プロフィール

ハラナ・タカマサ

Author:ハラナ・タカマサ
     【原名高正】
誕生日:ニーチェ/フーコーと同日
職業 :サービス労働+情報生産

日本版ポリティカルコンパス
政治的左右度:-7.6 
経済的左右度:-5.19
【位置 リベラル左派】

前ブログ: 『タカマサのきまぐれ時評

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早熟幻想2(政治経済学的意味)

■だいぶまえかいた「早熟幻想」では、10代~20代はじめで人材選抜のみきりをつけていいのか? 資源を集中投下すべき少数の選抜組を当然視して優遇措置が正当化できるか? そのヘンに疑念を呈しておいた。■いわゆるエリート主義、それも伝統身分秩序意識にもとづいた世襲原理の正当化ではなくて、競争原理にそったゲームの勝者に業績主義にそった優遇をあたえるというのは、マルクシアン*社会科学者を自任する橋本健二氏だって同意するようなものだ(もちろん、不当な格差を橋本氏は否定するが)。だから、新自由主義だろうと新保守主義であろうと、基本的に体制維持をのぞむオジサマ・オバサマがたからすれば、わかい才能が競争原理にそって業績主義的に早期にえらびだされて、それが国家・社会に貢献する、大衆をリードしていく、といった教育論は、万々歳だろう。

* 橋本氏は、検証不能な主義主張の要素がまぎれこむ社会哲学・社会思想としての、マルクス主義(Marxism)とは別個に、検証可能な社会科学の部分に限定したマルクス派(Marxian)の理論が成立可能だとするたちばにたつ〔たとえば「現代社会の階級構造----マルクシズムからマルクシアンへ」『階級社会日本』(2001年)3章〕。基本的には、分析的マルクス主義の一派といっていい。この流派のひとびとからすれば、「搾取は、純粋な学術的カテゴリーとしては、必ずしも倫理的に悪いものではなくなった」「労働者は雇用者によって「盗まれている」が故に搾取されているのではなく、システムの「自律性」が侵害され、その結果、利益と苦役の配分が「不公平」になってしまうが故に搾取されている」。橋本氏のばあいは、「「一部の人々に搾取することを認め、高い報酬を与えてより多く働かせた方が、恵まれない人々を含めた全体の利益になる」と主張できるかどうか…「格差はどの程度まで認められるか」という問題」だとさえのべる〔『新しい階級社会 新しい階級闘争』pp.116-7〕。

■実際、経団連など財界の近年の支配的論調は、この、競争原理にもとづいたあらたなエリート主義だ。■たとえば、かれらが共有している現代史観とは、「戦後民主主義体制は、身分的ななごりがこかった戦前の体制を打破し、高度経済成長をおしすすめるためには、さけられない方向性だったが、社会がゆたかになり成熟した現在、そして市場拡大の方向性が内需というかたちでは、あまりにみこめない昨今では、ふるくなった。今後は、すべての潜在的能力に均等に資源投下するのではなく、潜在能力の質・量を的確に把握して、メリハリのある教育機会を提供すべきだ…」こんなところだろう。■税金の配分をケチるためにも、こういった論理は つごうがよい。
■社会学者や教育学者たちが、批判しているとおり、かれらの教育観は、既得権擁護の合理化であって、全然あたらしい選抜原理なんかじゃない。■フランスの社会学者ピエール・ブルデューらが指摘したとおり、家庭環境と公教育制度、そして国家資格や労働市場が融合したかたちで、ブルジョアジーや新中産階級上層は、かなりの確率で「かちぐみ」にはいれるカラクリなのだ。それは、あたかも生物学的な遺伝子情報がすぐれた家庭が結婚によって、まるで「サラブレッド」のように勝利するようにみえるが、「文化資本」「社会関係資本」と密接にむすびついた「経済資本」が、「かちぐみ」に「マタイ効果」(R.K.マートン)をあたえているだけだと。
■経団連やら自民党・民主党の格差拡大OK派のオジサマ・オバサマたちは、自分たち「かちぐみ」層が、次世代にも当然のようにその社会的地位を継承できるのは、「生物学的な遺伝子情報がすぐれた家庭」の必然と信じこんでいるだろう。■私立の6年間一貫校に進学できる能力が大学ほかの選抜試験の勝利と密接につながっているのだから、自分たちの勝利は当然だとね。
■しかし、ブルデューらが指摘するとおり、「かちぐみ」系オジサマ・オバサマたちの世界観は、文化資本・社会関係資本・経済資本の三位一体的ユチャク構造に無知か、充分カラクリにきづきながら、すっとぼけて、自分たちの社会的地位を正当化し、あまっさえ、半分茶番劇的な世代継承ゲームを絶対的有利にすすめようっていう、イデオロギーとしかみえない。■つまり、かれら/かのじょらの教育論にとっては、自分たちと同類の「かちぐみ」のなかで世代継承に失敗した一部といれかわる、「新顔」をえらびだすためのルートをちゃんと確保しておくことで、体制維持と正当化がどちらもてにはいって、おいしいってことだね。エリート層の新陳代謝と選抜原理の「透明性」の主張が、一挙両得になると。■かれらが、「学歴主義の弊害」をくちにしつつ、絶対に学歴主義の根幹をぶっこわさないのは、自分たちのエリート性を維持し、次世代に血統的に継承する唯一無二といって体制だからだ。

