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Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

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政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

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言語学者の「さが」=「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」(hituziのブログ)

■hituzi氏の最近の問題提起「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」をよんだコメントをかきつらねていく。
■この提起の特異な点は、通常の「言語帝国主義」の定義である、「ある地域で特定の外国語が、その政治・経済・文化の力により圧倒的な影響力をもつこと」といった方向性での議論自体を「言語至上主義」だと、批判しているところだ。そういった問題のたてかた自体が「人間はすべて、なんらかの「言語」という制度のなかで いきていると、信じて うたがわない」発想にねざしており、「言語帝国主義は、けしからん」という批判的視座自体が「言語が だいすきでたまらない ひとたちによる、帝国の言語の批判で……「言語という体制」「言語という制度」をといなおすことはせず、 「言語の ぬるま湯」に つかって、権力を批判する」たちばだというのだ。■hituzi氏など、知的障碍者の施設につとめるスタッフからすれば、「言語至上主義」のらち外にある存在が、ちゃんと実在すると。

■そして、そういった無自覚な「言語至上主義」の古典的作品として、田中克彦『ことばと国家』の、おどろくべき差別性を指弾するのである。

「人間はふつう、だれでもことばを話している。それは、人間と他の動物とを分ける基本的なめじるしの一つと考えられている」(p.2)

■「ふつう」じゃない存在を例外視=異常視する認識は否定できない。hituzi氏の批判は、実にもっともである。■だから、「はてなブックマーク」でも、それなりの反応があったようだ。
■hituzi氏の批判は、実にもっともなので、主旨に異論はないのだが、では異論が全然ないかといえば、実はおおありなのだ。■戦略的に、議論をもりあげようと、わざとスキをかかえこんでいるのだとおもうが、それにしても、ワキがあますぎるとおもうのだ。
■いや、批判者の想定はともかくとして、読者層の想定は、あやふやだとおもう。この文章は、一体だれにむかってかいたのか? ■hituzi氏は、つぎのようにのべる。

「人間はふつう、だれでもことばを話している」と いってしまえる問題。この問題は、言語をはなす すべてのひとが共有すべき問題である。言語帝国主義という問題である。

ここまでの議論をよんでも、社会言語学の研究者は、なにをも感じとらないだろう。ただ、よまなかったことにするだろう。一瞬のうちに、わすれてしまうだろう。

なぜなら、ひとは保守的であるからだ。そして同時に、他人の保守性を批判するのだけは得意だからだ。


■その古典的実例として、田中克彦『ことばと国家』をあげ、おそらく、この本をイメージしながら、つぎのようにかいた。

外部から批判するのは、たいていの場合、かんたんなことだ。

国語学の そとから、国語学の わくぐみを批判する。かんたんですよ。単一言語主義による「体制の言語」(その社会における支配言語、権威化された言語のこと)をもって国語とよびならわし、それを研究する。その研究は、だれのための、だれによる研究なのか。それは、「国語」から かけはなれた言語を第一言語とするひとのための研究などではない。いかに、現体制における国語のありかたが すばらしいか、あるいは、現体制以前、つまりは歴史的なありかたが すばらしかったかという視点にたち、自分にとっては価値があると おもわれる国語をよりいっそう権威化するための研究。だから だめだと。そういう批判ができる。

国語学を外部から批判する。外部からみていると その保守的性格や排他性が よくみえる。なるほど、そうだろう。

日本の文脈で「国語」というものは、ひとつの規範化された言語によって、ひとつの国家をおおいつくそうとする。言語的多様性は無視されるか、おとしめられる。そして国語へと のりかえることが強要されるのだ。言語帝国主義のひとつのかたちである。……


■実は、この文章群、この記事の冒頭部分の一節なのだ。しかし、ちょっと冷静にかんがえればわかるとおり、田中克彦『ことばと国家』が主題化した問題群と、通常「言語帝国主義」とよばれる現象とは、おおきなズレがある。前者は、国民国家内の「国語/少数言語」という格差であり、後者は、「帝国語/劣位の民族語」という格差だからだ。■戦前の大日本帝国が多民族国家となったがゆえに、両者は近代の日本列島周辺、という時空でかぶさっているが、本来別個の問題だし、前者の意味を積極的にからめた「言語帝国主義」論者は、言語研究者のなかで、かなりマイナーなはずである。



