわれているということだ。そこに めくばせをしなければならない。

わたしは、「かめい=「内在的」、田中=「外在的」という、二分法」は想定していなかった、と おもう。記憶にない。

……
あとで補足をしようと おもっていたのは、言語帝国主義という批判用語をつかっていたのは、田中よりも、あとの世代だということだ。論文集の『言語帝国主義とは何か』では、むしろ田中は、この用語を乱用することをいましめていたほどだ。

はじめ批判しようと おもったのは国語学を批判した社会言語学者のことで、田中ではなかった。たまたま『ことばと国家』の冒頭部分を引用して批判するというスタイルをとったが、テキストは『ことばと国家』ではなくとも よかった。

最初は安田敏朗を批判的に とりあげようとしたのだが、「批判するに適切な文章」が すぐには みつからなかったので、すでにチェックしてあった『ことばと国家』の かきだしを利用したのだ。

わたしは、二重の意味で「言語が知的障害をつくる」と かいた。この現実から のがれられるひとなど、それほど いないのだ。
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「かめい=「内在的」、田中=「外在的」という、二分法」は、少々いさみあしだった。国語学業界周辺で無意識裡におこなわれているだろう両者の区分(二重の基準)と、Hituzi氏が、「かめい・たかしは、「日本言語学のために」という文章で、「国語学よ、死して生まれよ」と のべた(1938年)。この文章をおさめた『日本語学のために』を手もとにおいて、わたしは この一文をかいた。」と追記でのべていることに、過剰に反応したといえそうだ。

■「言語帝国主義という批判用語をつかっていたのは、田中よりも、あとの世代だということだ。論文集の『言語帝国主義とは何か』では、むしろ田中は、この用語を乱用することをいましめていたほどだ。

はじめ批判しようと おもったのは国語学を批判した社会言語学者のことで、田中ではなかった。たまたま『ことばと国家』の冒頭部分を引用して批判するというスタイルをとったが、テキストは『ことばと国家』ではなくとも よかった。

最初は安田敏朗を批判的に とりあげようとしたのだが、「批判するに適切な文章」が すぐには みつからなかったので、すでにチェックしてあった『ことばと国家』の かきだしを利用したのだ」

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■安田敏朗氏の言動のなかにも、Hituzi さんが批判したいような要素がいろいろあるのだろう。しかし、かれが、そういった つごうのよい失言をしているとはおもえない。■そして、かりに不用意な表現をしていたにしても、「だから言語研究者のほとんどは、こんな言語至上主義にまどろんでいる」といった批判をおこなうことが生産的とはおもえない。たしかに、安田氏の言動にも「発見」できれば、それは かなり重大な「発見」であるが。■むしろ、Hituzi さんが自己コメントであげた例示の方が議論として意味があるだろう。

『ことばと国家』の「人間はふつう、だれでもことばを話している。それは、人間と他の動物とを分ける基本的なめじるしの一つと考えられている」(2ページ)というフレーズを批判的に とりあげたわけだが、こういったフレーズは、ほかにも たくさんある。

ましこ・ひでのり2002『ことばの政治社会学』では、「もちろん、重度の言語障害をもってうまれれば、言語的社会化をうけない可能性もなくはない。しかし、それは例外的少数なので、考慮の対象からははずそう。」(142ページ)

というフレーズがある。

これは「求心力の中核としての民族語-言語復活をめざす沖縄人とアイヌ民族を中心に」という論文での注意がきなのだから、この論考で「考慮の対象」からはずすのは、理解できることである。だが、とはいっても、「例外的少数なので」といった発想こそが、少数派の権利を侵害してきたのでは なかっただろうか。

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■この例示は、ましこ氏が「重度の言語障害」などのケースをあつかいたくない、あるいは、まだモデル化できる用意がみえないので、にげている、とみなせる引用である。そのおそれは、かなりありそうだ。
■しかし、この注記が、つぎのような本文についてであるとなれば、あつかいは慎重にする必要もあるだろう。

…諸個人は、なんらかの言語体系がかたちづくる〈外部〉との〈境界線〉にとりかこまれることになる。くりかえしになるが、それぞれの〈境界線〉は、ベン図の各集合のように、かさなりあうかもしれないし、はなれているかもしれない。しかし、諸個人は、基本的にいずれかの〈境界線〉内に所属するようにせまられているわけだ3。とすれば、生活言語は、社会的性差…、国籍、宗派などとならんで、諸個人を規定する重大な社会化の回路であり、自己同一性…の基本的要素となることはもちろん、〈他者〉との異同を決する基本的〈境界線〉といえよう」(『ことばの政治社会学』pp.120-1)