■「教育の自由化」路線に、ホイホイのっている、経済階層でいうと、中の中から中の下あたりの部分がめだつが、「闘技場」に参戦したうちの大半が敗残者になるというカラクリがみえていないようだ。ひょっとすると、イラク戦争に投入されている志願兵たちの大半と同様、「たたかわなければ、活路はひらけない」とばかりに、やぶれかぶれなのかもしれないが**。

** もちろん、米軍のリクルートにひきょせられる、アフリカ系・プアホワイト層・移民層のように、絶望的な経済的地位から脱出するために、なかばしいられた志願者たちと、中長期的に没落するかもしれないが、近未来的に失業等のハイリスクをおびているわけではない、日本の中層とは、その切迫感が全然ちがうことは、注意が必要だ。日本の中層の経済不安とは、あおられている部分もあり、アメリカの(半)失業層のわかものがかかえている具体的状況とは質的にちがう。

■それはともかく、学歴主義を護持したい御仁たちが、かたちのうえで「自由」を強調するのは、うえにあげたとおり、形式的に「機会均等ゲーム」にそった「勝者」として地位獲得を正当化できるからだが(そのカラクリに、どの程度自覚的か、さまざまだとおもわれるが)、私立校を中心に「エリート・コース」が保障されるからでもある。■いわば、かれら/かのじょたちが「自由」を強調するのは、機会の平等を保障するためではなく、「文化資本」や「社会関係資本」で優位にたつ層にとって、実質的に有利な「特別わく」を確保するためなのである。
■そして、重要なのは、私立校を中心にした「エリート・コース」の確保が、10代で「ゲーム・オーバー」になるような装置である点だ。■20歳前後で、その後の社会的地位がほぼきまってしまうという、「早熟」性原理自体問題だが、実はその年齢にさきだつ10代前半、いやティーンエイジにはいるあたりまでで、レースの結果のあらかたがみえてしまうようなシステムこそ、エリートたちにとってつごうがよいということ。そのためにこそ、6年間一貫校などによる特別ルートが必要だと、いいかえてもよい。
■エリートたちによっては、ライバルたちがあらたに参入してくる可能性を未然に排除する意味で、こういった選抜過程がはやくはじまった方が有利である。経済階層と学校文化となじみのよい文化資本とが、たかい相関関係をもつ以上、ひくい階層出身は決定的に「でおくれ」る。大器晩成型は、早期選抜で、ほぼ確実に脱落する。■エリート層としては、システムの合理性を演出し、エリート層自体の新陳代謝を一部おこなうために、とびぬけた才能を例外的にすくいあげる以外は、競争は完全自由になってほしくないとのべておいた。つまり、エリート層が例外的に「なかまいり」をみとめる部分とは、まさに「早熟型」なのだ。

■数理型とか、一部のスポーツなど以外の領域でも「早熟型」が賞揚されるのは、「早熟型の天才」が、特別あつかいするうえで、「わかりやすい」という面がおおきいとおもうが、おそらくそれだけではない。■「大器晩成型」の潜在的な能力の参入がそらおそろしいので、あらかじめ能力発揮を封じておきたい。「大器晩成型」をふくめた多様な潜在能力が大量にライバルにくわわると、エリート層の次世代の相当部分が敗北するという、直感的計算が、背後にあるとおもわれる。■「早熟の天才は、特別あつかい」すべきだという選抜原理にしておけば、「でおくれ」がありえないエリート層の次世代は、「フライングぎりぎり」のダッシュをすでにしかけているのだから、いつがスタートなのか、いまひとつのみこめていない「大器晩成型」がめざめ、本気をだすころには、だいぶ先行できるのである。■こういった「できレース」を維持するためにも、エリートたちは、「選抜は、社会体制がたえられる限界まで、さきおくりして、多様な能力の開花をまつべきである」といった原理に、決して賛同しないものとおもわれる。
■「あとで開化する才能なんてものは、例外的少数であって、まちつづけるのは税金のムダづかいだ」なんて、リクツは、いくらでもみつかるだろう。■実際、「かちぐみ」のオジサマ/オバサマ層にとっては、「税金と教育投資という両面で、所得の相当部分をムシられているのだから、個人的にモトがとれないのはイヤ(不公正)だ」という、個人的ホンネが共有されていることだろう。「税金と教育投資という両面で、個人負担を大してせおっていない大衆の教育に、なんで自分たちの納税分をつかわれなきゃいけないんだ?」という、被害者意識さえあるとおもう。■だから、財政再建という課題のなかで、教育費削減は至上命題であり、そのためにも「教育の自由化」は不可欠なのだ。