■もうひとつみのがせないのは、hituzi氏が冒頭で田中克彦『ことばと国家』を意識してまとめただろう問題は、一般に「規範主義」とよばれるイデオロギーだという点である。■もちろん、「国語」という体制を護持しようと結集する、あるいは召集される御用学者たちは、時空上「国語」がすばらしい・うつくしいと、美化工作にいそしむ。■しかし、重要なのは、これら「規範主義」は、はっきりいって、専門的な言語学的トレーニングをうけそこなった層の暴走だと、平均的な言語学者には、みられている点だ。
■もちろん、田中克彦『ことばと国家』が刊行された1981年当時は、そういった、「記述主義」とよばれる当然の公準が全然一般化していなかった。いまでも、正誤・美醜を決定できると誤解している、エセ言語学者が横行しているが、当時は「エセ」であるという判定がちゃんとできていなかったのである。■しかし、現在、まともな言語研究者なら、「うつくしい日本語」といった、無造作にイデオロギッシュな表現は絶対にさける。かりに、個人的趣味として、そういった美学・価値観をかかえていても、職業的言語学者として、「それいっちゃ、おしめーよ」と、禁欲するわけだ(笑)。

■だから、

日本の社会言語学で古典的名作とされる本は、田中克彦(たなか・かつひこ)の『ことばと国家』岩波新書、1981年だ。この本を最初から よみなおしてみなさい。

「人間はふつう、だれでもことばを話している。それは、人間と他の動物とを分ける基本的なめじるしの一つと考えられている」(2ページ)。

田中克彦は、いまになっても手話をとりあげない(『ことばとは何か』ちくま新書、2004年をみよ)。おそらく手話を言語として あつかってはいないからだ。


という一節は、田中克彦という大物研究者の悲劇的四半世紀を批判できるが、日本列島上の言語学界全体を批判できる保証はない。■いや、はずしているだろう。日本手話についてのコラムを連載している、雑誌『ことばと社会』(三元社)はともかくとして、hituzi氏がかってくれと読者にかたりかける『ことば/権力/差別』(三元社)には、日本手話をとりあげた金澤論文がおさめられている。


■「言語権」問題もそうだ。hituzi氏は、つぎのようにいいはなつ。

言語権という議論も、人間にとって言語は普遍的なものだという、おろかで、ふざけた発想にたって、人権という、うつくしい議論をならべる。手話が言語形態のひとつであること、日本手話がフランス語や日本語のように、言語であることが きちんと認識されていない現状では、言語権という議論は、たしかに効力をもつ。

■しかし、「言語権」概念の限界性、たとえば、「言語権がうんぬんされる少数言語などは、言語学者が、その存在をみとめ記述しようとした時点で、そういった可能性をもちそうにない=社会に全然認知されずにきえていこうとする、真の危機言語には無縁だ」といった、痛烈な批判精神は、雑誌『ことばと社会』(三元社)につどうひとびとに、共有される視座だろう。■これら、一群の研究者たちに、よわさがあるとすれば、手話以外についての障害学的な視座、とりわけ知的障碍者への配慮だろう。
■しかし、これとて、hituzi氏自身が、末尾で、

必読は、つぎのふたつ。

かどや・ひでのり 2006「言語権からコミュニケーション権へ」『人権21・調査と研究』183号、78-83、岡山人権問題研究所
古賀文子(こが・あやこ)2006「「ことばのユニバーサルデザイン」序説-知的障害児・者をとりまく言語的諸問題の様相から」『社会言語学』6号、1-17、「社会言語学」刊行会


と特記しているとおり、ひろい意味での社会言語学研究者が、ヨーロッパ流の「言語権」概念をのりこえはじめているのである。■したがって、hituzi氏自身が、社会言語学周辺の研究動向についての素描において、自己矛盾をきたしているというほかない。たとえば、「あべ/かどや/古賀の、3氏は、社会言語学者にいれるのは、おかしい」という、極端な議論をしないと、一貫性をうしなうのだ。