■つまり、高度に抽象化された「社会化」の形式のなかで、言語的社会化の〈境界線〉問題をのべたなかでの注記だったと。■社会的性差、国籍、宗派など、基本的社会化の〈境界線〉によってわりきれない、微妙な層が実在することは、いうまでもない。それへの めくばりが必要なことは事実だが、議論をわりきるためには、当座捨象する操作はさけられないことがすくなくなかろう。■民族意識等を課題とするとき、障害学的な議論を不用意にまぜれば、混乱がおきるだけだからだ。手話共同体の〈境界線〉が、音声言語の〈境界線〉の地理的分布とズレているといった議論はともかくとして、重度の言語障碍者の言語的社会化はどうなるか、といった微妙な問題をまぜることは、必要以上に議論が詳細だといえそうな気がする。
■もちろん、基本的社会化の〈境界線〉のなかに、障碍の有無・種類をおさめなかったモデルは、社会学モデルとして不充分だという批判は充分なりたつだろう。しかし、たとえば重度の知的障碍のばあいの言語的社会化といった微妙な問題は、それこそ障害学の最先端の課題であって、民族意識の社会学的スケッチの範囲をこえているとおもわれる。




hituzi氏は、自分の議論のつごうにあわせて、言語学者の問題意識の水準をのびちぢみさせている。おそらく無自覚に。

そのとおりだと おもう。
だが わたしが問題にしたいのは、「人間のありかたに あわせて言語の定義をのびちぢみさせようとしない言語学のありかた」にある。もちろんそれは、言語学全体ではないだろう。だが、ほとんどであるのは否定できない。
わたしは、言語の定義をひろげようとは いわない。そのかわりに、ただ、「コミュニケーションに正解はない」という。
わたしは、たくさんのひとに よんでほしいと ねがって、言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。をかいた。
そして、その目的は ある程度は達成された。
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■いや、こうやって、みじかくはない文を2つもかいたわけだから、かなり 「かんがえるヒント」になったことは事実。■しかし、「人間のありかたに あわせて言語の定義をのびちぢみさせようとしない言語学のありかた」を問題視するという姿勢をうちだすために、議論の俎上にのせられている言語学者の意識水準が上下するのは、ヘンだ。「むしろ矛盾しろ」という姿勢があるからといって、議論のつごうで対象がユレうごくのはこまる。■つまり、一枚岩の言語学者とか、社会言語学者など想定できない以上、属性をそれなりにしぼりこんで議論しましょうね、というのが、前便の主旨。



いや、批判者の想定はともかくとして、読者層の想定は、あやふやだとおもう。この文章は、一体だれにむかってかいたのか?
という疑問をいただいた。

その こたえは「読者とは、すべてのひとで ありうる」ということだ。なぜ、すべてのひとで ありうるのか。
それは不可能であると いうひとが いるかもしれない。だが、それこそが、コミュニケーションの なせるわざであるということを、わたしはここで強調しておきたい。
文字がよめなくても、よみきかせをすれば、本をよむことができる。それなら、もはや、よみかきの「能力」の問題ではなく、サービス、提供のありかたの問題である。それゆえ、識字率をあげることを目標にするのではなく、読書権を保障することを社会の課題としなければならない。(「視点をひっくりかえす重要性(少数派について)」)
……