●ウィキペディア「マタイ効果
 ↑ R.K.マートン自身は、科学社会学の実証研究(科学者集団内の業績競争のメカニズム)の成果を中範囲の理論として命名するときに、印象的な寓話を新約聖書マタイ福音書からひっぱったにすぎない(「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(マタイ福音書第13章12節)。■だが、そのあざやかなコピーの想起力が、科学社会学(科学者集団の社会学)の一モデルにとどまるはずがなく、「「利益—優位性の累積」のメカニズム」があてはまる社会現象には、すべて応用されるようになった。
                             【つづく】
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コメント

感想を一言。
 そもそも、「15の春は泣かせない」という偽善的キャッチフレーズで総合選抜制や学校郡制度を作ったことが結果的に12歳というより早期の選抜を招いた点について、日教組系というかリベラル派はきちんと自分たちの責任を反省すべきじゃないんでしょうか?

 文化資本と家庭環境の点は日本の場合、それほどアドバンテージを与えてないと思うんだけど。
それは、なぜかと言うと、そりゃ、フランスみたいに試験が論文式で、哲学必修とかやられりゃやばいわけだけど、日本の場合、1次のセンターはマーク式だし、2次も記述と言ってもちょこっとが大半だから、高校時代はいろいろな啓蒙書を読んだり、思考をめぐらせたという教養ある家庭出身よりも、中以下の階層出身者でも学校と塾や予備校で習った容をひたすら詰め込んで反復・定着した人間が勝つわけですよ。
当然、欧米型のエリートは育たないわけでして(笑)。

 今年の東大合格番付見ても、東京圏のエリート一貫校は軒並み合格数を減らしてるわけ。
「格好をつけ過ぎた」んでしょう。
教養主義の武蔵なんかもうぼろぼろでしょ。
そういう意味で、関西リアリズムの関西系一貫校と余分な知恵を持つ余裕のない地方公立が大きく伸ばした今年の東大入試はおもしろい。

 それと言っとくけど、中の中とか中の下とかの階層ってのは、基本的に自分の雇われ労働でしか収入を得てない層だから、頼りになるのは自分だけ、前進あるのみなんですわ。受験競争に参加して失うものはほとんどないが、参加しないことにより失うのは、安定した正規雇用なり専門的技術を得る機会であって、そうなれば、結婚もできないし、子供も養育できないわけで、緊張感は大いにありますけどね。
のほほんとできた90年代とは決定的に違ってるんだけどなあ。特に中の下なんて土壇場に追い詰められてるから親子一体で死に物狂いで受験に取り組んでいる家庭が多いんだけど。

あの、ここは掲示板じゃないんで…

■「感想」をのべるときには、ざっくばらんに、こういった文体で、かきこむんですか? ■まあ、旧ブログの延長で、思考の外部化なんで、それへの率直な反応に文体もなにもないって、とらえかたも可能ですが。■「それと言っとくけど、…」といった口調でかきこまれるような、スタンスをとったおぼえがないことだけは、たしかです。

●「日教組系というかリベラル派はきちんと自分たちの責任を反省すべきじゃないんでしょうか?」←このなかに、小生もふくまれると判断して、かかれているんでしょうかね。すくなくとも、明確に連続性があるとかんがえないと、こんな論調にはならないとおもうんですね。■でもって、小生のスタンスは、通常いわれる「リベラル派」とは、だいぶちがうことぐらいは、過去記事で、ご確認を。

■文化資本が、フランスみたいな、本格的な論文・口述試験がない日本の大学受験などには、あまりはたらかないんじゃないかとか、そのヘンの議論は、小生だっておさえています。■特に、理科系あたりは、東大入試だって文化資本なんぞあまりからまず、ひたすらトレーニングが勝利をもたらすとか。
■ただ、こういったガツガツ系の受験トレーニングによる受験生を東大の先生方がよろこぶとはおもえませんね。早晩入試方式をかえるんでは? 二次の論述をいじれば、ガツガツ系はたちうちできなくなるはず。

■でもって、ソボクな疑問ですが、文化資本があまりからまない(とおもわれている:小生はそうかんがえませんが)、現状の日本の受験体制は、中の下・中、などの経済階層にとって、機会均等原則がつらぬかれている、ひらかれたシステムだから、問題ないと、おっしゃりたいのですか? ■かりに文化資本が、あまりからんでいなくても、受験塾や家庭教師など、教育投資が充分におこなえる層と、そうでない層とは、こどもの潜在能力と無関係に格差がひろがるばかりで、全然よろしくないとおもうんですけどね。

■「感想」に、一貫した主張・思想を要求するのは、無理というものかもしれませんが、どういった動機で、かきこまれたのか、全然わからないんです。■単純にといましょう。経済エリート層にとって、早期選抜になればなるほど、地位継承が確実になる。この仮説に、異論がおありですか? ■それとも、「現場」にうといらしい小生のものいいが、気にくわないので、ツッコミをいれたかっただけと(笑)。

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