■さきに、「(国民国家内の「国語/少数言語」という格差という)意味を積極的にからめた「言語帝国主義」論者は、言語研究者のなかで、かなりマイナーなはずである」とのべておいたが、雑誌『ことばと社会』や、hituzi氏自身がくわわる雑誌『社会言語学』周辺の執筆者・読者層のあいだでは、マイナーどころか、むしろ「常識」にあたるはずだ。■つまりは、hituzi氏は、自分の議論のつごうにあわせて、言語学者の問題意識の水準をのびちぢみさせている。おそらく無自覚に。■だから、いまだに日本手話を自分の言語学モデルにおさめきれない田中克彦のような大御所や、それ以前の規範主義をいまだに「卒業」できない層を一方の極として、『ことばと社会』や『社会言語学』周辺の問題意識自体が、不徹底・不充分な水準にとどまるといった先鋭な部分を他方の極とする、めまいのするようなグラデーションが四半世紀あまりのあいだに形成されたと。

■いわば、hituzi氏の問題提起の相当部分は、「社会言語学の研究者」という本質化=過度の一般化による、ひとりずもう=幻影である。■『ことばと国家』で、充分衝撃をうける層は、いまだすくなくないはずだし、政治的には保守的といえる、トラッドギル『言語と社会』(岩波書店,1975)だって、充分リベラル左派的啓発書でありつづけていて、まゆをひそめる層が大量にでそうな、「カルチュラル・スタディーズ」的存在である。■生物学でいう、「個体発生は系統発生をくりかえす」という格言同様、言語至上主義にまどろんだままの社会言語学でさえも、日常意識からは、とおく非日常的体系なのだ。研究者たちの一群が、そういった構造のなかで、バラけるのは、さけられない。




■それと、hituzi氏の言語学批判は、同様に、氏自身の批判スタイルにも、再帰的にふりかかってくる。

外部から批判するのは、たいていの場合、かんたんなことだ。

言語学の そとから、言語学の わくぐみを批判する。かんたんですよ。言語至上主義による「健常者の言語」(健常者社会における支配言語、権威化された言語のこと)をもって言語とよびならわし、それを研究する。その研究は、だれのための、だれによる研究なのか。それは、「言語」から かけはなれたコミュニケーションを日常とするひとのための研究などではない。自分にとっては価値があると おもわれる言語だけを一般社会に認知させる研究。だから だめだと。そういう批判ができる。

言語学を外部から批判する。外部からみていると その保守的性格や排他性が よくみえる。なるほど、そうだろう。


■規範主義をとりのぞいてあるが、これは、単なる「いやがらせ」ではない。■社会言語学(=当時は「言語社会学」とよばれていたが)を最大活用するかたちで、国語学の内部から「内破」するかたちで日本語学を構想した かめい・たかし という存在と、ユーラシアの言語理論・実態という「外部」からの視線で日本語現象を革命的に分析しようとした 田中克彦、という存在を、単なる知的断絶とみなすのは、やりすぎだろう。かめい=「内在的」、田中=「外在的」なんて、単純な図式におさまるはずがないからだ。むしろ、この子弟は2代そろって、ヨーロッパの言語理論の輸入と応用を実践した、革命者だったのだ。かめい=「内在的」、田中=「外在的」という、二分法は、国語学界が自衛的にひねくりだした幻影の産物のはずである。
■おなじように、hituzi氏の立論が、たとえば『ことば/権力/差別』の論考群と無縁だというのは、ムリがあるだろう。hituzi氏の立論は、社会言語学×障害学という「化学変化」だとたとえることができるだろうが、その変容過程にあたる一群の知的蓄積が「ふみきり板」になっていはずだ。そこには、ウィトゲンシュタインの「家族的類似」という、結婚による網状関係があるとおもわれる。


●旧ブログ『ことば/権力/差別(新刊)
●英語版Wikipedia“Family resemblance
●ドイツ語版Wikipedia“Familienähnlichkeit
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コメント

「実にもっとも」ではなくて

「実にもっとも」でもなく、記述に「異論が全然ないかといえば、実はおおありなのだ」でもなく、ちがった反応も おまちしています。それはもちろん、実践的なコミュニケーションの研究を、ということです。

