プロフィール

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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早熟幻想3(人間論として)

前回のつづきではあるが、政治経済学的な要素は、ぬき。■でもって、「人間論として」っていうんだから、「人間存在」に分類すべきなんだろうが、シリーズを教育現象としてはじめたので、そのわくのつづきということで、こちらに分類。■直接的な議論は、シリーズ初発の「早熟幻想

前便で、その政治経済学的な背景を分析してみたが、それでは、「数理型とか、一部のスポーツなど以外の領域でも「早熟型」が賞揚されるのは、「早熟型の天才」が、特別あつかいするうえで、「わかりやすい」という面」を軽視していいのかというと、そうはおもえない。■なぜ、「早熟」性を無視できない領域以外でも、「早熟幻想」がねづよいのか?だね。いいかえれば「早熟の わかりやすさ」とは、なんなのか?

■「『早熟型の天才』は、特別あつかいして当然だ。なぜなら、凡人とは質的に別格な能力が、はっきりみてとれるからだ」という論理は、とおりやすい。■いや、ピカソだったかは、少年時代に、先生がおしえるべき技法がなかった(全部、しりつくしていた)といったエピソードをきいたことがあるし、真の天才というほかないフォン・ノイマンのばあいなど、
幼い頃より暗算と語学の才能を見せた。英才教育も受け、能力を伸ばす。6歳で8桁の割り算を行い(後に入学するギムナジウムの先生が、ノイマンの父に「この子は数学の才能があるので、大学では数学を教えてもらうように」と話したという。)、ギリシャ語を話せた。8歳で微分積分をものにした。興味は数学の領域にとどまらず、家の図書室にあった44巻本の歴史書を読了した。好んで読んだもの、特に世界史やゲーテの小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。
といった、異能ぶりである。■モーツァルトあたりも、早熟の天才といってよかろう。35歳でしんじゃうわけだし。■こういった一部の天才を、特別あつかいしないのは、たしかにヘンだし、それは「早熟さ」としても、ちゃんとめだっている。

■しかし、「昔神童 今ただのひと」という、ことわざは、単なる「気やすめ」なんだろうか? ■いや、とても そうとはおもえない。かなりの程度「経験則」なんじゃないか?
■ひとついえることは、「昔神童…」という評価というのが、単なる「井の中の蛙、大海をしらず」、つまり、周囲で「神童、神童」とさわぎたてる、オトナどもが、せまい列島とはいえ、「天下のすぐれものたちとくらべたばあい、単なる二流にすぎない」という実態をしらない「世間しらず」のばあいが、すくなくなかっただろうということ。■なにしろ、「全国区」での比較なんてのは、いなかにいけばいくほど、縁どおいわけで、そんな せまい世間のなかでの「神童」が、ちょっとおおきなモノサシで比較されたときに、あっというまに「凡人」の一種におちることは、ごく当然の理だった。
■しかし、「昔神童、今ただのひと」という地位低下が、全部、比較基準の上昇(比較空間の拡大)という問題に還元できるかといえば、そうではなかろう。事実として「幼少期の神童」は、そこそこいるんだとおもう。■問題は、それが、なぜ急速に成長とともに、「失速」していくか?

■ひとつは、甲子園球児のエースピッチャーたちのように、かた・ひじなどの酷使による、消耗といった問題があるだろう。松坂大輔投手のように、怪物という以外のない かたのものちぬしもいるが、「なげすぎ」で、ツブれるのは当然の理。だから、メジャー・リーグでは、100球といった先発投手のめやすがでてくる。甲子園で活躍してくれないとこまる監督などが、ツブしてしまう弊害はむかしから指摘されてきたが、「もと甲子園投手」みたいな、草野球のエースなどは、ものがなしいものだ。
■このての消耗系の一種として、受験競争による、精神的消耗というのもあげられるだろう。「東大にはいることが目標になっていた」とかいった、かなしい「もと神童」たちが、どんなにたくさんうみだされたことだろう。■で、「もと神童」の大半は東大生にさえなれずに、その前段階で受験界トップ層からきえさっていったはず。■東大にはいることは、あくまで通過点でしかない層が、一部いる。甲子園にでることが、なかばあたりまえの選手たちのようにね。そういった、図抜けた層とは異質な「そのた大勢」が、地方では「神童」なわけだ。