------------------------------------------------
■可能性として、世界の全員って、ことは理解できる。■しかし、そんな高遠な運動の次元ではなく、ツッコミはなされている。前便へのコメントでかいたとおり、「あの議論がピンとくる層には「いわずもがな」であり、ホントに衝撃をうけるべき層は、あのページにアクセスさえしない」という決定的問題はのこる。■言語学業界に直接からまない 「ギャラリー」の視線が高度にシフトしたからといって、肝心の言語学業界の平均水準があがらないんでは、どうもならんだろう。そして、『ことばと社会』とか『社会言語学』といった雑誌の執筆者・読者周辺は、「ふむふむ」とよむだろうが、それは問題点の再確認程度の効果しかみこめないだろうということ。
■ちなみに、今回のこの文章にかぎっていえば、当方は、読者層を数人ぐらいにしぼっている。■分量にとどまらず、この議論についていける読者は、ごくかぎられるとおもっているから、あらかじめ断念しているのである。■それは、社会言語学という領域の「市場」がごくかぎられており、しかも そのなかでも、こういった関心をもつ層は、ごくごくうすいだろうという推定にもとづいている。この議論を現在理解できる読者層は、全国では3ケタにのぼるかもしれないが、旧ブログのように、1日500ぐらいは最低の読者がいるようなアクセス水準ならともかく、このブログの読者の量的水準のばあい、まあ、数人だろうと。■一部の論点を理解できる読者は数十人いても、「hituziコミュニケーション論」ともいうべき理論水準総体への理解という次元では、絶望的なのが現段階だとおもっている。

■これは、hituzi さんの「コミュニケーション機能をもつブログなどでは」「ワキは あまいほうが よい」の意見とは正反対のたちばである。議論をよびこむために、わざわざ「スキ」を くみこんだりはしない。■この日記にとって、コミュニケーションは副次的・オマケにすぎないからだ。文章は自分の思考の外部化であり、更新された文章群は未来の自己への書簡集である。数か月から数年後、かいたこともわすれてしまった論点の記録庫という意味だ。
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タグ : 社会言語学 国語学 言語学者 かめい・たかし 田中克彦 原聖 安田敏朗 イ・ヨンスク ましこ・ひでのり

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コメント

アジ文を査読審査されているような(笑)。

言語と社会の学という、言語と社会を並列でならべるような定義は、まるでダメだと おもいます。スーザン・ロメインの『社会のなかの言語』といった定義でないと…。

「言語の次元と社会の次元を切り離したうえで、言語の社会性は社会の現実の反映であるとみる考え方こそ、言語からイデオロギーと権力の問題を追放するためのもっとも洗練された手口なのである」(糟谷啓介=かすや・けいすけ「言語と権力」『言語帝国主義とは何か』288ページ)という問題意識に わたしは共感します。

わたしが あのアジ文で社会言語学という用語をつかったのは、

「日本の社会言語学で古典的名作とされる本は、田中克彦(たなか・かつひこ)の『ことばと国家』岩波新書、1981年だ。」

「国語学と田中の言語学と、なにが ちがうのか。国語学と社会言語学と、なにが ちがうのか。」

「ここまでの議論をよんでも、社会言語学の研究者は、なにをも感じとらないだろう。ただ、よまなかったことにするだろう。一瞬のうちに、わすれてしまうだろう。」

「言語権も、社会言語学も、言語と名のつくものは、体制のための学問である。言語という制度のための学問である。社会言語学は「コミュニケーション研究」にならなければならない。そのためには、ハイムズの社会言語学、つまりはコミュニケーションの民族誌研究たる『ことばの民族誌-社会言語学の基礎』が再評価される必要がある。」

「古賀文子(こが・あやこ)2006「「ことばのユニバーサルデザイン」序説-知的障害児・者をとりまく言語的諸問題の様相から」『社会言語学』6号、1-17、「社会言語学」刊行会」

ですが、あのアジ文の かなめは、「なぜなら、ひとは保守的であるからだ。そして同時に、他人の保守性を批判するのだけは得意だからだ。

自分の問題として かんがえる。うそだ。

だれひとりとして、そんなことは しない。

よっぱらえないかぎりは、そんなことはしない。気もちが よくなければ、自分の問題として かんがえることなど、だれも しない。


そんなことは ないのなら。そんなことは ないというのなら、どうするのか。」

というところにあります。「どうするのか」を、といかけているのです。ひとりひとりの社会言語学研究者に、です(全体ではないです。そもそも「全体に といかける」ことなど無理だ)。

そういった問題があることは「認識している」だなんて こたえをひとりひとりの社会言語学研究者にもらったところで、満足できるはずが ありません。

水をくださいと いっているのに、おまえが水がほしいのは わかっていると返答されたら、どういう気もちになるでしょうか。

わたしが いっているのは、根本的に研究のパラダイムをひっくりかえし、従来の わくぐみを破壊し、再構築することです。

「生産的とはおもえない」と おっしゃいますが、わたしが どれほど破壊的に生産的になろうとしているのかを、ご理解ください。

人間のための研究であるなら、人間の多数派のための研究でないなら、社会言語学は いまのままでは いけないし、再構築されないといけない。

わたしは、そういう といかけをしています。そして、体制のために研究をするのでなければ、「そんなことは ないのなら。そんなことは ないというのなら、どうするのか。」ということなのです。