異論は異論としてあっていいし、現状と歴史の整理は、あっていいどころか不可欠といえるでしょう。

けれども。

「言語とは、人間にとって最も自明な何かである」とは、イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店の冒頭ですが、こういった文例をあつめて批判するといったことは、これまで みたことも、きいたこともありません。現状の だめっぷりをふまえて、改善をめざすというのが重要だと おもいます。かどや論文や、古賀(こが)論文の存在をもって、社会言語学研究者という集団の正当性が確保されるといった擁護論は成立しないでしょう。そういった擁護論は、国語学者にたいしては、むけられることは ないのではないでしょうか。つまり、ブロガーとしてではあれ、社会言語学に参与するタカマサさんの自己弁護にも なってしまわないでしょうか。

国語学批判の論調は、かなり批判的なものであったように おもいます。歴史が総括されないまま名称だけ かえた、だとか。それなら社会言語学では言語至上主義の問題を総括したりしたでしょうか。

知的障害者とのコミュニケーションの自己観察などでなくても、言語至上主義をこえるコミュニケーション研究は、いくらでも できるはずです。

おまえは、どうなんだと いわれれば、すでに そういう原稿が、わたしのパソコンのなかに あるんです。施設職員という位置から批判して自分の特権的ただしさを確保しようとしたのではありません。

そういうわけで、時間ができたら よんでください(笑)。メールで おくりますから。


ともかく、わたしの暴力的な断定に反感をおぼえた言語研究者は、実践をもって こたえにかえてほしいのです。

「といかけ」なのですから。

そして、あのように断定すればこそ、かどや論文と こが論文、そして なにより(笑)、わたしのパソコンのなかにあるものの意義も、よりいっそう ふかまるように おもうのです。

とてつもなく おおきな問題ではあるけれども、それをつきくずそうとする挑戦は、すでに はじまっているのだと。

「暴力的な断定」とはおもいませんが…

■主旨については異論がないわけです。
■問題があると感じた点については、本文でかいたとおりです。■あえて「復習」するなら、①言語研究の基礎的トレーニングをうけた層であれば、国民国家とユチャクした規範主義をロコツにだすような知的野蛮からは解放されている。■②社会言語学の研究を批判するときに、あべ/かどや/こが、ほか諸氏をふくめるような、ゆるい社会言語学を想定するなら、hituziさんの批判は、まとはずれになる。社会言語学が、自分の着目する言語現象を特記する姿勢もふくめて「言語至上主義」というけど、多言語社会研究会周辺、雑誌『社会言語学』周辺の層は、そういった点に自覚的だろう。ということです。
■すくなくとも、多言語社会研究会の研究大会あたりでは、「危機言語研究」といった姿勢自体が実に政治的であるとか、「言語権」といった問題提起の対象になれる「少数言語」は、実は大した深刻な問題ではないかもしれない、といった議論がされているわけです。

■「暴力的」とは全然おもいませんが、「社会言語学者」という一枚岩の集団をかってに実体化して、歴史的推移や現在のバラけぶりを無視した批判は、本質主義的論難で、乱暴だろうと。■いや、もちろん、わざと「乱暴」な議論をくりだすことで、議論をまきおこそうという戦略は、わからなくはないのですが、刺激をうけるべき層が、あの文章をよむのだろうかとか、そういう意味で、「想定読者層」問題もだしました。■あの議論がピンとくる層には「いわずもがな」であり、ホントに衝撃をうけるべき層は、あのページにアクセスさえしない。そういった問題性を提起したのですね。

■ま、こういった議論は、新規更新の文章でくわしく。

■あと、論文原稿、たのしみにおまちしております。■カゼをひいたので、回復までちょっとかかりそうですが。

言語帝国主義でウェブ検索してみてください。

「刺激をうけるべき層が、あの文章をよむのだろうか」という点については、わたしは壮大なる計画性のもとに、「言語帝国主義」や『ことばと国家』という一節の題名にふくめたんです。

ここまで手のうちをあかすのは、正直、こまるのですが(笑)。しかたないですね。

はてなブックマークでリンクされることで、検索エンジンで上位をねらえるということです。あとは、刺激をうけるべき層が検索するのをまつだけです。というか、刺激をうけるべき層には、活字媒体にのせることで といかけていくつもりです。