■もうひとつは、自分がめざしてきた目標が到達点として、ほぼ確実にてがとどく位置まできたときに、「これは、ちがう」って、きづいてしまった層があるとおもう。■その目標に到達する能力という次元では、充分なちからがあったんだが、本人にとっては、どうでもいい問題だと、わかってしまったばあい。「東大にはいることが目標になっていた」の一部にも、そこまでで能力をつかいきってしまったのではなく、また「つぎなる目標をみうしなった」わけでもなく、単に「くだらんレースに、いれあげてしまった」という、残酷な現実を直視した層がいるとおもう。■このケースは、東大受験とかにかぎらず、いろいろな世界であるだろうし、しかも、それらは、一概に「アホなこと」と、かたづけられない、深刻な問題をかかえている。■たとえるなら、陸上競技で自分が圧勝しても全然うれしくない種目にハマっていたみたいな虚脱感とでもいおうか。こういった悲劇は、おそらく さまざまな天才たちが経験しているとおもう。この種の苦悩は、われわれ凡人の理解をこえている。■とても消耗したとはおもえない天才たちが、不可解な自滅とか逃走をみせるのは、一部こういった苦悩の産物なんだろうとおもう。

■こういった「失速」。とりわけ、後者のような悲劇のばあいは、本人の能力に、周囲がまどわされて、本人の本意でない疾走をしいてしまったものであって、一見「失速」にみえようが、それは能力のムダづかい、あるいは、巨大な「まわりみち」をさせてしまった、周囲の責任だ。■このばあい、「神童」が大輪の開花をみせずにおわったとか、一見「一発屋」のようにうつっても、それは過小評価というものだろう。周囲に「伯楽」(名調教師)がいなかったという不幸・人材不足こと問題なのだ。



■しかし、世間の「早熟の天才」に対する期待のおおきさの異様さは、以上のような問題に還元できるものではないような気がする。■もっと根源的な次元で、誤解しているというか、ヒトの能力を認識しそこねているとしかおもえないのだ。
■「早熟の天才への過剰な期待」というのは、「早世の天才への哀悼」が、その本質をうきぼりにしているとおもう。大衆はなぜ「早世の天才への哀悼」をくりかえすか?■「モーツァルトがもっとながいきしていたら…」「石川啄木がもっとながいきしていたら…」……。このてのなげきは、たくさんきかされてきたわけだが、カラクリは簡単だ。「ながいきしていたら、もっともっと、質・量ともに、ものすごい成果がのこされていたはずなのに…」という、残念なのである。■もう、問題の本質はあきらかだ。大衆の哀悼とは、「あのペースで疾走しつづけるはずなので…」という、ほとんど根拠のない期待が自明として前提されているのだ。
■なにも「人間には、一生にできる総量というものがきまっていて、それを集中してだすか、ほそくながく展開するか、どちらか」なんて、したりがおをしたいわけではない。そうではなくて、「早熟の天才」が、その「速度」や「加速度」のさまを、ずっと維持するはずという願望は、どうかしている、あたりまえの計算だ。■要するに、われわれ大衆は、代償行為として、天才たちにこころひかれるため、天才たちの早熟ぶりに驚嘆すると、ほとんど「魔法」のような超人ぶりを期待してしまう。「この加速ぶりは、さむけがくるほどすごい」といった「感動」が、「このペースがつづいてほしい」といった過大評価をうみ、まだ実現していない未来の美化、あるいは、突然中断した「未来」への愛惜を、もたらすのだ。

■このようにみてくると、「早熟の天才」への「過剰な期待」「異様な熱気」とは、「おやバカ」の心理とそっくりであることにきづく。■そうなのである。「ハンカチ王子」であろうが「はにかみ王子」であろうが、「早熟の天才」たちへの「あつい視線」とは、自分たちの「過剰な期待」に、こたえてくれるかもしれない人材に対する、「おやバカ」心理なのだ。そして、ほとんどの「おやバカ」が、「やっぱり、カエルの子は、カエルだよな」と、苦笑まじりに冷却していく健全さをもつのに、なまじ才能ある「早熟の天才」たちは、たとえばメディアの寵児となったりすることで、「トンビがタカをうむ」ならぬ、「はきだめにツル」的なファン心理をかきたてるのだ。■自分たち自身の世代が、なさけなかったという現実を一瞬わすれ、次世代として、無限の可能性を発揮してくれそうな「早熟の天才」たちは、だめだめ世代の「希望の星」なのだ。