わたしは「そんなことは ない」という こたえをまっているし、そして、どのように実践するのかを、といかけているのです。

これが生産的なアジ文でなくて、なんなんでしょうか。

たしかに一部の層には生産的なアジ

■「社会のなかの言語」というのは、社会学や人類学、すくなくとも、カルチュラル・スタディーズなどの洗礼をうけていない言語研究者にとっては、キツいだろうことは事実です。もっといえば、「社会現象の一種としての言語現象」という認識ですね。■しかし、『ことばと国家』あたりに触発された層にとっては、「社会言語学」という表現自体が冗長である。「非社会言語学」は、たとえば生成文法学派のような心理言語学以外にありえない。といった認識として共有されているはずです。■実際、社会を排除した人文研究なんてのはありえない。それは自然科学的に、社会を排除しないと。
■もちろん、社会現象として言語現象をみるといっても、言語地理学とか、わかものことば研究とか、言語現象を徹底的に非政治的にとりあげることもできます。『ことばの政治社会学』あるいは『ことば/権力/差別』あたりが強烈に意識していたとおり、欧米の社会言語学のモデルを輸入するばかりで、ねっこにある階級論・民族論は完全に排除する、非常に政治的な非政治主義といった問題が、わがくにの社会言語学界にはねづよい。雑誌『社会言語学』あたりは、それを意識した媒体ですよね。
■なにをいいたいかというと、「社会のなかの言語」っていったって、イメージされる「社会」のなかに、階級とかジェンダーとか、差別・権力といった政治性がまるっきりふくまれていないばあいがあって、欧米のような知的緊張感がない文脈にもちこまれれば、充分ふぬけになると。■逆にいえば、原氏がいっている欧米での「社会と言語の科学」という表現が、知的緊張をかいているかどうかは、研究者次第ってことです。
■たとえば、hituzi さんは、社会言語学研究者をかたるけど、社会言語学主流派のひとは、???って感じだろうとおもいます。■それと、古賀文子さんなどは、社会言語学研究者って自覚はなくて、社会言語学モデルを知的障害児・者をとりまく障害学的多数派研究って自己認識でしょう。■安田敏朗/ましこ・ひでのり、ご両人など、社会言語学専攻って、かたったことがないかも。
■その意味では「社会言語学」って名称はどうでもいい感じがします。「社会言語学」とよばれる「星雲」のような領域によりあつまってくる一群の、ひとにぎりに、すぐれものがかなりいそうだという予感はあります。あるいは、「社会言語学」が蓄積してきた知的遺産に反応する層が、カルチュラルスタディーズあたりの良質な部分と同様の生産性をもつだろうと。


■「ひとは保守的である」⇔「根本的に研究のパラダイムをひっくりかえし、従来の わくぐみを破壊し、再構築すること」
→保守的な研究者に刺激をあたえて、革命的に「わくぐみ」を再構築する。すばらしい。■しかし、これは期待できない。なぜなら、「自己批判なんか するな」(http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/16b4daf362a05b81e71429161f5f969d)で「だれしも得意分野、苦手分野というものがある。得意なことには雄弁で、きびしい姿勢をもっており、苦手なことは、他人にも自分にもあまいことがある。それは当然のこと」とのべられているとおり、ある研究者とか、ある集団が、ある思考様式に「にがて」であるという宿命が、ある程度予想されるから。■いや、もちろん、「くわずぎらい」とか、「かんがえてもみなかったことだが、やってみたら、けっこうできた」という可能性はなくはないけど、すくなくとも50すぎた御仁たちに期待をかけるのが、のぞみうす。
■たとえば、ある高名な社会学者は、日本にはヨーロッパのような言語問題がない、なんてことを80年代にほざいていた。『ことばと国家』がでて何年もたっていた時期に。でもって、当然一部の研究者から批判をうけた。それにきづいたのかどうかわからんけど、90年代になって、日系ブラジル人二世の言語不適応とか、そういった実態調査にのりだして、研究成果をあげた。■しかし、関係者からは、よいかおをされない…。これっていうのは、近代日本が成立以来、言語問題はおびただしくくりかえされてきた、って認識をもとうにも、全然のれない世代の限界だとおもうわけですよ。「なれないこと」に、としくってから、てをだしても、ロクなことにならない、という典型だとおもいますね。
■障碍と境界例が「普通」と連続しているとおり(社会的意味は全然ちがうけど)、ものごとへの むきあいかた、思考論理、等々、得意・不得意があって、保守性とか、ある課題への血のめぐりのわるさとかも、「ふるい」「差別的」と、なじっても、事態の好転はのぞめないし、期待をかけるなら、わかい世代という気がします。■四半世紀以上におよぶ、日本の「社会言語学」(ま、そのまえに、柴田武 御大らによる国立国語研究所あたりの実証研究を「前史」として、無視はできないでしょうが)の展開における、研究者のバラけかたは、どの世代として出発したかという面も無視できないとおもいます。■師匠たちに、階級論・民族論的観点が欠如していても、大学院生はちがっている、なんてケースもあるようですし。
■それと、障害学関係者とか教育学関係者の方が、言語学系よりも、脈がありそうな気がしますね。■はっきりいって、言語研究者ってのは、コミュニケーションに興味があるとはかぎらないわけで、言語現象フェチのケースがおおいわけですよね。そういったひとびとに、期待をかける方が、見当ちがいなんでは?(笑)