さっき ようやくしらべました

■“言語帝国主義”と、“”でくくって500件弱ですね。(http://www.google.co.jp/search?q=%E2%80%9C%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E2%80%9D&num=20&hl=ja&lr=&rls=GGLJ,GGLJ:2006-29,GGLJ:ja&pwst=1&start=540&sa=N
■でもって、ウィキペディア「言語帝国主義」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9)が最上位にくるのは当然として、hituziさんの記事が第6位、この記事が第9位って現実は、あまりにかなしい。(http://www.google.co.jp/search?q=%E2%80%9C%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E2%80%9D&num=20&hl=ja&lr=&rls=GGLJ,GGLJ:2006-29,GGLJ:ja&pwst=1&start=0&sa=N
■これは、どうみったって、社会言語学系の先生方が、世間からあいてにされていないって証拠じゃありませんか?■めだつのは 運動論的にはいいんですけど…。

いや、ブログだからです。

ブログはそもそも検索エンジンの上位に くるような しくみで できています。検索エンジンの しくみか。ともかく、相性が いい。ウィキペディアも そう。

それと社会言語学研究者でブログをかいているのは、わたしとタカマサさんと、あとは はてなの だれかさんぐらいなものなんですよね。そういった背景があります。

ホームページはつくっても、ブログはかかない?

■いや、小生ぐらいうとくても、ブログが比較的上位に位置してしまうことぐらいはしっています。■しかし、ちゃんとウィキペディアとか、会社のHPなどは、上位にくるわけですね。ブログおしのけて。
■いや、社会言語学系の先生方が、実証研究も理論研究も、学部・大学院指導も、いっぱいいっぱいで、とてもブログなんてヒマなことはできない、って可能性はわからないでもないんですが、もともとマイナーなのに、なにも配信しなかったら、マタイ効果の逆で、どんどうもれますよね。

■ちなみに、当方は社会言語学の理論の紹介はしてますけど、研究成果とかを発表したことはなく…。■ただ漢字表記の妙な状況とか日本語論とか、社会言語学者のほとんどがみむきもしない領域での言語学的エッセイは、旧ブログ時代から、それなりにかいてきましたけどね。
■旧ブログが、日本語論の蓄積空間として認識されるのは、そんなものかもしれないとは、おもいます。連続性問題とか、いろいろかきましたし。

■さあ、さすがに、もうねよう。

ねむるつもりだったが、ちょっと気になり…

■社会言語学系のことを、ハンパにかじると、こういった冷笑的な態度しかとれないという、最低の(あえて、こう形容しておく)文章を発見。■これも、Google大明神のおかげ(笑)。

「symposium 脱帝国と多言語化社会のゆくえ」
http://www.aa.tufs.ac.jp/~P_aflang/TEXTS/review/sympo-cdat.html
■筆者は、榮谷温子氏。アラビア語の専門家のようだ。
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLJ,GGLJ:2006-29,GGLJ:ja&q=%e2%80%9c%e6%a6%ae%e8%b0%b7%e6%b8%a9%e5%ad%90%e2%80%9d
■ここで、かのじょがイヤみっぽく、ツッコミをいれていたような水準のことは、主催者団体とか関係者は充分自覚的だったはずだが(たとえば、『ポストコロニアル国家と言語--フランス語公用語国セネガルの言語』http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/214.htm をあらわした 砂野幸稔〔すなの・ゆきとし〕氏とか)。


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批判の対象は、「人間のありかた」であり、そこには自己批判もふくまれる。

「言語帝国主義とは なにか。たなか『ことばと国家』を批判する。」という文章を当直あけのテンションで かいたわけだが、いろいろと反響をいただいた。 Pravda の日記「言語帝国主義と近代国家」では、最初、わたしが ましこ・ひでのりさんではないかと かかれていた。?...


言語学と社会言語学の関係

言語学と社会言語学との関係については、「語用論の意義」に かいた。最近の言語学のテキストには たいてい語用論について一章もうけられている。語用論は要するに、ことばの意味は じっさいの発話が なされる状況や相互作用によって つくりだされるという着想による発話?...


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