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コメント

天才・神童のその後

ハラナさん、お久しぶりです。

早熟幻想が、幼児英才教育や中学入試のひとつの原動力になっていると思います。
ただし、そうして試験用に特化した生活を小さなころから強いられる人たちは、いったい幸せなのか? との疑問もあります。

身内も含めて、幼稚園入試~中学入試くらいまでは「神童」「天才」または「大秀才」と目され、過剰な周囲の期待に応えてきた人たちをいくらか知っています。
彼ら・彼女らは一様にセンスというか筋はいいし、コツコツ努力もするし、いかにも賢そうで要領もいい。
だけど、やはり受験によって消耗または歪んでますね。
それと日本の組織・集団につきもののMBS(ストレスによる管理)によっても、ひねくれさせられている。

それから、辺鄙な田舎や郊外の出身者にありがちですが、やはり比べる世界が小さい。
小さな農村や漁村や港町などから東大ではなくても日本の七大都市にある旧帝大、あるいは旧官立十一大学あたりに行くだけでも、自己評価がひっくりかえってバランスを崩す人がいます。

何かのきっかけに親や教師・講師から「この子はとびぬけてできている」と言われて、受験専業の生活を長く送った人ほど、常識とか日常生活の知恵などに欠け、視野が狭かったり、人の気持ちを考えない、独善的といった傾向はあると思います。そのアンバランスがその後の人生を送りにくくしている可能性は充分に考えられます。

あと、天才論としては、文化産業が十年に一度くらいの割合で権威あるコンクールで優勝か上位入賞した人をかついで売り込む、ってパターンも文化社会学で指摘されていますよね。
ものすごい筋のよさと努力と運とが重なって、それが生まれつきであろうと、後天的であろうと「天才」だと感じたのは、津軽三味線の吾妻宏光というアーティストの作曲と演奏です。
天才かどうかわからないけれど、大秀才だと思ったのは日本文学の平野啓一郎さん。
あとは、まあ本人や周囲の期待・幻想をはぎとれば「ちょっとだけできるだけの人」ですね。

なお小さなころからいい幼稚園・小学校とずっといいコースに選抜されつづけた人ほど、後々までひきずるようだし、選抜保護集団の外の世界での生活に戸惑いが多くなる傾向はありますね。選抜されたのが高校以降からという人たちは、あまり大きく崩れないみたいです。多分、幼いころの感情の基礎がきっちり作られているのではないかと思います。
暗記・パターン認知・ねばり強さ・コツコツ勤勉にやること・落ち着き…。
なども大切ですが、人生を乗り切るためにはそれ以外の能力なり知能も必要になってくる。そこで、単純な」パターン認知にはハマらないことに遭遇したときに、行き詰まって、今ならうつとかパニック状態とかになりやすいみたいです。

あと、なぜだか自分を天才だと一人だけで思い込み、
何度も文型大学院を受験し続けて落とされている例もあります。その人はこれといったいい学校や塾や大学を出ているわけもないんです。話してみてもそれほど冴えてる印象もない。
彼には先行研究を疑う視点もなく、新しい仮説を作ろうという意気込みもない。ちょっと数学の話をしたときには、答えは覚えていても式は分からない風だった。このようによく分からない例もあります。

過剰な天才幻想をあおってつぶされる人を増やさないためにも、お受験の場面では、幼稚園~中学校段階の入試は廃止するしかないと思います。昔、いい学校にいくためのいい塾で上のほうの一割だったとか、上のほうの10番以内に名前が張り出されたとか、東大と京大・阪大レベルの理系の学部を受験する人の上のほう1/3しか知らない公式を解けるとかいう人は、その後の人生の行き詰まりが起こると、対処できなくなっておかしくなる例もあります。
社会的親バカなんて、いいかげんにやめるべきなんです。天才なんて、サヴァン症候群などの一部の例外を除いて、そうそういるわけないんだから。大秀才を天才と呼んで売り込む知識・文化産業も、いい加減に「天才」の粗製濫造をつつしむべきです。でないと本当の天才が軽んじられうずもれるのに手を貸すことになる。そして結局自分たちの首をしめることになるのだから。