■では、小生は、どうこういったアジに対応するか? なんですが、それはまた、別の記事で。

希望のヴィゴツキー(笑)

社会言語学の一番すてきな定義については、「言語学と社会言語学の関係」という記事に かきました。わたしにとってはカルヴェの定義が魅力的です。

「その意味では「社会言語学」って名称はどうでもいい感じがします。」という認識に たつなら、まっさきに再評価すべきはハイムズじゃなくて、ヴィコツキーです。不覚にも さっきまで わすれてましたけど!(笑)。それは、ヴィゴツキーの言語論については入門書しか よんでいないからです…(笑)。

ヴィゴツキーをおもいだしたのは、「重度の知的障碍のばあいの言語的社会化といった微妙な問題は、それこそ障害学の最先端の課題であって、民族意識の社会学的スケッチの範囲をこえているとおもわれる。」

この「障害学の最先端の課題」というのをみて、です。そんなことはない。ヴィゴツキーをおもいだした いまなら、そう断言できます(笑)。

問題は、ヴィゴツキーの言語論/知的障害児教育論に熟達していて、障害学的関心、あるいは権力の問題に自覚的なひとが どれほどいるかというと…という点です。韓国のチョン・ウンさんをのぞいては。

あと先駆者といえるのは、菅原和孝(すがわら・かずよし)さんでしょうね。社会言語学者でも菅原さんの読者は けっこう いるはずだし。

知的障害者の自己決定というテーマでは、かなりの研究蓄積があるわけで、とりあえずは それをほりおこしていかないと。

知的障害者と関係もしないでおいて、憶測でコミュニケーション論が かかれてしまえば、それは意義がないと おもうので、「コミュニケーションの障害学」を念頭においたうえで、「自分のコミュニケーションの観察する」ことからスタートする必要があると おもっています。直接かかわっていない ひとは。

で関係するという意味で実践をしてきているのは、山内薫(やまうち・かおる)さんのような図書館員なんですね。ほんとうに すごい。あとは、知的障害者を家族にもつ研究者さんたち。意外と たくさん いますからね。


ということで、あしたから また仕事です。

でわ。

ヴィゴツキーって、なつかしいなまえですが…

■ヴィゴツキーって、社会理論も、コミでしたっけ?■発達心理学って記憶しかないんですが。

■日本語訳が問題をかかえているという情報があるので、とりあえず、英語訳がよめる外部リンクをたくさんそなえた、ウィキペディア「レフ・ヴィゴツキー」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B4%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC)をリンク。

●“菅原和孝”
http://www.google.co.jp/search?num=20&hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-29%2CGGLJ%3Aja&q=%E2%80%9C%E8%8F%85%E5%8E%9F%E5%92%8C%E5%AD%9D%E2%80%9D&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

●“山内薫” 図書館
http://www.google.co.jp/search?num=20&hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-29%2CGGLJ%3Aja&q=%E2%80%9C%E5%B1%B1%E5%86%85%E8%96%AB%E2%80%9D%E3%80%80%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

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