一応の補足

ワタリさん、こんばんわ

■おかげんは、もうよろしいのでしょうか?ご自愛ください。


■さて、この「シリーズ」は、「早熟」型の才能を重視して、「大器晩成」型を軽視する風潮の合理性を徹底的に検証しようというものです。まずは、政治経済学的・知識社会学的な「存在被拘束性」として、議論がからめとられている(というか、論者が無自覚ないし意図的に代表している)利害の解剖をこころみました。■そのうえで、この回では、「早熟」重視論が当然視している、十代という年齢階梯で、学校がその潜在能力のねぶみを決定してしまっていいのか? って疑念を呈しました。
■ですから、この議論には、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』みたいに、少年期にガツガツつめこむと、ツブれる…とか、「早期教育によって情操教育がおろそかになり、たとえば、EQがひくくおさえられた、ゆがんだエリートがうまれやすい」といった、ありがちな批判をまじえる気はないのです。■例外的かもしれませんし、ものすごい格差の合理化かもしれませんが、たとえばダライ・ラマの養成過程なんぞは、あまり失敗していないようで、「早期教育だって、理想の手順はある」といった反論がすぐでそうだからです。

■問題は、①「早熟だからといって、そのペースが失速しないという保証はなく、むしろ『先行にげきり』型でさえない可能性があるのに、年少期に突出してみえるという、ただそれだけの理由で、(周囲を犠牲に)資源集中していい根拠は?」という点、■②「早熟だからといって、単なる学校秀才でしかないばあいがすくなくない以上、自尊心だけたかくて性格はわるいなど、はた迷惑な欠点をうめあわせるだけの社会に有用な才能を発揮する保証はないというリスクをどう合理化するのか」という点、ですね。

■メディアと大衆が、市場拡大と防衛機制という次元で共犯者になって、「ちいさなカリスマ」を一所懸命でっちあげるというインフレ問題は、とりあえずおきましょう。耐用年数がみじかくて、早晩うたかたときえる流行の寵児など、無視すればいいので。

■ちなみに、小学校受験や中学校受験が「早熟の天才」幻想をつくっているかといえば、私立受験ブームの根幹は、大衆のエリート待望論というより、中産市民の階級再生産戦略のうねりだとおもいます。「まけぐみ」に おちこむリスクをへらしたいという、生活防衛戦略の総和が、おろかしくもかなしい受験戦争をもたらしていると。■あんなこと、大都市部の大衆が総力戦でいくらくりかえそうと、天才はうまれようがないし、参戦している家族たちも、エリート校入学で天才が証明されたとはおもっていないでしょう。■しかし、それが冷静で等身大で自然なのかといえば全然そうではなく、小利口な秀才を大量につくるだけ。心身を消耗する神経戦を無数にやらかすという大都市中産階級総出の茶番が、あまりにものがなしいと。
■別に、エリート待望論はもっていませんが、こんなのでは、世界の天才・秀才たちには到底かないっこありません(笑)。「どんなゆめをはたしたいか?」ではなくて、たとえば「東大にはいって弁護士になりたい」とか、「国立の医学部にはいって医師になりたい」といった、社会的地位確保の「すごろく」みたいな感覚だからです。良心的に弁護士や医師をやったばあいに、経済的にむくわれる保証などないこと、弁護士・医師のジュニアとして事務所・病院などをひきつがないかぎり、激務とリスクの労苦の対価は、社会奉仕による達成感などであって、所得や名声とかではないとか、社会の現実をしらないうちに、中学受験をはじめてしまうという異様さですね。■「その社会的地位には、どういった社会貢献の資格があたえられており、現実にどの程度理想を実現できるのか?」といった次元のゆめではなく、「その社会的地位にたどりつくこと」が目標になってしまうという、手段と目的のカンちがい、社会貢献を度外視した自己目的化という、あまりに知性・品性にかける連中が、受験戦争をたたかうというのは、あさましいかぎりです。
■「早熟」をいうなら、みずからの社会貢献の可能性・適性を、はやくみすえて、あわてず着実に地歩をかためていくという、みとおしのよさでしょう。■でもって、そんなことは、受験競争に狂奔しているような層には、のぞむべくもないのです。自分たちの階級の再生産、ないし階級上昇しか眼中にない おやにそだてられ、十年後ぐらいの社会的地位の確保以外に動機がない人物に、倫理性や社会貢献などを期待する方がまちがっています。

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